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2013年07月日本史13: 邪馬台国東遷説 その2 (771) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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邪馬台国東遷説 その2


1 :2013/06/25 〜 最終レス :2013/07/03
邪馬台国は東遷して大和朝廷となった。
前スレ 邪馬台国東遷説
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1368103541/l50

2 :
記紀の年代にはいまひとつ信頼性がない。
当時の日本に年号がなかったことが理由である。
しかし、卑弥呼の生きた時代はわかっている。魏志倭人伝に
年号の記述があるからである。
つまり、記紀の年代を知るためには、中国の文献と付き合わせることが
唯一の方法だといえる。記紀をつぶさに読んで、中国との係わりを
探し、年代を当てはめるわけである。
考古学の年代はあてにならない。考古学者が論争に肩入れすると、
それがますます顕著になる。

3 :
日本に年号がなかったわけではない
三正に見られるように歴法は変遷していってる
魏の歴法と倭の歴法が異なっていた、ってだけの話だろう

4 :
>だから使者が受け取ったって事だろ?
>「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」
>女王の都まで伊都国から水行十日だって言ってるのになあ
>伊都国に女王が住んでいたとかwww
「年已長大 無夫壻 有男弟佐治國」
「年已に長大なるも夫婿なく、男弟あって佐けて國を治む。」
卑弥呼の容姿に付いての記述があり少なくとも梯儁は伊都國で卑弥呼と対面している
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」
これは投馬國から邪馬壹國までの日数だ
つまり狗邪韓國から伊都國までの日数だ

5 :
よくそれだけ都合よく解釈出来るもんだなw
それに容姿についてなんて書かれてないじゃん、伝聞で書ける内容だし。

6 :
「自爲王以來 少有見者」と記されているのに誰から「年已長大」と聞いたんだよ
しかも伝聞とも書かれていないし、勝手に伝聞にすんなよな
直に対面しての記録だよ

7 :
だいたい王に冊封されたのに、皇帝の使者に直に対面しないなんてありえないよ。

8 :
>これは投馬國から邪馬壹國までの日数だ
つまり狗邪韓國から伊都國までの日数だ
都合よく解釈とはこの部分だろう。
それに「自爲王以來 少有見者」とは
充分第三者目線の書き方じゃないのか?

9 :
>>7
有り得るぞ
伊都国まで距離は正確に記述されてるのに
そこから先が日数だ
これは伝聞だと考えられる

10 :
陳寿は倭の地を訪れたことがない。
手に入った資料に依って書いた。
そんなことも分からない奴は話にならない。
伝聞だとか伝聞じゃないとかアホか。

11 :
日本の使者は中国の皇帝に対面したが、
中国の使者は日本の王に対面してない
これは何を意味するか?
日本側が拒否したか、邪馬台国まで行く道が安全でなかったためか、中国の使者が僻地まで行きたがらなかったか

12 :
>>11
それはないな
家臣たる日本側が拒否なんて出来ないし
皇帝の使者が途中までしか来ないなら王の方が出向いて謁見する
君常識がないね

13 :
陳寿は使者じゃないから会いに行くことはないけどね

14 :
>>9
伊都国までの距離と日数が正確に記述されてるのだ
伝聞は
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國・・・次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」
だな。

15 :
>>13
云ってる意味が分からないが
陳寿は著者だから現地には行っていない
陳寿が見た資料が伝聞によるものか
実際に体験した事を書いているのかの話だよ。

16 :
>>12
卑弥子が誰にも会わないと強調してるのは何故だと思う?
引きこもってるとも言ってるぞ

17 :
>>16
引きこもって「少有見者」と限られた者としか会わない
尚且つ皇帝の使者がとは謁見しなければならない
皇帝の使者は伊都國までのしか来ない
つまり卑弥呼は伊都國に住んでいて皇帝の使者と伊都國で謁見している。

18 :
伊都國東遷説

19 :
日本に来たのは張政だろ

20 :
>>17
伊都国に住んでるならそう書かれるだろ。
伊都国は外交等の為北部九州にあるだけの話。
なので邪馬台国自体はずっと遠方に無けりゃ駄目でしょ。

21 :
使者は邪馬台国には行ってないが、卑弥呼に会った
つまり卑弥呼が使者に会うためにに都から伊都国まで出向いたってことじゃん

22 :
>>20
伊都國には「丗有王 皆統屬女王國」
「代々王がいた、(倭の国々は)皆、女王國に統屬していた。」と記されている
丗とは魏の治世のこと
代々の王とは卑弥呼と壹與
皆とは倭の国々のこと
ちゃんと伊都国に卑弥呼が住んでいたと書かれている

23 :
伊都国 千余戸(代々王が居る)
邪馬壹国 七万余戸(女王の都が有る)
まるで違うぞ

24 :
>>22
なんでそんな捻くれた解釈するんだ?
邪馬台国には女王の都があるとはっきり書かれているでしょ!!!
自分の思い込みと矛盾する箇所は無視して読んでるの?
東南陸行五百里、到伊都國
丗有王 皆統屬女王國
→東南へ500里陸行すると伊都国に到着した
 代々王がいて、女王国に服属していた
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月
→南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る

25 :

世の異体字とされるが元々は別字である。
字源
<会意>。<十>が三つ横に並んだ形で<三十>を表す。
―ウィクショナリーより―

26 :
おまえらの勘違い解釈から妄想でストーリーを創作していく能力って凄いな

27 :
>>18
伊都国東遷説というのは、2世紀後半に伊都国が東遷した。
これが倭国の大乱として記録に残っていて、
その後、この勢力は邪馬台国となった、というわけで、
結果的には邪馬台国畿内説に属する。
根拠は薄いと思うが…。

28 :
根拠は薄いね。
狗奴国東征説の方がマシ。

29 :
倭国大乱の結果、伊都の勢力が畿内に進出して
邪馬台国を都と定め、女王をおいたというのが今は定説でしょうな。
それなら話は全て繋がるはず。
また狗奴国(クマソ)の勢力が三世紀以降に畿内で力を持ち、
卑弥呼の存在を消してしまったと言うこと。

30 :
>>29
まったく繋がらない
ヤマトタケルの熊襲退治の話しや
神功皇后の熊襲反乱の征圧からみても
九州は完全に畿内に征服されてる

31 :
ヤマトタケルや神功皇后というのは当然創作部分が多いからな。
複数の伝承を合わせた物には違いあるまい。
大体狗奴国が卑弥呼と争ってどうなったか。
死んだとされたのは卑弥呼の方だしな。
その辺を検証していく必要性はあるだろう。

32 :
で、あまり倭人伝に気をとられて忘れがちだが、
女王国と対抗出来た狗奴国も、呉辺りの勢力と
繋がりがあったかも?という可能性は否定は出来ないだろう。

33 :
倭奴國王族東進
帥升に滅ぼされた倭奴國の王族が落延びた先が大和
敗走ルート
博多湾岸倭奴國→日向(神武誕生)→九州北東部→広島→児島湾→鳴門海峡→
→大阪湾神戸→新大阪南方→日下→新大阪南方→大阪湾泉南→紀ノ川河口→
→・・・・→奈良盆地

34 :
鉄器の刃物を振りかざす賊にやられて逃げた
「倭奴國」の王族はくやしくて「倭奴奴國」を名乗る
これすなはち「狗奴國」である
この鉄器の刃物を振りかざす賊のは木棺墓人で
卑彌呼ファミリーの入り婿さんなのではあった。

35 :
>>23
伊都国 千余戸(代々王が居る)・・・女王の都
邪馬壹国 七万余戸(女王の都が有る)・・・伊都国を都とする国
邪馬壹国とは伊都国を都とし對馬國、一大國、末廬國、奴國、不彌國
斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、
呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、鬼奴國、有邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
の計26か国の連合体
邪馬壹国の人口が「可七萬餘戸」と推定値である事を示す可が付いているのは
人口が既に判明している對馬國、一大國、末廬國、伊都国、奴國、不彌國のうち奴國以外の国の人口から
1国当たりの人口を2000戸として25か国分で50000戸
それに奴國20000戸を足して70000戸して推測したものだ
(1000戸+3000家+4000戸+1000戸+1000戸)÷5国=2000戸/国・・・1か国平均
2000戸/国×25国=50000戸 50000戸+20000戸=70000戸

36 :
ダメだなこりゃ

37 :
>>36
どこが?

38 :
こういう曲解した自説に固執する人って、
日常生活でも他人が気づかないとこに気づく俺ってすげーだろって自惚れてんだろうな
だが実際は全く逆なんだけどな
ある事象があるとそこから導き出される最も可能性の高い選択肢を否定して
あえて可能性の低い選択肢を選んでしまって結局とんちんかんな方向に進んでしまう
人との接し方も常に猜疑心のかたまりで人間関係も上手くいかない人だろうな

39 :
うわ〜 その2スレがたっちゃったの。
っていうか、単なる邪馬台国論争になってるんじゃ?
いつ、どのように東遷したのかぐらい語れよ。

40 :
纏向遺跡は弥生時代の遺構がほとんどないため
広大な空白地に何者かがやってきて遺跡を築いたのは間違いない
この発生をめぐって大和自生説や吉備東遷説があり
考古学者柳田康雄の伊都国東遷説もその一つで2世紀末ころの東遷を言う
しかし文献的には倭人伝のどこをどう読んでも伊都国が邪馬台国に東遷したとは読めない

41 :
>>38
自惚れちゃいないよ
倭人伝には他にも同じ様な例がある
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
この可五千餘里も同じ様に計算で導き出せる。

42 :
卑弥子の墓は円墳じゃないのかな

43 :
二十数カ国の総称が邪馬台国とかトンデモ解釈はチラシの裏にでも書いとけよ

44 :
>>41
>この可五千餘里も同じ様に計算で導き出せる。
「周旋可五千餘里」は対馬の北西端から熊本平野緑川(狗奴國南端)まで。
対馬の北西端から唐津(末盧國)まで3400餘里。
唐津(末盧國)から熊本平野緑川(狗奴國南端)まで可1600餘里。
君の計算とは違うだろ。

45 :
>>40
確かに「倭國亂、相攻伐歴年」は、前後の文章からも跡継ぎを巡る争いと
考えるのが妥当。東征のような意味には取れないな。

46 :
>>39
邪馬台国東遷説という場合は、やはり卑弥呼時代の後ということになる。
記紀を尊重して、日向を経由していると考えれば、3世紀代は無理があるかな。

47 :
高地性集落を東遷・東征と結びつけるのはおかしい。
〜AD100ごろの高地性集落は半島土人の侵入に備えるためのもの。
北部九州玄界灘沿岸にもある。
〜AD200ごろの高地性集落は倭国大乱内戦状態における近隣国に対する備え。
玄界灘沿岸の高地性集落が消える。
北部九州政権は半島に攻め込み半島に橋頭堡を確保して玄界灘を平和の海とした。
AD200〜ごろの高地性集落は近隣に対する備え。あるいは進出先に作った橋頭堡。

48 :
たぶんね纏向よりもその北側の柳本のほうが重要なんだよね
4世紀には糸島系の鏡とその鏡鋳造技術を一部継承する王家の如きものがおったみたい
もとのが方墳系ので前方後円形にちょっと移行していくみたいな

49 :
東遷があったにせよ、九州人が近畿に来て邪馬台国を作ったという考へはないの?

50 :
卑弥子の墓は円墳じゃ
倭人伝にも「直径は百余歩」と書いてある

51 :
八尾市池島・福万寺遺跡、東大阪巨摩・瓜生堂遺跡だったかな
弥生後期〜古墳早期の大型水田が出ているし
大阪は掘れればもっと出てくるはず
奈良近辺だけでものを考えるのは馬鹿の骨頂

52 :
>>49
神武天皇は九州出身だし
邪馬台国=大和国ならそのまま
ただどう見ても神武と魏志倭人伝とは時代が合わない
纏向も3世紀始めから発展しているから
邪馬台国を九州に置くと畿内では別王朝が発展していた事になる

53 :
かあいそうにもサイズがやや小さいがために
柳本には長年陪墳扱いされてきたたいへん重要な
方形基調の墳群があったんだよね

54 :
柳本古墳群は大量の鏡といいその分野で先んじていた北部九州が関係していた色は濃いね。
崇神、垂仁、景行天皇あたりか。

55 :
「遺骸を埋葬していた形跡を認めることが出来なかった」とか
石槨副室として別枠のお宝ルームがあるとか
もろお墓じゃないみたいのね

56 :
南九州の古墳も大きくて古いぞ
どうか無視しないでください

57 :
箸墓に続く柳本古墳群のころは南九州で大きなのは生目古墳群しかなかですよ。
大きいと言っても全長は畿内大王墓の半分ほどの規模で、
時期も畿内の古墳より先に行くことはなく、畿内の古墳を知ってから作った。
最初に箸墓を知って箸墓に似た古墳を作ったようですが、その直後からの柄鏡型
という地域色が濃い古墳は前方部は「道」の色が濃さそうです。

58 :
>刀は一般的な片刃でなく、切っ先から20センチまで両刃になった特異なものである。 剣では木製の柄装具に直弧文[4]を施している。

59 :
>>57
箸墓を最古級にしたために、類似形の生目の古墳が古いと思われるようになった。
実際の年代はわからないと思われる。

60 :
>>47
高地性集落は、むしろ九州の勢力に備えるためだったと思う。
九州の勢力は、古くから大陸まで行っていたし、三国史記の新羅本記を
見ると、倭人が攻めてきたという記録がたくさんある。
瀬戸内海に行くくらい朝飯前だと思う。

61 :
航海に長けた倭人は九州にいた訳ではないけどな。
二世紀頃には倭の本拠地は瀬戸内海にある。

62 :
航行距離なら縄文人だって相当交易で移動している。
讃岐や二上山の石器、サヌカイトの流通範囲をみても
瀬戸内海周辺には航行技術を持った連中が居たのは確かだし。
その事は神武東征話でも、瀬戸内海の速水の門で
ウズヒコに先導してもらう話が証明してるだろう。

63 :
海人族

64 :
>>57
西都原古墳に箸墓と同時期
http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/667.html
九州南部の古墳なんて有り過ぎてあまり調査されてないからねえ
盗掘も有るだろうし

65 :
>>64
お前に畿内説を批判できる資格がないのはよくわかったw

66 :
箸墓を語るなら阿波や吉備を忘れちゃ駄目だろう

67 :
やっぱり筑紫説と畿内説は同じ脳構造かw
畿内説 倭人伝は書き間違いだ
筑紫説 記紀は書き間違いだ

68 :
>>67
畿内説だが倭人伝が書き間違いだなんて思ってないぞ。

69 :
>>44
「周旋可五千餘里」は奴國から始まり不彌國、
斯馬國、已百支國・・・支惟國、烏奴國、奴國と一周する距離です
奴國から不彌國までは100里と判明している・・・「東行至不彌國百里」
末廬國、伊都國、奴國、不彌國間も距離は判っている
500里+100里+100里=700里・・・平均は700/3里
700里÷3×21=4900里・・・不彌國から斯馬國・・・烏奴國、奴國までを平均値から予想
これに奴國から不彌國までの100里を足して5000里となる。

70 :
伊都国説だが記紀が書き間違いだなんて思ってない
記紀は8世紀に書かれたもので
当時の政治状況に合わせて編集され
時代の入れ替えや場所の入れ替えは相当激しく行われているようだ
大化が50年ずらされ年号が切れ切れになっている。

71 :
>>69
いまだに、「周旋」を一周の意味に使っている人がいる。
「周旋」は、単に「端から端まで」又は「片道」の意味。
ちなみに、「一周」又は「往復」の意味は「周匝」。
倭地から、対馬島(對馬國)は外せない。
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連」
倭地は、絶在海中の洲(広い土地・筑紫平野)と島(山島)であり、
それらは列島か群島になっているとある。

72 :
>>68
方角の間違いはどう説明するんだよ

73 :
>大化が50年ずらされ
大化は60年ずれている
原資料と干支を合わせたと思われる。

74 :
「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連」は
有明海沿岸を周るイメージだろう
途中で海を越えるからな
「周旋」にはぐるぐる回るとの用例もある
単に「端から端まで」又は「片道」の意味は恣意的解釈。

75 :
>>73
大化元年は695年と九州年号ではなってますけど

76 :
>>74
恣意的解釈ばっかりやってるのはお前だろが。

77 :
>>76
「周旋」の用例でも調べたら

78 :
だから邪馬台国は二十数カ国の総称だの卑弥呼は伊都国にいただの
倭人伝を恣意的に解釈してんのはどこのどいつだって言ってんだ。
こんなへんちくりんな解釈をするやつが世の中に2人もいるかよ。

79 :
>>78
卑弥呼は伊都国にいたとの説は俺が最初だけど
その後何人か同調してくれてるよ
ホームページも幾つかある。

80 :
結局何処に邪馬壹国の都が在ったか分からない古田氏の邪馬壹国説より
自分では良く出来てると思ってます。

81 :
大化元年は九州年号では695年
50年ずらされ700年まで九州王朝が続き701年から大和朝廷が天下を握ったと
最初に主張したのも俺だ
インターネット上に書いたら1年もしない内に古田史学会が参考にしてた
その後、傍証として評から郡に変わったのも700年701年だと判明
俺の単なる思い付きでも影響するんだな。

82 :
自意識過剰だろw

83 :
>>72
方角のズレなら九州説も同じだからさ。
まず伊都、奴国が本州西部に跨る国だと見れば良い。
戸数を重視するなら、奴国二万戸ですら、
北部九州に入るのかは怪しいもんだからな。

84 :
>>83
伊都国説なら方角のズレも殆どないし
戸数も矛盾なく説明できる

85 :
九州南部説をお忘れなくw

86 :
>>84
できねーよw
伊都国から水行十日
伊都国が邪馬台国なら一大卒は不要

87 :
>>86
帯方郡から水行二十曰で投馬國(狗邪韓國)
投馬國(狗邪韓國)から水行十日陸行一月で邪馬壹國(伊都国)
陸行一月は末廬國から伊都国までのことだから陸行一日の誤植(真珠が真朱と同程度の誤植)
一大率は首都の伊都国から大陸への重要な地域を管轄する組織

88 :
倭國は基本的に瀬戸内海を挟んで2大勢力に分かれていた
南勢力は北方を監察する必要があった
北勢力の南には狗奴國があり、その京は21ヵ國の終点の奴國
魏に使者を送ったのは南側勢力だったってことが倭人伝に書かれてる
元々は東へ進むと書かれていたと思われる
でも後世の引用者が南にある國の京への進路が東になるのは不自然だと勘違いして南に書き変えたのだろう

89 :
>>83
九州説には方向のズレは全くない。
方向のズレがあると思うのは君の読み方が誤っているからだ。
末盧國の津:唐津市中原
伊都國城柵:佐賀市大和町惣座
奴國城柵:佐賀市城内
不彌國城柵:吉野ヶ里町吉野ヶ里
投馬國の津:筑後有明海沿岸(久留米市城島〜みやま市瀬高)
耶馬壱國城柵:八女市
卑弥呼の都:久留米市南部

90 :
短里短日説で、中国の公里の1/6換算すれば、
すべてが矛盾なく説明することができる。
もっともシンプルな修正法であり、
まったく矛盾のない結果が出る。

91 :
水行十日:帯方郡〜末盧國の津
水行二十日:水行十日+末盧國の津〜投馬國の津
陸行一月:末盧國〜邪馬壱國城柵(八女)
不彌國と投馬國、不彌國と邪馬壱國は、
その領域で接している。

92 :
>>84
ぜんぜん駄目だな。
戸数と気候風土でも無理だね。
日本海側は温暖でもないし丹の山もない。

93 :
>>89
耶馬壱國城柵:八女市
卑弥呼の都:久留米市南部
で、女王に相応しいの候補伝承も遺跡も皆無じゃん。

94 :
>>92
戸数も気候風土もピッタリじゃないか
丹の山は関係ないのがまだ理解出来ていないのかい?

95 :
伊都国は代々王が居て女王国の統治下に属する
都を統治下と言わないだろ

96 :
>戸数も気候風土もピッタリじゃないか
そうだな。南九州ならねw

97 :
>>95
>>25

98 :
邪馬台国が九州にあったなどと言う妄言は出来損ないの珍説ですよ。

99 :
>>97
統治下は無視かw
>>98
北部九州は無いが
南九州なら有り得る

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