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2013年06月哲学409: 哲学草庵「時空」 (127) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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哲学草庵「時空」


1 :2011/08/15 〜 最終レス :2013/03/02
哲学草庵時空にようこそ。
この草庵では主に哲学に関する話題を扱います。
基本的なルールとしては
お互いの人格を尊重すること
テーマはそのつどそのつど決めて貰って結構です。

2 :
念願のスレが立ちました。
このスレの空間的イメージとしては、茶道の小座敷
千利休の待庵をイメージしていただければよいと思います。
礼儀作法や根本的思想(主に仏教)などもそれに準じます。


3 :
つまり、最低限、仏教の教養が無くては、この草庵には入れない訳です。
ただ、仏教の教養をひけらかす場ではありません。
また西洋思想の一切についても話題にしてもらって結構です。
あくまで、仏教的世界観に基づき、人格形成をしていくことがこの草庵の目的です。


4 :
空の思想の入門レベルとして無の思想があります。
千利休の茶室は無の思想によって成立していたと言われます。
無に帰入し、無から出る。
つまり、草庵での体験とは生まれ変わりの体験でもあるべきなのです。
各々、生まれ変わるために、この草庵を利用してください。
自己を主張する場ではなく、自己を解体し、新たに創造する場なのです。

5 :
ちなみに、仏教的に見れば「人格」と言う固有のものはありません。
すべては無常ですので、刹那刹那に人格は変化していきます。
人格は主に、言葉によって影響を受けます。
ネガティブな言葉を投げかければ、ネガティブな人格形成がなされます。
この草庵を利用する方はそういう言葉の機能を理解していることが前提です。
そして相手に思いやりを持つこと。
自分の放った言葉がどのような影響を持つかよく理解しておくこと。
相手の人格を尊重するというのは、現在のその人の人間性を尊重すると言うよりは
相手の無限の可能性を尊重すると言うことでもあります。
なので、スレタイにある「人格の尊重」というのはちょっと違う。
「相手の無限の可能性を尊重する」に訂正しておきます。



6 :
「念仏を唱えれば誰でも救われる」という親鸞の教えは
仏教とは無縁の邪道なものなんでしょうか

7 :
相手を悟りを開いた究極の仏として遇すること。
もちろん、己自身に対してもそうです。
社会的属性を忘れること。
「私はしがないサラリーマンだ」と言う自我意識に固まっている人がいたとして
この草庵では、その意識は忘れてもらいます。
残念ながら、利休の茶室のごとき、そのための物理的な装置は無いので
ひとつの心がけとしてそういうものを持ってもらう。
おそらく、利休の茶室は、その特殊な空間において、作法に集中す売ることで
一種の催眠状態(忘我の境地)を作り出し、無意識の創造性を発揮すると言うそういう仕掛けになっていると思います。

8 :
>>6
ようこそおいでくださいました。
釈尊はあらゆる宗教を無碍に否定するなとおっしゃいました。
というのも、救いにはあらゆる方法があるからだと思います。
と、同時に、念仏呪術を否定するようなことを述べたのも釈尊です。
神の存在に対しても否定的でした。
仏教とは相対主義の立場を取ります。阿弥陀仏で救われる人は実際に阿弥陀仏で救われますし
神や仏を信じることが出来ない人もいます。
釈尊は親鸞聖人の教えを全否定することは無いでしょうが、全肯定もしないのではないでしょうか

9 :
そう、最初は頑張って自演しないとな。

10 :
>>9
ようこそおいでくださいました。
この草庵に書き込む際には出来るだけリラックスして、なおかつ一期一会の草庵に参加する覚悟を決めて
書き込んでください。
書き込みは、丁度、静かな湖畔に小石を投げ込むようなものです。必ず波紋が生じます。
ひとつの言葉を発するのにも、全身全霊の覚悟が必要と心得ます。


11 :
このスレッドはもしかすると100レスも持たずに死滅するかもしれません。
それくらい、繊細な場所です。
書き込む前によく心を整えることが肝要かと思います。


12 :
最初は?

13 :
>>1
もう随分思想から離れてしまったけどいったい思想というものがいかような
ものかもう一度思い出してみます。僕は今思考をストップしてます。
何故なら私はある日「思想の血」をみたからです。「思想の血」はある日突然見えました
私は「思想の血」を見てから考えることを止めて言葉の綾をを紡いでいる本を読まなくなりました
僕はつい10年前20代のころは随分熱心に思想をやりました
哲学を読みしましたし文学作品も読みました。ただもともと僕には思想はあわなかったのです
僕は小説など読んでる途中で自分の空想の方が強くなって途中で読むのを止めてしまったり
途中で思想や哲学の言葉の綾のなかで溺れてしまい違う雑念が入ってきて何度も読み返したり読むのに時間が掛かりましたし
本を読むことで日常に人がいなくなっていったりしました。本当は僕は本を読むべきじゃなかった
今はそう思います。読んだことでいろいろなものを失ってきしデメリットが多すぎた
そして苦しい時間が訪れました。「思想の血」がやってきたのです。この時期僕は寝込むことが多かった
続きはあとで書きます

14 :
>>13
ようこそいらっしゃいました。
闇月さま。
あらゆる世界は思考から生まれます。
思考を完全にストップすると言うのは、禅の悟りの境地とも繋がります。
あなた様の書き込みを楽しみにしております。

15 :
仏教は哲学ではありません
哲学は宗教ではないからです


16 :
「思想の血」が訪れて以来多少現実と妄想の区別がつかないことがありました
しかしこの一時期は今でもあたまがおかしくなったとか脅迫神経症という
医学の大別のなかにいれられてみられたくなかった。僕はあのころもちゃんと
現実だったし見えたことが妄想という「無」きものだったとは考えたくないのです
それはちゃんと現実とリンクしたものだったと今でも思ってます
「思想の血」とはつまりは優しさとか切実な感情を持った人が簡単に
殺されてしまう人間がいままで強い情念で感動してきたものが
残酷にも力のまえに闇のなかに葬りさられてしまうということとイコールの
ことなのです。それを詳しく表現することはできませんがちょうど
アウシュビッツ以降詩を書くことは野蛮な行為であるとベンヤミンがいったことと
イコールだと思います
すみません。これは僕が実際目にしたフレーズではなくて人づてに聞いたものです。やはり僕は大量の本に触れていない
私は「思想の血」をみて以後まったく思考をはたらかすことを止めました
非常に苦しかった。あのころは親も心配していたしおかしくなったと思われて
いて一度精神科にも連れていかれました。これが思考の顛末でした
本当はもっとスレに即したことをいいたかったのですが話が逸れてしまいました
それでは僕もときどきこのスレで発言したいのでそのままお続けになってください。「思考」について書きたかったのです
それでは失礼しました

17 :
>>1さん
「思想の血」についてですが優しさとか感動をもった人間を殺してしまうというより
優しさとか感動を「わかった」うえでわかった人間がその人の優しさを残酷に殺してしまうといった方が
近いと思います。

何度もすみません

18 :
ありがとうございます。
また、度々お話をお聞かせください。
我々が見たり聞いたりするもの。それは我々の思考が生み出しています。
例えば「人間」ですが、これも思考の産物です。人間と言う概念を見ているだけなのです。
と言うことは、幽霊と人間に質的な差はないということになります。
ですから私はよくお釈迦様とも時空を超えて対談をすることがあります。



19 :
どうして仏教者は「仏教は哲学だ!」等と言い出すのですか?
胸を張って「仏教は宗教だ!」と言えないのですか?
哲学にコンプレックスを持ってるワナビみたいで
とても惨めに見えてしまうのですが?

20 :
>>19
仏教といっても、様々だからでしょう。
宗教の定義が「自己を超えた絶対的存在を信奉すること」であるならば、戦国時代の一向宗などは
宗教集団だと思いますが、禅宗などはその定義に当てはまるかといえば微妙ですし、
法相宗などは、現代で言う深層心理学に近いと思います。
西洋哲学でもショーペンハウエルの思想は、形を変えた仏教思想とも言えますし
ひとくくりには出来ないと思います。



21 :
浄土真宗と思想について語りましょう
わたしの母方の家は飛騨古川にあって浄土真宗西本願寺派です
また仏壇は本で調べると大谷派のものです。仏壇には南無不可思議光如来の文字が左に位置してます。
不可思議は数のうえで無限のまえの数えうる数字になります
真宗についてはさわりの部分までしかわかりません。また認識しているその思想は私が勝手に解釈した
ものになります。わたしは「思想の血」をみたので本をもう読みません
ですからもしかしたら親鸞の思想とはかけ離れているかもしれない、
ではまたレスします。真宗の思想のはなしをしましょう

22 :
こんばんは。
真宗について詳しい知識は無いので余り語れませんが、先祖伝来の思想とは
案外、自分の血肉になっているものだと思います。
「宿業」と言いますか。
我々が見ている世界は、そういった業の世界。
ショーペンハウエルなどが言う「意思と表象の世界」
そういうことに気が付いていくことが一つの「さとり」かと思います。
業とは言わば映画のフィルムみたいなもの。
そして我々の人生とは、そのフィルムが映写化されたものだとも言えます。
仏道修行とは言わばその映画を編集している「映画監督の視点を持つ事」ともいえるかもしれません。

23 :
例えばですよ。北野武の映画の中には「死への願望」が見て取れると言われますが
実際、武さんは、バイク事故を起こしたりしていますね。
おそらく、武さんは映画を作らないと、「死の美学」を実際の、生身の自分で演じてしまうところがあると思います。
無意識なので、自分で明確に自覚していた訳ではないと思いますけどね。
ただ、そういった衝動は映画を作ることで、ある程度、満たされている訳です。
もちろん、単に自己満足で終わらないのは、あらゆる人間の中にある暴力性や自死の願望を同時に満たしてあげている面もあるからですね。
それが、映画という表現手段が無い場合は、空想だったりで終わるわけですが。
例えば、上田宗固などの芸術家も、戦国の世が終わると、武士としての情熱を作庭の中に生かしています。
それが宗固流茶道として現代にも伝わっていますね。この辺はユングやフロイドなども盛んに研究しておりますし、
皆さんも十分承知と思いますが。
一つには芸術による業の浄化ということも大事な視点かと思います。
もちろん、芸術が新たな業を作り出すという面もありますが、芸術を鑑賞する人間はそこに一つの満足を見出すわけですからね。
なにか癒されるということがあるんだと思います。



24 :
余り言われないですが、北野映画には「侍の美学」というのも多分に含まれていると思います。
洗練された暴力といいますか。
そういうものへの憧れというのが、我々日本人の無意識の中にはあるのではないかと思います。
それで、何かこう、不思議な「癒し」というものを彼の映画を見ると感じてしまうのではないでしょうか。



25 :
超人思想
私はニーチェが大好きである。
と言うか超人思想が好きだと言う面もあるが
北斗の拳とか、グラップラーバギ、シグルイなどを読むと、無意識の奥底からマグマのような情熱が
メラメラと湧き上がってくる。
「魔人への意志」と言うかね。
ただ、それと、社会生活の矛盾と言う問題が常にあるよね。



26 :
>>1
映画のことがお好きなのですね
邦画というものは洋画にない四季にあわせた情緒を強調した趣がありますね
北野映画にもそういう側面がある
構成はアメリカ映画に比べるとかなりいい加減なものが多い
またお話をお聞かせください

27 :
映画は嫌いじゃないですね。
ところで、さっき嫌な夢を見たんですよ。
それは信頼している人に裏切られる夢だった。
どうも人間の苦しさの主要な原因と言うのは内面にある。
阿弥陀如来におすがりしたいと言う気持ちはよくわかります。
だってさ、人間が見ているものとは結局、観念であり、もし、阿弥陀如来が観念だとしても、
あらゆるものが観念であるならば、よき観念を持つことはよき精神生活を送ることの基盤になると思う。
もし、どんな悪人でもその罪を浄化し、浄土に引き上げてくれる阿弥陀如来さまを信じるならば、確かに精神生活というものは
非常に安定すると思います。一方で、仏教の空の思想からすると、信頼していた人から裏切られたと言う観念も「空」であるし阿弥陀如来も空であるがゆえに
何も心配することはないのだよと言う救いになります。一方で、阿弥陀如来が居てもいいじゃんと言う思想は「中」(中観)の思想です。
なので大乗仏教や密教などには沢山の神や仏のイメージが現れてくるわけです。
「役に立つのであればそういうイメージを利用してもいいじゃん」と言う立場な訳です。


28 :
人間はどうしても悪いイメージの方が印象に残りやすいので、よっぽど気をつけないと
悪い観念の虜になってしまう。
宗教が発明されたのはそんなところにも原因があると思う。
毎日念仏を百回くらい唱えてちょうどバランスが取れるのではないかな。
現代は心の不安の時代だと言われますが、それは朝起きて神棚に祈りをささげたり、寝る前に念仏を100回唱える習慣が
なくなったこととも関係があると思います。
何事にも理由を求める現代人は、理由が無いことを無批判に実行することが出来ない訳です。
また、ニーチェが指摘しているように、神に対する信仰が失われてしまった現代では
「天国があるからだよ」「神様がいるからだよ」と言う説明では、納得しない訳です。
「何故念仏を唱えるべきなのか」ということを現代人でも納得できるように説明しているのは既存の宗教思想では仏教しか無い訳で
現代では仏教徒だけが、まじめに念仏を唱えることが出来る。
要は、お釈迦様と言うのは、神の死の時代を見越して、宗教の建て直しを行ったともいえます。


29 :
現代人の生活の殆どには創造性が必要の無いものになっている。
茶勺を作る為に裏山の竹を切って来るとかそう言う必要はない訳です。
百円ショップに行って買って来ればいい訳だから
仕事の内容もマニュアル化されたものを機械的にこなすようなものも多く
殆ど頭を使って無い。
食事もコンビニで弁当を買って食えばまるで頭を使わないで生活していることになる。
そもそも最近の脳科学によると人間の脳の働きの中に「なるべく頭を使わないように」というプログラミングがされてある訳で、人類文明の究極の形がそうなるのは仕方が無い面がある。
しかしそれは人間の家畜化以外の何物でもなかろう。
現代人の課題は家畜人間を脱却して人間になることなのである。

30 :
この世は本当に無常ですわ。
昨日までのリアルが霞みように消えてしまう。
まるで夢か幻かと。
多分、死ぬ瞬間もそう思うんだろうな
なにこれ?夢?って
つゆとおち つゆと消えにし 我が身かな
の秀吉じゃないが
執着すると馬鹿を見るな


31 :
>>1
人間はあたまをつかったことでいろいろ痛い目をみてきた
だからだと思いますよ。なかにはあまりあたまをつかわないで行動する人たちがいる
彼らをみていて昔からなんでそこまで本能のままに行動したり発言するのか
わたしには理解できなかったけれど彼らは結局自分勝手がいいのです
直感的であったほうが理性的であるよりはるかに損をしない。うまくできているのです
それとは対照的昔から理性が先行する人間もいる。文明的で古代からの進歩を受け継ぐがわの人間です
とくに理系。まあどちらがいいかはわからないですがおなじ人間でも選択している生き方が違う
これはカルマのちがいなのでしょう。過去性に関係している。どちらにしても人間はたった100年未満の時間しか
残されていないのだから直感的に選択をしてくほうがよりうまく生きられるのかもしれませんね
脳は瞬発的に判断を与えてくれて複雑なことを処理できるのはわたしは直感だと思ってますから

32 :
まあ直感だけだと大した事は出来ないですけどね
世界とは言語で出来てるのでロジックを操る能力が無いと世界の内奥までは踏み込めない
しかしロジックだけでは世界を越えられない。
そこでは直感が力を発揮する面もある。
この二つの能力に恵まれたものを天才と言うのかもしれない

33 :
観念が邪魔をする
禅などでは観念が浮かび上がったら喝を入れたりする訳だが
観念が妄想を呼び我々の人生は殆ど妄想を現実だと考え恐れていたりする
そういう感情の源泉が観念なので観念が無くなると恐怖が無くなるという寸法だ。
観念先行しやすいインテリなどは少し座禅を組んだ方がいいのかもしれない

34 :
日常生活で「観念停止」が出来れば最高なんだが
どうしても観念が先行して現実認識を歪めてしまう。
茶室と言うのは一種の無の体験をする場なんだろうね。
観念を廃して、動作に集中する。



35 :
>>34
>どうしても観念が先行して現実認識を歪めてしまう。
それ観念ではなく感情だから、結果を求めればそれにたどり着けない
内はたどり着こうと心がゆがむ、これが感情ね。こころは
目的の形にたどり着こうとして主観的なものを現実へ反映させる情動が
あなたをゆがめる。
哲学的な態度は謙虚さにある、それは求めてもたどり着かないという
意志にある。貴方が最初から間違っているのは目的にたどり着こうという
考えかた、目的にはたどり着かなくていいんです、その過程を目的に
したときに歪まない結果へと進むことができる。
離散値がリニアになることはないんです、デジタルもアナログには
なりえません。どうやっても近似で近づいて行くしかない。
最後の最後まで結果への近似だってことに気がついてくれ。

36 :
確かに仏典によるとそういう境地(非想非非想)があるようですな。
確かに全ての心の働きが停止しているということは心の働きを停止しなくてはと思う心の働きも停止している状態ということになる

37 :
ちなみに釈迦はこの境地はすぐに卒業してさらなる深みに達したと言う。
それはどうも動的な心の動きを観察する事だったようだ
釈迦の瞑想は「観察」に主眼が置かれる
その結論が「この宇宙は縁起によって成立している」という事になる。

38 :
哲学だとか仏教だとかに頼っても結局は謙虚さを欠いて
押し付けがましい思想に陥っていくね。
なんでだろう。

39 :
ところで、ここで言う仏教とはどの仏教の話なのでしょうか
わたしはブッダは好きですが、日本やその他の国で広まった各種派閥には関心がありません


40 :
主に仏陀(お釈迦さま)の仏教です。

41 :
>40
なら、ドクターの著作を読んでみては


42 :
ドクター仲松ですか?

43 :
>42
わたしがドクターと言ったら苫米地さんのことですよ
敬称というよりはただの呼称ですから、信者では無いです


44 :
仏教には6界というものがあります
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天。人はみなこの6界のどれかにいます
そして仏教を志すものはこれに声聞、縁覚(独覚)、菩薩、仏の世界があり
このなかにそれぞれが仏性をみつめているわけです
菩薩界の人はこころ優しく常に人に慈悲の心を持って接します
仏界の人も菩薩界の人も人をみるときとめどない慈悲に溢れていますが
菩薩はすべてを悟っていないので時に人に傷つけられ悲しい思いをします
その都度人に悩み苦しみ獣の営み生物の摂理に思い悩み万物の無慈悲に疑問を持っています
なので菩薩もまだ修行の段階なのです。菩薩も仏も人を助けようとします
しかし人を助けるにも菩薩は一生懸命人と接して共感を得ようとします
仏はときにはその性質上自分とは違う人間に対して言うでしょう
「わたしはあなたを助けることはできない。だからわたしはもうひとりもしくは
また別のひとりを紹介しましょう」と
如来にはそれぞれ性質というものがあります。この性質はひとつのかたちを形成します
この形成されたかたちは人と関わるとき鍵と鍵穴の役割を果たします
複雑な綾まで仏はすべて知り複雑な綾をほどくときすべてを正しい方に人を導くのです

45 :
菩薩というのはまだまだ煩雑に悩みます。こういう菩薩界の僧侶や在家に守られている戒律が六波羅密です
布施(ふせ)
持戒(じかい)
精進(しょうじん)
忍辱(にんにく)
禅定(ぜんじょう)
般若(はんにゃ)
になります。それぞれ守らなければいけない戒律になります
最後の般若波羅密が宇宙の智慧になり仏が最後まで体得した智恵となります

46 :
守らなければならない戒律・・・


47 :
33 名前:名無しさん@涙目です。(東京都)[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 00:02:00.46 ID:DCGPbAzK0
http://bbs.avi.jp/photo1/7/474650/474650-31627-0-52850-pc.jpg

48 :
久々にキチガイ発見w
http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/201012270000/
もう哲学板にはキチガイといえるのがなくなってるから、これは次のターゲットとしておもしろいねた。

49 :
さて独覚は自らのなかに悟りを開くことを目的とし声聞はそれよりも他を必要としています
ですからなかなか声聞は自ら立つことをせず道標が必要なのです。両者とも万物の関係のなかから
悟りを見いだせずに小乗の仏教とされるのです。
菩薩界は慈悲の世界なので万物のなかにまた世界平和に光明を見いだそうとします
六波羅密のなかに禅定波羅密がありますが、これが所謂禅宗の思想になります。日本には臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の思想になります
慈悲深き菩薩たちは禅の中に悟りを見ようとします。禅は言葉を短くしていうと「なにものかと心を合わせる」ことに相当します

50 :
心を合わせるとは他人の心と自分の心を合わせることにも相当しますし
自然と心をひとつにすることにも相当します。深くなれば瞑想のなか
宇宙と一体となることにも禅定を求めようともします。心の平静を求めニルバーナへの到達を禅定は目的とします
インドの思想ではアートマン(自ら仏性)とブラフマン(宇宙)は一体であると考えられてきました
菩薩たちは何をするにも禅定波羅密を心がけるように教えを受けています
次に布施波羅密ですが布施もやはり金銭や物質の執着をなくし他へ自らの持ち物を寄与するよう菩薩は心がけています

51 :
人に与えること、与える時に自らの所有に執着しないことが布施波羅密の守るべき戒律です
しかしただ何でも分け与えることが善ではなく仏の教えはもっと複雑なものでありバクシーシ(喜捨)も
何も意味をなさないことがあります。与えればいいということはなく与える(結果)とそこに至る原因を
菩薩は考えなければなりません。ですから布施をするときそこに与えない結果と与えないことが教えである綾が
できることもあります。非常に複雑なことなので言葉での説明はここまでです
菩薩は布施波羅密をよくよくよい方向にもっていかなければなりません

52 :
六波羅密には同感できません
布施や戒律で人や自分を拘束すること自体、
寛容を失っているように思います


53 :
>>52戒律は智恵なのです。智恵は自由であり罰せられるものではなく持戒するものです
仏は罰することをしません。

54 :
〇〇するなかれ
これが嫌いなのです


55 :
さて持戒波羅密ですが物事の綾を反復し自分で持戒していくことです
持戒はその都度のことを持戒していくのです。仏教の考え方で八正道がありますが
正しい見方や正しい考え方など8つですがこれら八正道は独覚界の人間が行うものです
しかし正しいとは難しいものでお手本を沿うように物事を正しい方向に向けていくと智恵が固くなっていきます
持戒波羅密はいわば八正道である真に身体的宇宙観を体現していくいわば反復的な自問自答なのです
正しいとはもっと身体と対話していかなければいけません。身体がこうだといっていることに耳を傾け
持戒していくことです。反省し理解していく知恵の営みのことを持戒波羅密といいます
人間が真に身体的な意図をより深め大きな大木のような精神で生活を行うことだと思います

56 :
みなさんこんにちは。
>蝙蝠さん
実は苫米地さんはよく知ってて何度も会って話をした事があります。


57 :
うるせーばか
はげ

58 :
持戒も八正道も結構だけど、自分で決めればいいと思うよ


59 :
人間の世界には恐ろしいことがあります。知りたくなくても知らなければならないこともあります
人はあるきっかけにより鬼にも蛇にもなります。世間は下世話で卑劣で卑怯かもしれませ
地獄とは残酷な世界です。中国人マフィアは人の皮を剥ぎRといいます。朝鮮人マフィアは鉈で首を刈ききるといいます
菩薩は地獄の沙汰に当たると自分の力量を上回ることがあります。地獄界に遭遇した菩薩は仏のちからをかりて
これを乗りきろうとします。般若波羅密はこういう場合に必要な智慧になります

60 :
五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまふ
般若波羅密はすべてを写している果てない苦しみを空として解脱に至ります
地獄界の沙汰に菩薩が至ったときいや菩薩のみならず聖人も常人もその苦しみや不条理に精神を壊します
なぜそのようなことが起きたのか?自問自答します。その苦しみから逃れるには
ひとつしかありません般若の智慧に至るしかないのです。

61 :
仏陀は解脱前瞑想に入り縁起の円環の最後に悪魔との最後の戦いに挑みました
菩薩界にいた人間が悟りを得るため旅をしていました。ある村に入り何日かしてそこで信じられない光景を目にします
村人がひとりの人間を殺してしまったのです。首謀者は村人全員でした。村人がひとりの人間を
全員で殺してしまったのです。それは酷い殺し方でした。身の毛もよだつ殺し方でした
なぜこのようなことをするのか?村人と殺された人間とのあいだに何があったのか旅をしていた菩薩は悩みました。
旅をしていた菩薩はだんだんこわくなりました。もしもわたしがあの殺された人間の側になったら
菩薩は震えだしました。もしもあのようなことが自分に降りかかったらと思うと怖くて身がすくみ村をでたいと思いました

62 :
旅をしていた菩薩はこの村から出たいと思い身支度をし始めました。しかし菩薩界にいた人間は仏に仕えるものとして
これを放っておくことはできない。村人たちに何があったか聞いてみようと決心しました。菩薩界の人間には
仏の教えとして忍辱波羅密を教えられてきました。苦しい状況に至ったときにそれに耐えよい縁起に向かうように
考えなさいという戒律です。そしてそれを実践するためにまずこの身の震えを解こうと考えました
しかしどんなに震えを解こうとしても怖さのあまりどうしても震えをとめることができません
この恐怖を感じた時時刻は深夜を回っていました

63 :
菩薩はまた恐怖しはじめました。何度も村人たちが残酷にひとりの人間を殺した光景を思い出しその都度
身の震えに耐えて一晩やりすごしました。しかし時間は過ぎ去らず長い時間の後に菩薩は眠気に襲われて
うとうととし始めました。その時ふと釈迦如来が枕もとに現れ菩薩界の人間にこう説きました
「悪魔というのは恐ろしい」

64 :
オカルト臭くなってきたので茶を沸かします


65 :
>>64創作ですよ。仏教の思想には沿っています。だけどオリジナルな部分は多いです
ではまだ続きます

66 :
「悪魔と言うのは恐ろしい。心のなかに巣食う悪魔は恐ろしい。よく見るといい。悪魔は高いところにいる
しかしそこには悪魔はいない。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色即ち是空、空即ち是色
受想行識も亦斯くの如し。この諸法は空想にして生せず滅せず、垢つかず清からず、増さず減らず、この故に空中には色もなく
よく見るがいい。悪魔はいない。心の中に巣食う悪魔は自分自身なのだ」(般若心経)

67 :
「空想には実体がない。また実体には空想がない。すべては有るものと無いもので心はできている。悪魔はいない
有ることは無いことでもあり無いことは有ることでもある。恐れていることは無でありまた有でもある。執着を捨て見るがいい」

68 :
で、それを実践してるのかな?


69 :
実態を元にした空想、空想を元に形作る実態。
言葉で誘導するのはよくあるはなし。

70 :
色即是空、空即是色、さて、空想と空は関係があるのだろうか。
この場合の色とはなんだろうか。

71 :
釈迦如来から菩薩への教えに言葉というものはなかった。ただ菩薩界の人間はスッと
気持ちが解かれた。菩薩界にいた人間が目を覚ましたときそれは現実だった
菩薩というのは悟りを得る前の最終段階にいる智慧をもつ。世の中の大概のことに
驚くことはない。しかし世の中には信じがたい「本当のこと」というものがある
それを人間が知れば誰もが衝撃を受けるということがある。菩薩は身をもって
現実の恐ろしい出来事に直面した。そしてその出来事にはちゃんと理があった
複雑な人間模様、怒り、憎悪、狡猾さそのすべてを知ったときようやくそこに至った理由がわかった

72 :
すべての物事には理がある。原因と結果がありそこい至った経緯はだいたい必然的である
人間が結果だけをみて衝撃を受けるのは当然であるがすべてを知ったときそこに
理解と結果が現れ安堵する。そこに至る経緯はすべて有であり結果だけをみて衝撃を
受けるところに無がある。人間の抱く世界はすべて自分のなかにあるもので形成されている
物事すべてには実体がある。しかしそれを写しだしている自ら鏡は自分の前世からの蓄積されたアーラヤ識による
自分のなかにあるものが出来事を形成しいろいろな感情をいだくのである

73 :
物事の本質を知ればそこに理解が生まれすべてのことに苦はなくなる
人間が見ている世界はすべてにおいて実体がない。無である。そして人間は自分の世界に
執着しそこからあらゆる感情が生まれ人間模様が描かれるのである
潜在的に写しだしている世界からの解脱が般若波羅密の智慧であり執着から解放されたときに
ニルバーナに達するのである。怒りや悲しみ喜びや感激、楽しさや苦しさすべては
自分の形成した世界であり基本的に分量というものは
ここに存在せず存在せぬが故に感情は無に帰する。しかしそれでも世界は有るのである
すべては無でありながら有であり般若波羅密の智慧は奥深く無を悟ったら今度は
それでは有とは何かになる。世界はちゃんと存在する。「有」はある。しかしすべては
自分の世界であり「無」である。そこから本当の世界を見通し本質に至ることこそ般若の智慧である

74 :
仏教においては人間には八識あり第七識の末那識は自分に執着した
世界を写しだし第八識である阿頼耶識があるがままの世界観を写し出す
菩薩は第八識のあるがままの世界を見る。空の世界はよく晴れた青空
カラッとした日に写し変えられる。人間は蒼空である日のような
精神のときが一番凛として美しい。それこそが菩薩や仏に近づく

75 :
般若波羅密は自分に気づくことである。自分の写し出している世界が
苦怖をつくりだしあるがままであることでそれが自分自身のなかに
あるものであることに気づく。世間は鬼の形相であり餓鬼であり
恐ろしい地獄をも出現させる

76 :
菩薩業とは「人を助けようとする心」のことである。菩薩の心は誰にでも芽生える
しかしそれを継続的に抱いていくにはあまりに人は自分に執着しすぎている
菩薩の段階の前に声聞と独覚(縁覚)がある。これはそれぞれ自分の
執着から解脱し自らの存在は自分以外の縁と関係性によりできている
ことを充分に理解し自分が行うことを心つまりは心像からとらえ
心像に集中力をもち心が自分以外の万物を支えることによって
永遠のニルバーナ、静安に到達し自分の心に浄土を出現させて
よりよく生きる世界を創ることを目的にする

77 :
独覚(縁覚)はこれら執着から離れ菩薩へと変わる修行者に必要な段階である
自分ひとりではなく自分を取り巻く世界と関係性を理解し心をひとつの像として
とらえあるがままの世界から人助けの菩薩業が間違いのないところへと
行き着くことが主眼に置かれる。であるから六波羅密にも通じるしその根底にある
般若の知恵にも独覚は通じているのである

78 :
ダラダラダラダラ長すぎる


79 :
んーん長くないよ

80 :
・六道というのは衆生の道地獄餓鬼畜生修羅人天
・その上に位置するのは理性の道
声聞、独覚
・そして理性と悟性とが合わさった状態を志す道
すべての命を助ける心を持つ者
菩薩
・悉くすべてのシステムを掌握した覚者の状態


仏界
菩薩界
独覚(縁覚)界
声聞覚
天界
人界
修羅界
畜生界
餓鬼界
地獄界

81 :
人間にはそれぞれベースがありそのベースの世界に生きています
仏界
菩薩界
独覚界
声聞界
天界
人界
修羅界
畜生界
餓鬼界
地獄界
自分と自分を取り巻く人たちは自分と同じ世界か
その世界の前後の世界の人たちです
そして生活のなかでこの十界の世界に
自分の意思とは無関係に外の世界が自分の存在にやってきます
自分の存在とはすべて空であり一念はすべて八識による
貯蔵された世界(根本は阿頼耶識)なので
現実はすべて自分の鏡のままに映し出される
いい人は餓鬼界でも畜生界でもいい方に見ようとするし
餓鬼界にいる人は人界の世界でもどこまでも悪く見ようとします
地獄界の遭遇は人界や天界は最後にはそこから自分から遠ざかり
逃げて見えないところへ行くようになります

82 :
自分の存在は十界の一に属します
この十界の一に現実の外の世界の十界の一が自分(十界の一)に遭遇します
自分の存在(十界の一)が外の世界(十界の一)に絶えず遭遇します
ですから仏界も菩薩界も地獄界に当たることもあるわけです
そうなった時に非常に精神が下がります。身体も重くなり重圧が
菩薩界の力を越えて強大になると仏の力が必要となるわけです
欧州のファシストの席巻はやはり地獄界を含んでいたのでああいう現実が
社会で起きるとすべての人たちのなかに地獄ができるわけです
ですが人間の存在・意思とは空ですので自分の世界(十界の一)が
現実に遭遇しましても基本的に仏教の世界では空であるがために
それは自分の五蘊の世界であり自分で意思が斯くの如く働けば
すべては解決されるわけです

83 :
仏とは<目覚めた>という過去分詞形に由来し(真理に)目覚めた者
すなわち覚者、悟った者の意味になります

この仏の同義語として次の十号がよく使われます
@如来<真理の体現者>
A応供(阿羅漢)<立派に完成した者>
B正当覚者<正しい悟りを開いた者>
C明行足<知と行が完全な者>
D善逝(ぜんせい)<立派に完成した者>
E世間解<世間を知悉する者>
F無上士<最上の人間>
G調御丈夫<人を調御するに巧みな者>
H天人師<神々と人間の教師>
I世尊<福徳を備えた者>
―大乗仏典 中村元編より
特に世間解などは今の若者の世界にも精通していて
あの特奇な精神にも何かをのこすものがあります

84 :
日本仏教は次の13宗が宗門があります
法相宗、律宗、華厳宗
真言宗、天台宗
融通念仏宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、時宗
黄檗宗

奈良時代元明天皇の時に仏教中心の国造りをするために南都六宗が日本に入ってきました
三論、倶舎、成実、法相宗、律宗、華厳宗
後に唯識を標榜する法相宗に三論、倶舎、成実が踏襲されました

85 :
生きる意味など無いのである
地球が46億年前にでき、30億年前に原始生命が誕生した
多細胞生物→動物→哺R類→霊長類→ヒト
ナメクジに生きる意味など無いであろう?
人間という種にも別に生きる意味など無いのだよ
気が付いたら「生きる意味」とかアホな世迷い言を考える種になっていた
「意味」とはそもそも、思考する際に考えのよりどころにするもの
だが、ヒトが生きていくために、合理的で生きていきやすい
社会・人生にするために、「意味」を作ることは大切なんだ
「意味」を理解したうえで…

86 :
ロジックとパッションを同量入れたカクテルで明日の夜に酔うのじゃよ?
87 :あぼーん:あぼーん
あぼーん
88 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

89 :
「おはよう」は、漢字で書けば「お早う」となる。
「おはよう」の語源は、
語源由来辞典によると「お早く○○ですね」などの「お早く」である。
この「お早く」が転じて、「おはよう」になった。
「お早くから仕事大変ですね」「お早くからいらっしゃていましたね」・・・
相手への敬意を表すことば。
だから、「おはよう」は朝だけの挨拶だけではない。
夜のお仕事や芸能界での挨拶が夜でも「おはよう」というのは理にかなっている。
90 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

91 :
>>6
いや、なんで物理学などの自然科学をやらないんだ?
哲学なんか余技で十分だろう?ってこと。
べつに哲学にかぎらず学問に実用求める必然性はない。経済学も社会学も自然科学も大半は使えない。
でも学問の価値とはまた別。
胸に手を置いてみて哲学にほんとに意義はあると思えるか?かっこつけや逃避でやってないか?

92 :
ただ好きだから、楽しいから学んでいるんだと思うよ
他人の価値観を秤にかけることはできないでしょ

93 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

94 :
おもしろい

95 :
開近顕遠

96 :
結願

97 :
仏教ではすでに4世紀後半の唯識思想において、無意識のレベルに
アーラヤ識なるものが想定され、そこに無始の輪廻の中での過去の
一切の経験(来歴)が種子として貯蔵され、後にそこから新たな認識(経験)が生じてくると
考えられていました。例えば、古来有名な「一水四見の喩」は生物の境涯(種類)の違いによって
同じ対象が異かなったものとして認識されることを通して唯識であれことを示そうとしています。
同じ水が、餓鬼には膿などの汚水に、魚には住む場所に、人には飲料や沐浴の水に
天には瑠璃や水晶に見えると言われます。それぞれの生物のアーラヤ識には無限の過去からの行為(経験・経歴)が
種子として保持されていますので、認識(知覚)は過去の来歴に大きく依存していると考えることができます。(略)
このように、唯識思想においては、客観的であると思われてる知覚や認識がいかに認識主体者に影響されているか、
主観的であるかということに早くから気づいていたのです(「唯識ということ」兵藤一夫 春秋社)

98 :
>>93
ポテトみたい

99 :
上述、短い文ですが唯識についてかなり要約して語られています
同じ火や石でも地獄界での認識と人界では見え方や捉え方が違う
唯識とは個を構成する阿頼耶識(蔵識)が過去性の業によって
現世の自分の十界の一の世界観としてうつしているのです
哲学の経験論が生まれる前のものも含んでいるという見解が仏教の唯識になるのです
仏教では「物自体」という考え方は比較的仏界の世界の人間がそのまま「見えている」と
考えられがちですが仏界にいる人間はものを完全に見ているというよりも
宇宙システムの自己再帰性のもっとも安定的な方角を知っているといった見たかが合っているのではないかと思います

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