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2013年01月文学135: 三島由紀夫の「金閣寺」を語ろう♪ (267) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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三島由紀夫の「金閣寺」を語ろう♪


1 :2011/01/09 〜 最終レス :2012/12/20
Enjo Kon Ichikawa
http://www.youtube.com/watch?v=HMnmMzkHwoU
Temple of the Golden Pavilion-"Kinkakuji
http://www.youtube.com/watch?v=QS25_IF1l4o
Mishima: Uma Vida em Quatro Tempos (Part1)
http://www.youtube.com/watch?v=K61wpw2p35s

2 :
三島由紀夫『金閣寺』朗読2010・7・28その1
http://www.youtube.com/watch?v=7OA0vKbvtzM

3 :
あらすじ
主人公の溝口は幼い頃から父(寺の住職)に「金閣寺ほど美しいものはない」と聞かされていた。
しかし自らの目で見た金閣寺は彼の内部で構築された「金閣寺」より美しいものでなく、そのことに落胆する。
そして彼は体も弱く、生来の吃り(どもり)で引っ込み思案であった。
彼と外界には隔たりが存在していた。
父が死に、坊主になるために金閣寺がある寺へ行かされる。そこで鶴川、老師と出会う。
彼は戦争によって金閣寺が焼かれることを望んだ。
金閣寺は永遠である。しかし人間である私は永遠ではない。彼は、金閣寺が燃えることで、金閣寺と同等になろうとしていた。
しかし、結局そうはならなかった。
結局、金閣寺は彼を超越し続けていた。金閣寺は永遠であり、未来永劫あるかのようだった。

4 :
鶴川は、彼の暗い感情を明るい感情へと翻訳することができる唯一の存在だった。
それに対して、同じ大学に通う、内反足の障害を負っている柏木は彼にとって全く異なった存在だった。
溝口は、吃りを。柏木は内反足を。お互いに障害を持つ身でありながら、溝口をそれを外界を拒む存在であると考えていたが、
柏木は内反足があるからこそ自分が自分であり、大衆との差異が見出すことができると考え、これを利用し女を手にしていた。
思想の面で柏木に惹かれ、彼は人生つまり女に触れたいと思う。(彼を明るい世界へと繋ぐ鶴川が死んだこともそれを加速させた)
しかし金閣寺がそれをさせない。
金閣寺は彼を人生へ触れる道を妨げる。彼は金閣寺を征服したい気持ちが強まっていく。
そして、金閣寺を放火する計画は実行へと進むのであった。

5 :
吃りが、最初の音を発するために焦りにあせつてゐるあひだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から
身を引き離さうとじたばたしてゐる小鳥にも似てゐる。やつと身を引き離したときには、
もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしてゐるあひだ、手を休めて待つてゐて
くれるやうに思はれる場合がある。しかし待つてゐてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。
私が手間をかけてやつと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれて
しまつた、……さうしてそれだけが私にふさはしく思はれる、鮮度の落ちた現実、半ば
腐臭を放つ現実が、横たはつてゐるばかりであつた。

何か拭ひがたい負け目を持つた少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考へるのは、
当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待つてゐるやうな
気がした。
三島由紀夫「金閣寺」より

6 :
彼女は捕はれの狂女のやうに見えた。月の下に、その顔は動かなかつた。
私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から
拒まれた顔だと思つてゐる。しかるに有為子の顔は世界を拒んでゐた。月の光りはその額や
目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れてゐたが、不動の顔はただその光りに洗はれてゐた。
一寸目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒まうとしてゐる世界は、それを合図に、
そこから雪崩れ込んで来るだらう。
私は息を詰めてそれに見入つた。歴史はそこで中断され、未来へ向つても過去へ向つても、
何一つ語りかけない顔。さういふふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかりの
切株の上に見ることがある。新鮮で、みづみづしい色を帯びてゐても、成長はそこで途絶え、
浴びるべき筈のなかつた風と日光を浴び、本来自分のものではない世界に突如として
曝されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へ
さし出されてゐる顔。……
三島由紀夫「金閣寺」より

7 :
鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終つて
しまつたあとなのである。

夜空の月のやうに、金閣は暗黒時代の象徴として造られたのだつた。そこで私の夢想の金閣は、
その周囲に押しよせてゐる闇の背景を必要とした。闇のなかに、美しい細身の柱の構造が、
内から微光を放つて、じつと静かに坐つてゐた。人がこの建築にどんな言葉で語りかけても、
美しい金閣は、無言で、繊細な構造をあらはにして、周囲の闇に耐へてゐなければならぬ。

金閣はおびただしい夜を渡つてきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間といふもの、
このふしぎな船はそしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委せ、夜が来ると
周囲の闇に勢ひを得て、その屋根を帆のやうにふくらませて出航したのである。
私が人生で最初にぶつかつた難問は、美といふことだつたと言つても過言ではない。
三島由紀夫「金閣寺」より

8 :
三島由紀夫の「金隠し」というのは、有名だが「金閣寺」は知らない。

9 :
隠すイメージは、ないな。

10 :
つまらんダジャレだ

11 :
宮本亜門演出の「金閣寺」は29日から
  山下町のKAAT神奈川芸術劇場で2月14日まで
***************************************
 宮本亜門が三島由紀夫に挑んだ。
 神奈川芸術劇場のこけら落としに『金閣寺』を舞台化する。
 主演は森田剛、柏木役は高岡蒼甫。
 http://www.kaat.jp/
 1月29日から2月14日まで。8500円から4500円。
 宮本亜門は朝日新聞のインタビューで次のように言う。
 「金閣寺を初めて読んだのはひきこもりだった十代の頃。『あまりに美しい小説』で、劣等感を抱えて自己表現できない主人公に共感した。三島の事件はテレビでみた。
ヘリコプターが現場上空をぐるぐる旋回していたのが印象的だったといい、『西欧文明に傾斜し経済発展を遂げ、日本人はどうなったのか。自決で投げかけられた疑問はいまも私たちに傷として残っている』とはなす」(朝日、10年12月25日土曜版)。

12 :
高岡さんの義兄弟が西新宿で撲殺された件について

13 :
現場から広末涼子レポーターがお送りします

14 :
高岡なんていうの?名前

15 :
そうすけですね。宮浮おいの旦那さんです。

16 :
なるほろ〜

17 :
てすと

18 :
父の顔は初夏の花々に埋もれてゐた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きてゐた。
花々は井戸の底をのぞき込んでゐるやうだつた。なぜなら、死人の顔は生きてゐる顔の
持つてゐた存在の表面から無限に陥没し、われわれに向けられてゐた面の縁のやうなもの
だけを残して、二度と引き上げられないほどの奥のはうへ落つこちてゐたのだから。
物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから
手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如実に語つてくれるものはなかつた。

対面などではなく、私はただ父の死顔を見てゐた。
屍はただ見られてゐる。私はただ見てゐる。見るといふこと、ふだん何の意識もなしに
してゐるとほり、見るといふことが、こんなに生ける者の権利の証明でもあり、残酷さの
表示でもありうるとは、私にとつて鮮やかな体験だつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

19 :
私といふ存在から吃りを差引いて、なほ私でありうるといふ発見を、鶴川のやさしさが私に教へた。
私はすつぱりと裸かにされた快さを隈なく味はつた。鶴川の長い睫にふちどられた目は、
私から吃りだけを漉し取つて、私を受け容れてゐた。それまでの私はといへば、吃りで
あることを無視されることは、それがそのまま、私といふ存在を抹殺されることだ、
と奇妙に信じ込んでゐたのだから。

私は今でもふしぎに思ふことがある。もともと私は暗黒の思想にとらはれてゐたのではなかつた。
私の関心、私に与へられた難問は美だけである筈だつた。しかし戦争が私に作用して、
暗黒の思想を抱かせたなどと思ふまい。美といふことだけを思ひつめると、人間はこの世で
最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分さういふ風に出来てゐるのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

20 :
京都では空襲に見舞はれなかつたが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書類を
持つて、大阪の親工場へ行つたとき、たまたま空襲があつて、腸の露出した工員が担架で
運ばれてゆく様を見たことがある。
なぜ露出した腸が凄惨なのだらう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆つたり
しなければならないのであらう。何故血の流出が、人に衝撃を与へるのだらう。何故人間の
内臓が醜いのだらう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質の
ものではないか。……私が自分の醜さを無に化するやうなかういふ考へ方を、鶴川から
教はつたと云つたら、彼はどんな顔をするだらうか? 内側と外側、たとへば人間を
薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして非人間的に
見えてくるのであらうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のやうに、
しなやかに飜へし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……
三島由紀夫「金閣寺」より

21 :
『金閣と私との関係は絶たれたんだ』と私は考へた。『これで私と金閣とが同じ世界に
住んでゐるといふ夢想は崩れた。またもとの、もとよりのもつと望みのない事態がはじまる。
美がそこにをり、私はこちらにゐるといふ事態。この世のつづくかぎり渝(かは)らぬ
事態……』
敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の
焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、
永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するといふことを
語つてゐる永遠。
天から降つて来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまふ永遠。
この呪はしいもの。……さうだ。まはりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの
呪詛のやうな永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまつてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より

22 :
金閣寺ってそんなに傑作か?

23 :
戦争に敗けたからと云つて、決して私は不幸なのではなかつた。しかし老師のあの満ち足りた
幸福さうな顔は気にかかつた。

私は禅僧にも肉体のあることがふしぎでならなかつた。老師が女遊びをし尽したのは、
肉体を捨離して、肉を軽蔑するためだつたと思はれる。それなのに、その軽蔑された肉が
思ふまま栄養を吸つて、つやつやして、老師の精神を包んでゐるのはふしぎに思はれる。
よく馴らされた家畜のやうな温順な、謙譲な肉。和尚の精神にとつては、まさに妾のやうな
その肉……。

私にとつて、敗戦が何であつたかを言つておかなくてはならない。
それは解放ではなかつた。断じて解放ではなかつた。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに
融け込んでゐる仏教的な時間の復活に他ならなかつた。

『世間の人たちが、生活と行動で悪を味はふなら、私は内界の悪に、できるだけ深く
沈んでやらう』
三島由紀夫「金閣寺」より

24 :
「君は、未来のことに、何の不安も希望も持たへんのか?」
「持つてないんだ、何も。だつて、持つてゐて何になるんだ」
かう答へた鶴川の語調には、わづかな暗さも、投げやりな調子もなかつた。そのとき稲妻が、
彼の顔だちの唯一の繊細な部分である細いなだらかな眉を照らし出した。床屋がさうするままに、
鶴川は眉の上下を剃らせるらしかつた。そこで細い眉はいよいよ人工的に細く、眉の
はづれの一部に、剃りあとの仄かな青い翳を宿してゐた。
私はちらとその青さを見て、不安に搏たれた。この少年は私などとはちがつて、生命の
純潔な末端のところで燃えてゐるのだ。燃えるまでは、未来は隠されてゐる。未来の灯芯は
透明な冷たい油のなかに涵つてゐる。誰が自分の純潔と無垢を予見する必要があるだらう。
もし未来に純潔と無垢だけしか残されてゐないならば。
三島由紀夫「金閣寺」より

25 :
雪は私たちを少年らしい気持にさせる。

雪に包まれた金閣の美しさは、比べるものがなかつた。この吹き抜けの建築は、雪のなかに、
雪が吹き入るのに委せたまま、細身の柱を林立させて、すがすがしい素肌で立つてゐた。
どうして雪は吃らぬのか? と私は考へた。それは八つ手の葉に障(さや)るときなど、
吃つたやうに降つて、地に落ちることもあつた。しかし遮ぎるもののない空から、流麗に
落ちてくる雪を浴びてゐると、私の心の屈曲は忘れられ、音楽を浴びてゐるやうに、私の
精神はすなほな律動を取戻した。
事実、立体的な金閣は、雪のおかげで、何事をも挑みかけない平面的な金閣、画中の金閣に
なつてゐた。両岸の紅葉山の枯枝は、雪をほとんど支へ得ないで、その林はいつもよりも
裸かに見えた。をちこちの松に積む雪は壮麗だつた。池の氷の上にはさらに雪がつもり、
ふしぎにつもらぬ個所もあつて、白い大まかな斑(まだ)らは、装飾画の雲のやうに大胆に
ゑがかれてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より

26 :
11月下旬、紅葉鮮やかな京都を訪れた。もちろん金閣寺も行った。
高校の修学旅行以来数十年ぶりの再訪だった。
金閣は変わらず美しかった。自分は確実に老けてしまっていた。
やがて死ぬだろう。しかし金閣はあり続ける。

27 :
肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持つてゐる。不具者も、美貌の女も、
見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追ひつめられて、
存在そのもので見返してゐる。見たはうが勝なのだ。

滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを
知つてゐるからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。

そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在してゐないといふ贅沢な不満から生まれるもの
ではないのか。

不安もない。愛も、ないのだ。世界は永久に停止してをり、同時に到達してゐるのだ。
この世界にわざわざ、「われわれの世界」と註する必要があるだらうか。俺はかくて、
世間の「愛」に関する迷蒙を一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に
結びつかうとする迷蒙だと。
三島由紀夫「金閣寺」より

28 :
戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によつて保たれてゐたと思はないかね。
死刑の公開が行はれなくなつたのは、人心を殺伐ならしめると考へられたからださうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けてゐた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしてゐた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、
和やかにするんだのに。俺たちが残虐になつたり、殺伐になつたりするのは、決して
そんなときではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとへばこんなうららかな
春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れてゐるのをぼんやり眺めてゐる
ときのやうな、さういふ瞬間だと思はないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はさういふ風にして生れたんだ。
しかし白日の下に、血みどろになつて悶絶する人の姿は、悪夢にはつきりした輪郭を与へ、
悪夢を物質化してしまふ。
三島由紀夫「金閣寺」より

29 :
隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、
私に断念を要求する権利があつたであらう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で
人生に触れることは不可能である。人生に対する行為の意味が、或る瞬間に対して忠実を誓ひ、
その瞬間を立止らせることにあるとすれば、おそらく金閣はこれを知悉してゐて、わづかの
あひだ私の疎外を取消し、金閣自らがさういふ瞬間に化身して、私の人生への渇望の虚しさを
知らせに来たのだと思はれる。人生に於て、永遠に化身した瞬間は、われわれを酔はせるが、
それはこのときの金閣のやうに、瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数でもないことを
金閣は知悉してゐた。美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのは
まさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、かうした毒の前には
ひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものをも、滅亡の白茶けた
光りの下に露呈してしまふのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

30 :
禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち見性だと
いはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して
極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、
どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。かくて
鶴川のやうに、そこに存在するだけで光りを放つてゐたもの、それに目も触れ手も触れる
ことのできたもの、いはば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪はれた今では、
その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもつとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無の
もつとも実在的な模型であり、彼その人がかうした比喩にすぎなかつたのではないかと思はれた。
たとへば、彼と五月の花々との似つかはしさ、ふさはしさは、他でもないこの五月の突然の
死によつて、彼の柩に投げこまれた花々との、似つかはしさ、ふさはしさなのであつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

31 :
狂人でなければ企てられない行為を罰するためには、事前にどうやつて狂人を嚇かすべきか。
おそらく狂人にしか読めない文字が必要になるだらう。……

柏木を深く知るにつれてわかつたことだが、彼は永保ちする美がきらひなのであつた。
たちまち消える音楽とか、数日のうちに枯れる活け花とか、彼の好みはさういふものに限られ、
建築や文学を憎んでゐた。彼が金閣へやって来たのも、月の照る間の金閣だけを索めて
来たのに相違なかつた。それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成就する
その短かい美は、一定の時間を純粋な持続に変へ、確実に繰り返されず、蜉蝣のやうな短命な
生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものは
なく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかつた。
そして柏木が「御所車」を奏でをはつた瞬間に、音楽、この架空の生命は死に、彼の醜い
肉体と暗鬱な認識とは、少しも傷つけられずに変改されずに、又そこに残つてゐたのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

32 :
柏木が美に索めてゐるものは、確実に慰藉ではなかつた! 言はず語らずのうちに、
私にはそれがわかつた。彼は自分の唇が尺八の歌口に吹きこむ息の、しばらくの間、
中空に成就する美のあとに、自分の内飜足と暗い認識が、前にもましてありありと新鮮に
残ることのはうを愛してゐたのだ。美の無益さ、美がわが体内をとほりすぎて跡形もないこと、
それが絶対に何ものをも変へぬこと、……柏木の愛したのはそれだつたのだ。美が私にとつても
そのやうなものであつたとしたら、私の人生はどんなに身軽になつてゐたことだらう。
……柏木の導くままに、何度となく、飽かずに私は試みた。顔は充血し、息は迫つて来た。
そのとき急に私が鳥になり、私の咽喉から鳥の啼声が洩れたかのやうに、尺八が野太い音の
一声をひびかせた。
「それだ」
と柏木が笑つて叫んだ。決して美しい音ではないが、同じ音は次々と出た。そのとき私は、
わがものとも思はれぬこの神秘な声音から、頭上の金銅の鳳凰の声を夢みてゐたのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

33 :
美といふものは、さうだ、何と云つたらいいか、虫歯のやうなものなんだ。それは舌にさはり、
引つかかり、痛み、自分の存在を主張する。たうとう痛みにたへられなくなつて、歯医者に
抜いてもらふ。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人は
かう言はないだらうか。『これか? こんなものだつたのか? 俺に痛みを与へ、俺に
たえずその存在を思ひわづらはせ、さうして俺の内部に頑固に根を張つてゐたものは、
今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだらうか? もしこれが
もともと俺の外部存在であつたのなら、どうして、いかなる因縁によつて、俺の内部に
結びつき、俺の痛みの根源になりえたのか? こいつの存在の根拠は何か? その根拠は
俺の内部にあつたのか? それともそれ自体にあつたのか? それにしても、俺から
抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれぢやあない』
三島由紀夫「金閣寺」より

34 :
あの山門の楼上から、遠い神秘な白い一点に見えたものは、このやうな一定の質量を
持つた肉ではなかつた。あの印象があまりに永く醗酵したために、目前のR房は、
肉そのものであり、一個の物質にしかすぎなくなつた。しかしそれは何事かを愬へかけ、
誘ひかける肉ではなかつた。存在の味気ない証拠であり、生の全体から切り離されて、
ただそこに露呈されてあるものであつた。
まだ私は嘘をつかうとしてゐる。さうだ。眩暈に見舞はれたことはたしかだつた。だが
私の目はあまりにも詳さに見、R房が女のR房であることを通りすぎて、次第に無意味な
断片に変貌するまでの、逐一を見てしまつた。
……ふしぎはそれからである。何故ならかうしたいたましい経過の果てに、やうやくそれが
私の目に美しく見えだしたのである。美の不毛の不感の性質がそれに賦与されて、R房は
私の目の前にありながら、徐々にそれ自体の原理の裡にとぢこもつた。薔薇が薔薇の原理に
とぢこもるやうに。
三島由紀夫「金閣寺」より

35 :
私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美を官能とを同時に見出すところよりも、はるかに
後から来る。みるみるR房は全体との聯関を取戻し、……肉を乗り超え、……不感の
しかし不朽の物質になり、永遠につながるものになつた。
私の言はうとしてゐることを察してもらひたい。又そこに金閣が出現した。といふよりは、
R房が金閣に変貌したのである。

「又もや私は人生から隔てられた!」と独言した。「又してもだ。金閣はどうして私を
護らうとする? 頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする? なるほど
金閣は、私を堕地獄から救つてゐるのかもしれない。さうすることによつて金閣は私を、
地獄に堕ちた人間よりもつと悪い者、『誰よりも地獄の消息に通じた男』にしてくれたのだ」

「いつかきつとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないやうに、いつか必ずお前を
わがものにしてやるぞ」
声はうつろに深夜の鏡湖池に谺(こだま)した。
三島由紀夫「金閣寺」より

36 :
総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のやうに一つの影像は無限の奥まで
つづいて、新たに会ふ事物にも過去に見た事物の影がはつきりと射し、かうした相似に
みちびかれてしらずしらず廊下の奥、底知れぬ奥の間へ、踏み込んで行くやうな心地がしてゐた。
運命といふものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。のちに死刑になるべき男は、
日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をゑがいて、その幻に親しんでゐる筈だ。

音楽は夢に似てゐる。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似てゐる。
音楽はそのどちらだらうか、と私は考へた。とまれ音楽は、この二つの反対のものを、
時には逆転させるやうな力を備へてゐた。そして自ら奏でる「御所車」の曲の調べに、
時たま私はやすやすと化身した。私の精神は音楽に化身するたのしみを
知つた。柏木とちがつて、音楽は私にとつて確実に慰藉だつたのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

37 :
とまれ音楽? ともあれ?

38 :
とまれ=ともあれ(の圧縮表現)
かくまれ=かくもあれ(の圧縮表現)
つまり、
ともあれかくもあれ→圧縮して、とまれかくまれ
→更に圧縮して、ともかく
最後はちと怪しいw
ただ、圧縮かどうかは<ともかく>、広辞苑では、
ともあれ=ともあれかくもあれ=とまれかくまれ=ともかくも=ともかく
となっているから、怪しくはあるが、完全な間違いとは言えない。

39 :
光りの遍満のうちを金いろの羽を鳴らして飛んできた蜜蜂は、数多い夏菊の花から一つ選んで、
その前でしばらくたゆたうた。
私は蜂の目になつて見ようとした。菊は一点の瑕瑾(かきん)もない黄いろい端正な花弁を
ひろげてゐた。それは正に小さな金閣のやうに美しく、金閣のやうに完全だつたが、決して
金閣に変貌することはなく、夏菊の花の一輪にとどまつてゐた。さうだ、それは確乎たる菊、
一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまつてゐた。それは
このやうに存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に
ふさはしいものになつてゐた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、かうして
対象としての形態に身をひそめて息づいてゐることは、何といふ神秘だらう! 形態は
徐々に稀薄になり、破られさうになり、おののき顫(ふる)へてゐる。それもその筈、
菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞつて作られたものであり、その美しさ自体が、
予感に向つて花ひらいたものなのだから。今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

40 :
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世の
あらゆる形態の鋳型なのだ。……蜜蜂はかくて花の奥深く突き進み、花粉にまみれ、酩酊に
身を沈めた。蜜蜂を迎へ入れた夏菊の花が、それ自身、黄いろい豪奢な鎧を着けた蜂のやうに
なつて、今にも茎を離れて飛び翔たうとするかのやうに、はげしく身をゆすぶるのを私は見た。
私はほとんど光りと、光りの下に行はれてゐるこの営みとに眩暈を感じた。ふとして、又、
蜂の目を離れて私の目に還つたとき、これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置に
あるのを思つた。それはかうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還つたやうに、
生が私に迫つてくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまふ。
そのとき正に、私と生との間に金閣が現はれるのだ、と。
三島由紀夫「金閣寺」より

41 :
……私は私の目に還つた。蜂と夏菊とは茫漠たる物の世界に、ただいはば「配列されてゐる」に
とどまつた。蜜蜂の飛翔や花の揺動は、風のそよぎと何ら変りがなかつた。この静止した
凍つた世界ではすべてが同格であり、あれほど魅惑を放つてゐた形態は死に絶えた。
菊はその形態によつてではなく、われわれが漠然と呼んでゐる「菊」といふ名によつて、
約束によつて美しいにすぎなかつた。私は蜂ではなかつたから菊に誘(いばな)はれもせず、
私は菊ではなかつたから蜂に慕はれもしなかつた。あらゆる形態と生の流動との、あのやうな
親和は消えた。世界は相対性の中へ打ち捨てられ、時間だけが動いてゐたのである。
永遠の、絶対的な金閣が出現し、私の目がその金閣の目に成り変るとき、世界はこのやうに
変貌することを、そしてその変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占有し、
その余のものを砂塵に帰してしまふことを、これ以上冗(くど)くは言ふまい。
三島由紀夫「金閣寺」より

42 :
この黒い尨犬は、かうした人ごみを行き馴れてゐるとみえ、華美な女のコートの間に
軍隊外套もまじる行人の足もとを、巧みにすり抜けてあちこちの店先に立ち寄つた。
犬は聖護院八ツ橋の昔にかはらぬ土産物の店の前で匂ひを嗅いだ。店のあかりのために
犬の顔がはじめて見えたが、片目が潰(つひ)え、潰えた目尻に固まつた目脂と血が
瑪瑙のやうである。無事なはうの目は直下の地面を見てゐる。尨犬の背のところどころが
引きつつて、それらの硬ばつた毛の束が際立つてゐる。
何故犬が私の関心を惹いたのか知らない。多分この明るい繁華な町並とはまるで別の世界を、
犬が頑なに裡に抱いて、さまよつてゐるのに惹かれたのかもしれない。嗅覚だけの暗い世界を
犬は歩いてをり、それは人間どもの町と二重になつて、むしろ灯火やレコードの唄声や
笑ひ声は、執拗な暗い匂ひのために脅やかされてゐた。なぜなら匂ひの秩序はもつと
確実であり、犬の湿つた足もとにまつはる尿の匂ひは、人間どもの内蔵や器官の放つ微かな
悪臭と、確実に繋がつてゐたからだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

43 :
あらゆるものが一瞬一瞬に私の内に生起し、又死に絶えた。あらゆる形をなさない思想が、
と云はうか。……重要なものが些末なものと手をつなぎ、今日新聞で読んだヨーロッパの
政治的事件が、目前の古下駄と切つても切れぬつながりがあるやうに思はれた。
私は一つの草の葉の尖端の鋭角について永いあひだ考へてゐたこともある。考へてゐたと
いふのは適当ではない。そのふしぎな些細な想念は決して持続せず、生きてゐるとも
死んでゐるともつかぬ私の感覚の上に、リフレインのやうに執拗に繰り返して現はれたのである。
なぜこの草の葉の尖端が、これほど鋭い鋭角でなければならないのか。もし鈍角であつたら、
草の種別は失はれ、自然はその一角から崩壊してしまはねばならないのか。自然の歯車の
極小のものを外してみて、自然全体を転覆させることができるのではないか。そして
その方法を、私は徒らにあれこれと考へたりした。
三島由紀夫「金閣寺」より

44 :
私は永いあひだ黙つてゐて、かう言つた。
「私をもうお見捨てになるのとちがひますか」
老師は即答しなかつた。やがて、
「さうまでして、まだ見捨てられたくないと思ふか」
私は答へなかつた。しばらくして、我知らず、吃りながら別事を言つた。
「老師は私のことを隅々まで知つてをられます。私も老師のことを知つてをるつもりで
ございます」
「知つてをるのがどうした」――和尚は暗い目になつた。「何にもならんことぢや。
益もない事ぢや」
私はこの時ほど現世を完全に見捨てた人の顔を見たことがない。生活の細目、金、女、
あらゆるものに一々手を汚しながら、これほどに現世を侮蔑してゐる人の顔を見たことがない。
……私は血色のよい温かみのある屍に触れたやうな嫌悪を感じた。
そのとき、自分のまはりにあるすべてのものから、しばらくでも遠ざかりたいといふ痛切な
感じが私に湧き起つた。老師の部屋を辞したのちも、たえずそれを考へたが、この考へは
ますます激しくなつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

45 :
「どこかへ、ぶらつと旅に出たいんだ」
「帰つて来るのか」
「多分……」
「何から遁れたいんだ」
「自分のまはりの凡てから逃げ出したい。自分のまはりのものがぷんぷん匂はしてゐる無力の
匂ひから。……老師も無力だ。ひどく無力なんだ。それもわかつた」
「金閣からもか」
「さうだよ。金閣からもだ」
「金閣も無力かね」
「金閣は無力ぢやない。決して無力ぢやない。しかし凡ての無力の根源なんだ」
「君の考へさうなことだ」
と柏木は、歩道を例の大袈裟な舞踏の足取で歩きながら、ひどく愉快さうに舌打ちした。

私は自分の思想に、社会の支援を仰ぐ気持はなかつた。世間でわかりやすく理解されるための
枠を、その思想に与へる気持もなかつた。何度も言ふやうに、理解されないといふことが、
私の存在理由だつたのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

46 :
名文ですね

47 :
三島は小説家ではない単なる思想家だ

48 :
日本文学史上に金字塔を打ち立てた表現の魔術師、詩人三島由紀夫
渾身の一作。決して色褪せない不朽の傑作。

49 :
「天皇」や「文学」以外にも,「金閣」と等号で結びつくものはまだまだあるような気がするので,
それらがどのような特質を持っているのかを考えた方が面白いと思います。
 この違い,かなり微妙ですが,大きな違いです。
アメリカの影 「金閣=天皇=文学」という等式は,いかにも三島由紀夫的な問題設定を呼び込み,興味をそそられるわけですが,
それはそれとして肯定した上で,『金閣寺』という小説を面白く読むために,もうひとつ別の等式を添加してみます。
 今回取り上げたいのは,「金閣=象徴天皇=アメリカ」という等式です。
 『金閣寺』は京都や舞鶴を舞台にした小説ですが,敗戦後の日本を舞台にしているだけにそこかしこに「アメリカ」が影を落としています。
 泥酔したままジープに乗って金閣寺を訪れたアメリカ兵の命令で,痴話げんかの果てに地面に押し倒された女の腹を
「私」が踏む場面があります。
 金と力を背景にしたアメリカ兵が日本人に孕ませた混血児を流産させるという構図は,快楽をともなった「私」の
破壊衝動の発露という点で,おそらく金閣寺を炎上させるラストシーンにつながっています。

50 :
 「私」が『金閣を焼かねばならぬ』と決意するのは,金閣寺を抜け出して舞鶴港のある西舞鶴駅に降り立ち,
由良川を北上して丹後由良海岸のある河口まで歩く第七章の最後(文庫本243ページ)の場面ですが,その背景にもアメリカが顔を出しています。
 「すべてが変わっていた。そこは英語の交通標識がおびやかすように、そこかしこの街角に秀でている外国の港市になっていた。
多くの米国兵が往来していた。
(中略)町の只中へ、深く導かれている運河のような狭隘な海、その死んだ水面、岸に繋がれたアメリカの小艦艇、……ここにはたしかに平和があったが、
行き届きすぎた衛生管理が、かつての軍港の雑然とした肉体的な活力を奪って、街全体を病院のような感じに変えていた。」
 こういう光景の中で「私」が『金閣を焼かねばならぬ』と決意したことの意味は,小さくないはずです。

51 :
金閣寺のいかがわしさ 金閣寺のどこが「アメリカ」なのでしょうか。
 金閣の見物はおいおい数を増した。老師は市に申請して、インフレーションに即応するような拝観料の値上げに成功した。
 今まで金閣の拝観者は、軍服や作業服やもんぺ姿の、つつましいまばらな客でしかなかった。やがて占領軍が到着し、
俗世のみだらな風俗が金閣のまわりに群がるにいたった。
 いくつかの建築様式を折衷し,金箔を張り付けて出来上がった金閣寺は,それ自体がきわめていかがわしい,キッチュな建築物であるわけですが,
「拝観料の値上げ」というような世俗的な問題と無縁ではいられない敗戦後の現実が,引用部分からうかがえます。
 小説の後半では,女遊びをする老師の生臭坊主ぶりが,金閣寺に放火するにいたる「私」の心理に影響を与えていくことになるのですが,
金と女に代表される「俗世のみだらな風俗」というものが,アメリカがもたらした新しい時代と密接に結びついているだろうことは想像に難くありません。
 ここでいう「アメリカ」が象徴するものは,拝金主義であり,享楽主義であり,物欲や肉欲を追求するライフスタイルでもあります。

52 :
 日本国憲法が定めた象徴天皇の影にアメリカがあるように、金閣寺の影にもアメリカがあり、そういういかがわしさの中にある日本社会に対する敵意が、
放火という行為へと「私」を駆り立てたとも考えられるのです。

 ほぼ同じ場所から見下ろすという行為の反復は,物欲と肉欲に彩られた敗戦後の京都(あるいは日本)と,生臭坊主の老師が支配する金閣寺が等価であることを示しています。
 そして,それらがいずれも「中身や実体を欠いた空白」であることも。

53 :
>>51
アメリカより日本のが拝金主義でしょ・・・。
そんなの高校二年生で習うけど。

54 :
>>53
きみ頭おかしいの?

55 :
授業料無償の対象化がペンディングになってる高校だろ

56 :
初冬の曇つた空の下に、冷たい微風が塩気を含んで、ひろい軍用道路を吹き通つてゐた。
海の匂ひといふよりは、無機質の、錆びた鉄のやうな匂ひがしてゐた。町の只中へ、深く
導かれてゐる運河のやうな狭隘な海、その死んだ水面、岸に繋がれたアメリカの小艦艇、
……ここにはたしかに平和があつたが、行き届きすぎた衛生管理が、かつての軍港の
雑然とした肉体的な活力を奪つて、街全体を病院のやうな感じに変へてゐた。
私はここで海と親しく会はうとは思はなかつた。ジープがうしろから来て面白半分に、
私を海へ突き落すかもしれなかつた。今にして思ふのだが、私の旅の衝動には海の暗示があり、
その海はおそらくこんな人工的な港の海ではなくて、幼時、成生岬の故郷で接してゐたやうな、
生れたままの姿の荒々しい海であつた。肌理の粗い、しじゆう怒気を含んでゐる、あの
苛立たしい裏日本の海なのであつた。
だから私は由良へ行かうとしてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より

57 :
それは正しく裏日本の海だつた! 私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと
力との源泉だつた。海は荒れてゐた。波はつぎつぎとひまなく押し寄せ、今来る波と
次の波との間に、なめらかな灰色の深淵をのぞかせた。暗い沖の空に累々と重なる雲は、
重たさと繊細さを併せてゐた。

突然私にうかんで来た想念は、柏木が言ふやうに、残虐な想念だつたと云はうか? 
とまれこの想念は、突如として私の裡に生れ、先程からひらめいてゐた意味を啓示し、
あかあかと私の内部を照らし出した。まだ私はそれを深く考へてもみず、光りに搏たれたやうに、
その想念に搏たれてゐるにすぎなかつた。しかし今までつひぞ思ひもしなかつたこの考へは、
生れると同時に、忽ち力を増し、巨きさを増した。むしろ私がそれに包まれた。その想念とは、
かうであつた。
『金閣を焼かなければならぬ』
三島由紀夫「金閣寺」より

58 :
うわあ、著作権侵害!

59 :
なぜ私が金閣を焼かうといふ考へより先に、老師を殺さうといふ考へに達しなかつたのかと
自ら問うた。
それまでにも老師を殺さうといふ考へは全く浮ばぬではなかつたが、忽ちその無効が知れた。
何故ならよし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、
闇の地平から現はれて来るのがわかつてゐたからである。
おしなべて生(しやう)あるものは、金閣のやうに厳密な一回性を持つてゐなかつた。
人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがへのきく方法でそれを伝播し、
繁殖するにすぎなかつた。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の
誤算である。私はさう考へた。そのやうにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、
一方では人間の滅びやすい姿から、却つて永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、
却つて滅びの可能性が漂つてきた。人間のやうにモータルなものは根絶することが
できないのだ。そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人は
そこに気がつかぬのだらう。私の独創性は疑ふべくもなかつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

60 :
『金閣が焼けたら……、金閣が焼けたら、こいつらの世界は変貌し、生活の金科玉条は
くつがへされ、列車時刻表は混乱し、こいつらの法律は無効になるだらう』

再び私を、生活の魅惑、あるひは生活への嫉視が虜にしようとした。金閣を焼かずに、
寺を飛び出して、還俗して、私もかういふ風に生活に埋もれてしまふこともできるのだ。
……しかし忽ち、暗い力はよみがへつて私をそこから連れ出した。私はやはり金閣を
焼かねばならぬ。別誂への、私特製の、未開の生がそのときはじまるだらう。

小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、母を殊更醜くしてゐるものは何だと私は考へた。
母を醜くしてゐるのは、……それは希望だつた。湿つた淡紅色の、たえず痒みを与へる、
この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰つてゐる頑固な皮癬(ひぜん)のやうな希望、
不治の希望であつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

61 :
そのころ火は火とお互ひに親しかつた。火はこのやうに細分され、おとしめられず、いつも
火は別の火と手を結び、無数の火を糾合することができた。人間もおそらくさうであつた。
火はどこにゐても別の火を呼ぶことができ、その声はすぐに届いた。寺々の炎上が失火や
類火や兵火によるものばかりで、放火の記録が残されてゐないのも、たとへ私のやうな男が
古い或る時代にゐたとしても、彼はただ息をひそめ身を隠して待つてゐればよかつたからなのだ。
寺々はいつの日か必ず焼けた。火は豊富で、放恣であつた。待つてさへゐれば、隙を
うかがつてゐた火が必ず蜂起して、火と火は手を携へ、仕遂げるべきことを仕遂げた。
金閣は実に稀な偶然によつて、火を免れたにずぎなかつた。火は自然に起り、滅亡と否定は
常態であり、建てられた伽藍は必ず焼かれ、仏教的原理と法則は厳密に地上を支配してゐた。
たとへ放火であつても、それはあまりにも自然に火の諸力に訴へたので、歴史家は誰もそれを
放火だとは思はなかつたのであらう。
三島由紀夫「金閣寺」より

62 :
「俺は君に知らせたかつたんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、
他のものは何一つ世界を変へないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、
変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、さうして永久に変貌するんだ。
それが何の役に立つかと君は言ふだらう。だがこの生を耐へるために、人間は認識の武器を
持つたのだと云はう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐へるといふ意識なんか
ないからな。認識は生の耐へがたさがそのまま人間の武器になつたものだが、それで以て
耐へがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐へるのに別の方法があると思はないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかぢやない」と思はず私は、告白とすれすれの危険を
冒しながら言ひ返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
三島由紀夫「金閣寺」より

63 :
趙州の言はうとしたことはかうだ。やはり彼は美が認識に守られて眠るべきものだといふことを
知つてゐた。しかし個々の認識、おのおのの認識といふものはないのだ。認識とは人間の
海でもあり、人間の野原でもあり、人間一般の存在の様態なのだ。彼はそれを言はうと
したんだと俺は思ふ。君は今や南泉を気取るのかね。……美的なもの、君の好きな美的なもの、
それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なんだ。君の言ふ
『生に耐へるための別の方法』の幻影なんだ。本来そんなものはないとも云へるだらう。
云へるだらうが、この幻影を力強くし、能ふかぎりの現実性を賦与するのはやはり認識だよ。
認識にとつて美は決して慰藉ではない。女であり、妻でもあるだらうが、慰藉ではない。
しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生れる。
はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。世間で
芸術と呼んでゐるのはそれさ。

「美は……美的なものはもう僕にとつては怨敵なんだ」
三島由紀夫「金閣寺」より

64 :
火の幻にこのごろの私が、肉慾を感じるやうになつてゐたと云つたら、人は信じるだらうか?
私の生きる意志がすべて火に懸つてゐたのであれば、肉慾もそれに向ふのが自然ではなからうか?
そして私のその欲望が、火のなよやかな姿態を形づくり、焔は黒光りのする柱を透かして、
私に見られてゐることを意識して、やさしく身づくろひをするやうに思はれた。その手、
その肢、その胸はかよわかつた。

私はたしかに生きるために金閣を焼かうとしてゐるのだが、私のしてゐることは死の準備に
似てゐた。自殺を決意したRの男が、その前に廓へ行くやうに、私も廓へ行くのである。
安心するがいい。かういふ男の行為は一つの書式に署名するやうなもので、Rを失つても、
彼は決して「ちがふ人間」などになりはしない。

私の足は捗らなくなつた。思ひあぐねた末には、一体金閣を焼くためにRを捨てようとして
ゐるのか、Rを失ふために金閣を焼かうとしてゐるのかわからなくなつた。そのとき、
意味もなしに「天歩艱難」といふ高貴な単語が心に浮び、「天歩艱難々々々々」と
くりかへし呟きながら歩いた。
三島由紀夫「金閣寺」より

65 :
薔薇の棘に指先を傷つけられたのが死の因(もと)になつた詩人のことが思ひ浮んだ。
そこらの凡庸な人間はそんなことでは死なない。しかし私は貴重な人間になつたのだから、
どんな運命的な死を招き寄せるか知れなかつた。指の傷は幸ひに膿を持たず、けふは
そこを押すと微かに痛むだけであつた。
五番町へ行くにつけても、私が衛生上の注意を怠らなかつたのは云ふまでもない。前日から、
顔を知られてゐない遠い薬屋まで行つて、私はゴム製品を買つておいた。粉つぽいその膜は
いかにも無気力な不健康な色をしてゐた。昨夜私はそのひとつを試してみた。茜いろの
クレパスで戯れに描いた仏画や、京都観光協会のカレンダーや、丁度仏頂尊勝陀羅尼のところが
あけられてゐる経文の禅林日課や、汚れた靴下や、笹くれ立つた畳や、……かうしたものの
只中に、私のものは、滑らかな灰いろの、目も鼻もない不吉な仏像のやうに立つてゐた。
その不快な姿が、今は語り伝へにだけ残つてゐるあの羅切といふ兇暴な行為を私に思ひ起させた。
三島由紀夫「金閣寺」より

66 :
女は立上つて、私のそばへ来て、唇をまくり上げるやうに笑つて、私のジャンパアの腕に
少し触つた。
暗い古い階段を二階へのぼるあひだ、私はまた有為子のことを考へてゐた。何かこの時間、
この時間における世界を、彼女は留守にしてゐたのだといふ考へである。今ここに
留守である以上、今どこを探しても、有為子はゐないに相違なかつた。彼女はわれわれの世界の
そとの風呂屋かどこかへ、一寸入浴に出かけてゐるらしかつた。
私には有為子は生前から、さういふ二重の世界を自由に出入りしてゐたやうに思はれる。
あの悲劇的な事件のときも、彼女はこの世界を拒むかと思ふと、次には又受け容れてゐた。
死も有為子にとつては、かりそめの事件であつたかもしれない。彼女が金剛院の渡殿に
残した血は、朝、窓をあけると同時に飛び翔つた蝶が、窓枠に残して行つた鱗粉のやうなものに
すぎなかつたのかもしれない。
三島由紀夫「金閣寺」より

67 :
私の現実生活における行為は、人とはちがつて、いつも想像の忠実な模倣に終る傾きがある。
想像といふのは適当ではない。むしろ私の源の記憶と云ひかへるべきだ。人生でいづれ私が
味はふことになるあらゆる体験は、もつとも輝やかしい形で、あらかじめ体験されて
ゐるといふ感じを、私は拭ふことができない。かうした肉の行為にしても、私は思ひ出せぬ時と
場所で、(多分有為子と)、もつと烈しい、もつと身のしびれる官能の悦びをすでに
味はつてゐるやうな気がする。それがあらゆる快さの泉をなしてゐて、現実の快さは、
そこから一掬の水を頒けてもらふにすぎないのである。
たしかに遠い過去に、私はどこかで、比(なら)びない壮麗な夕焼けを見てしまつたやうな
気がする。その後に見る夕焼けが、多かれ少なかれ色褪せて見えるのは私の罪だらうか?
三島由紀夫「金閣寺」より

68 :
寺のかへるさ、私は今宵の買物について考へた。心の躍るやうな買物である。
刃物と薬とを、私は万一あるべき死の仕度に買つたのであるが、新らしい家庭を持つ男が何か
生活の設計を立てて、買ふ品物はさもあらうかと思はれるほど、それは私の心を娯しませた。
寺へかへつてからも、その二つのものに見飽かなかつた。鞘を払つて、小刀の刃を舐めてみる。
刃はたちまち曇り、舌には明確な冷たさの果てに、遠い甘味が感じられた。甘みはこの
薄い鋼の奥から、到達できない鋼の実質から、かすかに照り映えてくるやうに舌に伝はつた。
こんな明確な形、こんなに深い海の藍に似た鉄の光沢、……それが唾液と共にいつまでも
舌先にまつはる清冽な甘みを持つてゐる。やがてその甘みも遠ざかる。私の肉が、いつか
この甘みの迸りに酔ふ日のことを、私は愉しく考へた。死の空は明るくて、生の空と
同じやうに思はれた。そして私は暗い考へを忘れた。この世には苦痛は存在しないのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

69 :
……曇つた空からにじみ出た陽が、むしあつい靄のやうに古い町並に立ちこめてゐた。
汗はひそかに、私の背に突然冷たい糸を引いて流れた。大そう倦(だる)かつた。
菓子パンと私との関係。それは何だつたらう。行為に当面して精神がどれほど緊張と集中に
勇み立たうが、孤独なままに残された私の胃が、そこでもなほ、その孤独の保証を求める
だらうと私は予想してゐた。私の内蔵は、私のみすぼらしい、しかし決して馴れない飼犬の
やうに感じられた。私は知つてゐた。心がどんなに目ざめてゐようと、胃や腸や、これら
鈍感な臓器は、勝手になまぬるい日常性を夢みだすことを。
私は自分の胃が夢みるのを知つてゐた。菓子パンや最中を夢みるのを。私の精神が宝石を
夢みてゐるあひだも、それが頑なに、菓子パンや最中を夢みるのを。……いづれ菓子パンは、
私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好な手がかりを提供するだらう。
人々は言ふだらう。『あいつは腹が減つてゐたのだ。何と人間的なことだらう!』
三島由紀夫「金閣寺」より

70 :
禅海和尚はさうではなかつた。彼が見たまま感じたままを言つてゐることがよくわかつた。
彼は自分の単純な強い目に映る事物に、ことさら意味を求めたりすることはなかつた。
意味はあつてもよく、なくてもよい。そして和尚が何より私に偉大に感じられたのは、
ものを見、たとへば私を見るのに、和尚の目だけが見る特別のものに頼つて異を樹てようとは
せず、他人が見るであらうとほりに見てゐることであつた。和尚にとつては単なる主観的世界は
意味がなかつた。私は和尚の言はんとするところがわかり、徐々に安らぎを覚えた。
私が他人に平凡に見える限りにおいて、私は平凡なのであり、どんな異常な行為を敢てしようと、
私の平凡さは、箕に漉(こ)された米のやうに残つてゐるのだつた。
私はいつかしら自分の身を、和尚の前に立つてゐる静かな葉叢の小さな樹のやうに思ひ做した。
「人に見られるとほりに生きてゐればよろしいのでせうか」
「さうも行くまい。しかし変つたことを仕出かせば、又人はそのやうに見てくれるのぢや。
世間は忘れつぽいでな」
三島由紀夫「金閣寺」より

71 :
「人の見てゐる私と、私の考へてゐる私と、どちらが持続してゐるのでせうか」
「どちらもすぐ途絶えるのぢや。むりやり思ひ込んで持続させても、いつかは又途絶えるのぢや。
汽車が走つてゐるあひだ、乗客は止つてをる。汽車が止ると、乗客はそこから歩き出さねば
ならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。死は最後の休息ぢやさうなが、それだとて、
いつまで続くか知れたものではない」
「私を見抜いて下さい」とたうとう私は言つた。「私は、お考へのやうな人間ではありません。
私の本心を見抜いて下さい」
和尚は盃を含んで、私をじつと見た。雨に濡れた鹿苑寺の大きな黒い瓦屋根のやうな沈黙の
重みが私の上に在つた。私は戦慄した。急に和尚が、世にも晴朗な笑ひ声を立てたのである。
「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらはれてをる」
和尚はさう言つた。私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になつた。
その空白をめがけて滲み入る水のやうに、行為の勇気が新鮮に湧き立つた。
三島由紀夫「金閣寺」より

72 :
私は口のなかで吃つてみた。一つの言葉はいつものやうに、まるで袋の中へ手をつつこんで
探すとき、他のものに引つかかつてなかなか出て来ない品物さながら、さんざん私をじらして
唇の上に現はれた。私の内界の重さと濃密さは、あたかもこの今の夜のやうで、言葉は
その深い夜の井戸から重い釣瓶のやうに軋りながら昇つて来る。
『もうぢきだ。もう少しの辛抱だ』と私は思つた。『私の内界と外界との間のこの
錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に
吹きかよふやうになるのだ。釣瓶はかるがると羽搏(はばた)かんばかりにあがり、
すべてが広大な野の姿で私の前にひらけ、密室は滅びるのだ。……それはもう目の前にある。
すれすれのところで、私の手はもう届かうとしてゐる。……』
私は幸福に充たされて、一時間も闇の中に坐つてゐた。生れてから、この時ほど幸福だつた
ことはなかつたやうな気がする。……突然私は闇から立上つた。
三島由紀夫「金閣寺」より

73 :
そのとき私は最後の別れを告げるつもりで金閣のはうを眺めたのである。
金閣は雨夜の闇におぼめいてをり、その輪郭は定かではなかつた。それは黒々と、まるで
夜がそこに結晶してゐるかのやうに立つてゐた。瞳を凝らして見ると、三階の究竟頂に
いたつて俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。
しかし嘗てあのやうに私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融け去つてゐた。
が、私の美の思ひ出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になつた。
この暗いうづくまつた形態のうちに、私が美と考へたものの全貌がひそんでゐた。
思ひ出の力で、美の細部はひとつひとつ闇の中からきらめき出し、きらめきは伝播して、
つひには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはつきりと目に見える
ものになつた。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隅々まできらめいて、私の眼前に
立ち現はれたことはない。私は盲人の視力をわがものにしたかのやうだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

74 :
すばらしい。

75 :
虚しい装飾的文体だ。

76 :
15:吾輩は名無しである 2011/02/11(金) 20:51:27 [sage]
>>13
そういう上っ面の見方が、人工的な読み方。よく読めてない証拠。
三島にとっては書くことイコール生きるよすがだったのが読めないバカと言える。
フランス語を国語にしようなんて言ってた人間の方が人工作家だよ。
17:吾輩は名無しである 2011/02/11(金) 21:27:02
三島の小説は確かに彼にとってくだらないこの現実と拮抗するために
どうしても構築しなければならない鎧のようなものだった。
だから、たとえば「考え」でなく「想念」という硬質な言葉を選んで、
あの文体を作っていった。その小説世界はこうであるべきだという
彼にとって真の現実だった。それは他人には人工的な世界に映る。

77 :
金閣寺読書感想文〜
アスペルガーの視点から人間世界が捉えられており、凍りつくような心地がする場面がいくつかあった。
また、青年が図書館通いにより発見した哲学者の本について著者名が伏せられるなど、配慮がなされてあった。
著者は当該の哲学者にアンチを突きつけており、また青少年にその本を読んでもらいたくないと考えていたのだろう。
青年僧が放火したのは哲学者の本に起因するとの考えにも、そうした考えは責任転嫁からの発想であり、そうした
発想に対してもNOを突きつけている。全ては自身の意思、自身の行為は自身の責任である。
規律規範主義の強い道徳的観念が著者の野放図を束縛することは、才能の妨げであり、残念なような気もするが、
その残念さの心残りの残像がより美しく感じさせるものである。

78 :
いい感想文ね(尾木ママ風

79 :
そして美は、これら各部の争ひや矛盾、あらゆる破調を統括して、なほその上に君臨してゐた! 
それは濃紺池の紙本に一字一字を的確に金泥で書きしるした納経のやうに、無明の長夜に
金泥で築かれた建築であつたが、美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包む
この虚無の夜と等質なものなのかわからなかつた。おそらく美はそのどちらでもあつた。
細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあつた。

細部の美はそれ自体不安に充たされてゐた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、
未知の美へとそそのかされてゐた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには
存在しない美の予兆が、いはば金閣の主題をなした。さうした予兆は、虚無の兆だつたのである。
虚無がこの美の構造だつたのだ。そこで美のこれらの細部の未完には、おのづと虚無の
予兆が含まれることになり、木割の細い繊細なこの建築は瓔珞(やうらく)が風に
ふるへるやうに、虚無の予感に慄へてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より

80 :
japanって黄金の島っていう意味からきてるんだっけ


81 :
釣りかもしれんし、スレチでもあるから、少々気がさすが、マジレスしてみる。
japanは「日本」の中国語読みから来ている。
併音<ピンイン>(中国語発音のアルファベット表記みたいなもの)では、riben。
日本人にはジーパン、もしくはジーペンと聞こえる。西洋人にも同じように聞こえた
のだろう。ただ、ジーパンはジーにアクセントがあり、英語発音のようにジャパーンと、
パーンにアクセントをつけると、中国語読みからは、かけ離れてしまう。

82 :
>>81
japanは、昔、日本に来た白人が、日本人がNippon、Nipponと言ってるのをJipponと聞き間違えたのが起源だと、池上彰が解説してたよ。

83 :
その美しさは儔(たぐ)ひなかつた。そして私の甚だしい疲労がどこから来たかを私は
知つてゐた。美が最後の機会に又もやその力を揮つて、かつて何度となく私を襲つた無力感で
私を縛らうとしてゐるのである。私の手足は萎えた。今しがたまで行為の一歩手前にゐた私は、
そこから再びはるか遠く退いてゐた。
『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。『行為そのものは完全に夢みられ、
私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだらうか。もはやそれは
無駄事ではあるまいか。
柏木の言つたことはおそらく本当だ。世界を変へるのは行為ではなくて認識だと彼は言つた。
そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識もこの種のものだつた。
そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、
ひとへに、行為をしなくてもよいといふ最後の認識のためではなかつたか。
三島由紀夫「金閣寺」より

84 :
見るがいい、今や行為は私にとつては一種の剰余物にすぎぬ。それは人生からはみ出し、
私の意志からはみ出し、別の冷たい機械のやうに、私の前に在つて始動を待つてゐる。
その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないかのやうだ。ここまでが私であつて、
それから先は私ではないのだ。……何故私は敢て私でなくなろうとするのか』

金閣はなほ耀やいてゐた。あの「弱法師」の俊徳丸が見た日想観の景色のやうに。
俊徳丸は入日の影も舞ふ難波の海を、盲目の闇のなかに見たのであつた。曇りもなく、
淡路絵島、須磨明石、紀の海までも、夕日に照り映えてゐるのを見た。……
私の身は痺れたやうになり、しきりに涙が流れた。朝までこのままでゐて、人に発見されても
よかつた。私は一言も、弁疏の言葉を述べないだらう。
三島由紀夫「金閣寺」より

85 :
wikiで調べた。間違えた。
マルコポーロがジパングは黄金の国だと伝えただけだった

86 :
……さて私は今まで永々と、幼時からの記憶の無力について述べて来たやうなものだが、
突然蘇つた記憶が起死回生の力をもたらすこともあるといふことを言はねばならぬ。
過去はわれわれを過去のはうへ引きずるばかりではない。過去の記憶の処々には、数こそ
少ないが、強い鋼の発条(ばね)があつて、それに現在のわれわれが触れると、発条は
たちまち伸びてわれわれを未来のはうへ弾き返すのである。
身は痺れたやうになりながら、心はどこかで記憶の中をまさぐつてゐた。何かの言葉が
うかんで消えた。心の手に届きさうにして、また隠れた。……その言葉が私を呼んでゐる。
おそらく私を鼓舞するために、私に近づかうとしてゐる。

言葉は私を、陥つてゐた無力から弾き出した。俄かに全身に力が溢れた。とはいへ、
心の一部は、これから私のやるべきことが徒爾だと執拗に告げてはゐたが、私の力は
無駄事を怖れなくなつた。徒爾であるから、私はやるべきであつた。

一ト仕事を終へて一服してゐる人がよくさう思ふやうに、生きようと私は思つた。
三島由紀夫「金閣寺」より

87 :
【森田剛】金閣寺【宮本亜門】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/drama/1295611121/

88 :
金閣寺の有馬住職が税金を申告洩れ。
1億円の追徴。
有馬住職の揮毫は15万円。 住職の取り分は5万円だったそうだ。
住職はその資金で日本の文化財を購入していた。

89 :
>>88
き・き・揮毫ですか
どれだけその住職が偉いのか知らないけど
揮毫で15万ってぼったくりだなw

90 :
>>89
偉い人の揮毫はその程度は十分するぞ。
一種の芸術作品だからね、書というのは。
とくに禅では、住職に対する個人崇拝が強いから、
その人が書いた書とか水墨画とか、信じがたい値がつく。

91 :
税務調査を受け、自筆の書の揮毫で得た所得を巡り、2009年12月までの5年間で約2億円の
申告漏れを指摘されてた。過少申告加算税など追徴税額は約1億円、既に修正申告したという。
国税局は今回の揮毫料について、美術商が販売目的で依頼、事前に価格を決めたうえで有馬管長が
個人収入として受け取っていたと指摘した模様だ。有馬管長は取材に対し「揮毫料は非課税のお布施
と同じだと考えていた。
文化庁の予算が少ないので(受け取った揮毫料で)文化財保護のために古美術品を購入し、境内の
美術館に展示している」と説明している。

92 :
ノアの箱舟?

93 :
有馬管長さんは京都仏教界の最高位に居られるお方だから、そうそう商売気
で稼ぐなどはなさらない。
ただ、法律に無知ではあられた。 宗教人は世俗に疎くてもよい。

94 :
>京都仏教界の最高位に居られるお方だから
確かに偉い人なのだと思う
最高位だから偉いのではない
>宗教人は世俗に疎くてもよい。
常識がないのではどうもこうもない

95 :
「第29回 萌えを焼き払え!――三島由紀夫『金閣寺』の巻」
http://media.excite.co.jp/book/daily/thursday/029/
非モテ人間は現代の被差別階級なのか? 異性を発情させるのがそんなに偉いのか? 文学を手がかりに、いっそ、非モテライフをエンジョイする方法を探っていこう! 
今回のテキストは、あの三島由紀夫が非モテが高じて萌えに走った小説『金閣寺』です。
第29回 萌えを焼き払え!――三島由紀夫『金閣寺』の巻
『金閣寺』(三島由紀夫/新潮文庫)セレブな美男美女が悲恋に走る『春の雪』も映画化され、初めて三島由紀夫を手に取る若者も多そうな今日この頃。
作品だけでなく、終生ヌード写真集を出したり割腹自殺したりのモテ技を繰り出してきた文学セレブも、非モテが高じて萌えに走る小説を書いていました。かの有名な『金閣寺』がそれです。
ネクラで体が弱い「私」は、生まれつきのどもりと見た目のためにいじめられる日々。孤独な彼の楽しみは「日頃私をさげすむ教師や学友を、片っぱしから処刑する空想」「静かな諦観にみちた大芸術家になる空想」をめぐらせることでした。
「何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではあるまいか」。

男にはいじめられ、女には相手にされない「私」は、苛酷な現実に傷つけられないためにある萌え対象を見出します。それは脳内妹……じゃなくて「金閣寺」。
父親から金閣の美しさを言い聞かされて育った「私」は、「心象の金閣」に癒されるのでした。金閣寺の徒弟になってからも、金閣にそっと心の中で話しかける「私」。
『金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ』と、私は箒の手を休めて、心に呟くことがあった。
『今すぐでなくてもいから、いつかは私に親しみを示し、私にあなたの秘密を打明けてくれ。あなたの美しさは、もう少しのところではっきり見えそうでいて、まだ見えぬ。私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。(……)』
と、まるでツンデレ美少女に語りかけるような甘い口ぶり。これはもう脳内金閣に萌えているとしか思えません。

96 :
金閣寺、ニューヨークで公演が決定
@@@@@@@@@@@@@@@@
 先月、横浜の地に新しくオープンしたKAAT神奈川芸術劇場の"こけら落とし"公演『金閣寺』が3月6日配信のニュースに拠ると、
 「V6」の森田剛(32)が米ニューヨークに初進出する。森田主演、宮本亜門演出の舞台「金閣寺」が、演劇の大イベント「リンカーンセンター・フェスティバル」に招待されるもので、7月21日から24日まで4回公演を行う。
 期間中は各国のプロデューサーが集まり、演劇や音楽などの舞台分野で活躍する個人・団体が招待される。日本からは過去に中村勘三郎(55)の「平成中村座」などが参加した。

去る2月25日の公開講座、井上隆史白百合大学教授が講演の中で、この「金閣寺」の公演の事にふれられて、宮本さんの演出は、三島さんがやりたかったことに光を与えたように思えてよかった。
森田さんの演技も良くて、集客力もあり、女性客で賑わっていた。と感想を述べておいででした。

97 :
http://www.sanspo.com/geino/news/110306/gng1103060507000-n1.htm

98 :
あげ

99 :
http://blog.livedoor.jp/kay_shixima/archives/51182021.html
平野啓一郎の「金閣寺論」を読んだ。それなりによく書けてはいるものの、決定的に違和感を抱かざるを得なかった。
まずP340-341で、「鏡子の家」の夏雄はホモとして描かれるべきであると平野は述べている。おもしろい指摘であるし、まったく正しいと思う。
ただ、しかし、そうした場合、鏡子が夏雄に体を与えるというクライマックスが成立しなくなり、オチに困るという難点があるだろう。
瑣末なことはこれくらいにして本題に入ろう。
P311下・「そして、作品が最後に明かすのは、それが即ち<心象の美>と<現実の美>との過不足のない完全な一致であり、つまりは内界と外界とを隔てる障壁の解消という事実である」と平野は述べている。
しかし、少なくとも三島はそのようには書いてはいない。これでは、最後に主人公が究竟頂の扉に拒まれ、中に入ることができない、という場面が無視されてしまっている。
むしろ、ここはラカン的に完全な一致などありえない「R損ね」として捉えるべきなのだ。
(中略)
平野がいう「生きる」という言葉の意味は単純過ぎはしないか。デリダあるいはラカンとまではいかなくとも、そこから理論的に後退してバタイユ的に考えてみても、ここはむしろ
「死にまで至る生の高揚」(バタイユ)あるいは「死の欲動」(フロイト)を読み取るべきだろう。すなわち「この「生きる」ということが、「行動」の目的であった」というところは、
そのまま「「死ぬ」ということが、「行動」の目的であった」と言い換えてもよいはずである。あえて今さらのようにいうが、三島=バタイユ的意味における「生きる」とは、
そうした両義性を持った言葉に他ならないのではなかったか。この両義性が読めていない、ということは三島の文学的思想的核心部分が読めていないのに等しい。
平野のこのような誤読は、二十世紀も終わりになった時点で、そのデビュー作において、日蝕が起こって、本当に奇蹟が現出してしまうというファンタジー小説を、
純文学のつもりで、ぬけぬけと書き、なおかつ少なからぬ人々を騙しおおせた人にこそふさわしいのかもしれない。
しかし、それは三島的屈折やアイロニー、ニヒリズム、否定神学とはおよそ無縁であるという事実を確認しておかねばならない。

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