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2013年01月日本史88: 【初心者】スレッド立てる前に質問をPart29【歓迎】 (836) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【初心者】スレッド立てる前に質問をPart29【歓迎】


1 :2012/06/13 〜 最終レス :2013/01/02
分からないことがあるときは、スレッドを立てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問については、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなかったりしても、怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップを付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたいときは、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。
※まずは下記でチェックしてください。
日本史・世界史FAQ
http://www.geocities.jp/magurogyosenn2000/index.html
<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。
前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart28【歓迎】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1318780961

2 :
BS−TBSで放送中の河井継之助、ソースは全部司馬か?
TV局は何時まで童門冬二なんかを使い続けるんだろうか…

3 :
>BS−TBS
ガトリング最強!キター

4 :
昔の人の命名に興味をもったんですが
武士、武将はほとんど秀勝とか直政みたいな漢字二文字系ですよね?
一方で◯右衛門とか◯兵衛のような名前もあります。
身分やら何やらで名付けのセオリー、流行り廃りがあったと思うのでそういうのを知りたいです。
日本人の名前がどうやって形作られていったのか、良い本などあったら教えて下さい。

5 :
【世論調査】 民主党の支持率8%、最低を更新・・・時事通信
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1339745946/
1桁台突入。NHK平清盛とどちらが先かといわれてましたが民主党が先でした。

6 :
例えば源判官義経の場合、「源」は姓で「判官」は官位、「義経」は諱(いみな)となる。
諱は日常的には使われない。普通は官位が有れば官位で呼ぶ。官位が無い場合は仮名で呼ぶ。
仮名には幾つかの種類が有る。太郎、二郎のように順番を示すのは排行名。義経は官位を貰う以前は
源九郎義経と名乗った。仮名には他に受領名(ずりょうめい)、東百官(あずまひゃっかん)などがあるが
説明は省くのでググれ。
ちなみに武田信玄の場合、武田は苗字で姓は源となる。信玄は出家後の法名。

7 :
[古代] 
大和時代の神名や貴人の名には、美称や尊称が付されるのが常であった。
例えば、天鈿女(あめのうずめ)命の〈天〉は美称、〈命〉は尊称であって、実名は鈿女である。
天国排開広庭天皇(あめのくにおしはらきひろにわのすめらみこと)(欽明天皇)のうち、〈天〉は美称、〈国排開〉は威力を示す尊称、〈天皇〉は尊号であって実名は〈広庭〉である。
これは奈良時代の高官であった中納言阿倍朝臣広庭と同名である。
大和時代の人名は男女とも複雑で無定則的であるけれども、接尾語として彦(ひこ)、比売(ひめ)(姫、媛、比黄)、郎子(いらつこ)、郎女(いらつめ)、足(たり)、比登(ひと)、女(め)、
戸弁(とべ)、麻呂、雄(お)(男)、子(男女ともに)、君(男女ともに)等が名に付される例が多かった。
複雑、無定則的であるから後代に姿を消した名が少なくない。
奈良時代になると前代の名にみられた著しい多様性や無定則性はしだいに影をひそめ平明化した。
男性名では接尾語の麻呂が優位を占め、郎子、彦、子(男性名としての)などは消え、または廃れた。
麻呂を接尾語にもたない名の場合、2字の名(例えば、家守、広足、牛養(うしかい)、川継、継縄(つぎただ)、等々)が優勢となった。
比登は人と記され、二文字名の一つに用いられた(例えば、旅人、東人(あずまびと)、国人、祖(おや)人、等々)。
男(雄)もわずかにみられるが(勝雄、諸男、刷雄など)、これに対応する女性用の接尾語の女(売)(め)が圧倒的優位を保つのに対して劣勢となった。
こうして〈女(め)〉は〈麻呂〉と対応関係を結ぶに至った。
奈良時代の女性名では、戸弁、姫、君は消失し、接尾語は〈女〉に統一される形勢となった。
また郎女の語は劣勢となり、奈良時代の末には影をひそめたが、他方〈子〉字が女性名用の接尾語に採用される気運が生じた(宮子、弟兄子(おとえこ)、若子、等々)。
平安時代になると男性名の大部分は2字で構成されるに至った。
麻呂は丸(まろ)に変わり上流社会では幼名に用いられ庶民の間では男性に多い名となった。
嵯峨天皇は、賜姓源氏の皇子に融(とおる)、信(まこと)、弘(ひろむ)、常(ときわ)、寛(ひろし)のような一文字の名を与えたが
男性の一文字の名は嵯峨源氏や仁明源氏の伝統となった。

8 :
また同天皇は、親王や内親王の名にR母の氏の名を採る慣例をやめ、親王には2個の佳字(秀良(ひでよし)、忠良のような)を、内親王には×子型を賜った。
また賜姓源氏の皇女を×姫と名づけた(潔(きよ)姫、全(また)姫、盈(みつ)姫など)。
復興された×姫型の名は、さほど影響を及ぼさなかったが、×子型の名の方は、上昇気運にあった子型の女性名の流行に拍車を加えた。
ただ庶民の間では、女型の女性名が依然として圧倒的であった。
平安時代中・後期の上流社会では、男性は幼名(童名)を帯び、元服に際して2字の実名(諱,名乗)をつけるのが恒例となった。
紀貫之の幼名が阿古久曾であったことは知られているが、これはわざと汚い文字を用いた辟邪(へきじや)的な幼名である。
このころから男性には,通称(呼名)がつけられた。
元来これは、実名敬避の習俗を背景としているが、太郎、次郎、三郎など排行(はいこう)(年齢順の数による称呼)が古い型式の通称であった。
平清盛の通称の〈平太〉は、平氏に生まれた一男の意味である。
庶民は、2字の諱をもたず、幼名または通称だけで呼ばれることが多かった。
武士などは、住地(荘園)を家名とし、家名と通称で呼ばれ、氏名と諱とは公式の場合に用いられた(熊谷次郎→平直実)。
公式には、氏名+諱が、略式には家名+通称が呼ばれ、家名+諱は1871年(明治4)まで違法であった
(例えば略式は西郷吉之助、公式には平朝臣隆盛となり、西郷隆盛は、1872年以後の戸籍名である)。
女性の諱は、×子型に統一されたが、これは裳着、宮仕え、叙位に際して命名されるのが常であった。
女性の通称には、大い君、中の君、三の君(庶民の場合は、姉子、中(なかんの)子、三(さんの)子)があり、また×氏女(うじのによ)が広く用いられた。
平安時代後期には、千寿女、万寿女のような佳名型の通称(時によっては実名)が多くみられたが、後代のセン、マンといった名はそれらに由来している。

9 :
[中・近世] 
鎌倉時代から南北朝時代にかけて上流社会の男性は、公家、武家とも、氏名+諱を公式の名とし、家名+通称を日常の名とした。
通称には、排行名のほか百官名(幸嶋左衛門尉、難波刑部縁、朝山右馬大夫、足利木工助(もくのすけ)、新田大炊助のような)が盛んに用いられた。
上流社会の女性名は、公式には子型の諱であったが、日常生活ではもっぱら通称が用いられた。
叙位、任官の場合を別とすれば、普通には通称が用いられ、通称の本名化がみられた。
鎌倉時代には、仏教的な通称(薬師女、千手女、如来女、拘沙(ひさ)女、金梼羅女、伊王女、夜沙(やさ)女、袈裟(けさ)女、等々)も数多くみられた。
室町時代の男性名には、さほど大きな変化はなかったが、排行名・百官名が複合したり、他の文字が加わったりして通称は複雑化した。
排行名も、本来の源一郎、橘三、藤三郎等から変化した藤(藤原)吉(橘)郎、吉蔵、弥太郎、三郎兵衛、右衛門太郎のような名が普及した。
百官名では、四等官部を落とした左衛門、右兵衛などのほか、大学、隼人(はやと)、刑部(ぎようぶ)、主税(ちから)、弾正(だんじよう)、采女(うねめ)のような通称もみられた。
上流社会における子型の諱は変わらなかったが、通称の方は、阿茶(あちや)、阿茶々、伊茶、ちやち、あこゝ等の新しい名の導入によって幾分面目を改めた。
貴族庶民の別なく、通称には女字の脱落と仮名書き化が相当進んだ(とら、かめ、わか、いちの類)。
しかし一方では、千代女、若鶴女といった旧型式の名もみられた。
女性名の接頭詞としての〈お〉は、軽い敬称ないし愛称として南北朝時代に始まるが、室町時代において漸増した(御ふく女、お今、おあちや、等々)。
安土桃山時代には女字の脱落と仮名書き化が激しい勢いで進行した。
豊臣秀吉の正妻は木下ねねであって、〈ね〉または〈ねい〉ではない。
〈ねね〉という名は、鎌倉時代前期に早くもみられるが、この時分には珍しくない名となっていた。
〈ね〉や〈ねい〉という女性名は、この時代の文献には検出されないが、〈ねね〉とその妹の〈やや〉とは、そのころにはありふれた女性名であった。
しかしそれでは叙位の対象にならないから、彼女は公式の名を平朝臣寧子と定め、その名で従一位に叙されたのであった。

10 :
江戸時代の庶民の女性名は、ほとんど仮名書きであり、大部分が2文字である(はつ、せん、せい、かめ、とら等々)。
これらはしばしば接頭語の〈御〉をつけて呼ばれた。
現在、各地に残るおびただしい宗門人別改帳によって江戸時代の女性名は無数に知ることができる。
室町時代から江戸時代にかけて庶民は家名を失い名だけで呼ばれた。
江戸時代において商人の場合には、屋号を名の上に冠したが(越後屋八郎右衛門、俵屋藤兵衛のように)家名を称するには許可が必要であった。
徳川三百年の泰平にあって文運が隆昌するにつれて諱や通称のほかに多種多様な異名が用いられた。
遊女の源氏名などは、さまざまな《吉原細見》などから多数知ることができる。

11 :
中世の文書を読み下したいのですが、全然読み下せません。
読み下し方が学べる本があれば教えてほしいです。
ちなみに文書に関しては釈文になっているので、漢字自体はわかります。

12 :
戦国時代の敵の武将同士は普通に言葉が通じたんですか?(つまりお国なまりの関係で)。
そして成り上がりの戦国大名は御所で公卿と会話できたんですか?(つまり御所言葉がしゃべれないと何かと不都合じゃなかったのか)
それから江戸時代の各地の上級武士はお国なまりを使っていたのですか?それとも「上級武士言葉」みたいなのがあったんですか?
質問が多くなりましたが日本史に不慣れなものですのでお許し下さい。

13 :
>>12
信長、秀吉の天下統一戦よりも前は、敵対する武将なんてたいてい隣国同士
多少聞きづらくてもだいたい隣国程度の方言は通じたでしょ
信長、秀吉の頃になって、畿内の武将が九州とかに行ったりするとさすがに、方言の違いが厳しくなって、
すんなり会話できなかったりしたとは思う
ただ、地方の大名でも、畿内の商人と接する機会はよくあったろうから、地方の大名の言葉を畿内の者が
わからないことは多くても、その逆は比較的少なかったのではないかと思う
御所言葉は、明智光秀みたいに教養のある武将でないと厳しい
だから信長は、一時期、光秀を京都の担当にした
逆にあえて、そんなのわからない成り上がりの秀吉を光秀と組ませて京に置いたのが信長の人事の妙
公家との友好的な付き合いは光秀に任せて、公家側からの都合の悪い申し立てなどに対しては、秀吉が
「あー、おまえらの言うとることはさっぱりわからん、こっちがこうせい、と言うておるのだからそれに従えば
ええんじゃ!」と開き直った対応をする担当だったのではないかと想像できる
江戸期には参勤交代があったので、江戸に参府する武士たちの共通語として、現代の標準語に近いものが
形成された
ただし、あくまで江戸での標準語で、お国では当然、地元の言葉を使った

14 :
>>13さん詳しくありがとうございます!

15 :
大河とかで、織田とか羽柴は訛ってたりするけど、
伊達とか最上とか佐竹は訛ってないな
今川なんかおじゃってるのに

16 :
質問です、
日蓮は日蓮宗の布教に当たり、三災七難を上げて、日蓮宗を信じなければまだ起こっていない他国侵逼の難・自界叛逆の難も起きると言って改宗を促しましたが、
実際のところ日本が上から下まで日蓮宗に改宗したところでその二難は防げたのでしょうか──『防げた』と日蓮宗信者の方々は主張しているのでしょうか?
いくら日本人が金科玉条のごとく「南無妙法蓮華経」と唱え続けたところで、内乱はまだしも外国からの侵略を防げるとは思えないのですが……。

17 :
ものすごく初歩的な質問なんですが、天皇家の先祖は大陸系の騎馬民族と考えてよろしいんでしょうか。

18 :
>>17
そのように主張する学者もいる
が、皇室や古い神社などの古くからの儀式やしきたりなどには農耕民族的なものが多く、遊牧民族的な
風習(たとえば動物を生贄に捧げたりする儀式など)はほとんど伝わっていないことや、馬具の出土が
乏しいことなどから、ほとんどの学者からは支持されていない

19 :

>>18さんありがとうございます!

20 :
何で北条時宗亡き後の鎌倉幕府執権はマイナーな人間がコロコロ入れ替わったの?
有名なのは貞時と高時くらいじゃん

21 :
日蓮宗を信じなければではなく「法華経を用いなければ」です。
日蓮在世に日蓮自体は天台沙門、法華経の行者と名乗ってました。
日蓮宗の宗名は日蓮滅後に付けられた名です。
鎌倉時代当時は日蓮以外の人々も神仏によるご利益を心底信じている
時代なので神仏により外敵退散の奇跡を信じていたと思います。(例、元寇の神風)
現実的にも神仏のご加護を信じ蒙古相手にゲリラ戦をやったので。
でも確かに法華経の国教しても蒙古来襲はあったでしょうね?その時は
「法難」として指導していたかも知れませんね?
もっとも現代においても国立戒壇を建てなければ日本が滅ぶなど時代錯誤主張
している顕何とか会などありますが。


22 :
>>20
得宗家の家督に権力が集中して、執権はお飾りのポストになったから、
北条一門の有力な家系の人がたらいまわしで就任するようになった。


23 :
>>10
> 江戸時代の庶民の女性名は、ほとんど仮名書きであり、大部分が2文字である(はつ、せん、せい、かめ、とら等々)。
> これらはしばしば接頭語の〈御〉をつけて呼ばれた。
>
なるほどなるほど

24 :
>>20
北条家は得宗と呼ばれた嫡流が執権を優先世襲したが
短命の得宗が多く(毒殺された者が多かったと推測される)
新たな得宗が幼少の場合傍系が執権に就任して得宗が成人するまでの「中継ぎ」となった
短期間で得宗に執権を譲る傍系中継ぎ執権が多かった

25 :
古代はともかく、日本には剣なんて普及してなかったのに、
どうして剣術・剣道なんですか?
なぜ刀術・刀道ではないの?

26 :
>>25
中国では刀(片刃)と剣(両刃)が明確に区別され、それぞれ「刀術」と「剣術」という言葉がありますが、
日本ではこれが混ざってしまい、片刃の日本刀を使って行う武術を「剣術(剣道)」という風習が広まったようです。
剣術(剣道)の流派には北辰一刀流、心形刀流のように刀の文字がつかわれると言った混同が起こっています。

27 :
江戸時代以前の法律・法令・条約(日本絡み限定)で現在も有効なものってある?

28 :
連帯保証人制度

29 :
>>26
つまりは、昔の人はおおらかというとアバウトだったんですね。
しかしなぜか「剣は武士の魂」とか「二剣流」とは言わないな。
剣の道を究めるとは言うけど、刀の道を究めるとは言わないし。
どこが違うんだろう?なにか心の琴線に引っかかるものが有るのか?
2行目以後は単なる感想です。

30 :
>>29
語呂が良い悪い程度の事と思う。

31 :
義経が最初に奥州に行ったとき、
秀衡はどうして本物だと確信できたの?

32 :
>>31
常盤の母の再婚相手である一条長成のいとこに藤原基成という人物がおり
基成は娘を奥州藤原氏初代藤原秀衡に嫁がせていた。
義経が奥州へ逃げたのは藤原基成の口添えだったと言われている。
少し遠いが、奥州藤原氏と親戚だった。

33 :
>常盤の母の再婚相手
訂正
常盤の再婚相手

34 :
何故、今の天皇陛下には軍隊の階級がないのですか?
wikipediaによると昭和天皇の意向ということですが
これは事実上、昭和天皇が終戦を意思を表したとも考えられますが
なぜなんでしょうか?

35 :
軍隊の階級という表現がおかしかったですね
なぜ軍歴がないのですか

36 :
軍隊がないから

37 :
>>34
当時皇族は10歳になると軍職に就く定めになっており
昭和天皇は学習院初等科時代にこれについていた
ただし10歳で実戦に出れるはずもなくあくまでも名目上の軍職
当時の皇太子明仁親王(現在の天皇)が満10歳になったのは昭和18年12月
すでに太平洋戦争は過激さを極め児童が名目上の軍職に就く時代ではないという判断らしい
この時点で昭和天皇が終戦を望んでいたかは不明

38 :
ミミズ文字的に宗と上を誤字ってあり得ますか?

39 :
TVや本を見ていて疑問に思ったのですが、
藤原氏は、平安時代までは藤原不比等、藤原道長と呼ばれているのに、
鎌倉時代以降になると鷹司、九条と苗字が変わるのはなぜでしょうか?

40 :
>>39
「藤原」は姓です。
鷹司や九条も姓は「藤原」で、公式文書にはすべて藤原で署名します。
鎌倉時代頃から嫁入り婚となり邸が父から息子へ伝領されることになり、
同族が代々同じ邸に住むようになったことから、
代々鷹司邸に住む藤原氏を「鷹司」代々九条邸に住む藤原氏を「九条」と呼ぶようになりました。
尚、鷹司や九条は「苗字」であり、「姓」はあくまでも藤原ということになります。


41 :
苗字じゃないよ

42 :
名字だよ?

43 :
藤原、橘、源、平(後に、これらに加えて豊臣)は、朝廷が与えた「姓」
藤原氏や源氏は、一族が増えて、各地に家を立てて移り住んでいたので、時代が下ると同姓の家が多くまぎらわしくなる
現代の我々も、たとえば大阪に住んでる伯父がいるとすれば、「大阪の伯父さん」となどと地名で呼んだりすることがあるが
それと同じように、同姓の一族の中のどの流れかを区別するために、役職や、住んでいる屋敷や、土着した土地などで
呼んだ通称が定着したものが「苗字」(名字)
たとえば、室町幕府の足利家は、源氏なので姓は源、足利荘を領地としていたので苗字は足利
近代では、姓と苗字がごっちゃになり、同じように扱われている

44 :
鷹司は家名、足利は名字、源平藤橘は姓だよ

45 :
名字と家名って、由来が違うものなの?

46 :
全く違います

47 :
昔読んだ「漫画日本の歴史」(のあるシリーズ)の話なのですが、「関ヶ原の戦い」について「日本史上初めて、天皇を大義名分としなかった(武士だけによる)戦い」と説明していました。
(むろん、地方大名同士の争いなど小規模な戦いを除いての話だとは思いますが)
しかし、関ヶ原の戦いに天皇を持ち出さなかったというのは何か日本史上で意味のあることなのでしょうか?
ストーリーを作った人が進歩史観にかぶれていただけじゃないかと疑ってしまうのですが……。

48 :
応仁の乱も日本を二分する戦いでありながら天皇を担いでなかったはずだが・・・
どういう歴史観でそういう話になったのか不明ですね。

49 :
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「R風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとのRじみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。

50 :
応仁の乱、一応南朝皇裔を担いだ時期はある。
さほど意味はなかったようだけど。

51 :
>>50
応仁の乱では細川勝元が後花園上皇の中立表明の院宣を、無理やり西軍討伐の院宣に読み替えて
利用したりしてる。

52 :
関ヶ原のときも後陽成天皇が勅命によって東軍細川幽斎を助けたり
天皇が全く関わってないわけでもないんだよね

53 :
武田兵や徳川兵は農民兵だから強兵、織田兵は傭兵や商兵主体だから弱兵だと良く聞く。
農兵は自分の土地を守る為に命懸けだが、傭兵はしょせんは雇われで商兵は土地が無くても命さえあれば食っていけるから簡単に逃げ出す、という説はわからんでもない。
尾張の国は土地が肥え近隣よりも石高が高かったと言われてるから、農業に専念させるため信長は農兵はほとんど使わずに傭兵や商兵を使っていたんかな?
それとも地域性みたいなもん?

54 :
>>53
武田やらの農民兵は自分の土地を守るということにかけては命がけだが
領土拡大のため他国へ攻めていくということに関しては了解しにくい
武田が結局それほど大きくなれなかった原因だろうけど
尾張も信長が出るまでは農民兵が主体でした
豊臣秀吉の父は足軽と呼ばれる半農半武の存在だったといいます
しかし、信長が出ると鉄砲を多様。
鉄砲隊は使い方や集団での規則正しい打ち方など日々の訓練が大事で
農作業の合間に徴兵した農民兵ではまにあわず
金で集めた専用部隊を整えるようになったと言います
この専用部隊に金で集められたのが商兵でした
商兵は諸国を放浪して物を売り歩くため、尾張で儲け話があると聞いて集まってきたのでしょう

55 :
同じ農民兵でも、文化や商業が進んでいる先進地域だと、比較的弱兵になりがちで
尾張の兵は割と弱兵だった
どうせ弱兵なら傭兵、商人兵でもいいってこともあったし、弱兵でも勝てるようにするために
大量の鉄砲を欲したという面もある

56 :
農民兵とかまだ信じてるのか。そんなものはない!
あと兵農分離も戦国期には存在しない!もちろん信長もそんな事はやってない。
と言うか信長の軍制はむしろ遅れた、鎌倉室町と大差ない古いものだ。
史料から見る限り、足軽の兵種別編成など武田のほうがずっと先進的な軍制を行ってる。
信長が最終的に勝利したのは軍役を提供できる武士を大量に確保できたから。それだけだ。

57 :
>信長が最終的に勝利したのは軍役を提供できる武士を大量に確保できたから。それだけだ。
それじゃあただの思考停止ではないですか。
なぜ大量に確保できたまで解明しないと、
なんの説明にもなってないですよ。

58 :
>>57
端的に言えば信長は自分に帰順すれば国人地侍層の既得権益を丸呑みしたため。
そのため畿内で三好政権がせっかく着手してた惣村の政権による直接把握と支配もご破算にした。
織田政権になって国人地侍層による間接支配に戻るのだ。
信長は反改革で既得権益者を糾合して勢力拡大した武将だよ

59 :

織田信長の勢力拡大と彼の死(本能寺の変)に関してイエズス会はどの程度関与しているのですか?
諸説あって定まらないのですか?

60 :
>>56
>農民兵とかまだ信じてるのか。そんなものはない!
>あと兵農分離も戦国期には存在しない!
いきなり矛盾してるぞ
兵農分離が存在していないなら、兵は農民兵だろ

61 :
>武田兵や徳川兵は農民兵だから強兵、織田兵は傭兵や商兵主体だから弱兵だと良く聞く。
嚆矢は徳富蘇峰かな?国民的作家である司馬氏が吹聴したので日本の作家は皆こう書いているけど作家の主観だからこれ
>農兵は自分の土地を守る為に命懸けだが、傭兵はしょせんは雇われで商兵は土地が無くても命さえあれば食っていけるから簡単に逃げ出すという説はわからんでもない。
使いモノになる農民は農作業に必要なので惣村側がださないので基本的に農兵は役に立たない
後北条氏がブチキレテ役に立たない人間を送り込んだら厳罰云云という文章が残っている
>尾張の国は土地が肥え近隣よりも石高が高かったと言われてるから、農業に専念させるため信長は農兵はほとんど使わずに傭兵や商兵を使っていたんかな?
尾張の国の土地が肥え近隣よりも石高が高くなったのは秀吉時代以降のはなし
戦国時代は今日基準となっている太閤検地の数字の半分以下

62 :
>>60
ちがう。農村は人を指してもそれは軍夫、人夫であり兵ではない。
兵になるのは農民ではなく農村であぶれた次男三男などの余剰人口であり、これが足軽となり
侍層によって組織された。これを給人という。
「農民」は村を形成し村の生産を担う中心であり、村はそういう大切な人員を戦国大名に提供したりしない。
そもそも戦国大名の軍隊には(戦国以前からそうだが)、戦力として百姓はいないのだ。

63 :
色んなレスどうも。
となると、結局は織田兵が弱兵と言われるのは出自や地域性関係無く豊臣徳川以降の政権の創作って事なのかね?
特に俺が言った事には情報を付けて答えてくれるが、自分の答えらしい事は言ってくれない61中心に再度尋ねたい。

64 :
>>62
農村であぶれた者が兵ならば、兵と農は分離していたってことだろ
「兵農分離も戦国期には存在しない!」という主張と矛盾している

65 :
>特に俺が言った事には情報を付けて答えてくれるが、自分の答えらしい事は言ってくれない61中心に再度尋ねたい。
君の文量に応じて書いてあげるよ
最近の壷は他人を道具扱いするような奴ばかりでウンザリしているから長文語りはしない
>結局は織田兵が弱兵と言われるのは出自や地域性関係無く豊臣徳川以降の政権の創作って事なのかね?
何故織田が弱兵なの?信長が美濃を取るのに十年かかったから?
それは兵の質にのみ起因する問題なのかな?

66 :
>>64
ちがう。戦国の軍隊は軍夫、人夫を農村からの提供に頼っているし、様々な物資の提供、
また城の補修などの軍役も化している。彼らがいなければ軍隊は機能しない。
その意味で戦国の軍隊は農村に頼りきった構造になっている。
軍役、賦役が銭納となり、軍隊を形成するものを全て城下町でまかなえるようになったのは江戸期、徳川家光の時代くらいだ。
いわゆる「兵農分離」は、この時期に起こった現象である。

67 :
>>65
説明が足らずに気を悪くしたら申し訳ない。
俺にはあんたに一方的に否定された気がした。
信じて貰えるか知らんけど、俺は世間では弱兵と言われる織田兵を率いた信長が天下に王手をかけたからこそ戦国時代が変わったと思うから聞いたんだ。

68 :
いや、まぁ、俺もココ数年はイラついているから。すまん。きちんと会話が可能な質問者なら俺も誠意を示せるよ。

ん〜ちょいと自分語りをすると俺は十年前にはコノ板で信長の革新性を否定していたんだよね
ところが某コテが世界史板で俺の書いていることをコピペしてソノコテ自身の見識であるかのように語りだしたんだ(苦笑
だから最近は信長の革新性を語っちゃおうかなと真に一貫性がなかったりする
世界史教科書的に「パックスOOOOO」という統一政権の出現が商業の発展と軌を一にするという指摘は古くからあり
70年代には織田政権の功として鈴木良一という方が既に述べておられる
後段の信長により戦国時代が変わったという視点に問題はないよ
だけど前段は一寸意味不明

一旦パソコンを切るから続きがあるなら午前零時頃か明日の夜ね

69 :
65は正しいことを言っても受け入れてもらえないタイプの人かしら、口調的にいって

70 :
とりあえず少しでもわかって貰えたなら良かった。
なんつーか、世間は簡単に信長を否定してるけどそれは豊臣徳川政権以降の宣伝を信じたから否定する人間が多いと思ってたんだ。
それに今までのレスを見ると強兵弱兵ってのは兵の出自では無い、創作だってので終わる答えばっかだったん気がしてね。なら、地域性というか県民性から兵の強弱があるのかと思ってさ。


71 :
信長が残虐な暴君という宣伝工作を一番したのは豊臣秀吉なw

72 :
あのぉ…>>59に誰か答えて下さい。

73 :
>>72
一切関わってません。以上。

74 :
>>73ほんとにぃ?

75 :
>>71
実際の信長殿は穏やかだったのでしょうか?

76 :
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「R風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとのRじみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
どなたか回答のほど願い居りまする。

77 :
>>74
イエズス会陰謀説って立花京子ちゃんでしょ?
あの人まともな研究者からはその著書で「文献がちゃんと読めてない」って名指しで言われるような人だぞw
だいたい備中の秀吉すら通信の問題で本能寺に関わることは不可能だというのにどうやってヨーロッパの
イエズス会がw
まだ「本能寺の黒幕は宇宙人」って言ったほうが納得できるわw

78 :
>>75
別に穏やかじゃないが創作物で出てくるようなキチガイじゃない。
社交的でノリの良いおっさん。>信長

79 :
>>74
ちょっと考えればわかることだ
イエズス会が信長殺して何の得がある?
戦乱の状況では布教活動も安定して継続できない
キリスト教布教に寛容な信長が日本を統一してくれた方が、当時のイエズス会にははるかにありがたい
現に、織田政権が倒れたおかげで、その後、秀吉、徳川政権はキリスト教禁令の方向に向かってる
仮に光秀が天下を取っていたとしても、保守的な彼がキリスト教に寛容な政策をとるとは思えない

80 :
>>71
信長暴君説は明智光秀のせいでしょ
有識故実に詳しく美男だったという光秀(才色兼備ガラシャの父でもある)
が謀反を起こすなんて相当なことがあったに違いない、
信長が大勢の前で光秀を叱責し、人質をRような暴君だったからなのよ、という論理

81 :
>>59の質問をした者ですが、>>77>>79なるほど、信長の「死」については解りました。では>>59のもうひとつの質問である信長の勢力拡大とイエズス会の関係はどうでしょう。
鉄砲を活用するには硝石の寡占的入手が必要になりますが、硝石の寡占的入手とイエズス会(および彼らを窓口とした南蛮勢力)との結びつきが有利だったと思いますが。

82 :
>>81
無い。
というかそもそも信長は南蛮勢力と直接接したことがない。
信長にとって南蛮人とは九州から和船に乗り換えてちょっぴりやってくる珍しお客さんにすぎない。
信長とイエズス会のどっちを過大評価してるのか知らんが、そんなものはSFの世界の話だな。

83 :
あと硝石貿易のメインは南蛮船じゃなくて中国船な。
しかも政治的に全く統制されてないからわざわざ特定の勢力と結びつく意味が無い。
どのくらいいい加減かといえば秀吉の唐入りの時、明もマカオのスペイン勢力も硝石の日本への禁輸措置を行ったが
日本軍は全く問題なく鉄砲を打ちまくっていた。
国内生産もかなりあったようだが、中国船との闇貿易が秀吉の唐入りを支えたと考えていい。

84 :
なるほど、ありがとう。

85 :
闇にまぎれて生きる

86 :
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「R風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとのRじみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
どなたか回答のほど願い申し上げます。

87 :
>>78
ありがとうございます。

88 :
>>86
良質問あげ。
ごめん。私は分からないので。
ただ、猪熊事件(天皇の妃が参加したR事件)とか、
古くは、とはずがたり(天皇の愛人が天皇が隣の部屋で聞き耳たててる中で他の男と寝る、とか他の男の子供出産とか)とか、
Rじみたことは数多くあったから「R風」という記述があるならRがあったんでしょう。
私も質問。良質問の後くだらない質問で申し訳ないですが
足利将軍木像梟首事件のあと、将軍の首はどうやって繋げたんでしょうか?
一木造りみたいなものを想像していたのですが、もともと取り外せるような作りになっているのでしょうか?

89 :
>>88
等持院に安置される足利将軍木像はもともと寄木造です。
しかし、梟首事件の際には巧妙に頭部だけを外して持ち去ったのか、
鋸のようなもので木像の首をかききったのかはちょっとわかりません。
現在は鋸で引かれたような後もなく、首はくっついています。
近年、等持院では将軍木像の手首が持ち去られる事件も起こっているようです。
http://www.47news.jp/CN/200810/CN2008100401000263.html

90 :
>>89
ありがとうございます。
最近等持院に行ったのですが、誰でも簡単に小さいものなら盗めてしまいそうな警備?(というかガラス以外は何も像を守ってない)だったので、大丈夫なのかな?と思っていました。
木像の首はどこから切られたのか、或いは抜かれたのか全く分からなかったので。
現在は手首はあったと思うので、返って来たんでしょうか。元々のものとは違うのかな。
で、ちょっと気付いたのが、足利義詮像が、他の義詮像とはあまり似ていなかったこと。伝藤原光能像とは私の感覚だと全く似ていませんでした。
でも見る人によっては似ているように感じる人もいるようで面白いですね。
寺の受け付け等のオバ、いやお姉さんたちが和やかでとても気に入ってしまってまた行きたいと思うお勧めスポットになりました。
少し話がズレましたが、回答ありがとうございました。

91 :
Rって日本ではいつから始まったのでしょうか
一番旧い記録はいつくらいからのものでしょうか

92 :
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「R風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとのRじみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
誰人なりとも識者の確たる回答をたまわり度きもの也。

93 :
嫌がらせ?

94 :
>>91江戸以前?

95 :
義経の子供は由比ヶ浜に沈められたとのことですが
素っ裸のまま海に投げ込んだのか、何かに包んで海に落としたのか
気になる…

96 :
重し付けて放り込んだんじゃない?

97 :
>>95
吾妻鏡によれば
「(頼朝は静の赤子を)安達新三郎に命じて由比ヶ浜に捨てさせた。
新三郎が御使として赤子を受け取りに行くと、静は赤子を差し出すことを拒んだ。
(静は)衣に包んだ赤子を抱き伏し、数刻泣き続けたので新三郎がいさめた」
赤子は衣をまとっていた模様。

98 :
質問
よく桶狭間の戦いなどで「今川義元の歯黒首」などといいますが、歴史上、男性がお歯黒を塗っていたのは官位で言うとどれぐらい以上で、いつ頃の時代なのでしょうか。
教えて頂けると嬉しいです。

99 :
>>91
鎌倉時代に成立してる稚児之草子にはRの絵が書かれている。男同士のだけど。

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