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2013年06月世界史420: サファヴィー朝 (109)
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サファヴィー朝
1 :2012/07/28 〜 最終レス :2013/03/10 近世イスラーム国家の雄の一つ、サファヴィー朝について語るスレッドです。 <読んでおきたい本> 永田雄三編『西アジア史U―イラン・トルコ』(新版世界各国史9) 山川出版社 2002年。 永田雄三、羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15) 中央公論社 1998年。 樺山絋一他編『イスラーム・環インド洋世界』(岩波講座世界歴史14) 岩波書店 2000年。 前田弘毅『イスラーム世界の奴隷軍人とその実像―17世紀サファヴィー朝イランとコーカサス』 明石書店 2009年。 <過去スレ> イル汗国崩壊〜サファヴィー朝成立期のイラン http://unkar.org/r/whis/1033482388 <関連スレ> ★☆★イスラーム史総合スレ その4★☆★ http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1303004948/ ティムール帝国 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1292470336/ オスマン朝・オスマン帝国(05) http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1336058044/
2 : イスマーイール1世
3 : こういうスレもあるのに、サファヴィー朝の単独スレ立てる意味ある? ペルシャ人、ペルシャ語文化圏の歴史 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1329219743/l50
4 : 話題をふんだんに提供できるなら問題ないだろう。 まだ数時間しかたってないから断定できないが、今のところは立て逃げ臭いがw
5 : なんだ、ガージャール朝スレじゃないのか・・・。
6 : >>3 サファヴィー朝が多民族・多言語・多宗教国家であった現実を考えれば、 「ペルシャ人、ペルシャ語文化」に回収させようとするのは、あまりに単純すぎる。 多民族・多言語・多宗教国家サファヴィー朝をありのままに捉えようとする上では、 このスレには意味があるだろう。 「○○人・○○語の歴史」だと、特定の民族、言語ばかりに注目することになり、 それ以外の民族や言語の役割を軽視しがちとなり、民族横断的な見方が育ちにくい。 「○○人・○○語の歴史」スレが乱立するのはよくない。
7 : >それ以外の民族や言語の役割を軽視しがちとなり、民族横断的な見方が育ちにくい。 まったく逆だろう。 各国史の場合こそ、民族横断的な見方が出来ないよ。 >「○○人・○○語の歴史」スレが乱立するのはよくない。 乱立とは全然思わない。 古い発想の各国史から、横の関係を重視した歴史に、いい加減頭を切り替えるべき。
8 : まあ、歴史学のトレンドはさておくとしても、 王朝ごとのスレ立てても今の世界史板の規模じゃ過疎るしなー
9 : それが一番の問題。 1がよっぽど情熱あって、ネタを投下し続け、即日30レス行くぐらいじゃないと無理。
10 : アゼルバイジャン (Azerbaijan) Part.1 [イスラム情勢板] http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/news5/1343523294/1 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2012/07/29(日) 09:54:54.60 ID:CJDZ/Zy7 アゼルバイジャンについて語るスレッドです。 〜アゼルバイジャン概略〜 歴史上、長らくイラン高原を支配する勢力の影響下にあって、 近世に入ってからは、サファヴィー朝の勢力圏に入り、国教 イスラーム教シーア派への改宗が進み、次第に、アゼリー人 (アゼルバイジャン人)として民族形成されて行った。 イランでサファヴィー朝が滅亡、ガージャール朝が統一政権 樹立に成功するも、既に国威は衰えており、18世紀末、まず グルジアを帝政ロシアに奪取され、文化10(1813)年に入って アラス川以北の領土を全て放棄してロシアに割譲する条約を 結ばされて、現在のグルジア東部とアゼルバイジャン北部に 相当する地域を喪失。続く文政11(1828)年、ロシアに敗れて 不平等条約の締結を強いられると同時に、現在のアルメニア、 アゼルバイジャン全域に相当する地域をも喪失する。ここに 至って、イラン領内とロシア領内のアゼリー人が分断された。 アゼルバイジャンは、ロシア領内のアゼリー人による国家で、 ソビエト時代には連邦を構成する共和国のうちの一つだった。 平成3(1991)年、ソ連邦の解体が進む中で独立を達成する。 以後、連邦解体時に書記長だったアリエフ父子が政権を担い 続けており、政権交代することなく現在に至っている。
11 : >>10 アゼルバイジャンではサファヴィー朝をトルコ系王朝としていて、 アゼルバイジャン人のサファヴィー朝における関わりをかなり重視してるんだよね。 実際、サファヴィー朝はクズルバシュなどトルコ系の軍事力の影響も大きかったしね。 以前、羽田正氏がアゼルバイジャン人の研究家と話した時、彼がしきりにサファヴィー朝はトルコ系だと主張してくるので、 「多民族国家であるサファヴィー朝においてイラン系かトルコ系かを論じるのはあまり意味ないのでは」と言い返したら、 「日本人のあなたはそれで構わないのかも知れないが、我々はそれでは困る」みたいなことを言われたらしい。 まぁ、ここら辺はイランとアゼルバイジャンにおけるナショナリズムが関係してるんだろうね。
12 : なんかwikiにもアゼルバイジャン語文学における重要人物と書かれてるなイスマーイール。 アゼルバイジャン語とペルシャ語の詩が残ってるそうだけど。 超美少年とか神のごとく崇められたとかほんとキャラ立ってますな
13 : >>12 サファヴィー朝ではそれだけアゼルバイジャン的要素も強かったということだろうね。 イスマーイール1世はものすごい美少年だったうえに、自分の神性をかなり強調してたので、 カリスマ性が半端なかったイメージがある。まぁ、晩年はチャルディラーンの敗北でおとなしくなったけど。
14 : 当時のペルシアで美少年とされるのはどういう容姿の人なん?
15 : ヨーロッパの使者が美形と評したんだっけ
16 : >>14 この時代のイスラーム圏は少年愛がわりと盛んだったので、結構その手の詩なんかも多く、 そういうのを読む限り、そこまで今と価値観は違わないようには思う。 だから、イスマーイール1世も結構今から見てもなかなかの美少年だったんじゃないかな。
17 : >>15 そうだよ。ヨーロッパ側の記録に「邪悪なほど美しい」と書かれてるらしい。
18 : 平野豊「シャー・タフマースプI世時代のイラン史研究のための基本史料」 2006年12月 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1571/1/sundaishigaku_129_53.pdf
19 : >>7 が説明不足過ぎて何言ってるかわからない
20 : 結局、こういうスレの形態が時代遅れってことだろ。 知名度がある時代のスレを単発・思いつきで立てると、結果的に 他の時代とか、マイナーな地域について語る場が無くなることになるし。
21 : >>6 >「○○人・○○語の歴史」だと、特定の民族、言語ばかりに注目することになり、 >それ以外の民族や言語の役割を軽視しがちとなり、民族横断的な見方が育ちにくい。 特定の時代専門をテーマにしたスレを立てると、その時代ばかりを注目することになる。 そして、それ以外の時代のを無視してしまうことになる。 また、特定の国家に限定された、制度論などの古臭い枠組みの話しか出来なくなる。 民族、言語など、文化のまとまりを作っている単位が見えにくくなり、それらを縦にぶった切った形式的な 単位にいつまでも捉われることになりがち。
22 : >>6 はサファヴィー朝のスレを立てずに>>3 のスレでやれってのを受けて >「○○人・○○語の歴史」だと、特定の民族、言語ばかりに注目することになり、 >それ以外の民族や言語の役割を軽視しがちとなり、民族横断的な見方が育ちにくい。 >「○○人・○○語の歴史」スレが乱立するのはよくない。 といってるわけで、この三行目を無視して、オウム返しに、国家史で見えなくなるものを上げてもしょうがないだろ。 民族史ではみえないものがあるから、民族史のスレばかりになるのは良くないと言ってるわけで。 あと民族が文化のまとまりの単位ってあくまで便宜上のものだよね
23 : つーか、乱立云々書くから煽られるんだろう。 こういうスレを立ててもいいかと言う話から、既存のスレの立て方の方が問題だ、という批判になってるんだから。
24 : ここまで書き込みの半数以上が歴史でなくスレの可否について。 スレ主やる気があるならサファヴィー朝についての議論始めろ。 でなかったらどんな文句言われても反論できんぞ。
25 : サファヴィー朝に限った話ではないが (というかオスマン朝以外、と言った方がよいだろうが) イスラム圏の王朝て初代と全盛期以外の君主の暗君率が 半端なく高い気がする。
26 : >>25 確かにサファヴィー朝は、初代のイスマーイール1世と最盛期のアッバース1世以外はあまり名君いないけど、 2代目のタフマースブ1世なんかはなかなかの人物だったと思うよ。バグダードをオスマン帝国に明け渡しはしたけど、 それ以上のオスマン帝国による被害は防いだし、シャイバーニー朝相手にも戦って勝利してる。 建国したばかりのサファヴィー朝を維持させることに成功したという点では名君と言っても良いと思う。 彼は、スール朝に敗れたムガル帝国の皇帝フマーユーンの亡命を受け入れたりもしてたね。
27 : >>25 情報源が限られているからじゃないかな 初代と全盛期以外暗君で、100年少しで瓦解する王朝もあるけど、 そうじゃない王朝もある イスラム王朝の脆さは、遊牧民の王朝という側面も影響しているかもね その意味では、サファヴィー朝は前半と後半で王朝の性質が変わった面白い例だ
28 : サファビー朝の火縄銃の普及ってどうだったの? 騎兵重視の伝統で普及は遅いのかな。
29 : >>27 アッバース1世がクズルバシュの力を抑えた軍事改革をしたからね。 それまでのクズルバシュに頼った軍事にゴラームと呼ばれる奴隷軍人を加え、シャーの権力を強めた。 首都もイスファハーンに移ったし、そういう意味では確かに前期と後期でサファヴィー朝はだいぶ変わったと言えるだろうね。 >>28 チャルディラーンの戦いでは、火器を装備した歩兵中心のオスマン軍と騎兵中心のサファヴィー軍の対比が良く言われるね。 そいうことから考えると、初期のサファヴィー朝ではそこまで銃は普及してなかったのかな。 アッバース1世の頃になると、オランダなど西欧諸国の影響も受けながら火器も軍隊に多く取り入れてるけど。
30 : 321 :世界@名無史さん:2006/03/21(火) 14:00:33 0 サファヴィー朝 16世紀末までサファヴィー朝の兵力の大部分はキジルバシとよばれる遊牧トゥルクメンの部族兵であり、トルコ式の合成弓や 騎槍、刀剣等で武装して、おそらくモンゴル帝国の時代とほとんど変わらない騎兵戦術で戦った。 アッバース大帝の国政改革以前、国土はシャー(大王)の直轄領のほかに50余州に分かれ、キジルバシの部族長たちが 各地のヴァキール(総督)として半独立的に統治し、500〜3,000の兵力を保持して有事に従軍する義務を負った。 シャーは直属の戦力として、キジルバシから選抜された親衛隊であるコルチ(箭筒士)を有していた。シャー・イスマーイールの 治世にはコルチの兵力は1,000〜3,000名で、キジルバシと合わせても野戦に動員できるのは2万人ほどであった。16世紀 半ばにコルチは5千名まで増員されていたが、王朝全体の兵力はたいして増加していなかったようだ。 戦闘隊形は右翼・左翼・中軍に分かれる伝統的なもので、通常はシャーの軍勢が中軍となり、両翼にキジルバシが配置された。 サファヴィー朝軍の圧倒的多数は中央アジアの伝統的な騎射兵であったが、シャー・イスマーイールの父・ハイダルの代から すでに火器の使用された記録がある。イスマーイールは攻城戦にマスケット銃や大砲を使用しており、シャー・タフマースプは 1528年のウズベク族との会戦で、荷車を連ねた防御陣地の背後からカルヴァリン砲や旋回砲を発射している。火器の入手源は ヴェネチア、ポルトガル、ロシアなどであった。またチャルディランの戦いの翌年に、オスマン・トルコの脱走兵の技術を利用して 2千挺の小銃を生産したこともある。
31 : 322 :世界@名無史さん:2006/03/21(火) 14:01:28 0 サファヴィー朝は西のオスマン帝国、東の遊牧ウズベク族から攻撃を受けており、16世紀中はほとんど常に守勢に回っていた。 チャルディランの会戦で大敗北を喫してから、サファヴィー朝軍はオスマン・トルコの侵攻に焦土戦術で対抗するようになり、 ゲリラ的に輜重隊を襲うほかは戦わずにトルコ軍を消耗させた。東部ではウズベクの野戦軍と互角に戦っている。 16世紀末にアッバース大帝が即位すると、シャーの私兵的集団であったチェルケス人やグルジア人の「ゴラーム」が台頭し、 またイラン系定住民の兵士からなるトフェングチ(銃兵隊)とトプチ(砲兵隊)が設立された。Kenneth Chaseによると、当初 ゴラームは騎兵で銃兵隊は歩卒だったが、のちにゴラームも小銃を装備するようになり、銃兵隊に馬が支給されるに及んで 両者とも竜騎兵のような存在になったという。 17世紀初頭には10,000〜15,000のゴラーム、12,000の銃兵隊、12,000の砲兵隊が最大で4万近くの常備軍を形成し、 その他に10,000〜20,000のキジルバシと補助兵が召集可能だった。 ペルシャ語は詳しくないので表記が間違ってるかも
32 : >>30 なるほど、サファヴィー朝でも一応初期から火器の使用例は確認されてるのか。 アッバース1世が現れるまで騎兵中心の軍隊であったことには変わりないけど、 それなりに火器も使ってた訳か。まぁ、オスマン帝国ほど火器中心ではなかったのかも知れないけど。
33 : >>31 対オスマン帝国戦争におけるサファヴィー朝のそのような戦い方はタフマースプ1世なんかが良くやってたね。 彼はオスマン帝国との直接的な戦闘はほとんどせず、オスマン帝国による被害を抑えてたからね。 その後、アッバース1世の軍事改革を経て、火器を装備した騎兵も出てくるようになる訳か。
34 : 関連サイト 「近世イスラーム国家のブログ」 http://earlymodernstate.cocolog-nifty.com/blog/
35 : その当時の火縄銃の(破壊力×射程距離×発射速度×信頼性) からしたら、騎兵有利な局面なんていくらでもありえただろうに。
36 : >>25 オスマンも初期以外は暗君ばっかりだぞ。 マフムト2世なんか典型
37 : オスマンだとムスタファ1世やイブラヒムに比べれば誰でも名君
38 : >>36 マフムト2世は別に暗君じゃないでしょ。 まぁ、オスマン帝国の話はスレチだけど、後期も名君と言える人物はそれなりにいるよ。
39 : >>32 盛期のオスマン帝国も数でいえばティマールル・スィパーヒーの騎兵部隊が圧倒的。 戦闘ではカプクル軍団より地味な役割だけど。
40 : >>39 確かにオスマン帝国も中期まではスィパーヒーも多かったからね。 火器の扱いが目立ってはいたけど、騎兵も少なかった訳ではない。 チャルディラーンの戦いでは、火器を装備したオスマン帝国と騎兵中心のサファヴィー朝という対比が良く使われるけど、 大軍を動員できたオスマン帝国とそうでもなかったサファヴィー朝との戦いでもあったしね。 サファヴィー朝が負けたのは、火器の差以外に軍の動員数の差によるところも大きいね。
41 : フランスに負けロシアに負け、発狂して無実の大司教を処刑して批判を浴びイギリスを敵に回しナバリノで大敗しギリシャに負け、さらに属国エジプトに大敗 これは超暗君だろ。
42 : >>41 とりあえず、マフムト2世の話は完全にスレチだからオスマンスレでやって欲しいんだけど。 一応言っておくと、内政は普通に評価できるよ。対外政策も軍事的には敗北が目立つけど、 対エジプトに関してはイギリスの思惑を上手く利用して、彼の死後にはオスマン帝国に有利な方向で解決してる。 それとフランスに負けたっていうのは何のこと?マフムト2世の治世時期にフランスと戦ったのって、 ギリシャ独立戦争ぐらいだと思うんだけど。まぁエジプト事件でもフランスはエジプト側についてはいたけど。 とは言え、正直この話はスレ違いなので、これ以上は下のオスマン帝国スレに移ろうか。 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1336058044/
43 : >>42 そいつは↓を書いたキチガイ。触るな。 6 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2012/07/23(月) 18:34:43.76 O >>3 あくまでもムスリムだけならな。 オスマンは異教徒の重課税や虐殺、強制改宗をしばしばやってるから、かなりの異教徒がアメリカや欧州に逃亡してる。 ユダヤ人なんか迫害が激しいはずの欧州に大多数が逃亡してたし。
44 : 結局オツガイ頼みか。 自分でネタ振れないんだったら、テンプレに挙げている本のレビューでもしたら?>スレ主
45 : スレ主は放り投げで、頭のおかしいのまで入り込んできた。このスレも存在意義なくなったな。
46 : >>1 で挙げた文献についてだが、 サファヴィー朝の概説については、 『成熟のイスラーム社会』、『西アジア史U―イラン・トルコ』を参照すること。 『成熟のイスラーム社会』の羽田正執筆部分がサファヴィー朝の概説となるが、 こちらは、写真などの視覚的資料が豊富に取り入れられていて、イメージがしやすい。 『西アジア史U―イラン・トルコ』では、 羽田正「東方イスラーム世界の形成と変容」がサファヴィー朝関連部分となる。 こちらは、ティムール朝からザンド朝にいたるイラン地域の歴史を扱う。 説明は文章が中心で、内容もやや専門的になっている。 『イスラーム世界の奴隷軍人とその実像―17世紀サファヴィー朝イランとコーカサス』は、 ペルシア語史料に加えてグルジア語史料を用いて、 ゴラーム軍団などでグルジア人が果たした役割を明らかにしている。 >>6 が言うように、多民族国家であったサファヴィー朝の一面を知るのにはよい。 私は、現在、就活中で忙しいため、このスレにほとんど書き込むことができなかった。 その間に、有益な書き込みをしてくださった オツガイ氏をはじめとする方々には感謝を申しあげる。 これから書き込む時間があれば、 サファヴィー朝関連の研究文献を一部なりとも紹介していこうと思う。 これからもこのスレを盛り立ててくださることをお願いします。
47 : 卒論は書いたの?
48 : >>43 ふ〜ん、同一人物なんだ。まぁ、後期オスマン帝国が暗君ばかりというのはともかく、 マフムト2世は内政はともかく対外面では失敗も見られるので、評価が分かれるのもわかるし、 書いてる内容自体も、良く分からない部分もあったとは言えそこまでおかしかった訳でもないから、 普通にレスを返したんだけど。まぁ、どっちみちスレ違いだから、これ以上話を広げるべきじゃないか。 >>46 「成熟のイスラーム社会」は良いよね。記述も分かりやすいし図も多い。 初めて、サファヴィー朝について読むんだったらこれから読むのが良いと思う。
49 : >>14 >当時のペルシアで美少年とされるのはどういう容姿の人なん? カーブース・ブン・ワシュムギール 「背は高からず低からず、肥りすぎず痩せすぎず、色は白すぎず 赤すぎず、 毛は濃すぎず薄すぎず、頭髪は縮れすぎず立ちすぎ ないのがよい。 肉がしなやかで、皮膚が美しく、骨は均整がとれ、酒色の髪、黒 い睫毛、 黒ずんだ目、黒い眉、開いた目、鼻筋が通り、ほっそり とした腰、丸顎、 紅の唇、白い歯、歯並びが良い。」 だそうです。サファヴィー朝の頃も多分これと同じ。
50 : イスマイール1世 美少年→24歳で敗戦→ひきこもりアル中 落差激しすぎだろ 建国10年ちょっとでこの体たらくで よく崩壊しなかったな
51 : 間違えた イスマイール1世 美少年の不敗の神将→24歳で敗戦→ひきこもりアル中 落差激しすぎだろ 建国10年ちょっとでこの体たらくで よく崩壊しなかったな
52 : 中公世界史だと酒色に耽るようになったような印象を受けるが、 「アッバース大王」によると西洋諸国と接触して火器拡充に努めたそうだし 「イスラームから見た世界史」によると隠遁して宗教詩を書いていたそうだ あくまで超英雄としての進路を捨てたというだけで、王様の仕事はきちんと やってたのだろう
53 : >>50-51 まぁ、後任のタフマースプ1世がわりと優秀だったからね。 オスマン帝国とシャイバーニー朝という2つの敵対勢力に囲まれながらも、 それぞれに上手く対処して、サファヴィー朝の維持に貢献した。 それに>>52 も言ってるように、イスマーイール1世自身も敗戦で心が折れたとは言え、 一国の君主としての仕事を完全に放棄した訳ではないようだし。
54 : どんだけしょっくだったんだろうな。
55 : >>54 それまでの成功続きだった人生を思えば、チャルディラーンでの敗戦で落ち込むのも分からなくはない。 10代半ばでサファヴィー朝の建国に成功し、シャイバーニー朝にも勝利したからね。若くして成功者になった訳だ。 その上、宗教集団の指導者として幼い頃から信者の尊敬を集めてた訳で自信家になるのもうなずける。 自信家でカリスマ性に溢れた美少年が、経験したことないような大敗北をしちゃったうえに妻までとられた。 そう考えると、心が折れてしまうのも分かる気がするね。
56 : オツガイよりもさらに年下のガキが一国ひきいてるとかすごいよな。
57 : タフマースプ1世は、長生きしてたら康熙帝のようになっていたのかも
58 : >>56 タブリーズに入城してサファヴィー朝を建国した時、イスマーイール1世はまだ14歳だったからね。 今の僕よりも全然年下だ。そんなにも若い少年が新しい国を率いてるのだから、自信を持つのも良く分かる。 かなりカリスマ性に溢れた天才肌だったんだろうね。 >>57 タフマースプ1世も60代まで生きてるから、充分に長生きしたほうではあるでしょ。 在位期間もサファヴィー朝の中じゃそれなりに長いほうだし。 彼は、イスマーイール1世などに比べると地味だけど、サファヴィー朝の維持に努めた名君だったね。
59 : タフマースプ1世、まだ子供なのに即位することになってやはり国は揉めたが 大人になったら立て直せたというからな。イスマーイール1世は子供なのに 国を建てたがそりゃ普通じゃ無ぇわな
60 : >>59 タフマースブ1世は幼くして即位したにしては頑張ったほうだと思うよ。 ちゃんと成長してからはサファヴィー朝の国力維持に貢献してるし。 子供のうちから国を建てたイスマーイール1世がチートすぎるんだよね。
61 : チャルディラーンの戦いも負けはしたが、相手に大損害を与えた上、 翌年にはタブリーズを奪還して国境を元に戻したわけだからね
62 : >>61 確かにそうだね。 イスマーイール1世はこの敗戦で心が折れてしまったけど、それでもカリスマ性はまだあった訳だ。
63 : 私による拙い訳だが、 『Encyclopaedia of Islam』new edition,vol](1998), pp108-110の 「Tahmasp」の項目から、タフマースブ1世を紹介します。 タフマースブ1世・アボル・ファトフは、シャー・エスマーイール1世の長子で、 ヒジュラ暦919年ズール・ヒッジャ月26日水曜日(西暦1514年2月22日)に、 エスファハーンのシャーハーバードで生まれ、ヒジュラ暦984年サファル月15日 (西暦1576年5月14日)に亡くなった。サファヴィー朝の第2代目の統治者である。 王族の諸王子を、傅育係・保護者(atabeg/lala)のギズィルバーシュのアミールの 後見の下、名目上の州総督とする初期サファヴィー朝の慣行にしたがって、 ヒジュラ暦921年(西暦1515年)に、幼いタフマースブ1世は、 アミール・ハーン・トルクマーンの後見の下、ホラーサーン総督に任命された。 1. ギズィルバーシュの空白期間(ヒジュラ暦930-40年/西暦1524-33年) シャー・エスマーイール1世が亡くなると、ヒジュラ暦930年ラジャブ月19日月曜日 (西暦1524年5月23日)に、タフマースブ1世は10歳で王位を継いだ。 彼の極度の若さは、ディーヴ・ソルターン・ルームルー(前王の遺言の配置の利点 によって、タフマースブ1世の傅育係、「アミールの中のアミール」となった)に 率いられたギズィルバーシュたちが、権力を掌握し、彼ら自身を事実上の国家の 統治者とすることを可能にした。ライヴァルのギズィルバーシュの諸部が、 権力のために戦い、内戦が続いたため、ヒジュラ暦940年(西暦1533年)まで、 タフマースブ1世は、反抗的なアミールたちに対して自身の権威を主張することに 成功しなかった。 強力な指導者ウバイドゥッラー・ハーンに率いられたウズベグ諸部は、 サファヴィー朝のこの軍事的弱体ぶりを利用して、ヘラートに(3度)包囲攻撃をし、 ヒジュラ暦931年、940年(西暦1524年、1533年)に(2度)そこを占領した。 タフマースブ1世による、ヒジュラ暦935年ムハッラム月11日(西暦1528年9月25日)の ジャームの戦いでのウズベグ諸部に対するめざましい勝利は、サファヴィー朝に 小康を与えたが、サファヴィー朝国家の東北辺境に対するウズベグの脅威は 去らなかった。
64 : スレ主は慶大生かw
65 : >>63 おぉ、翻訳ありがとう。やはり、即位したばかりのタフマースブ1世はまだ若かったので、 クズルバシュたちをまとめることができず、勝手に内戦するのも許しちゃうような状況だったのね。 まぁ、10代ですでにクズルバシュをまとめ、国を建てることができたイスマーイール1世がすごすぎるだけで、 タフマースブ1世もそれなりに優秀だと思うけど。脅威が完全に消え去った訳ではないとは言え、 ウズベクのシャイバーニー朝にも勝利した訳だしね。東はシャイバーニー朝、西はオスマン帝国という、 2つの脅威に囲まれてたにも関わらず、成人してからはちゃんと国をまとめサファヴィー朝に維持に成功した。
66 : >>63 の続きです。 2. 落ち着いたシャー・タフマースブ1世(ヒジュラ暦940-982年/西暦1533-1574年) 40年以上の間、タフマースブ1世は、自身の権威に対する、ギズィルバーシュのアミールたちからの さらなる挑戦なしに統治した。しかし、サファヴィー朝国家の存続を脅かす外患は続いた。 ウバイドゥッラー・ハーンの死(ヒジュラ暦946年/西暦1539年)で、東北からの脅威はしばらく弱まったが、 西・西北からのオスマン帝国の脅威は、スレイマン1世即位後増大し、ヒジュラ暦940-61年(西暦1533-53/54年)に、 ペルシアへの4度の全面的な侵攻が行われた。これらの軍事行動では、オスマン軍は、ギズィルバーシュの裏切りや、 シャーの兄弟アルガース・ミールザーの裏切りに助けられた。 タフマースブ1世は、軍司令官として、常に不利な条件にあり、彼が配置できる軍は、主要な敵オスマン軍や ウズベグ軍に対して数の面で劣勢であった。そのため、彼は、攻撃に出ることがほとんどできず、 オスマン軍の侵攻を鈍らせるために焦土戦術の採用を余儀なくされた。 たとえば、スレイマン1世の第3次遠征(ヒジュラ暦955年/西暦1548年)、第4次遠征(ヒジュラ暦960/西暦1553年)では、 タフマースブ1世は、タブリーズとオスマン帝国国境の間の全ての地域を荒地にし、タブリーズの住民はカナートを遮断した。 その結果、食糧や水を絶たれたオスマン軍は、当該地域の恒久的な占領ができず、 サファヴィー朝軍は、オスマン軍がアナトリアの冬営地に撤退したときにそこを奪回した。 しかし、タブリーズの、オスマン軍の攻撃に対する脆弱性への認識から、タフマースブ1世は、首都をガズヴィーンに移転した (ヒジュラ暦955年/西暦1548年)。
67 : >>66 引き続き、ためになるなぁ。タフマースブ1世はオスマン帝国にバグダードを奪われたりしたけど、 焦土作戦なんかを上手く利用して、オスマン帝国にもそれなりのダメージを与えてた印象だ。 まぁ、結果的にはオスマン帝国に勝利することはできなかったんだけどね。 とりあえず、オスマン帝国の脅威をしのぎサファヴィー朝を延命させることには成功した。 これを読むと、弱いながらもオスマン帝国の脅威に上手く対処したタフマースブ1世の様子が良く分かるね。
68 : オスマントルコのペルシア戦役ってローマとササン朝みたいなところがある
69 : >>63 、>>66 の続きです。 アマスヤ協定(ヒジュラ暦962年/西暦1555年)は、ペルシアに、40年間断続的に続いた オスマン帝国との戦闘から、20年の小康を与えた。協定の条項の下で、グルジアは、双方の 間で「勢力圏」に分割され、西北のオスマン・サファヴィー国境は、サファヴィー朝による 大規模な領土の譲渡なしに定められた。サファヴィー朝に有利な状況において、 これらの条項は、オスマン帝国スルタン(サファヴィー朝に決定的な敗北を与えられなかった) が感じた挫折の明らかな証拠である。2つの前線で強力な敵に囲まれ、ギズィルバーシュの アミールたちや、肉親の反逆に苦しみながらも、サファヴィー朝国家を守ることにおける タフマースブ1世の成功は、注目すべき業績として見られるべきである。タフマースブ1世が 「戦争の好みがなかった」とか、「勇気がほとんどない人である」などというダレッサンドリー D'Alessandriの非難は無視すべきである。わずか14歳のときに、ジャームの戦いで サファヴィー朝中央を指揮した。自身の部下が戦場から逃げ出した後、敗北を勝利に変えたのは、 彼の英雄的行為であった。 王室の権威の再主張(ヒジュラ暦940年/西暦1533年)は、国家の主要な官庁において効果があった。 アミーロル・オマラー(ギズィルバーシュ軍の総司令官を意味する)の官庁はその場からなくなり、 アッバース1世が即位したときには、アッバース1世によってつくられた任命のリストに記録されていない。 その代わりに、「クールチーバーシー」の肩書がますます用いられた。「ヴァキール」 (世俗的・精神的権威によって、「シャーの代理人」を意味する)の肩書も使われなくなっていった。 政府におけるギズィルバーシュの影響力を弱めることの直接の結果として、 ヒジュラ暦942年/西暦1535-6年に、タフマースブ1世によって「ヴァズィール」に任命され、 ヒジュラ暦957年/西暦1550-1年まで官職にあったガーズィー・ジャハーン・ガズヴィーニーの 経歴のように、官僚のトップ、「ヴァズィール」は、大きな権限をもった。
70 : >>63 、>>66 、>>69 の続きです。 ヒジュラ暦10世紀/西暦16世紀半ばごろまで、サファヴィー朝国家は、本質的に、 トルコ系・ペルシア系の共同統治であった。しかし、ヒジュラ暦947-61年 (西暦1540-1〜53-4年)に、タフマースブ1世は、グルジアに一連の遠征を行い、 そこから大勢の捕虜(主に女性や子供)を連れてきた。 ヒジュラ暦961年/西暦1553-4年の遠征だけで、彼は、多くのグルジア貴族 (アズナーヴラーン)を含む3万人以上の捕虜を連れて帰った。さらに、 サファヴィー朝の南カフカース遠征によって、アルメニア人やチェルケス人が ペルシアに連れてこられた。これらの捕虜やその子孫は、サファヴィー朝の 官僚・軍人において集合的に「第三勢力」となる民族的要素をペルシアにもたらし、 やがて、サファヴィー朝国家の全体的な権力のバランスを作り変えた。 ヒジュラ暦982年/西暦1574年、タフマースブ1世が、2ヵ月間熱病(おそらくチフス) にかかり、アミールたちの間で再び争いが生じたときに、この「第三勢力」の影響は 十分に示された。タフマースブ1世の死が近づくと、諸王子の野心的なグルジア人・ チェルケス人の母は、各自の子の継承を確保しようとして陰謀を企てた。 ヒジュラ暦984年/西暦1576年に、タフマースブ1世が亡くなった後、陰謀は激しさを増した。
71 : なるほど 西晋も司馬炎が統一後、国の基礎を固めきらないうちに 政務は離さないまでも別人のように酒色におぼれたが、 次代の司馬衷が「米がなければ肉を食え」な馬鹿ではなく タフマースブ1世ぐらいのやり手だったら 五胡十六国の混乱はなかったかもしれない。 その手のタラレバは多そうだが。
72 : >>60 調べたら52年の長期政権だったのね・・・
73 : タフマースブ1世はインドを逐われてきたムガール帝国第二代のフマーユーンの復位に協力したりもしてるね。
74 : >>72 その挙句嫁はんに殺されたってのが何とも・・・ そこらの熟年離婚みたいな関係性や 心理状態とはまた違ううにゃろな
75 : >>63 、>>66 、>>69-70 の続きです。 3. タフマースブ1世の性格 シャー、タフマースブ1世の包括的な伝記はなく、我々がもっている彼の性格についての史料は、 しばしば、彼をけなすものであり、若干矛盾している。ペルシア語史料も西洋側史料も、 平時や戦時における重要な技量によって彼を信頼しようとしない。彼は、宗教的に偏狭な人間、 貪欲な人物、信心深い人間、あるいは酒色に耽る人間、無慈悲な人物として描写されている。 貪欲さへの非難は、よく証明されている(シャラフォッデーン・ベドリースィー『シャラフ・ナーメ』、 『A chronicle of the Carmelites in Persia』2vols(London,1939)を参照)。 タフマースブ1世が、イスナー・アシャリーを熱心に信奉していたことを示す史料もある。 ヒジュラ暦970年/西暦1562年の、イギリス人アンソニー・ジェンキンソン(イギリスとペルシアの 貿易を促進させようとして、エリザベス1世の書状をタフマースブ1世に届けるために、 スカンディナヴィア北部からアルハンゲリスク、アストラハン、カスピ海、シールヴァーンを 経由してサファヴィー朝の宮廷に至った)の接見は、異教徒に対するタフマースブ1世の態度をよく示している (Hakluyt Society,『Early voyages and travels to Russia and Persia』,London, 1886)。 ヒジュラ暦951年/西暦1544年、ムガル朝皇帝フマーユーンが亡命者としてペルシアに来たとき、 タフマースブ1世は、ペルシアでの保護やサファヴィー朝の軍事的援助の代価として、 フマーユーンにイスナー・アシャリーのシーア派教義を信奉させた。
76 : >>63 、>>66 、>>69-70 、>>75 の続きです。 ヒジュラ暦939年/西暦1532-3年、タフマースブ1世は、すべての「禁じられた行為(マナーヒー)」 からの有名な後悔(タウバ)をした。ヒジュラ暦963年/西暦1555-6年、 「大アミール」たちや廷臣たちは、要請に従うことを義務づけられ、 彼らの例は、大部分の民衆が従ったと言われる(『Ahsan al-tawarikh』、『Tarikh-i‘Alam-ala-yi‘Abbasi』)。 後半生における宗教面でのこの厳格さは、二つの方法で、詩人に対する彼の態度に影響を与えた。 彼は、詩人たちを酒飲みとして見なし、彼らがもはや信心深い人であるとは考えなかった。 その結果、彼らは王室の支持から脱落した。第二に、彼らが時折の詩(ゲトエqet‘e)や シャーや王族を讃える頌詩(ガスィーデqaside)を書くと、 タフマースブ1世は、彼らに、「時間をイマームを讃える詩を書くために捧げよ」と言った (『Tarikh-i‘Alam-ala-yi‘Abbasi』。サファヴィー朝文学全般についてのすぐれた説明については、 本事典の項目「サファヴィー朝V 文学」を参照)。
77 : キジルバシュってほとんどトルクメン系部族だったらしいけど、ジャライールなどのモンゴル系部族は征服されて消滅したの?
78 : >>77 記録に現れにくくなったからといって、消滅したわけではないだろう。 杉山正明、北川誠一『大モンゴルの時代(世界の歴史9)』(中央公論社、1997年)には、 「大局においてはトルコ・モンゴル系の遊牧軍事力を擁するものの優位は変わらず、 アゼルバイジャンを握ったジャライル朝を皮切りに、カラ・コユンルやアク・コユンル をへて、ついに1500年、トルコ・モンゴル系の騎士団を基盤に、シーア派の信仰を かかげるサファヴィー朝の教団国家が成立する。」(237頁)とある。
79 : >>69-70 >>75-76 大変、参考になるなぁ。タフマースブ1世の治世におけるグルジア人の進出なんかは、 後のサファヴィー朝の歴史に大いに影響を残したね。 その一方で、彼は宗教的に厳格な性格でその点が史料において批判されたみたいだけど。 まぁ、それでもタフマースブ1世はサファヴィー朝の中では比較的優れた君主だったとは思う。 >>72 タフマースブ1世はサファヴィー朝の中じゃ最も在位期間の長い君主だからね。 イスマーイール1世やアッバース1世に比べると地味だけど、堅実に国を発展させた名君だと思うよ。 >>73 フマーユーンに対するタフマースブ1世の協力は、ムガル帝国の文化に影響を与えたりもしたね。 ムガル帝国の絵画はサファヴィー朝のミニアチュールの影響を大いに受けてるし。 >>74 まぁ、この後からサファヴィー朝でも宮廷内での争いが激しくなり、女性の政治進出も進んだからね。 このような事態は隣国のオスマン帝国などでも見られた現象だ。
80 : >>63 、>>66 、>>69-70 、>>75-76 の続きです。 タフマースブ1世は、ヒジュラ暦984年/西暦1576年に亡くなった。彼の治世は22年(太陽暦) に9日不足している。サーサーン朝の統治者シャープール2世(在位:西暦309-79年)を除くと、 ペルシアの王で長く在位した者はいない。 『The Cambridge History of Iran』Vol.6において、H.R. Roemerは、「タフマースブ1世は、 『毒の結果として』亡くなった…『これが事故によるものか陰謀によるものなのかは証明されていない。』」 と説明している(248頁)。『Ahsan al-tavarikh』は、主治医アブー・ナスル・ギーラーニーが治療の過程で 反逆(kheyanat)の罪があり、死に追いやられた、と説明する(464頁)。 『世界を飾るアッバースの歴史 Tarikh-e‘alam-ara-ye‘Abbasi』は、 アブー・ナスル・ギーラーニーは、処方のほとんどが成功する医師として宮廷で良い評判があった、と説明する。 タフマースブ1世が病気になったとき、彼はいつも看護をしたが、 「彼は愚かにも、他の医師に対する自己の優越した地位の承認を求めた。その結果、タフマースブ1世が 亡くなったとき、アブー・ナスルは、自身が処方した治療での反逆(kheyanat)を非難され、 王の護衛隊によって宮廷で死に追いやられた。」
81 : >>80 何度も翻訳ありがとう。 タフマースブ1世って毒で死んでるんだけど、これが事故か陰謀かははっきりしてないのか。 前に毒殺って書かれてたのをどこかで読んだんだけど、一応は事故の可能性もあるのかな。 それにしても、彼の主治医が彼の死後に反逆罪で殺されたなんていうエピソードがあったのは知らなかったなぁ。 アブー・ナスル・ギーラーニーはちょっと野心が出てしまったせいで失脚しちゃった医者なのね。
82 : >>63 、>>66 、>>69-70 、>>75-76 、>>80 の続きです。 タフマースブ1世には、13人の男子がいた。モハンマド(のちのソルターン・モハンマド・シャー。 在位:ヒジュラ暦985-96年/西暦1578-88年)、エスマーイール(のちのエスマーイール2世)、 ヘイダル、ソレイマーン、モスタファー、ジョネイド、マフムード、エマーム・ゴリー、アリー、 アフマド、モラード、ゼイノルアーベディーン、ムーサーである。そして、おそらく13人の女子がいた (史料中に名前がある8人は、ゴウハル・ソルターン・ベイゴム、パリー・ハーン・ハーノム、 ハディージェ・ソルターン・ベイゴム、ゼイナブ・ベイゴム、マルヤム・ソルターン・ベイゴム、 ファーテメ・ソルターン・ベイゴム、ショフレ・バーヌー・ベイゴム、ハーネシュ・ベイゴム)。 (R.M. Savory執筆) 以上が、『Encyclopaedia of Islam』new edition,vol](1998), pp108-110の 「Tahmasp」の項目にあるタフマースブ1世の記事です。
83 : >>82 これでタフマースブ1世に関する記事は終わりなのか。 すごく参考になった。ありがとう。 それにしても、タフマースブ1世は随分子だくさんだなぁ。
84 : >>82 >>83 なんで 「Tahmas'p'」が「タフマース『ブ』」なん?
85 : >>84 濁音b、dは語末に来ると清音化し、p、t音になることもある。 アラビア語、ペルシア語の発音に従った表記法では、 語末の濁音b、dは「ブ」、「ド」で表記されるが、 トルコ語の発音に従った表記法では、 b、dなどの濁音は清音化してp、tで表記されることが多い。
86 : >>78 チンギスハーンがモンゴルを統一したときに、一部の部族は部族間抗争に敗れた末に 有力部族間に分散して隷属させられていたのを、ハーンの許可で再結集させたりしたそうだが イランにいたジャライール部やスルドゥス部もキジルバシに敗れた後 そういう運命にあったりしなかったんだろうか? 少なくともシーア派にはなっただろうけど・・・
87 : 私による拙い訳だが、 『Encyclopaedia Iranica』vol[(1998), pp628-636の 「ESMA‘IL T SAFAWI」の項目から、エスマーイール1世を紹介します。 エスマーイール1世、シャー・アボル・モザッファル・ベン・シェイフ・ヘイダル・ベン・シェイフ・ジョネイドは、 サファヴィー朝の創設者で、ヒジュラ暦892年ラジャブ月25日/西暦1487年7月17日にアルダビールで生まれ、 ヒジュラ暦930年ラジャブ月19日/西暦1524年5月23日にタブリーズ近辺で亡くなった(『Habib al-siyar』volW, Tehran, p.428; MS London, British Library, Or.3248, fol.304a; Qazi Ahmad,fol.211b; Moztar,ed.,p.608)。 彼の生没年は、年代記『tolu‘-e nayyer-e Shah Esma‘il』、『khosrow-e din』にそれぞれ記録されている。 @.略伝 エスマーイール1世の治世は、イラン史において最も重要なものの一つである。この理由は二つある。 第一に、彼の即位(ヒジュラ暦907年/西暦1501年)の以前、8世紀半前のアラブによる征服以来、 イランは独立して存在しておらず、アラブ人のカリフ、トルコ人のスルターン、モンゴル人のハンの 継承によって統治されてきた。この時期に、唯一ブワイフ朝は、イラン人の統治者の下でイランの 大部分を統治した(ヒジュラ暦334-447年/西暦945-1055年)。 第二に、彼の行為の一つ、イスナー・アシャリーのシーア派教義を新たに創設される国家の 公式の宗教にしたことは、その後のイラン史とって重大な結果となった。イスラーム諸国家の歴史において 先例のないこの徹底的な段階は、それが彼の臣下を奮起させた過激なシーア派の「活力のあるイデオロギー」 (『Tadhkerat al-moluk』)であることで、論理的であった。また、それには、初期サファヴィー朝国家を 近隣の強力なスンナ派国家(西方のオスマン帝国、東方のウズベク諸部)と区別する政治的な利点もあった。 しかし、それは、イランの政治体に、「世俗」の象徴であるシャーや政府と、宗教指導者 (全ての世俗的政府は非正統的であると考え、神政政府を究極的な目標とした)との実際の論争の確実性をもたらした。
88 : >>87 おぉ、今度はイスマーイール1世か。参考になるなぁ。 それにしても、何か記述がイラン寄りだね。 イスマーイール1世がイラン史において重要な理由として、 1つ目に挙げられてる理由の部分の記述は、 サファヴィー朝をイラン系国家として認識してるように読めるからね。 まぁ、「Encyclopaedia Iranica」の項目だから当然と言えば当然なのかも知れないけど。 アゼルバイジャン辺りだと、こういう記述に異を唱える人も多そうだ。
89 : >>87 の続きです。 サファヴィー朝の出現 シャー・エスマーイール1世は、当初はギーラーンの地元のスーフィー教団の指導者たちによって行われる穏健な宣教を通して、 最終的には東アナトリア、南カフカースなどのトルクマン諸部族のサファヴィー家支持者による戦闘や革命活動を通して、 2世紀にわたるサファヴィー家の昇進の絶頂として権力を得た。創始者シェイフ・サフィーヨッディーン・エスハーグ・アルダビーリー (ヒジュラ暦700-01年/西暦1301年に、かつては「ザーヘディー教団」として知られた教団の指導者に就任した)を名祖とする サファヴィー教団は、教主ジョネイドの治世(ヒジュラ暦851-64年/西暦1447-60年)に世俗権力(saltanat-e suri) を獲得する野心を示し、ジョネイドは、「世俗的権威」を表す称号「ソルターン」を採用した最初のサファヴィー教団教主となった。 当時、イランは、カラ・コユンル朝のジャハーンシャー(アゼルバイジャン、「アジャムのイラク」、「アラブのイラク」、 ファールス、オマーン海岸、ケルマーン、サリール、アルメニア、グルジア、シリアとルームにいたる全ての土地を統治した)、 ティムール朝のアブー・サイード(トランスオクシアナ、カシュガル辺境にいたるトルキスターン、キプチャク草原、カーブル、 ザーブル、マーザンダラーン、「アジャムのイラク」にいたるホラーサーンを統治した)、マレクシャー・ヤフヤー・スィースターニー (スィースターンの伝統的な統治者)によって分割された。ジャハーンシャーは、ジョネイドに軍を解隊すること、 アルダビールから出ること、ジャハーンシャーの領土から去ることを命じ、自分はこれらの要求に応じないと脅したので、 アルダビールは破壊された。
90 : >>89 翻訳ありがとう。 ジュナイドは白羊朝のウズン・ハサンと一時的に協力したりして、 サファヴィー教団の勢力拡大にわりと貢献してるんだよね。 まぁ、僕もジュナイドについては実はあまり良く知らないんだけど。
91 : >>87 、>>89 の続きです。 ジョネイドは逃亡し、最終的にジャハーンシャーのライヴァルで、アクコユンル朝部族連合の指導者 ウズン・ハサンの保護を受けた。彼はそこに3年間滞在し、ウズン・ハサンの姉妹ハディージェ・ベイゴム との結婚により同盟関係を築いた。ヒジュラ暦864年ジュマーダー第一月/西暦1460年3月、ジョネイドは、 シールヴァーンシャー・ハリーロッラー軍との戦闘で殺害され、ヘイダルが跡を継いだ。ヘイダルは、 ハリーメ・ベイギー・アーガーすなわちハリーメ・ベイゴム(アーラムシャー・ベイゴム、マルタとしても 知られる)との結婚によってアクコユンル朝との同盟関係を続けた。 ウズン・ハサンの妻でハリーメ・ベイゴムの母デスピナ・ハートゥーンは、トレビゾンド帝国の最後から2番目の キリスト教徒の皇帝カロ・ヨハンネスの皇女であった。父ジョネイドと同様に、ヘイダルは、宗教上の権力 に加えて世俗権力を求めた。「彼の秘めたる大志は、領土と臣民に対する支配権をもつことであった …精神的には、預言者やシャイフたちの例に従い、宗教上の指導や信仰の守護の道を歩んだ。 外見上は、彼は王者の流儀で玉座に座る指導者であった。」(エスキャンダル・ベイグ)。
92 : >>91 イスマーイール1世の記事なのに前半はジュナイドの説明で占められてるのね。 まぁ、彼の時代にサファヴィー教団は勢力を広げた訳だからね。当然と言えば当然か。
93 : >>87 、>>89 、>>91 の続きです。 イラン全体の政治情勢の変化によって、ヘイダルの政治的野心は、やがてサファヴィー教団と アクコユンル朝の同盟関係が解消されることを意味した。ヒジュラ暦872年/西暦1467年、 ウズン・ハサンは、カラコユンル朝の指導者ジャハーンシャーを敗死させ、カラコユンル朝帝国を滅ぼした。 次の年には、アゼルバイジャンに進軍したティムール朝の王子アブー・サイードも敗死させた (『Matla‘-e sa‘deyn』、『Habib al-siyar』)。今やウズン・ハサンは、ホラーサーンを除くイランの 唯一の支配者となったが、彼の死(ヒジュラ暦882年/西暦1478年)までサファヴィー教団との 「打算的な婚姻関係」は解消されなかった。しかし、彼の死後、アクコユンル朝帝国は、支配権をめぐる 部族長の争いによって解体した。ヘイダルとその闘志溢れるスーフィーの門弟は、今や評価される軍事力であった。 夢でイマーム、アリーからの教示を受けたヘイダルは、門弟のために「ヘイダルの帽子(taj-e Heydari)」 として知られる独特な被り物を考案した。それは、深紅色あるいは緋色の棒を載せた12の襠 (シーア派十二イマーム派の12人のイマームを賛美する)のある帽子あるいはターバン(kolah)であった (『Habib al-siyar』)。その結果、彼らは「赤い頭(ゲゼルバーシュqezelbash)」として知られるようになり、 「ゲゼルバーシュ」の語は、オスマン人は嘲笑の語として用いたが、ゲゼルバーシュは誇りの象徴として用いた。
94 : >>93 父ハイダルの時代の話か。 彼の時代に有名なクズルバシュが成立したね。 それにしても、イスマーイール1世の記事なのに、 前半は祖父や父の話が多くを占めてるのか。
95 : なんか文章が非常に見にくいんだよなぁ。 もう少し改行が欲しいところ。
96 : サファヴィー教団はスンニ派からシーア派に宗旨替えした無節操教団 宗旨替えの動機が教主の座をめぐる争いに勝利するため シーア派遊牧民を味方につける必要があったからってのは酷すぎるわ ジュナイドはルネサンス期のローマ法王顔負けの生臭坊主(イスラムに厳密には聖職者はいないけどさ)
97 : >>96 まぁ、確かにジュナイドが結構俗物的な宗教指導者っだたのは否めないね。 だからこそ、サファヴィー教団は彼の時代に勢力を伸ばすことができたんだし。
98 : スレ主の努力は認めるし、内容が濃いのも分かるが、 こういうことやるんだったら2chのスレじゃなくて、ホームページに まとめた方がずっといいと思うんだが。 とにかく読みにくくてしょうがない。
99 : >>98 数多あるスレ主が立て逃げしているスレよりはるかにマシなんだが。 とりあえずなんか書いて話題を広げられる人を待つっていうことなんだろ。
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