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2013年06月戦国時代569: 賤ヶ岳の七本槍について語るスレ (116)
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賤ヶ岳の七本槍について語るスレ
- 1 :2009/09/01 〜 最終レス :2012/07/01
- 賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍達について語るスレ。
・加藤虎之助清正
・福島市松正則
・加藤孫六嘉明
・脇坂甚内安治
・片桐助作且元
・糟屋助右衛門尉武則(加須屋真雄)
・平野権平長泰
・桜井佐吉
・石川兵助一光
- 2 :
- 関連スレ
賤ヶ岳の戦いを分析する
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152985790/
加藤清正は名将です、疑う余地はありません
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174113771/
猛将なのに武功がない福島正則スレPart2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233325235/
加藤嘉明
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226667982/
脇坂安治と仙石秀久について語れ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1236756854/
片桐且元ですが胃薬が手放せません
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150640821/
- 3 :
- 三本槍くらいに留めておけば「七本槍の地味な人」と言われれこともなかったろうに
- 4 :
- 自分は負けた佐久間の子孫なのだが、勝った側の七本槍の
脇坂安治の子孫に知り合いがいる。
先祖同士が戦った、っていうのもなんだか不思議な縁だ。
- 5 :
- ほう、オレを放逐して潰れた会社の社長と同族か。
- 6 :
- 関が原以降はすべからく衰退傾向
- 7 :
- >>6
加藤嘉明や脇坂はむしろ上り調子だろ。
- 8 :
- どうせ改易
- 9 :
- いや、脇坂は幕末に老中まで出したし、維新後は子爵家になって、
子孫も落ちぶれることなく裕福な生活してたみたいだよ。
- 10 :
- >>5
それだれ?忠弘さん?
- 11 :
- >>10
将之さん。
- 12 :
- 七本槍の子孫のその後を簡単に纏めると…
加藤清正:子の忠広の代で改易、息子達は早世したりして忠広の死後
誰も残らず事実上嫡流は断絶。娘など残った一族は庄屋になるなどして離散した。
福島正則:家康死後まもなくして正則は改易され、僅か数万石に減封。
その死後その領地も没収され、子孫達は旗本に身を落とした。
加藤嘉明:子の明成の代に御家騒動が起こって改易されたが、明成庶子の
明友が二万石ほどを与えられて大名復帰し、明治に至った。
脇坂安治:七本槍中、唯一改易も減封も無かったが、子の安元の代に
譜代大名の堀田家から養子を迎えて当主とした為、安治の血統は途絶えている。
片桐且元:孫の為次に嗣子がなく無嗣改易となったが、且元の弟貞隆の家系が
一万石の大名として存続しており、明治に至った。
糟屋武則:関ヶ原の合戦で、七本槍中唯一西軍に与した為に戦後改易。
その後徳川氏に旗本として仕えたというが、子孫がどうなったかは不明。
平野長泰:五千石の旗本止まりで七本槍中唯一大名になれず、
子孫も明治まで旗本だったが、新政府の石直しで最後の数年間だけ大名になった。
こうして見ると、大名として生き残った家系も皆最終的には数万石程度にされてるな。
脇坂も老中になれたのは堀田の分家的存在になってしまったからだろうし。
- 13 :
- 当時は血統よりも家系で、養子を迎えるのはどの大名家でも普通に
あったでしょ。
血筋として初代の直系子孫が幕末まで続いた事例のほうが少数派
だと思うよ。
そういう意味では脇坂家は幕末まで命脈を保ったといえると思う。
関が原で東軍に寝返ったこともあわせて、世渡り上手な家系だと思うけどね。
- 14 :
- だいたい戦国期に主君と家臣団の共同体である「家中」が成立して以来、家の存続とは、
この「家中」の存続に他ならないからな。
- 15 :
- 糟屋だけ子孫がどうなったかわかってないのか
- 16 :
- 七本槍皆弱すぎるよね・・
五虎大将とは大違いだよ。
- 17 :
- 脇坂の子孫のおっさんが嫁さんに向かって
「脇坂の女たるもの…」
となにかにつけて叱り、でかい声で周囲にもお家自慢してて迷惑だったのを思い出した。
まだ400年ちょっとの裏切りの血筋なのに自慢とか見苦しい事するな脇坂は。
うちの家族は一切家系自慢とかしない。
- 18 :
- なぜだろう
「うちは家系自慢しないよ」って言うのが既に自慢に聞こえてしまうのは
- 19 :
- 関ヶ原の時点で
加藤清正:肥後熊本24.5万石
福島正則:尾張清洲20.0万石
加藤嘉明:伊予正木10.0万石
脇坂安治:淡路洲本3.3万石
片桐且元:摂津茨木1.2万石
糟屋武則:播磨加古川1.2万石
平野長泰:大和田原本5千石
清正と正則だけ抜きん出ているが、やはりこの2人は縁故だから
秀吉も贔屓したんだろうか?
嘉明は三河、脇坂・片桐は近江出身で、糟屋は元々は播磨の城持ち土豪で
直臣ではなく与力だったし。まあ平野は尾張出身にも関わらず全く出世できてないがw
- 20 :
- そもそも七本槍というもの自体、自分の部下をアピールしたい
秀吉の過大な宣伝の賜物で、虚名に近かったんじゃないか。
別にこの七人が賤ヶ岳の戦いでの一番手柄でも無いし。
- 21 :
- 糟屋武則をもっと厚遇しとくべきだったな
この人が唯一徳川と戦ってくれて秀吉もうかばれたんじゃね
七本槍全員徳川に付きましたじゃあまりにも情けないだろ
- 22 :
- >>21
関ヶ原のあと徳川の旗本になったんですが。
- 23 :
- こいつらは三成憎さに徳川についただけだろ
何しろ三成襲撃した奴らだし
- 24 :
- 糟屋武則が西軍についた理由って何なんだ?
調べてみると糟屋は奉行としての活動が主だったようだから、
その関係で三成についたのかとも思ったが…
それとも小早川や、かつての同僚の脇坂のように周囲の状況のせいで
やむを得ず西軍についただけ?
- 25 :
- >関ヶ原のあと徳川の旗本になったんですが。
息子が大阪の陣で豊臣方として戦って討死したとも聞いたが。
- 26 :
- >>25
それは講談の類だよ。
- 27 :
- まぁ色々といわれてるけどあの当時の秀吉家中で目立った槍働きのある
若手トップ7だったことだけは事実だろうな。
- 28 :
- 槍働きっていみなら三成も入れるべき
ここに入ってないから何故か文官のイメージが固定されちゃってる
- 29 :
- 豊臣を守るはずの七本槍のうち6本が徳川につき豊臣を潰すとは
秀吉もビックリですな
- 30 :
- 秀吉も馬鹿だなぁ
石田が野望を持ってるのは明らかだったのに、呆けてたから
処刑出来なかったんだよな
- 31 :
- 北の政所の影響が大きい
- 32 :
- 北の政所には秀吉の死後、影響力は殆ど無かった。
- 33 :
- >>28
槍働きっていみならも何も「七本槍」云われてんじゃんw
何働きを賞されたと思ってたんだよ
- 34 :
- 石田さんは一応一番槍なんだけどなwww
- 35 :
- それでも秀吉の口から名が挙がらなかったんだよなwww
- 36 :
- つまりはその程度って事だ。
- 37 :
- >>29
豊臣についた一本とは?
- 38 :
- 関が原は豊臣対徳川の戦いではないんだがね
もしそうなら清正や正則が徳川につくはずがないのよ
- 39 :
- >>38
意図的に混合したがる馬鹿がいるからな。
- 40 :
-
関ヶ原で負けた豊臣は家康に222万石から65万石に落とされた
豊臣は「家臣同士の争い」と見てたみたいだが
そんなに甘くはなく家康にやりたいほうだいされて実質の天下人は家康に
- 41 :
- >>40
豊臣が220万石を維持できなかったのは、関ヶ原の結果奉行制が崩壊し、
全国にまたがる豊臣領を維持できなくなったためだな。
しかしその後も大阪は、日本の米の集積地としての機能は維持しているので、
実質の部分では変わっていないとも言える。
- 42 :
- >>24
>糟屋武則が西軍についた理由って何なんだ?
よくわからないんだよな。大体糟屋には不明な点が多すぎる。
七本槍中唯一正確な生没年が不詳だし(ウィキペディアでは1562〜1607になってるが)、
関ヶ原本戦でもどこに布陣したのか、どういう活躍をしたのかわからないし。
逸話とかの類もほぼ皆無だし、名字の表記や名前も何通りもあって調べ難いし。
まあ一万石程度にしかなれなかったのと、関ヶ原の敗戦のせいで真っ先に
改易されたのが原因なんだろうが。
>>37
>豊臣についた一本とは?
糟屋助右衛門尉武則。播磨加古川城一万二千石の大名。
七本槍中唯一西軍について、伏見城攻めや関ヶ原の本戦に参加してる。
- 43 :
- もう豊臣についたとの言い方はやめろ
大体勝った方の大将が負けた方の大将に頭を下げて「勝ちました」と報告に行く
馬鹿げた事などあるわけがないだろうが
- 44 :
- 石田が豊臣に寄生した。って言う方が早い。
清正も石田菌を除去する為に九州
で頑張ったんだけど、徳川の天下になっちゃったんだよ。
- 45 :
- まあ双方共互いの事を豊臣公儀に対する逆賊と呼び合ってたし、
豊臣秀頼は一応中立だったからな。
ただ、結果論的にはこの戦いが豊臣政権の完全崩壊と、
江戸幕府の成立を招いて豊臣氏を滅ぼす遠因になった訳だから、
後世から見れば西軍が豊臣政権擁護の立場=豊臣方と見られるのも
多少は仕方ないだろう。
とは言え、三成や毛利輝元達に野心が無かったとは言えない(確実な事は
わからんが)から、やはえい完全に豊臣方だというのは不適切だろうが。
- 46 :
- 連レス失礼
まあ少なくとも、当時清正や正則などの東軍に付いた五本槍に
>豊臣を守るはずの七本槍のうち6本が徳川につき豊臣を潰す
というつもりは毛頭無かったろうな。
彼等はまさかこの戦いの結果次第では、覇権が豊臣から徳川に
移ってしまうなどとはついぞ思ってなかったに違いない。
その事が読めていたのは家康とその側近、そして三成ら西軍首脳や
読みの深いごく一部の大名達だけだろう。
清正達から見れば、三成達こそ秀頼を傀儡化して政権を奪おうとする
事実上の「政権簒奪者」、家康こそが秀頼を守ろうとする豊臣政権の「保護者」
に見えたに違いない。
- 47 :
- そもそも戦の発端となった上杉討伐の莫大な軍資金を家康が秀頼からせしめてるんだが
それに対し、西軍は軍資金をもらってない
だから東軍=豊臣軍といえなくもないんだよ
- 48 :
- 戊辰戦争のときの「官軍」の位置づけと似ているよね
- 49 :
- >それに対し、西軍は軍資金をもらってない
>だから東軍=豊臣軍といえなくもないんだよ
豊臣の蔵入地を一括管理してた増田長盛が、
その資金や人員を一切西軍に提供しなかったんだっけ?
とは言え西軍は一応豊臣政権の本拠たる大坂城を押さえ、
しかも秀頼側はそれに関して特に文句とか不満は言ってなかった筈。
更に関ヶ原でも一部の豊臣旗本が西軍側で参戦してるからな。
その辺は東西共におあいこなんでは?
- 50 :
- 秀頼周辺は東軍への好意的な中立だな。
ま、武力で大阪城を占拠したような西軍に連中に好意を抱けと言うほうが無理な話だが。
- 51 :
- 七本槍って清正や正則のイメージが大きすぎて
全員バリバリの武断派ってイメージがあるが、片桐且元や糟屋武則は
経歴を見ると豊臣政権では奉行としての活動が主だな。
- 52 :
- それをいうなら福島も奉行職の経験多いはず。
- 53 :
- このスレを最初から読んでの結論なんですが
西軍=豊臣軍ってのは正しくないって事ですね?
- 54 :
- 壮大なる内部抗争みたいなもんだし。
- 55 :
- 徳川の怖さを知っていて潰そうとした石田と宇喜多
徳川を甘く見てた豊臣家
戦後一方的に領地を減らされ抗議も通らず号泣
- 56 :
- >>17
>脇坂の子孫のおっさんが
ってこれウソだろ。
脇坂家は戦前まで旧領地の播州龍野にいて、戦後は東京。
そこいら中に子孫がいるような家でもないし。
そのおっさんが自称子孫と言ってただけだろう。
明治新姓の時に家系を捏造した奴が多いし。
俺の家は代々脇坂家家臣で曾祖父の代に明治維新を
迎えるまで仕えていたからそう思うぞ。
- 57 :
- 子孫って、1代で4人男子が生まれたら4世代で256人になるんだぜ?
いつも家系の話になると、だれかの子孫というのが一つの家だけみたいな
勘違いをしてるへんな人が現れるんだけど、なんでだろうな。
そりゃ「当主家」というか「総領家」というのは長男が継ぐわけだが、
単に「子孫」という場合は全部含むんだからねぇ。
- 58 :
- >>55
東軍が勝とうが西軍が勝とうが、朝鮮役以来の恩賞問題に
向き合わざるを得ず、そのためには、無駄に巨大な豊臣家直轄領を分配する事は
避けられない。
- 59 :
- >>55
強引な手で家康を潰そうとした石田
家康を倒せなかった豊臣
- 60 :
- >西軍=豊臣軍ってのは正しくないって事ですね?
まあ後世の結果論から言えばそう見えるが…
少なくとも当時は双方共大将は大老だし、どちらも「秀頼様の御為に
逆賊を討つ」と主張してた訳だから両方豊臣軍と言える。
>>54の言う通り豊臣軍同士の内乱と見るべきだろうな。
- 61 :
- 三成が家康に勝てば家康やその仲間達の領地を褒美にやればいい
豊臣は自分のとこを削らずに済む
- 62 :
- >>61
実際の関ヶ原では西軍の所領を配ってもたりなかった。
そのくらい豊臣家と言うものの「搾取」はすごかった。
- 63 :
- >>62
という事は徳川家の「搾取」はもっと凄かったって事か?
幕府天領は約450万石で、太閤蔵入地の約220万石の倍以上ある訳だし。
それとも朝鮮出兵のダメージがすごかったという事?
- 64 :
- >>63
勘違いしている人間が多いが、豊臣の220万石は純粋な租税額。
もし領地からの上がりと考えると、年貢高が5割と考えても440万石。
しかも豊臣領の維持管理は隣接する大名が丸抱え。
- 65 :
- >>64
江戸幕府の天領は?
- 66 :
- >>65
領地。しかも幕府の代官により統治されていた。
- 67 :
- 成る程…
まあ豊臣政権は色々と未熟だったという事か…
- 68 :
- 九州で東軍方として戦ってた清正と、大坂で中立の立場を取ってた
且元以外の5人は関ヶ原に集って戦ってるのか。
まあ最初は西軍側に2人、東軍側に3人だったのが
最終的には西軍側1人、東軍側4人になっちゃったわけだが。
- 69 :
- 結局 強い力(家康)の前には義理も恩も血縁も関係なくなるってことだ
誰だって死にたくないしな、しょーがない
- 70 :
- 朝鮮出兵の際、七本槍の内以下の六人は
清正…先鋒で二番隊に属す
正則…五番隊に属す
嘉明…船手衆
安治…船手衆
且元…奉行
武則…奉行
として全員朝鮮に渡海してるようだが、平野長泰は朝鮮に渡ってたの?
- 71 :
- 勘違いしている人間が多いが、徳川の450万石は純粋な租税額。
もし領地からの上がりと考えると、年貢高が5割と考えても900万石。
しかも天領の維持管理は隣接する大名が丸抱え。
- 72 :
- 最終的に50万石規模になった者から、死ぬまで5千石の者まで差が大きい。
存命中に改易・減封されちゃったのもいるし。
- 73 :
- >>71
何が悔しかったのか知らんが
慶長の惣検地で全国総石高は1851万石だから、日本の半分が幕府直領かよw
おめでたいにもほどがあるなw
- 74 :
- なんとなく計算が間違っていないか。
- 75 :
- 福島と片桐は公式には病死とされてるが、自殺説も根強いよな。
まあ豊臣の為を思って必死に頑張ったのに、結果的には家康に
散々利用される形になり、世間や後世から見たら主家を裏切った
ように言われる形になったわけだし(福島は加えて改易だし)、
自殺したくもなるわなあ…
そういう意味では、豊臣の滅亡を見ずに没した清正は幸福だったかも知れん…
- 76 :
- 片桐は開戦までの豊臣家主戦派の暴走を全く抑えられなかったからな。
責任を感じても仕方がない。
ただ、福島の改易は豊臣家全く関係ない。つーか1度は許されてるのにその後の対応が酷くて
改易って体たらく。自業自得だな。
- 77 :
- 一番悲惨だったのは、改易された福島でも、秀頼を守れなかった片桐でも、
結局大名になれなかった平野でも、唯一西軍についたのに報われなかった糟屋でもないと思う。
真に悲惨なのは、やはり七本槍とされている面子と同等の活躍したにも関わらず、
そこから省かれてしまった桜井と石川だろう。
現に一応>>1には名前を書かれているが、このスレでも誰も語ってない。
- 78 :
- >>16
こいつらは西園八校尉相当
- 79 :
- >>77
う〜ん早死には損という典型だな。
桜井家は1596年に断絶。戦死した石川家は弟が継いだが関が原で改易。
七本槍で桜井・石川を省いたのは「太閤記」だけで、
「川角太閤記」「新撰豊臣実録」村井重頼覚書」「長家聞書」では
福島を別格で筆頭として、その下に7人を並べている。
石井は省かれたが・・・
「太閤記」が特別なベストセラーとなってしまったため7人が固定してしまったんだろう。
秀吉が全国の大名に自慢たらたらの手紙を出した時や、
感状の写しを大量に作ってばら撒いた時は9人だった。
- 80 :
- そもそも「七本槍」という名称や区別は当時からあったのか否か?
- 81 :
- >>80
当時はない。賤ヶ岳
当時の最新の書、「天正記」(賤ヶ岳の同年1583年)の中の「柴田戦記」には9人の名前がある。
江戸時代になって出版された太閤記から7本槍と言われた。
- 82 :
- 七本槍ってのは小豆坂七本槍になぞらえたと聞いたが…
- 83 :
- 確か宇喜多の家臣にも七本槍っていなかったっけ?
- 84 :
- 名数って語呂のいい数字にすることが多いよね。
あと、奇数のほうが吉数として好まれるね。
- 85 :
- >>83
八浜七本槍
- 86 :
- 主計頭、左衛門大夫、左馬助、中務少輔、東市正、内膳正、遠江守
- 87 :
- 柴田戦記によると石川一光は大変な短気だったらしいね。
福島正則や加藤嘉明と喧嘩して、くそ〜って甲冑も付けずに拝郷家嘉に突っ込んで行ったが
頭を槍で一刺しにされ討ち死に。
哀れに思った秀吉が弟に1000石を与えたが、戦功という点では無しに等しい。
後に七本槍から外されたのも仕方ないのかな。
- 88 :
- いや、そりゃ死んでしまったら七本槍もくそもありまへんがな
- 89 :
- 片桐、糟屋、平野の三人って1595年8月に揃って加増されてるよな?
これで片桐・糟屋は一万石程度の大名になり、平野はようやく五千石。
確か加増の理由が「賤ヶ岳での戦功を思い出したので」とかだったと記憶してるんだが。
何でこんな中途な時期に加増があったんだ?
- 90 :
- 何か祝い事があったついででは
- 91 :
- 豊臣政権化でも、両加藤と福島は出世してるが、
脇坂・片桐・糟屋は小大名どまりだな。平野に至っては…
- 92 :
- 中途採用の小西も出世頭の一人。
要は本人の人事考課。
秀吉は信長の下でそのところを具に見てきたから、かなり能力主義を採用している。
大軍を率いる能力や内政力で出世具合が違ってきて、何年も経つと大きな差になる。
身内に対してもそこのところはシビアだ。
- 93 :
- >>92
清正・正則の出世はやはり秀吉の身内だというのもあると思うが。
清正なんか一気に20万石以上の大身になってるし。
- 94 :
- >>92 >>93
清正は相当にできた人物だったんだろう。正則も酒を飲まない時はね。
他の5本槍は歴史上もなんかを左右するような事はしていないし、
身内を特に優遇していないのは木下家の扱いがショボ過ぎるからか
- 95 :
- 清正・正則は有能で且つ身内だったから20万石以上になれたんだろう。
多分、身内じゃなかったら嘉明のように10万石規模だったのでは?
- 96 :
- 縁故もあったけど能力もあったってことか
清正の熊本城とか後の時代まで評価されているもんなー
- 97 :
- 実際に清正(と行長)の出世ぶりはヤバいものがある。
それまで数千石程度だったのが、先んじて大名になってた三成とかも追い越して
いきなり肥後半国20万石近くになったわけだろ。
相当光るものがあったんだろうな。
- 98 :
- 佐々さんが頑張ってくれていれば、そのまま唐入りに使うつもりだったんだろうけど
どっちにしろ高齢だし
秀吉と佐々さんはそれほど仲が悪かった訳じゃないと思う
小身から信長の天下まで苦楽を共にしたのは一緒だし
- 99 :
- 唐入りの大将が佐々だったなら今頃って・・・のは秀吉の言葉ですから
佐々に対する評価の高さがわかりますよね。
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