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2013年06月●303: メモ帳代わり…(⌒〜⌒ι) (104)
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メモ帳代わり…(⌒〜⌒ι)
- 1 :2007/06/07 〜 最終レス :2013/05/04
- 狼に落とされたんで引越してきた
難民だって皇室を語りたいよね…( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
http://ex20.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1173154956/
難民だって皇室を語りたいよね…マターリ(^−^*)part2
http://ex20.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1179918744/
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )&マターリ(^−^*)
- 2 :
- 鬼女板の名物・長寿スレッド
●室御一行様★アンチ編★(現行part895)
をマターリ見物しながら、その内容を検証している
- 3 :
- 気が向いたときにポツポツと
- 4 :
- 事実誤認の系図がひとり歩きした経緯を貼っておく
- 5 :
- 493 :こんなのがあった。 :2006/03/32(土) 12:09:28 ID:QBPXdK9B
小和田金吉
http://mimizun.com:81/2chlog/history/academy.2ch.net/history/kako/1017/10173/1017316905.html#R27
364 名前:1 :03/03/03 03:54
じゃあ、教えてやろうか。小和田金吉は村上の小和田家とはなんの関係もない。
村上の士族小和田家が村上はなれて戊辰戦争に負けてちりじりになったのは明治の初年。
だから士族小和田家は明治初年以前も調べがつくわけ。
問題は小和田金吉が1867〜1868年頃朝鮮で生れ、新潟に密航して住み着いたのは
明治以後。
だから宮内庁は小和田家が1868年以前は何をやってた人なのかわからないといったのは
事実隠蔽のためで本当に士族なら村上調べたらわかるのである。その証拠に佐藤朝泰の「閨閥」
という本に小和田金吉の代からしか載っていない。(川嶋家は高祖父の代までのっているのに皇太子のご生家がこれでは・・・)
朝鮮から密航してきた参加の成り上がり金吉は明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に
金吉氏の名前が初出となる。もちろんこの金吉は小和田道蔵の息子で雅子の曽祖父の金吉とは別人。
新潟の参加金吉はつまり新潟の吏員になるために(戸籍のない密航者だから)村上士族小和田匡利の息子金吉から家系図を
購入し士族に成りすまして朝鮮参加の男が小和田金吉に成りすましたわけ。だからその後に高田税務署の税吏になっている。
その証拠に小和田家の世代の年齢があわないのはそう言う事で、(以下)
42 :日本@名無史さん :02/03/30 17:33
小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたら
つじつまが合うね(藁)
※1868年時点で(もし生きていたら)
小和田匡春(道助)(1858年64歳で死亡) 74歳
匡春(道助)の次男 勝治 48歳?
勝治の弟兵五郎(5男として) 42歳?
小和田兵五郎の息子(3男)が匡利(道蔵)15歳?
匡利(道蔵)の次男金吉 1才
- 6 :
- 501 :可愛い奥様 :2006/03/32(土) 12:20:03 ID:YF8WX6GV
【依頼】
誰かOWD家とEGR家の家系図を図解で描いてもらえないだろうか。
今一飲み込み難いのだが。
- 7 :
- 572 :可愛い奥様 :2006/03/32(土) 13:32:31 ID:cdLBBrNq
小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたらつじつまが合う小和田家系図はこんな感じ?
※1868年時点で(もし生きていたら)
─┬ (長男)
└ 小和田匡春(道助・二男)──┬ (長男)
(1858年64歳で死亡) 74歳 .├ 勝治(二男)48歳?
├ (三男)
├ (四男)
└ 兵五郎(五男)42歳?─┬ (長男)
├ (二男)
└ 匡利(道蔵・三男)15歳?─┬ (長男)
.└ 金吉(二男)1才
671 :可愛い奥様 :2006/03/32(土) 15:21:32 ID:+7qkaQmm
曽祖父の金吉さんという人が、
なぜか、明治初年で1歳なんだけど
それって、やはりおかしいような?
あの系図を見ると、そうなるんだけどね?
- 8 :
- 94 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 17:32:26
さて、小和田金吉とその父との年齢があわないという主張について。
結論から言うと、単純な事実誤認である。
95 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 17:33:46
>>74を参考に単純に書くと金吉の家系図は、こうなる。
道助匡春─兵五郎─道蔵匡利─金吉─毅夫─恒─雅子
もう少し詳しく書くとこうなっている。
1825没
┌新六匡安
│ 1794生 1858没. ┌勝治──○──○──○──昭三・豊春
├─道助匡春. ───┤
│ (64才) │1871没 1874没 1868生1900没(33才)
│. └兵五郎─道蔵匡利───金吉
│ ├──毅夫
└新九郎 (熊倉)竹野
小和田金吉の生年は、明治33年に33歳で亡くなったことから1867年と1868年の可能性がある
が、ここでは1868年(?)で統一しておく。
- 9 :
- 96 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 17:34:16
このうち生年がわかるのは道助(1794年生)
その子、兵五郎が名前の通り五男だったとして、三男である金吉が生まれた年齢まで間隔が不自然
だ、という主張がされている。
しかし、小和田家の家系に関する二冊の本、
・遥かなる村上藩──雅子妃のふるさと(1993年6月)
・小和田家の歴史(2001年12月)──P37
によると、
┌道助匡春─兵五郎─道蔵匡利─金吉─毅夫─恒─雅子
└新六匡安
ではなく、
新六匡安.┬兵五郎─道蔵匡利─金吉─毅夫─恒─雅子
└道助匡春
と、なっている。
つまり、兄弟である道助匡春と兵五郎を、親子と捉えたために生じた勘違いであるようだ。
- 10 :
- 97 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 17:35:28
ソースも示しておく。
・遥かなる村上藩──雅子妃のふるさと(1993年6月)
新六匡安の子に道助という秀才があらわれた。──P66
小和田雅子さんの先祖である兵五郎は西本願寺派の西真寺の過去帳にあるが、道助の兄弟
として分家したと言われている。昭和62年11月に毅夫氏、恒氏の両夫妻が墓参に訪れたと
きに対面した細工町の小和田豊春さんが、「私のところは道助の兄弟の勝治から分家して
いる」と説明したところ、毅夫氏も、「うちも道助から出ているんです」と語ったという。
──P73
・小和田家の歴史(2001年12月)
道助には勝治、兵五郎という兄弟(もしくはいとこ)がいたといわれる。──P37
- 11 :
- 98 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 17:45:27
ではなぜ、金吉の祖父である兵五郎とその兄弟・勝治を、道助の息子と間違ったのだろうか。
これは、この言葉に対する誤解であると思われる。
毅夫氏も、「うちも道助から出ているんです」と語ったという。(ソース・毎日グラフ臨時増刊)
旧民法下でAからBが分家した、という場合、AとBは親子ではなく兄弟の可能性がある。
手元にある戦前の戸籍を見ても、兄のもとから弟たちが、それぞれ分家して出ていた。
1794年生まれの道助が家督を相続したのは、父新六が亡くなった1825年、三十一歳か
それ以前だろう。
兵五郎の生年は分からないが、仮に1810年とすると父の死去のときは15歳。
分家したのは兄が戸主になった家からと考えて差し支えないのではないだろうか。
- 12 :
- 100 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 17:51:19
余談であるが、郡蔵に関しては、新六の嫡子、新九郎の嫡子の二つの記述がある。
これが著者による誤字でない場合、以下の可能性がある。
1.従兄弟同士である二人の郡蔵がいた
2.息子がたくさんいた新六の家から、男子のいない新九郎の家に養子に出た
新六の血筋の本流となった道助よりも、新九郎の息子の郡蔵のほうが年長であることから、
二人の郡蔵がいたと考えた方がよいかもしれない。
ただ、道助は小和田家の中で傑出した秀才であったようで、町同心だった親よりも一段高い
地位に出世し、家禄を倍増させた。
このため、兄が出、弟が家に残ったという可能性もわずかではあるが否定できない。
村上城にあった文献が焼失した以上、これらはすべて推測に頼るよりほかにない。
- 13 :
- 101 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 18:33:22
小和田家の系図・・・勘違い
1825没
┌新六匡安
│
│ 1794生 1858没 ┌勝治──○──○──○──昭三・豊春
├─道助匡春───┤
│ (64才) │1871没 1874没 1868生1900没(33才)
│ └兵五郎─道蔵匡利───金吉
│ ├──毅夫
└新九郎 (熊倉)竹野
- 14 :
- 102 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/03/21(水) 18:36:29
小和田家系図・・・推測
町同心 1793生1853没(60才)
┌新九郎───郡蔵───皆蔵 ?生1897没
│
│ 1794生1858没(64才)
│ ┌道助匡春(本家)
│ 1825没 │
└新六匡安┼勝治──○──○──○──昭三・豊春
│
├郡蔵
│ 1871没 1874没 1868生1900没(33才)
└兵五郎──道蔵匡利──金吉
同心 ├──毅夫
(熊倉)竹野 │
├──恒
田村寛一郎─(養女)タカ │ ├─雅子
├──静 優美子
嵩岡可笑─(三男)又四郎
- 15 :
- 皇室御一行様★アンチ編★part227
377 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/05/23(月) 10:31:51 ID:JMQa/8Ta
お墓は、墓地にあるんでしょう?
家に来る、の意味がわからない。
仏壇にお線香でもあげに来たって意味?
紀子さんの父祖の地・和歌山県への墓参りは、
すごい報道されてたけど、普通の墓地だった。
お寺に付属の墓地か、公営の墓地かはわからないけど。
曽祖父の川嶋庄一郎氏が、既に学習院大教授&初等科長だったことからみて、
曽祖父の代には、既に上京してたはずだから、
和歌山とは縁遠くはなってたと思われるが。
418 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2005/05/23(月) 12:15:55 ID:iqmnmFmD
>>414
川嶋家は江戸時代から続く庄屋だったわけで、
婿養子取るなら、それ相応の家から、と考えるのが普通。
しかも婿入りした庄一郎氏は、学習院の教授と初等科長まで務めたんだし。
- 16 :
- >学習院初等科長
これはソースが不明
川嶋庄一郎氏が学習院で教えたのは、東京外国語学校独逸語別科卒業後
二年間(明治34〜36)なので有期限の客員教授だったのではないかと思う
この書き込みがいちばん年代的に古いものなので、伝聞・憶測の可能性あり
↓
【復活】皇室ご一行様 Part10タ〜リ編】
435 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 02/11/16 22:21 ID:vepuQhNu
なんで紀子様育ちが悪いとか、貧乏とか言われるの?
一般的に見て大学教授の娘さんならなに不自由なく育ってると
思うけど?
それにご先祖は大阪市長とか、学習院初等科の校長とか書いてあって
別に他人にとやかく言われる家柄の人にも見えないけど。
- 17 :
- 川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る
小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう
金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
- 18 :
- 不動の力松ってカッコイイ名前
まあ、学習院の教授向きの名前ではないけれど
- 19 :
- アンチ皇室ヲチスレ part175
103 名前: 名無し草 投稿日: 2007/06/06(水) 15:00:39
皇太子でブログ検索してたんだが
結構、雅子様のことが多く書いてる変なブログがちらほらと…
で、その中から見つけたんだけど
雅子様って香淳皇后に関連したものは一切出ていないって書いてたが
本当なの?本当だとしたら理由は何なんだろ?
113 名前: 名無し草 投稿日: 2007/06/06(水) 15:17:09
病気が悪化した時期と、香淳皇后の崩御が重なっているから
- 20 :
- http://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_kyuchu_01_2.pdf
平成11(1999)〜12(2000)年は懐妊、流産、そして13年に再び懐妊、出産。
当然、祭祀は飛び飛びになる。
愛子内親王ご出産後も平成14年(2002)3月13日の
「賢所皇霊殿神殿(かしこどころ・こうれいでん・しんでん)に謁(えっ)するの儀」
までは産後の穢れがあるから祭祀にあずかれないのでは。
「香淳皇后に関連したものは一切出ていない」というのは嘘。
2002年3月21日から2003年9月23日までの祭祀に出席。
2002年6月香淳皇后例祭、2003年6月香淳皇后三年式年祭にも出席。
- 21 :
- その後、体調を崩され休みがちになり、2003年12月からはじまった闘病生活
が四年目。
さして異様とも思えない。
月ごとに生理のある女性が、完全に祭祀の日程に合わせるためにはピル
を使って生理の日程を調整する必要がある。
年間の欠席が0ということのほうが有り得ない。
生理の穢れは内掌典の女性の場合8日間ときく。
月の四分の一はつぶれる勘定だ。
平成11年(1999)当時の皇太子妃は不妊治療に臨んでいたはずだから
ピルを使ってまで生理の日程を祭祀に合わせていたとは思えない。
- 22 :
- 斂葬の儀関係の資料 2000年6月16日、香淳皇太后崩御
皇太后が亡くなって40日間、皇族や宮内庁関係者が交代で24時間
香淳皇后のご遺体の側に詰める
これは殯宮祗候(ひんきゅうしこう)といい、通夜に当たる
雅子妃も一日一回、40分ほどを香淳皇太后の側に寄り添われた
しかし7月21日、この殯宮祗候を休まれ、22、23日と続けて休まれた
文藝春秋 『雅子妃「沈黙」の悲しみ』 2000.9 宮原安春
23日の夜は御所にうかがっての食事会だったが、途中具合が悪くなり
皇太子と一緒に退席
微熱があり、月のものが遅れていたため万が一をとって欠席した ←★
皇室関係者談
週刊新潮 『雅子さま「休養」で伝えられた「真相」 2000.8.10
1999年12月30日の流産の手術後、体はともかく精神的な回復が
遅れていて、部屋に引きこもり、食事もできない日があった
複数誌
「斂葬の儀は午前五時ごろに始まり、夜九時、十時までかかる
体調に不安のある状態では非常にハードな儀式」
宮内庁詰記者談
文藝春秋 『雅子妃「沈黙」の悲しみ』 2000.9 宮原安春
★これは同様の証言が今のところ見当たらないので正確性は謎
- 23 :
- 斂葬の儀は2000年7月25日
その前日、24日に雅子妃の欠席が伝えられたが、宮内庁は
「夏ばてのようなもの」と発表する
記者たちは「懐妊ではないのか」と食い下がった
質疑応答の様子
週刊文春 2000.8.3
――ご懐妊の予定は?
「昨年末のようなことが今回の背景にあることは全くない。想像を
逞しくしないでいただきたい」
――雅子さまのご様子は?
「普段の生活はいたってお静かであり、変化はない」
- 24 :
- 「懐妊ではないか」としつこく疑われたが、このときは違った
ただ、炎天下での儀式なので、もしものことを考えて宮内庁が大事を取らせた
それと雅子妃の体力気力も衰えていたようす
1月中は東宮御所で療養
2月は静岡に用意された別荘で静養
2月23日の皇太子誕生日関係の公務から復帰したが、公務での外出は3月14日
東京国立博物館特別展「オランダ王室―知られざるロイヤルコレクション」が
最初だった
4月29日、「みどりの愛護のつどい」で香川県を訪問されたが、カメラマンたちは
雅子妃の目の下に大きなクマができており、憔悴の色が酷いため、雑誌には掲
載できないと語っていた(文藝春秋2000.9ほか)
「懐妊では?」と色めきたつ記者たちをいなすためとはいえ「夏バテのようなもの」
という表現はあまりにもお粗末で、
「もう少し他に言いようはなかったのか」皇室記者談 週刊新潮 2000.8.10
これは仰るとおり
報道への対応が拙すぎる
- 25 :
- 人間不信に陥って、皇太子以外の誰も信頼できないと閉じこもって
しまっているといわれたが、徐々に回復
これは皇太子の尽力が大きかったように思われる
2000年2月の静養のとき、数日間葉山御用邸で過ごされたが
地元の主婦がご夫妻をたまたま目撃してこう証言している
------------------------------------------------------
「海岸の波打ち際を歩いているカップルがいたので、どこのアベック
だろうとみたら皇太子ご夫妻だったのでビックリしました。
皇太子さまの雅子さまに対する気遣いはとても細やかで、常に雅子
さまの側に寄り添っていました。
自分が先に歩いていても必ず雅子さまを振り返り、かばっているよう
にも見えました」 週刊文春 2000.5.25
-------------------------------------------------------
皇太子は、やつれた雅子妃の顔をカメラが映さないようにかばったり、
好きだった酒もこの時期控えておられたという記述もある
2000年12月9日に東宮御所で記者会見した雅子妃は、
「多くの方々から温かいお励ましを頂いたこと、中には全く知らない方
から多くのお手紙を頂きましたことを、大変ありがたく思っております。
どれほど多くの方々の善意に支えられて、自分があるのかということ
を身にしみて感じました」と語った
そして翌2001年4月16日、再び懐妊の兆候が発表され、12月1日に
愛子内親王をご出産
- 26 :
- 話題は少し戻って1999年12月30日
雅子妃、流産発表。
----------------------------
妊娠のごく初期は、確定したことは言えない。もともと胎児として成長しない
受精卵もあるためだ。飯塚理八・慶応大名誉教授も、「胎盤が完成する妊娠三
か月までは、一般的に10%、場合によっては20%近くが流産する」という。
読売新聞 1999年12月31日
- 27 :
- しかしこの流産は当事者であるご夫妻だけでなく、周囲、とりわけご夫妻のプ
ライバシーに土足で踏み込んだ報道関係者に衝撃を与えた。
流産そのものの直接原因ではないと言っても、後味の悪さは否めない。
こう述べている。
------------------------------
加藤は検査のあと、古川大夫の会見の席にいた。「流産の手術をされた」そ
の言葉を聞いた時、ペンを持つ手がふるえた。マスコミはとんでもないことを
していたのではないか。加藤もそう思った。
読売新聞社会部記者・週刊読売臨時増刊 2001.5.15
'99年12月30日夜、テレビに「雅子さま流産」というテロップが流れました。
それから10日間近く、私の手帳は真っ白。ショックでした。残念だと思うのと
同時に、マスコミの先走った報道が、どれほど雅子さまと皇太子さまを傷つけ
てしまったか、それを思うと、私は食事もノドを通りませんでした。
フジテレビ皇室リポーター武藤まき子・エッセ 2002年1月臨時増刊
- 28 :
- そして二度目のご懐妊。
2001年4月16日の懐妊発表に先立って、報道各社は雅子妃の懐妊の可能性を掴
んでいた。
しかし前回の苦い教訓を通して彼らは、結果的に各社横並びになっても仕方な
い、とにかく母体の保護とプライバシーを最優先にしようと決断した。
- 29 :
- 2001年4月16日月曜日
この日は香淳皇后の十ヶ月の月命日にあたり、皇太子ご夫妻はそろってお参り
をすませられた。
お二人が香淳皇后にどんな報告をされたのか、それはわからない。
この「ご報告」に続いて、0時半から宮内庁で古川東宮大夫による会見が始まった。
「皇太子妃殿下におかせられましては、ご懐妊の可能性が出てこられました…」
- 30 :
- 体を壊している雅子妃が這いずって葬式に出てくれることより、
ひ孫の顔を見せてくれることの方を、香淳皇后は喜ばれただろう
- 31 :
- ようやく待望のお子を授かったものの、雅子妃は少しずつ体調を崩していく。
その一因を、高校時代の恩師はこう推測している。
--------------------------------
雅子さんの性格は見事なまでの完璧主義です。何でも、人の期待に応えようと
努力してしまいます。人を喜ばすのが大好きな人なのです。その性格が、病気
の第一の原因ではないでしょうか。
雅子さんが体調を崩したきっかけは、女子を産んだことにあるのではないかと
思います。人一倍責任感の強いご性格が、男子を産まなかったことで、皇室に
も国民にも幸せをもたらせなかったと、自分自身を責めてしまったのかもしれ
ません。
ベルモント高校で英語を教えたリリアン・カッツ女史のインタビュー
週刊現代 2005.10.22
- 32 :
- 生まれる子供の性別は、妃殿下の責任ではないんだけれどね
辛いね
- 33 :
- 難民だって(補足)
■ネズかあさんとネズコ■
644 名前: 名無し草 [sage] 投稿日: 2007/04/25(水) 13:21:45
>>640
><ネズかあさんとネズコ>も、相手が雅子さんにとって、肩をもんだり、おつかいや
>手伝いを進んで行うほどの仲良しだった、という部分が切り取られている。
まあ北米2課にいる女性もそう多くはなかったろうから、親しくもなるだろうけれど
この上田奈生子さんがアメリカ勤務から帰って北米二課に配属されたのは1992年(日米建設交渉担当)だから
雅子さんが宮内庁から皇太子妃にと打診された頃で、ずっと長く職場が一緒だったわけでもない。
「ネズかあさん・ネズ子」のエピは本人自身が取材に答えている。
----------------------------------------
上田奈生子さんと雅子妃との付き合いは1992年からではない。
本人が答えている。
1987年4月の入省時から友人になり、それからずっと交友を続けていた。
そして皇太子妃となったあとも友情が続いている。
「おめでとう皇太子さま雅子さま」
敬宮さま誕生記念写真集 新世紀の皇室
上田奈生子さんの寄稿(一部抜粋)
- 34 :
- 雅子さまへの手紙――新しい時代の皇室像(抜粋)1/2
外務省の新入省員歓迎会で初めて目が合った時から、雅子さまは私をかけがえ
のない友人として迎え入れて下さいました。(略)
入省一年後、外務省の研修のため初めてのアメリカ留学で慣れない毎日を送る
私に、イギリスで猛勉強中の雅子さまから届いた絵葉書が、元気をくれました。
冬休みには、スキー初心者の私をアルプスでのスキーに誘ってくださり、結局
行けなかったけれども、そのお誘いがむしょうに嬉しかったことを思い出しま
す。
研修後雅子さまは帰国なさり、北米二課勤務で不眠不休の毎日。どんなにか疲
れていらしたでしょうに、アメリカ出張の週末、ニューヨークの私のアパート
まで駆けつけて下さいましたね。あの時のカレーの味、そして、共に食事した
雅子さまの大学時代のルームメート、ジージーの紅潮した顔が忘れられません。
その後私も帰国し、北米二課へ。晴れて同僚となった一九九二年の春、「残業
は労働者の権利侵害」と息巻く私の横で、雅子さまは、タフな交渉力と知的集
中力を要する困難なお仕事を黙々とこなしていらっしゃいました。気がつけば
いつも午前二時過ぎ。でも、雅子さまは愚痴をこぼされませんでした。お疲れ
をおして、車で私を自宅まで送って下さったこともありました。そして朝まで
語り明かしましたね。ちらかったうちの台所で。
- 35 :
- 雅子さまへの手紙――新しい時代の皇室像(抜粋)2/2
あのころ、週末にご一緒した茶道、ミュージカル、コンサート、プール、テニ
ス、そして雅子さまの同窓の方々との集いなどを、懐かしく思い出します。送
り迎えはいつも雅子さまの愛車でしたね。思い出の北海道旅行も、運転は雅子
さまでした。私は助手席で歌を歌うだけ。思えば、私はいつも雅子さまから受
けるばかりでした。
冬の週末、雅子さまが作って下さった夜ご飯の味は、一生忘れられません。雅
子さまの人生の岐路に立ち会える器ではなかった私に、雅子さまはそれでも深
い友情を注いで下さいました。(略)
雅子さまは、ご公務の合間を縫って、母の日や父の日などの特別な日には、両
陛下、そしてご両親のためにお菓子を焼かれることもよくありました。一生懸
命に、心を込めて。
雅子さまがアフリカに赴任する私を励ますために優しく手を繋いで下さったと
き、一時帰国した私を元気づけるためにお袋の味のおいしいご馳走でもてなし
て下さったとき、そして、再度の一時帰国を終えてジンバブエに戻る直前の私
を勇気づけるため、別れ際にぎゅっと肩を抱きしめて下さったとき私は人の心
を動かす篤い友情とは何かを、身をもって知る思いがしました。
- 36 :
- 人間、少々ちゃらんぽらんに生きるほうがいいのかも。
誠実で真摯な人間は、真面目さゆえに心を病んでしまう。
- 37 :
- >>29
0時半
訂正→12時半
- 38 :
- 昭和天皇と香淳皇后が結婚されるとき、純血派と人倫派が争ったという。
純血派は、色盲遺伝子を理由に良子女王入内を阻む一派、
人倫派は、良子女王を推した貞明皇后をはじめ、いったん決めた入内を
取りやめるのは人倫に悖るとする一派。
最終的に人倫派が勝ち、良子女王は入内された。
小和田雅子が皇太子妃候補として名を上げられたときも、内務派と外務
派が争った。
母の父に会社支援のためとはいえ、公害企業に名を連ねた男を持つ女性
など、という一派と、
あくまで本人の人柄重視、皇太子の意思重視の一派。
内務派は純血派と思考において重なり、ゴシップ誌に中傷の記事を書か
せるなど旧左翼的な手法をみせた。
- 39 :
- >>16
ソース提示あり
訂正
*****************
131 :名無し草 :2007/08/28(火) 15:46:27
(略)
伝聞や憶測ではない。
昭和3年に学習院の開校50周年を記念して刊行された『学習院史』附表の旧職員者
名簿の(2)教授・助教授・学生監の欄に川嶋庄一郎の名はある。
誤植で「川島左一郎」と記されているが、正しくは庄一郎である。
この名簿によると、川嶋庄一郎は明治34年12月から昭和37年5月まで教授を務めてい
たことが分かる。
また、昭和53年に開校100周年を記念して刊行された『学習院の百年』の歴代科長の名には、
初代初等科長を務めた坂彪太郎の次に川島庄一郎の名が記されている。
初等科長を務めたのは、明治35年1月から明治36年10月までとある。
よって、川嶋庄一郎が学習院教授で初等科町も兼任した時期があったことは事実であり、
伝聞・憶測ではないことが立証された。
****************
なかなか面白い資料が見つかった様子
- 40 :
- 2001年12月01日 愛子内親王誕生
2002年12月01日 愛子内親王一才
2002年12月11日〜19日 NZ・AU訪問
2003年06月10日 湯浅長官:やはりもう一人ほしい>皇太子夫妻
2003年12月01日 愛子内親王二才
2003年12月02日 帯状疱疹発症
2003年12月04日 帯状疱疹のため入院
2003年12月11日 湯浅長官:第3子を>秋篠宮夫妻
2004年05月12日 人格否定発言
- 41 :
- 資料2002年11月
- 42 :
- 皇太子・同妃両殿下 主なご動静 平成14年(2002年)
11月04日 妃殿下 第52回「児童福祉施設文化祭」ご臨席(明治神宮会館)
05日 両殿下 平成14年度文化勲章受章者、文化功労者等茶会(皇居)
06日 両殿下 第29回「日本賞」教育番組国際コンクール授賞式ご臨席(NHKホール)
07日 殿下 離任駐日フランス大使ご接見(東宮御所)
08日〜10日 両殿下 高知県ご訪問[第2回全国障害者スポーツ大会ご臨場、地方事情ご視察]
12日 殿下 東京ガス根岸工場ご視察(横浜市)
14日 殿下 京都府ご訪問[ご研究のため]御霊神社・陽明文庫ご視察(京都市)・ご帰京
15日 殿下 青年海外協力隊ご接見(東宮御所)
16日 両殿下 江東区立明治小学校開校130年記念式典ご臨席
18日 殿下 離任本邦駐在ポーランド国特命全権大使ご接見
殿下 青年海外協力隊ご接見(東宮御所)
20日 妃殿下 児童養護施設「福音寮」ご視察(世田谷区)
殿下 東京大学教授・虫明功明ご進[第3回世界水フォーラム関係](東宮御所)
21日 【高円宮殿下薨去】
23日 両殿下 故憲仁親王喪儀 拝訣(高円宮邸)
26日 両殿下 前AU駐在特命全権大使、前NZ駐在特命全権大使ご進講
27日 両殿下 本邦駐在NZ特命全権大使夫妻、本邦駐在AU特命全権大使ご接見
両殿下 故憲仁親王御通夜(高円宮邸)
28日 両殿下 ドミニカ共和国大統領午餐(宮殿)
両殿下 故憲仁親王喪儀 霊代安置の儀(高円宮邸)
29日 両殿下 故憲仁親王喪儀 斂葬当日柩前祭の儀(高円宮邸)
両殿下 故憲仁親王喪儀「斂葬の儀」葬場の儀(豊島岡墓地)
両殿下 国立民族学博物館教授・石森秀三、同・久保正敏ご進講[NZ・AUご訪問関係]
30日 両殿下 故憲仁親王喪儀 斂葬後一日権舎祭の儀・権舎十日祭の儀(高円宮邸)
両殿下 故憲仁親王喪儀 斂葬後一日墓所祭の儀・墓所十日祭の儀(豊島岡墓地)
- 43 :
- ※高知県訪問※
11月08日高知県知事・橋本大二郎より県勢概要ご聴取(高知市・高知県庁)
高知県選手団激励の夕べご臨席、ご宿泊(高知市・城西館)
09日全国障害者スポーツ大会開会式ご臨席、集団演技ご覧(春野町・
県立春野総合運動公園陸上競技場)
知的障害者更生施設「あじさい園」ご視察(春野町)
バスケットボール競技ご覧(伊野町・県立青少年体育館)
10日フライングディスク競技ご覧(高知市・高知市総合運動場陸上競技場)
高知県立美術館ご視察(高知市)
グランドソフトボール競技ご覧(高知市・高須浄化センターグラウンド)
フットベースボール、バレーボール競技ご覧(南国市・南国市立スポーツセンター)
- 44 :
- 秋篠宮家 主なご動静 平成14年(2002年)
11月01日 両殿下 菊栄親睦会会員午餐(御所)
05日〜07日 両殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王殿下 岩手県ご訪問
[自然と共生するまちづくりシンポジウムご臨席ほか]
07日 両殿下 南アフリカ・フェスティバル・ガラ・バンケットご臨席(ヒルトン東京ホテル)
14日 両殿下 「第11回ブループラネット賞」表彰式典・祝賀パーティーご臨席(東京會館)
15日 両殿下 第41回農林水産祭「実りのフェスティバル」ご視察(東京国際展示場)
18日 両殿下 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団公演ご鑑賞(サントリーホール)
21日 殿下 最高裁判所長官始めお話・午餐(宮殿)
【高円宮殿下薨去】
23日 両殿下 故憲仁親王喪儀 拝訣(高円宮邸)
27日 両殿下 故憲仁親王喪儀 正寝移柩の儀(高円宮邸)
28日 妃殿下 愛知県ご訪問[平成14年度愛知県赤十字大会ご臨席]
殿下 ドミニカ共和国大統領ご会見・午餐(宮殿)
両殿下 故憲仁親王喪儀 霊代安置の儀(高円宮邸)
両殿下 故憲仁親王御通夜(高円宮邸)
29日 両殿下 故憲仁親王喪儀 斂葬当日柩前祭の儀(高円宮邸)
両殿下 故憲仁親王喪儀「斂葬の儀」葬場の儀(豊島岡墓地)
両殿下 故憲仁親王喪儀「斂葬の儀」墓所の儀(豊島岡墓地)
30日 殿下お誕生日 ※高円宮殿下薨去にともない祝賀行事はお取りやめ
両殿下 故憲仁親王喪儀 斂葬後一日権舎祭の儀・権舎十日祭の儀(高円宮邸)
両殿下 故憲仁親王喪儀 斂葬後一日墓所祭の儀・墓所十日祭の儀(豊島岡墓地)
- 45 :
- 高円宮家 主なご動静 平成14年(2002年)
11月01日 両殿下 菊栄親睦会会員午餐(御所)
02日 両殿下 山梨県ご訪問[第12回ジャパンフラワーフェスティバルやまなし2002ご臨場]
05日 両殿下 離任駐日フランス大使ご引見(宮邸)
05日〜08日 殿下 [高円宮様のカメラがとらえた「素顔の一瞬」写真展開場式ご臨席〈大阪府〉
あいち芸術文化フェスタ2002ご臨場〈愛知県〉
第10回地域伝統芸能フェスティバルご臨場〈富山県〉]
※妃殿下は7日〜8日に富山県をご訪問
09日〜12日 殿下 [日本スポーツマスターズ2002ご臨場〈神奈川県〉
第18回京都賞授賞式典ご臨席〈京都府〉
第2回全国障害者スポーツ大会ご臨場〈高知県〉]
※妃殿下は9日〜12日に京都府、高知県をご訪問
14日 両殿下 世界大衆薬協会第14回総会、第5回アジア・太平洋地域会議〈東京大会〉ご臨席(ホテル日航東京)
両殿下 高円宮杯第54回全日本中学校英語弁論大会〈決勝予選〉ご臨場(読売新聞東京本社)
15日 両殿下 高円宮杯第54回全日本中学校英語弁論大会〈決勝予選〉ご臨場(読売新聞東京本社)
16日 殿下 高円宮杯第54回全日本中学校英語弁論大会〈決勝大会〉ご臨場(読売ホール)
両殿下 高円窓杯第54回全日本中学校英語弁論大会レセプションご臨席(帝国ホテル)
18日〜19日 両殿下 長野県ご訪問[第3回ノルディック・ジャパン環境会議2002ご臨席]
20日 殿下 法務大臣始め検事長等お話・午餐(宮殿)
21日 【高円宮殿下薨去】
23日 故憲仁親王喪儀 御舟入(宮邸)
故憲仁親王喪儀 拝訣(宮邸)
27日 故憲仁親王喪儀 正寝移柩の儀(宮邸)
28日 故憲仁親王喪儀 霊代安置の儀(宮邸)
29日 故憲仁親王喪儀 斂葬当日柩前祭の儀(宮邸)
故憲仁親王喪儀「斂葬の儀」葬場の儀(豊島岡墓地)
故憲仁親王喪儀「斂葬の儀」墓所の儀(豊島岡墓地)
30日 故憲仁親王喪儀 斂葬後一日権舎祭の儀・権舎十日祭の儀(宮邸)
故憲仁親王喪儀 斂葬後一日墓所祭の儀・墓所十日祭の儀(豊島岡墓地)
- 46 :
- 病気になる以前の公務比較表
- 47 :
- 資料2002年12月
- 48 :
- 皇太子・同妃両殿下 主なご動静 平成14年(2002年)
12月01日 【敬宮殿下お誕生日】
両殿下、敬宮殿下 お誕生日につきご参内(皇居・御所)
両殿下、敬宮殿下 お誕生日につき諸行事(東宮御所)
02日 殿下 平成14年度上級国家行政セミナー参加者ご接見(東宮御所)
両殿下 駐フィリピン大使ご説明ご陪席[同国大統領夫妻来日につき](皇居・御所)
03日 両殿下 フィリピン大統領夫妻(国賓)歓迎行事(迎賓館赤坂離宮)
両殿下 フィリピン大統領夫妻宮中晩餐(宮殿)
04日 両殿下 外務省アジア大洋州局長、同経済局長ご進講
06日 両殿下 武蔵野陵、武蔵野東陵ご参拝[外国ご訪問前につき](武蔵陵墓地)
両殿下 外務省国際情報局長ご進講(東宮御所)
09日 【皇太子妃殿下お誕生日】
両殿下 お誕生日につき諸行事
妃殿下 お誕生日につきご参内(皇宮・御所)
10日 殿下 NZ、AUご訪問につき、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿)
両殿下 NZ、AUご訪問につき、天皇・皇后両陛下にご挨拶(皇居・御所)
11日〜19日 両殿下 NZ、AUご訪問
20日 両殿下 ご帰国につき、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿)
殿下 内閣総理大臣始め午餐(宮殿)
23日 殿下 天長祭の儀(宮中三殿)
両殿下 天皇陛下お誕生日祝賀行事(宮殿)
25日 両殿下 大正天皇例祭の儀(皇霊殿)
殿下 第20回世界ジャンボリー日本派遣団ご接見
27日 両殿下 皇族・元皇族・元王族・ご親族午餐[歳末につき](宮殿)
両殿下 離任駐日ネパール大使夫妻ご接見(東宮御所)
- 49 :
- ※NZ、AU訪問※
12月11日 東京よりNZヘご出発
12日 オークランド空港経由・首都ウェリントンにご到着
歓迎式典・総督主催非公式昼食会(総督公邸)
献花(国立戦争記念碑)、大使夫妻主催夕食会(大使公邸)ご宿泊(総督公邸)
13日 ウェタ・スタジオご視察
在留邦人、JET、国費留学生等ご接見(大使公邸)
ウェリントン市長主催レセプション(タウン・ホール)
カレン首相代理の表敬・記念植樹・野党党首の表敬(総督公邸)
国立博物館ご視察、総督主催晩餐会、ご宿泊(総督公邸)
14日 クライストチャーチヘご移動、国際南極センターご視察
クライストチャーチ市長主催レセプション(シャトー・オン・ザ・パーク・ホテル)
テ・アナウヘご移動・ご宿泊(ホリデイ・イン・テ・アナウ・ホテル)
16日 アメリカズ・カップ・ビレッジご視察、スターシップ小児病院ご訪問
オークランド市長主催昼食会(タウン・ホール)
在留邦人等ご接見(スタンフォード・プラサ・ホテル)、AUシドニーヘご移動
在留邦人・斎日協会関係者等ご接見・総領事主催タ食会(総領事公邸)
17日 ノースブリッジ小学校ご視察、タロンガ動物園ご視察
ハワード連邦首相主催昼食会(キリビリハウス)
ロイヤル小児病院ご視察
ニュー・サウス・ウェールズ州首相主催夕食会(クルーズ船)
18日 キャンベラヘご移動、無名戦士の墓へ献花(戦争記念館)
在留邦人・日豪関係者等ご接見、大使主催昼食会(大使公邸)
国立科学技術センターご視察、国会議事堂ご視察
ハーパー氏とのお会い(ハイアット・ホテル)
連邦総督表敬・連邦総督主催晩餐会(連邦総督公邸)
19日 東京へご出発・ご到着・天皇・皇后両陛下にご挨拶(皇居・御所)
- 50 :
- 秋篠宮家 主なご動静 平成14年(2002年)
12月03日 両殿下 フィリピン大統領夫妻宮中晩餐(宮殿)
04日 両殿下 殿下お誕生日にあたっての記者会見(宮邸)
05日 妃殿下 難民募金キャンペーン「愛の木」点灯式ご臨場(東京駅)
09日 両殿下 皇太子妃殿下お誕生日祝賀(東宮御所)
妃殿下 結核予防会会長他ご接見(宮邸)
10日 両殿下 故憲仁親王喪儀 権舎二十日祭の儀(高円宮邸)
両殿下 故憲仁親王喪儀 墓所二十日祭の儀(豊島岡墓地)
※川島紀子さん(父方祖母)死去により、妃殿下30日間の喪
13日 殿下 山階鳥類研究所資金援助者への感謝状贈呈及び昼食会ご臨席(千葉県)
16日 殿下 第46回日本学生科学賞関係ご進講(宮邸)
殿下 賢所御神楽の儀(賢所)
19日 皇太子・同妃両殿下外国ご訪問ご帰国につきお出迎え(東宮御所)
20日 両殿下 故憲仁親王喪儀 権舎三十日祭の儀(高円宮邸)
両殿下 故憲仁親王喪儀 墓所三十日祭の儀(豊島岡墓地)
22日 両殿下 第46回日本学生科学賞」中央表彰式ご臨席(日本科学未来館)
23日 殿下 天皇陛下お誕生日行事[一般参賀、祝賀の儀、宴会の儀、茶会の儀:](宮殿)
24日 両殿下 離任駐日ネパール大使ご引見(宮邸)
両殿下 高知県知事ご接見(宮邸)
25日 殿下 大正天皇例祭の儀(皇霊殿)
殿下 世界自然保護基金ジャパン事務局長ご進講(宮邸)
27日 殿下 皇族・元皇族・元王族・ご親族午餐[歳末につき](宮殿)
30日 殿下 故憲仁親王喪儀 権舎四十日祭の儀(高円宮邸)
殿下 故憲仁親王喪儀 墓所四十日祭の儀(豊島岡墓地)
- 51 :
- 平成15年(2003年)以降は、宮内庁HPに日程表あり
- 52 :
- >>22補足
香淳皇后:斂葬の儀関係の資料
■平成12年(2000年)■
06月16日 皇太后崩御
06月17日 拝訣
06月18日 御舟入の儀
06月19日 斂棺の儀
06月28日 殯宮移御の儀
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀
06月30日 殯宮拝礼の儀◆宮家筆頭の秋篠宮以下皇族・大臣議員等
07月01日 外交団殯宮拝礼◆外国弔問客
07月02日 殯宮一般拝礼◆一般国民弔問
07月05日 殯宮二十日祭の儀
07月10日 追号奉告の儀
07月15日 殯宮三十日祭の儀
07月24日 霊代奉安の儀★
07月25日 斂葬の儀★
07月26日 斂葬後一日祭の儀★
◆は皇太子夫妻は関与しない儀式
★が雅子妃が欠席した儀式、他は出席
メインの7月25日斂葬の儀は早朝開始、終了が夜20:35
天皇皇后両陛下始め皇族方武蔵陵墓地総門御発
- 53 :
- >>52補足
06月28日 殯宮移御の儀
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀
これは高円宮妃、欠席の儀式
女性は月ごとに生理があるから、閉経していない限り
欠席する日があって当然
無欠席の方が、奇跡的だと思う
- 54 :
- 前年の暮れに流産で、心身ともに落ち込んでいたのに
四十日近い崩御後の儀式をほぼ終わり近くまで出来ただけでも
立派だと思うけどね
あの当時、雅子妃を責めた報道はなかったのに、どうして
最近になってバッシングの材料にされているのか理解に苦しむ
- 55 :
- 病中の祭祀に関する資料・・・2002-2003年
- 56 :
- 天皇陛下 ご動静
平成14年(2002)
12月28日 前立腺がんによる手術の発表
12月31日 節折の儀(御所)
平成15年(2003)
01月01日 四方拝お取りやめ
01月01日 歳旦祭の儀(掌典ご代拝)
01月03日 元始祭(掌典長ご代拝)
01月16日 入院につき皇太子が国事行為を代行
01月18日 手術
02月08日 退院
02月18日 国事行為ご再開
03月20日 手術後初の外出をともなう公務
〜(中略)〜
06月16日 香淳皇后三年式年祭ご出席
- 57 :
- 平成15年1月1日より5月21日までの以下の祭祀は欠席
・昭和天皇祭
・持統天皇千三百年式年祭
・孝明天皇例祭
・春季皇霊祭・春季神殿祭
・神武天皇祭・皇霊殿御神楽の儀
・開化天皇二千百年式年祭
ttp://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_kyuchu_01_2.pdf
- 58 :
- 国事行為を含む、通常の公務の中止
2003年01月16日〜02月18日
祭祀の中止
2003年01月01日〜06月15日
- 59 :
- 宮中で行われている祭祀については,私たちは大切なものと考えています
が,雅子が携わるのは,通常の公務が行えるようになってからということに
なると思います。
ttp://www.kunaicho.go.jp/koutaishi/denkakaiken-h18.html
- 60 :
- 今上の場合は、次の順序で公務再開が行われた
医者によるガン組織の転移なしの発表
祭祀以外の公務(外出をともなわない)
祭祀以外の公務(外出をともなう)
祭祀
- 61 :
- 器質的な病気でない場合、同じ段階を経ることはないだろうけれど
少なくとも
祭祀以外の公務(外出をともなわない)
祭祀以外の公務(外出をともなう)
これらが健康だったころとに、同様こなせるようになり、
医者による全快発表もしくはカウンセリング等の治療の終了
の後に
祭祀
と、なるのは祭祀をないがしろにしているからとは言えないと思う
むしろ最上級の敬意かと
- 62 :
- ◆動静に関する参考資料◆
私たちの皇室(主婦と生活社)
皇室 Our Imperial Family(扶桑社ムック)
読売新聞
宮内庁HP
- 63 :
- >>52追加修正
香淳皇后:斂葬の儀関係の資料
■平成12年(2000年)■
06月16日 皇太后崩御
06月17日 拝訣
06月18日 御舟入の儀
06月19日 斂棺の儀
06月28日 殯宮移御の儀
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀
06月30日 殯宮拝礼の儀◆宮家筆頭の秋篠宮以下皇族・大臣議員等
07月01日 外交団殯宮拝礼◆外国弔問客
07月02日 殯宮一般拝礼◆一般国民弔問
07月05日 殯宮二十日祭の儀
07月10日 追号奉告の儀
07月15日 殯宮三十日祭の儀
07月24日 霊代奉安の儀★
07月25日 斂葬の儀★
07月26日 斂葬後一日祭の儀★
08月04日 山稜五十日祭の儀(武蔵野陵墓地)
◆は皇太子夫妻は関与しない儀式
★が雅子妃が欠席した儀式、他は出席
メインの7月25日斂葬の儀は早朝開始、終了が夜20:35
天皇皇后両陛下始め皇族方武蔵陵墓地総門御発
- 64 :
- >>63
山稜→山陵
- 65 :
- >>63再修正
香淳皇后:斂葬の儀関係の資料
■平成12年(2000年)■
06月16日 皇太后崩御
06月17日 拝訣
06月18日 御舟入の儀
06月19日 斂棺の儀
06月28日 殯宮移御の儀
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀
06月30日 殯宮拝礼の儀◆宮家筆頭の秋篠宮以下皇族・大臣議員等
07月01日 外交団殯宮拝礼◆外国弔問客
07月02日 殯宮一般拝礼◆一般国民弔問
07月05日 殯宮二十日祭の儀
07月10日 追号奉告の儀
07月15日 殯宮三十日祭の儀
07月24日 霊代奉安の儀★
07月25日 斂葬の儀★
07月26日 斂葬後一日祭の儀★
08月04日 権殿五十日祭の儀(皇居)山陵五十日祭の儀(武蔵野東陵)
09月23日 権殿百日祭の儀(皇居)山陵百日祭の儀(武蔵野東陵)
◆は皇太子夫妻は関与しない儀式
★が雅子妃が欠席した儀式、他は出席
メインの7月25日斂葬の儀は早朝開始、終了が夜20:35
天皇皇后両陛下始め皇族方武蔵陵墓地総門御発
- 66 :
- まけ(月経)
「まけ」ましてから八日目で中清(常態)になり、御殿外陣での御用ができる
ようになり、さらに三日後の十一日目からは大清(もっとも清い衣服)を着て
御内陣の御用もできるようになります。 「宮中賢所物語」P43-45
宮中三殿の殿内はいずれも奥から内々陣、内陣、外陣に分かれている。
内々陣にはご神体が祀られ、御簾で隔てられた内陣から拝礼する。
内陣に入れるのは天皇、皇后、皇太子、同妃まで。
内陣と外陣は白絹のカーテン状の帷(とばり)で区切られている。
「新天皇家の自画像」P244
皇太子妃が祭祀に関われないのは、まけのたびに11日(?)〜短くても8日
- 67 :
- 平成10年(1998年)
12月15日 賢所御神楽の儀 ○
12月25日 大正天皇例祭の儀 ○
平成11年(1999年)
01月03日 元始祭 ○
01月07日 昭和天皇十年式年祭の儀 ○
01月30日 孝明天皇例祭 ○
02月08日 仁徳天皇1600年式年祭 ×(ヨルダン国王葬儀出席)
03月21日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ○
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ×
07月30日 明治天皇例祭 ○
09月23日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 ×
10月17日 神嘗祭 ○
11月12日 即位十年賢所皇霊殿神殿祭典の儀 ×
12月10日 [懐妊の兆候が報じられる]
12月15日 賢所御神楽の儀 ×
12月25日 大正天皇例祭の儀 ×
12月30日 [繋留流産により入院]
- 68 :
- 平成12年(2000年)
01月03日 元始祭 ×
01月07日 昭和天皇祭 ×
01月30日 孝明天皇例祭 ×
02月13日 [流産後、初の公務での外出]
03月08日 仲哀天皇1800年式年祭 ○
03月20日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ○
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ×
06月16日 [香淳皇太后崩御]
(服喪のため通常の祭祀なし)
06月17日 拝訣 ○
06月18日 御舟入の儀 ○
06月19日 斂棺の儀 ○
06月28日 殯宮移御の儀 ○
06月29日 殯宮移御後一日祭の儀 ○
07月05日 殯宮二十日祭の儀 ○
07月10日 追号奉告の儀 ○
07月15日 殯宮三十日祭の儀 ○
07月24日 霊代奉安の儀 ×
07月25日 斂葬の儀 ×
07月26日 斂葬後一日祭の儀 ×
08月04日 権殿五十日祭の儀・山陵五十日祭の儀 ○
09月23日 権殿百日祭の儀・山陵百日祭の儀 ○
- 69 :
- 平成13年(2001年)
04月16日 [皇太子妃懐妊の兆候発表]
06月16日 香淳皇后権殿一周年祭の儀(皇居) ○
香淳皇后山陵一周年祭の儀(武蔵陵) ×
07月10日 [内着帯の儀]
10月26日 [着帯の儀]
(懐妊のため通常の祭祀は陪席なし)
平成14年(2002年)
(産後の穢れ[100日?]のため通常の祭祀は陪席なし)
03月13日 [愛子内親王賢所皇霊殿神殿に謁するの儀]
03月21日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ○
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ○
06月16日 香淳皇后例祭 ○
07月30日 明治天皇例祭 ○
09月23日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 ○
10月17日 神嘗祭 ×
12月16日 賢所御神楽の儀 ×(豪州・NZ訪問中)
12月25日 大正天皇例祭の儀 ○
- 70 :
- 平成15年(2003年)
01月03日 元始祭 ×
01月07日 昭和天皇祭 ×
01月17日 持統天皇1300年式年祭 ○
01月30日 孝明天皇例祭 ○
03月21日 春季皇霊祭・春季神殿祭 ×
04月03日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽 ○
05月21日 開化天皇2100年式年祭 ×
06月16日 香淳皇后三年式年祭 ○
07月30日 明治天皇例祭 ×
09月23日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭 ○
10月17日 神嘗祭 ×
12月02日 [帯状疱疹発症のため入院]
(以下療養)
- 71 :
- 平成6年(1994)2月9日
皇太子同妃両殿下、結婚後初の会見
Q:皇室に入っていちばん苦労したことは
皇太子妃殿下
「自分の人生でなかったような場面がありました。常に大勢の人に見られる
状況は経験したことはございませんので、最初のうちは驚きを感じました」
平成15年(2003)
ご成婚10周年の文書回答
皇太子殿下
雅子にとって,私がとても大変だったのではと思うことの一つに,常に人に
見られ注目されるということが挙げられます。私の場合は生まれながらに
皇族でした。そして,そのようなことには,時間をかけて徐々に慣れてきた
ように思います。雅子の場合はそれが私と結婚したとたんに始まったわけ
です。(それ以前からとも考えられますが....。)よく,今日まで視線に耐
えて頑張っていると思います。私は,人に見られることや注目されることに
疑問を持った自分自身の幼少のころや,それに徐々に慣れていく過程を
思い出しながらアドバイスするように努めたつもりです。(ただ,自分として,
これらをどこまで実践できたかは分かりませんが。)また,懐妊へのプレッ
シャーはとても大きなものがありました。雅子にとっては本当につらい日々
だったと思いますが,二人で乗り切ることができたことは有り難いことでした。
- 72 :
- 平成8年(1996)2月23日
皇太子誕生日にご夫妻で記者会見
皇太子妃殿下
「私は皇室に入りましてから、まだ二年半余りと日の浅くいので、ようやく
皇室の儀式ですとか行事、そういった年間を通しての過ごしようがわかっ
てきたところであるように思います。
(公務のない日の過ごし方は?)皇室の大切な伝統でございます和歌で
すとか、書道を楽しく学んでおりますけれど、上達への道のりは長いよう
で、気長に一歩一歩、努力していかなければいけないかしら」
平成10年(1998)12月9日
皇太子妃殿下誕生日記者会見
皇室に入りましてから、いろいろなことを経験する機会に恵まれ、大変有り
難いことと思っております。お陰様で、初めのうちは右も左も分からず一つ
一つのことを一から教えていただいておりました宮中の行事や、公務など
も次第に慣れてまいりまして、だんだんと楽しく感じるゆとりも生まれてまい
りました。
- 73 :
-
.∧__∧
(´・〜・`) これ持ってると書ける?
/つ●と
し-―J
- 74 :
- おや
- 75 :
- ♥
- 76 :
- 曝涼
- 77 :
- 御物については必ずしも厳密に定義されているわけではないが、ここでは
皇室に伝えられている絵画・書跡・工芸品・刀剣など、とくに由緒あるものを
「御物」と称する。御物は宮内庁侍従職で管理している。
これらの由緒ある御物は、美術的・歴史的・文化的にも価値が高いといわ
れ、わが国の皇室が学芸を奨励し、保護し、文化の進展に深くかかわって
きたことの証の品である。
一般には公開されていないが、特別展覧会や美術・学術図書などを通して
随時紹介されている。(中略)
御物は、皇居内と京都御所にある御文庫と呼ばれる建物に保管されている。
皇居内の御文庫は位置的には二重橋の後方にあたり、江戸時代より西の丸
山里と呼ばれていた場所にある。
山里御文庫は明治二十一年(1888)、明治宮殿の造営と時を同じくして建て
られた。
現在、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后の御遺物類が保管されて
いる。(中略)
- 78 :
- 御物は、皇居内と京都御所にある御文庫と呼ばれる建物に保管されている。
皇居内の御文庫は位置的には二重橋の後方にあたり、江戸時代より西の丸
山里と呼ばれていた場所にある。
山里御文庫は明治二十一年(1888)、明治宮殿の造営と時を同じくして建て
られた。
現在、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后の御遺物類が保管されて
いる。(中略)
同庫の一角に、刀剣類を収める御剣庫がある。御剣は、皇室では古来より重
要な品で、宮中祭祀及び儀式の節に使用されている。著名なものに、太刀無
銘(号、小烏丸)、太刀無銘(菊御作)などがある。また、壷切御剣は、天皇から
皇太子へ相伝の品として授けられる由緒の品である。
御剣は、とくに保存に注意を要するため、毎月二回、専門家に手入れを依頼し
ている。
- 79 :
- 京都御所内にある御文庫は、東山御文庫・御池庭御文庫を中心とする。なか
でも、歴代天皇によって特別に保護されてきたのが東山御文庫で、天皇の勅
封の保護のもとに相伝されてきた。(中略)
京都御所内にある、東山御文庫を始めとする各御文庫に収蔵されている御物
は曝凉(涼)を行っている。曝涼とは、物を日に曝して風を通すことで、虫干しを
意味する。
曝涼の歴史は古く、最古の文献は、正倉院宝物の中に「延暦六年曝涼使解」
がある。これは延暦六年(787)に薬物などの点検を実施した時の文書である。
平安時代、宮中では七月七日に各御殿の御物を清涼殿に集めて虫干しを行う
という記述が大江匡房の著した儀式書『江家次第』にみえる。
- 80 :
- 現在の曝涼は、毎年天候の安定する秋の十月中旬から十一月にかけての約
一か月が選ばれる。場所は、京都御所の建物(参内殿室内)で、ここに仮設棚
を設置する。
勅封の蔵としては正倉院と同文庫の二つだけが現在残っているが、正倉院とは
異なり、東山御文庫の御物は、扉ではなく各収納箱ごとに勅封(天皇の勅命に
よる封印)が施されている。天皇から勅封紙(天皇の御印が捺されたもの)をい
ただき、侍従が差し遣わされ前回の御封を点検し、異常のないことを確認してか
ら曝涼が始まる。曝涼を終えると、新しい御封紙により施封し、格納する。
収納箱は勅封第一番から第百八十九番まであり、曝涼はほぼ五年間隔で一回
転するよう計画されている。期間中は雨天の日及び湿度が高い日を除き、毎日
行われる。
この間、宮内庁書陵部によりマイクロフィルムの撮影及び調査が行われ、写真
による研究利用に供される。また、学術研究者にはとくに願い出により、拝観の
機会を与えられている。
皇室の名宝(朝日新聞社刊)P330-332
- 81 :
- とびとびになったので集約+追記>国際司法裁判所
- 82 :
- 「日本の間」は国際司法裁判所が社交の目的でつかうこともあるが、もともとは常設
仲裁裁判所の評議会の部屋である。年に一度、オランダ外務大臣が議長になって
招集するこの仲裁裁判所の加盟国のオランダ駐在大使の集りが催される。日本の
大使の坐る椅子の背中には金の菊の紋章が織り込まれている。実際にこの部屋が
実務につかわれることはきわめて少なく、これは年に四、五万人を数える平和宮の
見物客への見せ場である。
この百畳敷ほどの評議会室に敷かれているのはトルコの寄附した一枚織りのじゅう
たんであり、部屋のなかには当時の清国の寄附した対の巨大な七宝の花瓶や、シャ
ムの寄附した1メートル半もあろうかと思われるこれも対の象牙が飾られている。
それにもかかわらず、これが「日本の間」とよばれるのは、文句なしにこの部屋を圧
倒している壮大にして華麗な西陣つづれ錦のためである。(中略)
- 83 :
- >>82
続き
今この平和宮の「日本の間」の三つの壁、そうして窓の上の欄間にかけられている
壮大華麗のつづれ錦の描写は私のよく為し得るところではない。春景に始まり百花
繚乱の初夏に終る三方の壁の花鳥の図のなかには、さきにふれたフランス語の説
明書によれば、桜、藤、柏、杉、木蓮、つつじ、銀杏の木が配され、けし、百合、あや
め、おだまき、たんぽぽ、牡丹、金盞花が咲き乱れ、熊笹が茂る。池のほとりに遊ぶ
のは、翼をかざす孔雀、きじ、しろきじ、鳩、豆鳥、燕などである。延べ十五メートル
に及ぶ、まさに壮大な平和の図である。
恐らくはこのつづれ錦が平和宮にかけられた大正のはじめ、これだけの日本の美術
が世界に紹介された例は多くはなかったであろう。そうして文字どおり燦然と輝くこの
壁掛の前に多くの人々は息をのんだことであろう。それからすでに七十年余り、色は
褪せ、ほころびも目立つようになってきた。
東京にある原画をもとにして新たに織り直す話などもあったが、紆余曲折ののち、日
本政府と川島織物の寄附ではじまった修理はようやく終り、一九八六年(昭和六十一
年)四月、オランダ側、国際司法裁判所、外交団などを招いての祝賀レセプションが
盛大にひらかれた。平和宮の「日本の間」のつづれ錦は今後長く、ハーグ観光のひと
つのポイントであり続けるであろう。
国際司法裁判所 P30-36
小田滋 1987年7月20日/第一版第一刷発行
- 84 :
- 国際司法裁判所
小和田恒着任は2003年
ttp://www.courts.go.jp/about/sihonomado/pdf/hottoanguru65.pdf
前任の小田滋(1976〜2002)
小田滋氏の在任時にはすでに「日本の間」に金の菊紋の椅子が置かれていた。
各国とも、国旗ではなく国章・またはそれに準じる紋章を描いた椅子が置かれて
いる。
これは実務用の椅子ではなく、オランダ大使などが年に数度使う程度。
国際司法裁判所の裁判官の称号は「閣下」
国際機関での地位は、国連事務総長の下、事務次長の上。
外交席次に関しては、大使と同等。
所長は大使の上で、大使団との食事会では最高位。
- 85 :
- 国際司法裁判所の裁判官は、外交官の特権を有する。
小田滋の著述によれば、普通はレッセ・パッセという赤表紙の
国連事務次長以上が有するパスポートで出入国した。
しかし日本に入国する際は、入国審査官が日本政府発行の
旅券を持っていないかと尋ねたので、日本政府発行の数次
外交旅券(濃茶)のほうをしばらく使っていた、とのこと。
小和田閣下が、米国への入国の際、外交官でもないのに
外交官の焦げ茶のパスポートを使っていたとか、偉そうだとか
見せびらかすのかと鬼女スレで騒いでいたけれど、この場合
持っていて当然、手持ちではレベルの低い方のパスポートとも
言える。
- 86 :
- 国際司法裁判所の裁判官の着任時平均年齢は、62-3歳。
任期が9年なので、一期で退任した場合の年齢は平均71-2歳。
これまで二期務めたフランスの86歳、三選されたポーランドの82歳まで。
79歳までの勤務もザラの様子。
小和田恒は2003-2012で第一期9年が終わる予定で、その頃は80歳前後。
- 87 :
- 鬼女板では「玄関に芳名帳が置いてあるなんて小和田何様」的な
発言が見られたが、小田滋氏も自宅には来客名簿を置いていた
と書いている。
国籍を問わず、各地から訪れた法学者たちとの交友はハーグでの
良い思い出となったとのこと。
裁判官は所長を除いてハーグに居住する義務はない。
常設国際司法裁判所の時代と違い、会期といった制度はなく、
事件が起きればいつでも招集される。
裁判所が会合していない時は、ほとんどの裁判官はハーグから
散ってしまう。
ただ、訴訟書類などは送られてくるので、これは休暇とはみなされない。
日本の裁判所でいう宅調といった状態。
- 88 :
- 裁判官の前歴に関しては、分類不可能とのこと。
大学教授、行政官、外交官、司法官、在野法曹、政治家など。
大学教授と言っても、学究のみのタイプはおらず、外務省の法律顧問
を兼ねていたり、第一線の外交官であったり、国際会議で国の代表と
して発言したりしていた人たち。
外交官と言っても、もっぱら国際法を扱い、大学教授を併任している等。
物差しのひとつは国際法学者としての知名度。尺度として。
A)万国国際法学会の会員である。
B)ハーグ国際法アカデミーでの講義の経験。
だがこれも、着任時に両方を満たしている者もいれば、いない者もいる。
絶対条件ではない様子。
- 89 :
- >>83
追記
小田滋氏と小和田恒氏は、国際法関係の著書を共著している
(1987年以前の時点)
- 90 :
- ー
- 91 :
- t
- 92 :
- 「
- 93 :
- 「
- 94 :
- ]
- 95 :
- ]
- 96 :
- ]
- 97 :
- 」
- 98 :
- 」」
- 99 :
- ]
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