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2013年06月鉄道懐かし374: 懐かしの雲仙・西海、阿蘇・くにさき (138) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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懐かしの雲仙・西海、阿蘇・くにさき


1 :2010/07/18 〜 最終レス :2013/04/15
懐かしく語ろうぜ

2 :
九州方面の夜行?

3 :
加古川にも停車していたのき記憶している
で下りは停車中に後続の彗星3号に抜かれていたような
記憶違いなら失礼

4 :
>>2
その通り。昭和55年10月改正まで、大阪から九州方面に向けて走っていた夜行急行ですね。
田舎が山口県なので、夏休みには何度も乗りました。

5 :
確か廃止になる年の夏に西海に乗車した時にカレチさんが雲仙と西海の併結部のスハフ14
のテールマークを点灯してくれて、内蔵しているマーク全部を撮影させてくれた思い出があるな。
あさかぜの乗務話も聞かせてくれたなあ。そのカレチさんは確か深夜の広島で交代しました。

6 :
夜行寝台急行ではなく夜行急行だったっけ?

7 :
>>1
当時の国鉄、夜行EC急行「鷲羽」と合わせた5列車を強引に廃止しくさって…
>>6
基本的には座席編成。

8 :
>>7
d、座席編成でしたか

9 :
5>
「雲仙」・「西海」号の新大阪から広島間の車掌さんは広島車掌区担当でした。
余断ですが臨時特急「あかつき」号も同じ区間の担当でした。

10 :
雲仙・西海は元々は東京始発です。
随分乗ったよ。
ダイヤ改正で新大阪始発になったときは寂しかったね。

11 :
>>9ありがとうございます。
因みに広島から先はどこの車掌区が担当していたのでしょうか?
ご存知でしょうか

12 :
当時はまだ特急用車両のイメージが強かった14系座席車。
周遊券だけで乗れることに、何となく凄いなーという印象を持っていました。

13 :
>>11
別行程の広島車掌区?…広島から西側の担当はわかりません。
臨時特急「あかつき」号の車掌さんは別行程の広島車掌区が
西側も担当していると聞きました。
同じ区間を走るのでひょっとしてそうかなと?

14 :
毎年、夏休みには、大阪駅を20:44に発車する「くにさき」(53-10以降は「雲仙・西海」)に乗って、
里帰りしていました。
大阪駅の3番線で20分近く停車していて、列車が入線し、まず座席を確保すると、すぐに売店に
行き、水了軒の駅弁と冷凍みかんなどを買って車内に戻るのが何時ものパターンでした。でも、
みかんはいつも食べ残していた様に思います。
山陽本線を走り抜ける夜行列車が姿を消し、水了軒も廃業してしまい、大阪駅も大きくその姿を
変えてしまいましたが、車窓から見えた丸ビルの電光板とともに、今も忘れられない旅の思い出
のひとつです。

15 :
周遊券使ってよく乗りました
簡易リクはギコンバタンであまり寝れなかったですね
空き缶が役に立つと知ったときはもう廃止されてましたw

16 :
ムーンライト九州は14系座席車だったし、70年代末の阿蘇くにさき雲仙西海を髣髴とさせていたんだけどな。
復活しないものかね・・・

17 :
一番最初に乗ったのは昭和53年(?)の夏で牽引機は新製直後の【宮】PFでした。
客レからちょうど【宮】58が撤退したころで…58牽引の時に乗りたかった。

18 :
>>16
リバイバル運転じゃなくて定期列車ですか?

19 :
阿蘇くにさき、初めて乗った客レです。
父に「ブルートレインに乗せてやる」と言われて、朝の某駅へ。てっきり寝台車も付いてて乗れば見学ぐらいできるかと思いきや、やってきた列車はハザモノクラスで「違う!違うんや!」と父を困惑させた…
当時の父の気持ちを今考えると、なんて親不孝な俺。30年前に戻って殴ってやりたい。
でも、12両だか14両だかの客車が、音も振動もなく、ゆっくりゆっくりPFに曳き出された瞬間のホームの様子は、今まで乗ったどの列車の出発よりも鮮明に記憶に残ってる。

20 :
>>19
>30年前に戻って殴ってやりたい。
あのー (^^;)

21 :
マニ37 200番台って懐かしい。
「雲仙」と「阿蘇」の編成側に連結され14系(座)と比べてずいぶん見劣りがした。

22 :
雲仙・西海は小倉と博多の間は上りも下りも、後発の当時走っていた特別快速から逃げ切るのに必死のダイヤ
だったね

23 :
阿蘇は有明やぎんなんにも邪魔者扱いされているようだった

24 :
確か冷房が効きすぎだった記憶が・・・

25 :
臨時の雲仙が最後に走った(?)シーズンに佐賀→三ノ宮間で乗ったが、
異常に寒くて熟睡できんかった記憶があるな。

26 :
急行阿蘇と言えば最後の急客機EF61
阿蘇以降は、たまに臨客や団臨を牽くくらいで荷物列車専業になってしまった。

27 :
>>24
確かに12系・14系の冷房は盛夏でも夜寒かった記憶がある。
冷房の調整能力が悪かったのか、昭和50年代までの車両はそれがデフォだったのか?
早朝深夜の山手・京浜東北線の103系も、冷房車が寒すぎて非冷房車に逃げたこともあった。
昭和54年あたりから臨時急行に12系が多く使われ時刻表にも冷房マークをアピールしてたが、
そんなことからかえって冷房がない雑客急行の普通座席がマシに思えたことがあった。

28 :
確かに、真夏の「雲仙・西海」に乗った時に、やたら寒く感じた記憶がありますね。目的地に早朝に到着して、
ホームに降りた時は気持ちよく感じた記憶があります。

29 :
「天草」も仲間に入れてやれよ
「天草」と「阿蘇」の基本編成は名ナコの共通運用で付属編成が門タケなら「阿蘇」、門モシなら「天草」だった。
「天草」は冷水峠をRュプルで越えるから(一部で)人気絶大な列車だったんだが。

30 :
「天草」は50-3改正で廃止されてますからね。このスレで語られているのは、50-3以降の14系を
使用した急行じゃないかと。

31 :
「天草」はある意味懐かしい。
非軽量客車の長大編成が本務機C55後補記D60で筑前山家付近を走ってる写真が
RJに載ってるのを見て、うちの近所をこんなスサマジい列車が走ってたのか、と感動
したもんだ。
ギリギリ旧客に間に合った世代だが、DD51が牽くスハ43系の編成を見て「天草」を
偲んだもんだ。

32 :
>>31
 凄いスクランブルな運用

33 :
大阪で大物のコンサートがあると若いのがわんさか乗っていた印象が
当時は高速バスなんてものなかったし

34 :
金光教とか天理教の団体さんが多かったイメージもある。

35 :
そう言えば、廃止された日に運転された上り列車は岡山行で、実態は金光臨だったと聞きます。

36 :
>>12>>15
当初は全席指定席だったので、周遊券だけでは乗れませんでしたね。
自由席が設定されてからはだいぶお世話になりました。

37 :
>>36
自由席設定は4年間だったけど、頻繁に九州へ行ったわけで?ある意味羨ましい。
あの当時14系使用の急行は、山陽座席夜行と十和田1・6号だけだったから希少価値だった。
皮肉なことに山陽座席夜行廃止後の昭和57年に14系客車急行が激増した。

38 :
>>37
九州在住につき、近畿方面またはそれ以遠へ行く際にお世話になりました。

39 :
>>38
ならば廃止後に近畿方面への移動は大変だったような。

40 :
天草、日南もあったと思う。小学生の頃夏休みに親の帰省する時によく乗ってた。

41 :
「雲仙・西海」山口にSLが復活した頃やから54、8〜55、10の間よく乗ってました、小郡にいい時間に着いてたんです(5:07着)
53、10改正の203列車「雲仙・西海」の時刻です空欄は思いだせないところです、山陽区間しか思いだせないけど
大阪 2022 2042
三宮 2110
神戸 2115
明石 2133
加古川2140
姫路 2208 2212
相生 2222
岡山 2320 2342
倉敷 2356
新倉敷006
金光 013
笠岡 026
福山 040
尾道 057
糸崎 106
三原 113
広島 218 222
岩国 303 309
柳井 338 342
光 403
下松 409
徳山 418 422
防府 448
小郡 507
宇部
小野田
厚狭
下関627 ↓


42 :
連投ですが…
203列車の機関士は
大阪-姫路 宮原
姫路-糸崎 姫路第二
糸崎-広島 広島運転所
広島-徳山 徳山
徳山-下関 下関運転所
車掌は長崎行、佐世保行とも広島車掌区で
広島-長崎、佐世保-新大阪、大阪-広島と言う行路でした。

43 :
この時刻、懐かしいですねぇ。いつも、大阪で弁当や食べ物を買い、岡山での長時間停車で
飲み物を買ったりしてました。降りるのは柳井なので、殆ど起きていたように思います。
しかし、廃止されてからもう30年になるんですね・・・

44 :
>>43
そうなんだね。あの頃はまだ全国的に旧型客車が多かった時代だけど。
廃止後に九州方面の周遊券は移動が山陽経由に限られたから、在来線利用は安価な手段が乏しくなった。
ムーンライト九州運転開始までその状態は続いた。

45 :
19日の日曜日に宮原の使わなくなった14系(座)客車が、ついに一掃されましたね。
これでリバイバル運転とかも完全に出来なくなってしまった。

46 :
>>10
東京始発の『雲仙・西海』が廃止されたのは43−10ですよね?
系譜的にはそれ以前の『玄海』『平戸』を改名したのが関西発『雲仙』『西海』で
『はやぶさ』(50-3改正以降は『みずほ』)の長崎行き付属編成が系譜的には
東京発『雲仙』の特急格上げ、と解釈すべきかと。

47 :
新聞の地方版にてオンシーズンでは関西発九州方面の寝台特急はすぐに
完売するけど、座席急行列車は当日でもガラガラという記事載せていた。
夜行列車そのものが皆無になるとは思わなかったあの頃である。

48 :
>>47
夜行列車が寝台オンリー・座席オンリーで偏るのは、今も昔も望ましくない。
旅客にとって選択肢が狭まるため、寝台特急も運賃・料金の値上げで衰退していった。
昭和50・51年なら寝台料金がそんなに高くなかったのと、座席で夜通し長時間乗るのなら
新幹線で行くほうがマシの判断が多かったのだろう。

49 :
>>5
今じゃあとても考えられぬはからいですね・・・
14系ハザ使用の急行って、これらぐらいでしたかね??

50 :
>>49
定期やったらオールハザなら「八甲田」くらいでしょ。
寝座混成なら「きたぐに」「能登」。
臨時やったら「加賀」とか。

51 :
東海道線では銀河51・52・53号。客車は品川、カマは東京より。
運転がなくなるまで全車指定席を貫き通していた。

52 :
急行「ニセコ」が仲間に入れて欲しそうな目でこちらを見ている。

53 :
初期の「はまなす」も忘れないで。

54 :
「津軽」も14系座席車だけの時代がありましたね。
「八甲田」や臨時「銀河」にも乗りましたが、「くにさき」や「雲仙・西海」で利用した時の
印象は強いです。

55 :
>50
大阪発着の臨時「加賀」、いつぐらいまで設定あったんでしょう?
一度だけ撮った事あるんですが。

56 :
>>55
1990年頃
http://www.geocities.jp/maahirai/JNK/kaga.htm


57 :
>56
d!
今更ながら、米原廻りか湖西線廻りだったかが気になってきた。(汗

58 :
>>57
湖西線経由。検索したら、末期は近江今津、安曇川、西大津に停車してる。

59 :
>58
重ね重ねさんくつ。

60 :
>>41
ムーンライトとは比べ物にならないほど停車駅が多かったなwwww

61 :
>>60
国鉄時代は停車駅の格で捉えていたので、新幹線博多開業前の急行停車駅には極力停めていた。
でもムーライト九州・山陽も、運転停車を含めれば実質大差はないかも。

62 :
それ以前の問題として、旧客には運転停車の概念が存在しないわけで
その旧客急行の思想を引き継いだ列車は14系になっても停車駅数は大差を付けられない

ガラガラポンした後のムーンライトと同列に考えるのは無駄

63 :
当時は山陽道はおろか中国道の高速道路も全通してなかったから
(中国道全通は昭和58年とか)
沿線小都市からの深夜遠距離利用需要もそこそこあった時代だろう

64 :
>>62
>旧型客車には、運転停車の概念が無かった・・・
古い事で申し訳ありませんが私の知っている限りでは、昭和48年10月頃?下り急行『桜島』・
『高千穂』号が山陽本線の河内駅で後続の寝台特急の退避のため運転停車していました。
岡山駅?発車後のお休みの車内放送でその旨を伝えていた様な記憶が・・・。

65 :
>>64
旧客急行でも深夜は停車駅を絞っていたから、運転停車は存在してたでしょう。
このスレタイの頃に旧客で存在してた十和田・八甲田・鳥海・能登・越前でも。
ただ旧客の出入り口が手動で、ドアの開閉に関係がないために運転停車をする意義が薄かった。
特急通過待ちや交換待ちの小駅はさすがに客扱いする意味がなかったでしょうw

66 :
>>60
ムーンライトの時代には駅員配置が合理化された後だったし、青春18きっぷをフル活用されるのを防ぐ意味合いもあったからね。
私も、せめて小郡に止まってくれたらって何度思ったか分からないけれども。

67 :
>>24
>>25
>>27
 確かにすごく寒かった。
昭和51年の夏休みの終わりの頃、周遊券を使って東京から九州に行く際に「阿蘇」
に乗った。(「くにさき」と併結だったのような記憶があるが、この当時は単独だった
ようだ)
 初めての九州への鉄道旅行の途中。東京から新大阪までは、急行「東海」のほかは
普通列車乗り継ぎ。
 まだ、鉄道旅行し始めの小僧の頃、要領わからず一晩明かすので、指定を取って新
大阪で入線を待っていると、ホームにいた初老の駅員さんが、「ガラガラにすいている
ので指定なんて勿体ない」と大阪弁で教えてくれた。あわてて払い戻しをした。教えて
もらったとおり、確かにガラガラ。当時のメモを見ていると新大阪からは乗った箱に
は5人のみ。しかし、姫路からは半分近く埋まったとある。簡易リクライニングは
使いづらかったね。


68 :
真夏に何度か乗りましたが、冷房が効きすぎていて、本当に寒かったですね。後年乗った14系では
そんな感覚は一度も無かったのですが。
ホームで駅弁と一緒に買った冷凍みかんが冷たくて、食べ切れませんでした。そんな記憶もあります。

69 :
>>68
 あなたも寒い思いしたのですね。いつも冷房効きすぎていたようですね。
調整できない事情があったのかな。

70 :
タバコの煙が凄かったな。
窓が開くのが急行のいいところだと思っていたけど、14系に限っては・・・・
急行西海ではくたばりかけたけど、急行十和田は12系だったので命拾いした。
でも、評判の悪い14系夜行の座席が、12系よりはずっとマシだったということも思い知った。

71 :
14ハザは銀河51しか経験ないけど、スハフは結構うるさいねw

72 :
>71
1輌だけのハザをスハフに割り当ててた、14系時代の「きたぐに」。

73 :
簡易リクでは寝辛かったという話をよく聞くけど、
485系のあれと同じ型の座席なのかい?

74 :
>>73
485系の200番代と同じやつだったかな。
アレならないほうがいい
たいして倒れないし、ストッパーもないし、
人がいなくなると勝手に元に戻って、
バッタンバッタンうるさいのなんの
九州ではリクライニングもしない
単純な座席回転式の485系が主流ではあったが、
アレを向かい合わせた「簡易」ボックスの方が
まだましというかw

75 :
>73
きたぐに自由席で新潟往復した事ある。
ウワサには聞いてたが、ひどいもんだった。

76 :
ヤフ尾久で座席が出てる。形状が良く分かる写真だと思う。

77 :
>>41ほか
ムーンライト九州が最後の運転時で、新大阪発が22時ごろで博多着が7:30前(博多着日が平日の場合)だったから
快速とはいえ、いかに速かったかということがよく分かりますね。
(ムーンライト九州は、真偽は不明だが、廃止された寝台特急のスジで走っていたという)

78 :
この季節に乗ると暖房効き杉か寒いかの両極端だった

79 :
40年以上前に乗ったよ

80 :
おっさんが発車間際に乗り込んできて
ワンカップを一杯ひっかけたらもう眠っていたのには驚いた
疲れていたのか旅慣れていたのかは知らないけど

81 :
>80
故・宮脇俊三先生の著作にも、そんな感じの記述がありましたなぁ。

82 :
79年に乗った急行西海の14系の原型座席には難渋したな。
91年に乗った14系急行八甲田は、座席が改良されていて、比較にならないほど楽だった。

83 :
夏場の冷房ききすぎもね
タオルケット持参が必要だった

84 :
>>62
>>64
山陽本線上り列車は瀬野駅で運転停車する在来一般型客車編成の列車が結構あったよ。
流石に日中其処を通る「しろやま」(後に屋久島2号)は客扱い停車だった様だが、深夜に
通る列車は運転停車だったよ。
(実際リアル厨房時代に乗った上り日南1号が運転停車だった。時刻表上は通過なのに
停車して、後ろに茶色の電機がくっついたのが不思議だった。その後どこにも停車しな
いうちにその電機がいなくなっていた事に更に驚いた。あの頃はまだ走行解放も運転停
車も知らなかったからなぁ〜…)
EF58牽引のブルトレだと所要時間との兼ね合いで広島停車時に補機連結したんだろう
けど急行は瀬野で連結していた。多分回送時間節約の意味もあったんだろう。なにしろ
当時は今とは比べ物にならない程貨物列車の運行本数がありいずれもEF60・65・66の
定数いっぱいだったから。
補機無用だったのはEF65のブルトレ及びしおじ51〜55号か、EF61牽引の阿蘇位だった。

85 :
しおじ52号は広島からEF59連結だった

86 :
冷房については、当時は「切/弱/強」程度の設定だったのでは?
真夏とは言え、外気温が下がる深夜、熱発生源のない客車
(スハフは別だけど)、ガラガラの車内とか、冷え過ぎの条件が…
座席については、当時の鉄道ジャーナル誌でも酷評されてた。
リクライニングの関係で背面テーブルが付かないしね。
でも「急行」と考えたら破格のサービスだったし、なんと言っても
客車の乗り心地と雰囲気が良かったなあ…

87 :
しかしワイド周遊券利用者からすると
全車指定での登場はいただけなかった。

88 :
>>87
まあその通りだが、当時はそれでも583系明星座席車もあったし、運賃・料金も安かった
のでまだしもだった。
それ以上に昭和55年10月に全廃されたのはもっといただけなかった。

89 :
連投だが、周遊券利用客は急行自由席は料金不要だったのに、指定席・グリーン車・寝台車
利用の場合は、急行料金も取られていたシステムを国鉄は何故改めなかったのだろう?
もし全車指定でも指定席料金だけが別途なら、まだ抵抗感が薄くガラガラの状態は避けられたと思う。
同様の事は銀河51号などにも言えたけど。

90 :
本来は、指定・自由にかかわらず急行料金を取るところ、自由席に限って急行料金なしでOK
という趣旨だったらしい

91 :
>>90
ただワイド周遊券の場合、計算基礎根拠には急行料金も含んでいたけど。
ミニ周遊券の場合はおまけとされた。

92 :
閑散期はほんと空気輸送していたな

93 :
東京発着時代初期の雲仙+西海で、西海側に食堂車が連結されていたのはなぜ?

94 :
佐世保の存在が大きいのでは?

95 :
>>94
東京を一番のひかりに乗り、新大阪で乗り継げるのは
佐世保行きのみどりで長崎行きではなかった。
なぜ、長崎行きじゃなく佐世保行きだったのでしょうか?

96 :
三菱の東京〜佐世保出張用かな?

97 :
午前中の東京駅発の長距離列車。
長崎・佐世保行き急行「雲仙・西海」、西鹿児島行き急行「霧島・高千穂」、西鹿児島行き臨時急行「桜島」…。
そんな列車が時刻表に載っていたのを覚えている。
かろうじて晩年の「高千穂」のフルコースに乗ることができたが、「雲仙・西海」にも乗っておきたかった。
後年新大阪発で14系の急行になってからは、九州への往復でよく乗ったけれど、
やはり「東京発」が憧れだった。

98 :
スレタイの列車名で東京に来なかったのは「くにさき」だけか。
あと、東海道新幹線開業時に「ぶんご」を大阪発着にしても良かった気がする。

99 :
関西−九州の夜行座席急行が中国道全通以前の比較的早い時期になくなったのは、
大阪・神戸−門司・別府などに客船・フェリーなどの航路があったことも一因。
特に1976年の国鉄運賃大幅値上げ以降、船との運賃格差が大きくなったこともあって、
夜行急行の客は船に移っていった。

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