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2013年06月日本史300: 院政について語ろう (168)
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院政について語ろう
- 1 :2011/09/29 〜 最終レス :2013/03/23
- 摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。
- 2 :
- 「おりゐのみかどの門に車たつ様やはある」と豪語した師通だったが、見事に車が立って自身は40歳前に薨去。
院政も最初期は摂関家、太政官(天皇)と対抗勢力が多く決して順風ではなかった。創始者白河が師通同様短命であれば、
院政なる言葉が現代に伝わることも無かっただろう。やはり上皇として40年以上政柄を握った白河の功績は第一である。
- 3 :
- 天皇で院政期以降、名前に「仁」がつかないのは珍しい。
そして「仁」のつかない4人が悉く戦火を招いたのは偶然だろうか?
尊成(後鳥羽)
守成(順徳)
懐成(半帝)
尊治(後醍醐)
後鳥羽が決起しなくとも、院の力は殺がれて行ったのだろうか。
後醍醐が欲張らなければ、両統迭立は続いていたのか。
- 4 :
- >>3
仁が天皇家の通字になったのは北朝からじゃなかった?
- 5 :
- >>4
後三条天皇(諱:尊仁)からでしょう。その後は白河(諱:貞仁)、堀河(善仁)と「仁」字が
続いていますし。
白河天皇の第一皇子は敦文と「仁」字でないけれど、この時点では父親の天皇自身が
一代限りの含みだったはずですね。
- 6 :
- 大覚寺当はついてなかったはず
- 7 :
- 御宇多院までは「仁」をつけていたんでは?
後宇多天皇の子は「治」、孫は「良」としているようだけれど。
- 8 :
- >>5
一代限りの天皇って条件で即位させても、大体失敗するよね。白河も後醍醐もそう。
崇徳も形の上でそうなって乱を起こした。
天皇位を自分の直系子孫に継がせることの意義はどこにあるのだろうね。
天皇になれても苦悩は続く。
- 9 :
- 婚姻形態の変遷が根本に有るのかもしれないが
(通い婚から同居婚へ)
・白河の強烈個性
・関白師通の早すぎる死
(後継忠実はまだ10代、皇室の外戚たる有力な叔父あり)
院政の成立はこの二点が大きいと思う
(通説の後三条の荘園整理は過大評価)
- 10 :
- >>9
白河が「一代限りの天子」だからこそ、形振り構わぬ権力維持に邁進したのだろう。
何しろ協調や妥協、譲歩は全て自身の命取りになるから。院政は副産物のようなもので、
摂関が置かれていても天皇家の家督であれば、天皇制度でも充分だったろう。
- 11 :
- 承久の乱で宮方が敗北を喫した時も、幕府は後高倉院を担いで院政を復活させた。
既にこの時期には、院(治天)無くして朝廷は動かない仕組になっていたようだ。
治天の必要性は南北朝期の北朝で顕在化するが、その嚆矢は後高倉院にあると言える。
- 12 :
- 上皇が複数いた時期はいつだろう。
崇徳即位後の鳥羽が最初の例か。
よく「天皇の直系尊属=治天」と言うが、
崇徳嫌いの鳥羽が勝手に作ったルールにも思える。
それ以前にはそういう皇位継承が存在していないから。
崇徳の怒りも分からないでもない。
- 13 :
- 複数の上皇がいた時期というだけであれば、もっと昔から例はいくらでも
あるとおもうが。平城・嵯峨、嵯峨・淳和とか。
それはともかく、両統迭立期だと、例えば円融院は一条天皇の時期に
あれこれと口を出したというけど、冷泉院・花山院にはそういう話がない。
まあ、冷泉は口の出しようがないのかもしれないけど、花山なぞ一条の
命令で院を検非違使に取り囲まれたりといった扱いを受けているね。
- 14 :
- 治天は天皇家の惣領という意味合いが強いから、上皇が複数いても治天は一人。上皇がいても治天が天皇であることもある。
だからイエ制度が確立していない平安後期以前の、譲位後も権力をふるった持統や聖武も治天ではない。
- 15 :
- >>14
>上皇がいても治天が天皇
どの天皇のことだろう?
- 16 :
- 治天という言い方をするかどうかはともかく、天皇に対して親権を行使
できない上皇が政治に関与できなかったという例はいくらでもあるので
は?
後宇多院政停止後の後醍醐親政期にも、後伏見、花園といった持明院
統の上皇はいたわけだし。
- 17 :
- ここでも後醍醐か。変則で皇位が回って来るとやたら執念深くなる奴が出るな。
だけどそいつが事を起こすたびに、朝廷の力が衰えていく皮肉。持明院上皇の
出した錦の御旗で尊氏も官軍になった。かつて天皇位にあった事実があれば、
実権云々は下々にはどうでもよかったんだな。
- 18 :
- 後鳥羽も自ら墓穴掘って朝廷の力を弱めたな
- 19 :
- >>15
後嵯峨がいるだろう。
- 20 :
- >>19
?
四条天皇崩御後に数日の空位を経て即位。即位後3年で譲位だったよ。
上皇なんていなかったはず。いたとしたら何て上皇?
- 21 :
- 順徳院はまだ存命だったのでは?
- 22 :
- ああそうだったね。だから九条道家の推す順徳の子、忠成王ではなく、
幕府の推す土御門の子、邦仁が即位したんだった。ありがとう。在京の上皇に気を取られていた。
- 23 :
- 白河院政期のこと。鳥羽帝が即位した際に摂関家の忠実が若年(29歳)であることを侮り、
藤原閑院流の公実が幼帝の外舅(妹の子が鳥羽)の立場を利用して摂政位を望んだことがあった。
これを耳にした院別当源俊明が、「四代もの間、諸大夫として仕えた者が今摂関を望むとは」
と公実の要望を一蹴したため摂政位は忠実のものとなったが、このことがあって初めて、
摂関になる者の出自が摂関家に限定されたのである。貴族社会の前例が形成されていく一コマである。
- 24 :
- 諸大夫と書いている話をよく見るけど、実成以降も代々大中納言に上がっているのに、
>ひとえの凡夫にふるまいて代々をへて
を「諸大夫として仕えて」とするのは誤読じゃないのかな。
- 25 :
- 父師通の急逝により弱冠22歳で家督を継いだ忠実だったが、
摂政ではなく旧官に内覧を加えられたに留まった。内覧権大納言である。
最初から白河院の下風に立つ出だしであり、院に協調する政治を行うしかなかった。
時が過ぎ、院から忠実の一子忠通の正室として閑院流の公実の子璋子を斡旋されるが、
璋子の素行に難ありとしてこれを拒否。しかしその後璋子が鳥羽帝に入内し、諸々の
噂の元、延いては王朝時代の終焉に繋がる事変に繋がって行く。もしも忠実が院の
申し出を受け入れていれば、その後の歴史はどう変わっただろう?
- 26 :
- 上皇の規定は律令にも存在し、白河上皇以前にも「おりゐのみかど」は数多いが、
せいぜい花山院のように浮名を流す程度で政治力のない存在だった。あくまでも
律令制度の頂点は太政官を率いる天皇であり、天皇が上皇に抵抗することは可能である。
院政期にそれを試みたのが二条天皇で、勅命によって父後白河の人事を何度も覆した。
その結果22歳の若さで急死したが、これは偶然なのだろうか?
- 27 :
- 二十歳過ぎても天皇って、その当時としては異常じゃなかったの?
- 28 :
- >>27
後白河即位の経緯が中継ぎ棚ボタ方式だったから、
他の上皇のように容易に二条を降ろせなかったと思う。
二条は美福門院が推す本命で、保元の乱後に信西と美福門院の
「仏と仏の評定」で後白河を退位させ即位しているから。
当然二条自身にもその自負はあったろう。即位当時16歳で
分別があったからだ。美福門院の寿命が短いことが二条の悲劇と言える。
- 29 :
- 天皇の従兄弟にすぎない花山院はともかくとして、父親である
円融院は人事にも口を出していたという話ですね。
- 30 :
- 人事に口を出して天皇がそれを聞くのは問題ない。院と内裏で意見が相違した時、
院宣と勅命の応酬になり収拾不能になる。白河以前の上皇は藤原摂関家の圧力で
退位しているので、天皇に摂関家が味方している点から天皇優位。
- 31 :
- 西武の堤義明の院政は終了したのかな
- 32 :
- 西武グループ内での堤家の影響力は、もはや昔日の面影はない。
- 33 :
- 人気のないスレだな。律令という正規の法典に無い政治形態だから嫌われるのかもね。
公家社会は極端な前例踏襲社会だから、20年もやっていれば善悪にかかわらずそれが前例になる。
だから、平安末期には治天の存在が不可欠になり、神器無くして即位した尊成親王(後鳥羽)も、
その正統性に疑念を抱かれることは無かった。治天後白河による「伝国の宣命」があったからだ。
- 34 :
- 治天不在で即位した天皇なんて、後白河と後嵯峨くらいなものだろう。
さりとて伝国の宣命の無い即位がイレギュラーと言うことも無く、
この二人はともに短期間の在位で退位し、その後も治天として君臨した。
治天無き即位であっても、その後自らが伝国の宣命を発することは可能であった。
- 35 :
- >>34
後白河のときには、父親の鳥羽院が健在でしょう?
- 36 :
- 鳥羽帝も待賢門院腹の皇子を皇位に即けるのは反対だったようだ。
八条院内親王を女帝に据える話が出たくらいだから。それでも
後白河の即位に踏み切ったのは、後白河は身に覚えのある皇子
だったからだろう。崇徳の皇子重仁だけは飲めない話だったようだ。
- 37 :
- 三種の神器無き即位をした後鳥羽だったが、後世「半帝」などの情けない名前はつかなかった。
これは神器無き即位であっても、治天後白河の伝国の宣命が下されたからであり、壇の浦に
神剣が沈んだこともあって、即位時の神器の存在は以後不問となっていく。
では、神器も無く治天も存在しない中で天皇は即位できるだろうか?実はこういう事例が現実にあった。
観応の擾乱の際南朝軍が都になだれこみ、北朝の3上皇と前の皇太子を拉致してしまった。
光厳上皇、光明上皇、崇光上皇(正平一統で在位を否定)、萩原前坊直仁親王の4名が都から消えたのである。
更にこの時南朝は北朝の神器をも接収して行ったので、南朝の狙いは明らかであった。
「治天を欠いた状態で朝廷が再興出来ようか」という心算である。神器接収はおまけに過ぎない。
- 38 :
- だからこそ今の「皇室」は偽物。
万世一系の皇室は滅ぼされている。
- 39 :
- さて、南軍に3上皇と前皇太子を拉致された北朝では、当然様々な支障が生ずる。
まず天皇をどうするか、次に治天をどうするか。神器の不在は前例があるので目を瞑ろう。
北朝内で必死に天皇の後継を探したところ、光厳上皇の第2子で出家するために寺にいた
弥仁(15歳)が見つかったのでこれを天皇にすることにした。出家寸前で取りやめ。
さて問題は伝国の宣命を発する治天の存在である。3上皇は拉致されそれ以前の上皇は
墓の下である。北朝はイタコでも呼んで来たのだろうか?
- 40 :
- 元々神器の引き渡し等々は践祚の付属儀式みたいなもので、重きは
置かれていなかったというからね。
- 41 :
- >>40
懐成(仲恭)が「半帝」と呼ばれたのは、承久の乱のごたごたで幕府によって下ろされたから。
当然、治天(後鳥羽)の伝国の宣命を受けており、正統性については何の問題も無い。
因みに後鳥羽は次期治天に順徳を考えていたようだ。こうして見ると皇位継承と言うのもいい加減なもので、
幼児を玉座に座らせ「次期天皇はお前だ」と治天がささやけばそれで終わり。だからこそ治天の存在が
天皇の製造には不可欠である。
- 42 :
- さて、南軍に皇位経験者を全て連れ去られた北朝では、
天皇の後継(弥仁)は確保したが治天の不在はどうしようも無かった。
しかし、幕府としても拱手できる話では無い。これより前に為された
正平一統によって北朝が否定された以上、北朝に任じられた幕府もまた
法的な存在根拠を失ったからだ。
そこで幕府は、光厳、光明2代の母である西園寺寧子(後伏見女御、当時落飾して広義門院)を
治天に担ぎあげて強引に朝廷を再興させたのであった。天皇家に出自せず、また女性の身で
治天になったのも空前絶後なら、弥仁の即位式に神器も欠くと言う異例のオンパレードであった。
これにより北朝の天皇の権威は地に堕ち、弥仁(即位して後光厳)の子緒仁(後円融)の時代に
足利義満が皇位簒奪の動きを見せるのである。そして300年に及ぶ院政もまた、後円融の時に
終焉を迎えるのであった。
- 43 :
- 院政の日本人読んだが、結論はこれといってないのか
双調平家物語の副読本としては読みやすかった
- 44 :
- >>41
仲恭天皇が半帝と呼ばれたのは即位の礼が行われてなかったからだよ。
幕府に降ろされたら半帝だなんて馬鹿なことはない。
>>42
広義門院は治天にはなっていない。
足利義詮から院政を請われたが、辞している。
後光厳帝が広義門院の院宣で即位したのは事実だが、だから権威が崩壊したというのは意味不明。
天皇家ではもとより天皇=皇后、上皇=女院であって、女性は治天になれないという不文律はない。
天皇と皇后が共に政治を執った時代は長く、女性の政治参加は当たり前だった。
- 45 :
- 女性権力者は家(家系)の継承については発言権があったから、広義門院の元での、血縁である後光厳天皇即位は、緊急事態として問題はないとおもうよ。
幕府や朝廷の政治自体に介入すると、女性の悪ととらえられて、後ろ暗いことにはなるだろけど。
- 46 :
- 崇光上皇のはらわたは煮えくりかえる思いだったろう。自身が南朝に拉致されている間に
甥っ子の後光厳が立ってしまったから。後光厳の後はその子後円融。結局崇光は死ぬまで
自身の子栄仁の即位を夢見ていた。足利氏は持明院天皇を道具としか見ていない証拠と言える。
- 47 :
- 崇光・後光厳の兄弟仲だけでなく、光厳・後光厳の父子の間柄も
悪くなったということじゃなかったかな。
- 48 :
- >>47
というか北朝内で団結しないと幕府にまた南軍に走られる可能性があるからね。
皇位については南方の一存にゆだねるなんて言われたらどうしようも無い。
- 49 :
- >>46
光厳上皇が後光厳天皇を正統と認めたことからの結果だよね。
天皇家の家父長が皇統を決めるので、兄系が正統とかいうことはないよ。
- 50 :
- >48、49
光厳院は、後光厳を正統と認めていないよ。
長講堂領などの持明院統伝来の所領も、秘曲も文書も、全て
崇光院に渡されている。
このような「一代限り」という処置が、余計に父子の間柄を冷たく
したのではないか、というような話もあるね。
- 51 :
- 尊氏は北朝を担いだが
個人のシンバシーでは後醍醐系だったんだろうな
義詮は目先の物しか見えない愚か者で状況をさらに混乱させた
義満がよく事態を打開した
- 52 :
- >>51
尊氏は関東出陣の折後醍醐の勅勘に触れて、
朝敵になりたくないから出家すると騒動を起こしたことがある。
結局直義らのとりなしで未遂に終わったが。また新政破れて
後醍醐が京を脱出した際も、故意に警備を緩くしていた可能性もある。
尊氏が後醍醐を正統視していたことは、後醍醐没後に天竜寺を創建したことが雄弁に物語る。
おそらく持明院天皇を担いだのは直義あたりの入れ知恵で、尊氏は最後まで乗り気でなかったと思われる。
だから正平一統で「皇位のことは南方に委ねる」とあっさり明言出来てしまう。
結局尊氏が優柔不断だったことが、南北朝の争乱が長引いた最大の要因だし、
北朝天子の権威低下を招くことになった。幽閉して後醍醐を斬るべきだった。
- 53 :
- >>50
都へ戻ってきた崇光上皇は、都で即位していた弟後光厳天皇に対し
退位とわが子栄仁親王即位を求めたが、光厳上皇は後光厳天皇の続投を認めた。
これは後光厳天皇を正統と認めたからでは?
後光厳天皇がわが子に違いはない崇光上皇の生活のために所領を与えたこととは別。
その与えた所領も崇光上皇没後は「皇室に戻すように」と条件を付け、
実際この通りになっていることからもわかる。
- 54 :
- >>53
それもこれも結局は幕府の意向だろ
正平一統時の不手際が原因
いまさら混乱を招くような事を認めるはずもない
- 55 :
- >>54
50が主張するような光厳が後光厳を正統と認めなかった根拠があるとでも?
天皇家は兄弟相続はつきもので弟が正統とされたことはいくらでもある。
後光厳は崇光の系統であっても可としたことは事実なわけで。
崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは
光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)
光厳はそれすら必要なしと判断、栄仁親王に一代に限り与えた所領は
「天皇家に戻すよう」と遺言した。
- 56 :
- >>55
> 崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは
> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)
幕府の意向は、「聖断たるべきよし」、すなわち「後光厳の意思にまかせる」だよ。
当時の状況で、幕府の意思を押し切って
> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはず
なんて話は到底不可能。後、
>栄仁親王に一代に限り与えた所領は
とはどこのことですか?崇光院の管理していた長講堂領等に関する光厳院の置文は、
・親王(栄仁)践祚あらば、ただちにご相続あるべし
・もししからずば、禁裏(後光厳)御管領あるべし
・ただし、末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿御しそん御管領あるべき由
(横井清「室町時代の一皇族の生涯」)
であり、明確に崇光院の系統を「正統」としていますよ。
- 57 :
- >>56
>幕府の意思
幕府が栄仁親王立太子を拒否したという史料を提示してください。
後光厳天皇即位こそ天皇家家父長不在の非常事態であったために
義詮が広義門院に願って実現させたことですが、
それ以外は家父長の判断に任されています。
「正統につきて」正統に返せ、ということですが?
栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。
- 58 :
- >>57
正統につきて「伏見殿御子孫御管領」というのが光厳院の遺命ですよ。
後光厳の系統ではありません。
そもそも、長講堂領等が崇光院の系統から取り上げられたのは、あなたがいう「栄仁
親王没後」ではなく、「崇光院崩御後」であり、栄仁親王は取り上げられた当事者です。
で、史料は、>>56の文献に引かれている椿葉記や、諸書に引かれている光厳院の
置文そのものですが、あなたが主張する
>栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。
という話の根拠は何ですか?
- 59 :
- そもそも、光厳院の遺命自体、
・栄仁親王が即位したならば、崇光院管理下にある持明院統伝来の
所領は栄仁親王が直ちに相続せよ
・栄仁親王が即位しなかったなら、後光厳が管理せよ
という内容であり、明らかに光厳院に決定権がなかったという内容です。
もし家父長である光厳院に決定権があるなら、こんな場合分けなど
する必要はありません。
- 60 :
- >>59
そもそも光厳は南朝に連行された際に出家し、帰京後はすぐに一介の僧侶として
修行の旅に出ており、政は後光厳天皇に任せていた。
光厳法皇が後継に口出ししなかった=幕府の裁定に任せたのではなく、
後光厳天皇に任せたということ。
現実に、後光厳天皇は栄仁親王を退けてわが子後円融天皇を即位させたが、
幕府にお伺いを立てた形跡はない
また、光厳法皇の原文に栄仁親王を指す文言や即位を期待する言葉はなく、
栄仁親王の即位があったならば、と意訳するのは間違い。
光厳が崇光の伝領に条件を付けたこと自体、南北朝動乱を避けるために
崇光以降は出家・断絶させる意味があったとしか取れない。
- 61 :
- 原文は、
・親王践祚あらば、ただちにご相続あるべし
・もししからずば、禁裏御管領あるべし
・ただし、末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿御しそん御管領あるべき由
だが、この文の「親王」「禁裏」は誰を指していると解釈しているのかな?
親王が栄仁親王を指しているという解釈は、先に上げた横井清氏や飯倉晴武氏を
はじめ、普通に言われている話だが、「間違い」だと解釈した例は>>60の私見以外に
ありますか?で、>>60は原文にある「親王」を誰だと解釈しているんですか?
後、崇光院がわが子栄仁親王を即位させようと運動したのを、幕府が退けて「後光厳
の意に任せる」と裁定したとか、後光厳流を立てるというのは武家の約束であるという
記事は満済准后日記や椿葉記などにある話ですが。
光厳・後光厳の父子の仲が悪かったというのも園大暦の記事にあるとのこと。
あなたの主張の根拠となる史料はなにですか?
それから、
>栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。
という与太話にある「所領」とやらが何を指しているのかもお願いします。
- 62 :
- 鎌倉時代の例をみて、天皇家の相続に武家が口を出すと泥沼に嵌まるのが分かったのだろう。
南軍が折角拉致した北朝皇族を解放したことも、幕府にとって誤算だと言える。
- 63 :
- 院政期の帝は何をしていたのだろう?すること無くて歌と蹴鞠?
- 64 :
- >>63
基本的に政務は天皇と関白がする。
重要案件については、関白が治天にご意見を伺いに行って、天皇と調整していた。
- 65 :
- 前期院政時代の院の財政基盤だけど、どう頑張っても摂関家には適わないのかな?
- 66 :
- 院の存在が不可欠になったのはいつからだろう?
平家による後白河院政停止が続いていれば、
形式上は天皇親政に戻っただろう。
それにしても院というものはあまり価値が無いんだな。
後白河は平治の乱の時、顧みられず捨て置かれた。
- 67 :
- 院はいようがいまいが構わない。
必要なのは天皇家の家長である治天。
- 68 :
- 院庁の建物の創造復元図を見たことある人いるかな?
- 69 :
- 鳥羽殿は発掘が進んでいて復元図なんか見た記憶がある
- 70 :
- 白河北殿の発掘調査も京大がやってるはず。
保元の乱で燃えちゃったからなぁ。勿体ないね。
- 71 :
- NHKで今やってる平清盛で初めて院政とか摂政とかに興味を持った俺に
まず最初に何から勉強すればよいのか教えろください
- 72 :
- >>66
発生は後三条が白河に譲位した時でしょう。
院政は、愛した女の子供を東宮にしたい願望から発した父の呪縛から離れたい要素が決定的な事柄だと思う。
- 73 :
- >>71
中公新書に「院政」っていう本が出ていたはず。
面白いし勉強になるから買って読め。
- 74 :
- >>71
院政の特徴は、「俺は今日から院政をする」と明確な意思をもって開始されたのではないこと。
何となく複数の要素が噛み合って、白河上皇に有利な流れが出来て、それに上手に乗っかったというのが真相。
例えば摂関家の当主師通が30代で突然死し、後継の忠実が22歳でその地位を継いだこと。
例えば>>72で白河の東宮にされた「愛した女の子供」が15歳で夭逝し、東宮位が空いたこと。
例えば白河の溺愛していた妃、賢子が28歳で亡くなったこと。
身辺の人間が次々に亡くなって行ったことで宮廷内の力関係が急変し、そこに上手に白河が付け込んだ。
あれよあれよと言う間に絶対権力が「いつの間にか」出来上っていた。
- 75 :
- 院政の本質は「上皇個人に付与された権力」であり、上皇の力量如何で権力に強弱が出来ること。
上皇は天皇のように太政官という制度に組み込まれた存在ではないので、白河以前の上皇は
全く無力な存在でしかなかった。花山上皇や円融上皇を見れば分かる。
下手をすると白河上皇も、花山上皇のようになる可能性もあった。そうならなかったのは、
後三条天皇の荘園整理令が効いていると思われる。これで没収した荘園は、何故か天皇の
私有財産にされたから。本来の目的である「国衙領の回復」の観点からすると、天皇の
私有財産にするのは筋違いなのに。
白河にはこの後三条の獲得した荘園という財政的裏付けがあったのが大きい。
自身の治世にも荘園整理を実行しているし。それに対して鳥羽院の時代になると
荘園整理が行われなくなっている。つまり上皇の個人資産の頭打ちであり、
ここで院政は弱体化の兆しを見せる。
- 76 :
- >>74
一般的に堀河天皇のときに白河上皇によるり院政が始まったとされているけれども
堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で(母賢子は藤原師実の養女だった)
関白藤原師通は退位した天皇(白河院)の政治介入を激しく批判、
堀河天皇本人も師通に同調したために白河院政は軌道に乗らなかった
実質的に白河院政が行われたのは続く鳥羽天皇即位時から
鳥羽天皇の外戚は閑院流で摂関を望んだにもかかわらず受け入れられず
摂関家は鳥羽天皇と血縁関係になかったために政治介入が妨げられた
幼帝の血縁者として政権を握ることになったのが白河法皇で
このときに実質的院政が始まっている
- 77 :
- >>76
院政は起点を明確にするのが非常に難しい。歴史は常に後から振り返って気付くものだけど。
白河天皇の東宮である実仁親王が15歳で夭逝した時、同じく「愛した女の子供」である
輔仁親王が生きていた。この親王は後三条帝の母陽明門院の庇護を受けていたので、
白河も無視できない存在だった。
そこで白河は摂関家と結んで賢子との子である善仁親王を太子に立て、
自分は同日退位してしまう。堀河天皇の誕生である。これによって
輔仁は「天皇の叔父」世代となり、皇位継承が極めて難しい立場になった。
摂関家は長い間外戚の地位を回復したがっていた。白河は自分の血を皇位に
送り込みたがっていた。ここに天皇家と摂関家の奇妙な利害の一致が成立し、
院政への途が開けた。院政とは偶発的に始まったもので、最初から摂関家の
圧倒を予定していたのではないことが分かる。
だから院政は一筋縄では理解できないし、天皇や摂関という「既存の公的な権力体制」
だけを見ていても意味不明なのだ。何故なら院政は「上皇の私的意思」に発端があるのだから。
「愛した女の子供」を帝位に即けたいという私的意思に。
- 78 :
- 円融院が無力だったとあるが、一条即位後は人事にも介入している。
ただ、当時は迭立状態だったから、冷泉系に絞る動きを兼家がみせ
れば、強く出にくい状況だったろうけど。
- 79 :
- 保元の乱を境にして、形式を重んじたややこしい院政から、後鳥羽上皇のなんでもありの時代になったことが、既存の体系を重んじる摂関家に致命的であった。
- 80 :
- >>79
摂関家が5分裂したのも実質藤原信西に解体されたようなもの。
藤氏長者の決定権が院に変わったのが大きい。これで院に
逆らえなくなった。摂関家の荘園も代替わり時に院に召し上げになり
そののち氏の長者に交付するスタイルになったし。
- 81 :
- 白河院が鳥羽帝を退位させたときには、院はもう70歳になっていた。
それに引き換え鳥羽帝は20歳。どう考えても自分より長生きする。
院の没後に新帝(崇徳)がどういう扱いを受けるか、院は考えていなかったのだろうか?
それとも白河院の死が突然過ぎて、対策を講じる暇が無かったのだろうか。
院の荘園を帝に引き渡してしまえば、新院(鳥羽)は無力に出来た。
しかしそれをやると摂関家が復活してしまう。崇徳叔父子説を考えたとき、
白河の崇徳に対する無策ぶりが目に付く。
- 82 :
- >>81
> それとも白河院の死が突然過ぎて、対策を講じる暇が無かったのだろうか。
これのような気がするな。
関係ないが、歴代天皇で急死・突然死した人はあまりいないんだよね。
しばらく病臥したあとで亡くなっている。
- 83 :
- 太上天皇の制度自体は律令にも規定されている。
律令で幼帝を禁じておけば、上皇は存在しても
院政は発生しなかっただろう。
- 84 :
- >>83
最初の幼帝(元服前に即位した天皇)は9歳で即位した清和天皇だが、
これは父文徳天皇が急死したために皇太子が即位したという実態があった。
幼帝が駄目で叔父や伯父、異母兄が一時的に相続するとなれば
余計に皇位継承が混乱しただろう。
(奈良時代には皇位継承の混乱を避けるため、先帝の皇后が即位したりしていた)
当初は幼帝が即位してもその外祖父が摂政となって政治を代行していたので院政は起こらなかった。
むしろ、院政をおこらなくするには上皇の制限(簡単に退位できないようにする)
ことが肝要だったろう。
- 85 :
- 院政が発生しなければ
朝廷が権力を失う時期は先送りできたのだろうか?
どうだろうね?
- 86 :
- >>84
簡単に退位出来ないようになっていたら、天皇を立てるときに揉めるだろうね。
もしかしたら天皇暗殺が恒常的に行われたかも知れない。
>>85
白河院が武士を院の私的傭兵の立場に押し込めず、政治に参加させておけば
武士の時代にはならなかっただろうね。武士は令外官状態で宙ぶらりんな
状態だったから。
- 87 :
- >>84
>天皇暗殺が恒常的に行われたかも知れない
古代には生前譲位がなく暗殺された天皇もいた。
しかし、近世にも暗殺の噂がたった天皇はいる。
ちなみに最初に生前譲位を行ったのは皇極天皇。
少なくとも天皇が大人になれば即退位させ幼帝をたてるという
摂関政治・院政は起こらなかったはず。
そもそも怨霊をおそれるあまり罪人に対する死刑すら中止されてしまっていた平安時代においては
天皇を暗Rるなんて恐ろしくてできなかっただろう。
天皇が政争に敗れてもせいぜい流罪。それでも現地で死んでしまった場合
都では怨霊が恐ろしくてあちこちに神社を建てまくった。
- 88 :
- >>87
天皇が退位したくなければ、男の子が生まれない方がいい。
故意に中宮と交わらず、下女とだけ交わる天皇が居たかも知れない。
藤原氏はそのあたりもよく考えて、天皇の系統を二本持ってたんだな。
冷泉系と円融系で皇位をたらい回しにしておけば、一系統が不妊になっても
もう一系統で回せる。その後の歴史を見ると、三条天皇の系統を潰したのが失敗だった。
おそらく三条天皇の系統を切り捨てて、新たに後一条と後朱雀の二系統を使って
冷泉系・円融系と同じことをしようとしたのだろうけど。
ところでどうして一条天皇の在位が25年にも及び、三条天皇の即位が遅くなったのだろうね。
- 89 :
- >>85
朝廷がズルズル1800年まで政権担当。
ペリーが大宰府にやってきて、植民地化されたかもしれない。
あるいはモンゴルの属国になったかもしれない。
- 90 :
- >>88
天皇の兄弟相続の例は古代からあるよ。
藤原氏が摂関期に始めたことじゃない。
- 91 :
- 白河上皇は院政を始めたのは、元々自分の子孫に皇位を継承
させたいとの理由だから(先帝後三条天皇は弟に皇位を継承する
ように遺命している)、後三条天皇がいらん遺言を残していなければ
白河上皇は堀河天皇に譲位せず、そのまま天皇親政を貫いて
いただろう。
数百年後の徳川家康が自分の子孫に将軍職を継承させる目的で
3年で将軍職を辞職して、秀忠に譲ったのと同じ。
- 92 :
- >>91
白河上皇は堀河天皇治世時にはほとんど院政を執ってないよ。
堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で、執政者は関白藤原師通。
師通は退位した天皇の政治関与を厳しく批判、堀河天皇もこれに同調し、
父白河上皇の政治関与を厳しく制限した。
白河院政が本格化したのは摂関家を外戚としない孫鳥羽天皇のときから。
- 93 :
- >>88
>一条天皇の在位が25年にも及び、三条天皇の即位が遅くなった
ただ単に、藤原道長が娘彰子の腹に皇子が生まれるのを待ってたからでしょ。
1008年にようやく敦成親王(後の後一条天皇)が、1009年にも敦良親王(後の後朱雀天皇)が生まれ、
道長があれこれ根回ししているうちに1011年、一条天皇が没したというだけ。
- 94 :
- >>93
一条帝が32歳で死ななければ、三条帝はまだまだ東宮のままだったわけか。
やっぱり三条に嫁した道長の娘が内親王を産んだのが不味かったか。
禎子内親王が男だったら、一条帝の退位もあり得ただろう。
- 95 :
- >>92
白河天皇はまず、自分の子孫に皇位を継承させると言うのが
第1の目的であり、院政そのものを狙ったわけではないだろう。
自分の子孫が皇位を継承させることが確定していたのなら、
わざわざ幼少の堀河に譲位しなかっただろう→鳥羽の即位も
もっと遅い→院政はなかっただろうと言う話だよ。
結果として藤原氏を外戚としない鳥羽が幼少で即位しなければ
ならない事態に陥り、自ら政を見ることになったと言う話だよ。
白河天皇が死ぬまでとは言わないが50〜60歳ぐらいまで
天皇を続けていたのなら、原則として幼少の天皇が即位して
治天の君と言うものなんか誕生しなかったと思う。
別に君が早く死んだわけではなく、他の成人の皇位継承者が
いないわけでもないのに、幼少の君主が立て続けにいた日本は
世界的に見ても特殊な例だろうね。
- 96 :
- >>95
自分の子供が天皇にならないと何が困るんだろうね。
後醍醐天皇と白河の必死さは理解に苦しむ。
- 97 :
- >>96
別に天皇に限らず、自分の子供に後を継がせたいを言うのは
普通だと思うけどな。
世襲制の皇位はともかく、現代での政治家や大王製紙みたいな
オーナー一族の会社とかある。
おあお小泉でさえ息子に選挙地盤を譲ったし。
天皇も天智天皇が弘文天皇に、持統天皇は草壁皇子に、崇徳天皇
は重仁親王に、後深草天皇も亀山天皇も自分の子孫が皇位を継承
するように拘ったじゃない?
- 98 :
- 訂正
あの小泉でさえ・・ね。
- 99 :
- あの小泉でさえも何も、あいつこそ典型的な世襲政治屋一族だろうに。
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