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織田信長は過大評価されすぎ11


1 :2012/05/14 〜 最終レス :2013/01/11
ほんまに天才なんか? 何をやっても天才なんか?
前スレ
織田信長は過大評価されすぎ10
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325028957/

2 :
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3 :
だがスレ立てろ

4 :

勧修寺晴豊の11/9書状で信長を古今無双の名将と持ち上げたのも
(しかも綸旨案でしかないので実は発送されてないw)
他の同日付けで発送された万里小路惟房宛て女房奉書と
それに応じた万里小路惟房の信長宛て書状内容を読むと
誠仁親王の御元服の費用+御所修理費用などを負担してもらいたいと露骨に書いてるしw
しかも女房奉書には信秀が御元服の御事は他とは異なる馳走として
重視していたことまで持ち出して信長に要求しろといってるw
他大名と比較して古今の名将といってるのではなく
完全に金銭目当てで褒め殺ししてる朝廷w

5 :
しかし褒めたという事実は覆せないのであったwww

6 :
朝廷が金欲しさに阿諛追従・ 阿諛便佞しようとしたけど
やっぱ辞めてその文書を出さなかっただけだろ。

7 :
「歴史とは読書感想文コンクール」っていうのがよく分かる。
研究者の性格がこうやって明らかになるのだ。

8 :
だがのポエムと研究者をいっしょにするのはどうかと思うが

9 :
浅井を裏切って朝倉を攻めた信長がどうかしましたか?
家康長男を殺害させた信長がどうかしましたか?

10 :
>>7
いや、信長厨は研究家とは言わん。

11 :
家康長男は信長が殺したって言ってるおっさんまだいたんかw
何十年前の珍説を信用してるんだw

12 :
>>11
何十年も何も、家康側の都合ってのも未だ仮説にすぎないんだが。
ちょっと話題になったスキャンダラスな説を頭から信じるタイプなのな、お前

13 :
信長が家康長男を殺害って説もスキャンダラスといえばスキャンダラス。
これ捏造だったら信長がちょっと気の毒だな。

14 :
浅井は同盟の条件に朝倉攻めの時は前もって言ってくれなんて言ってただけだよな。
反故したら朝倉に着くとは言ってないんで同盟の信長を裏切った事になるんじゃないのか?

15 :
>>12
仮説も何も家康と信康が不仲だったということは松平記、当代記、家忠日記と
徳川ほとんどの史料が共通で書いてあることだぞ。
信康殺しの主犯は信長なんて高柳が気まぐれで言い出しただけで
しかも理由が「信康の器量が凄すぎて怖かった」という妄想ソース

16 :
>>14
> 浅井は同盟の条件に朝倉攻めの時は前もって言ってくれなんて言ってただけだよな。
これって具体的には何がソースなの?

17 :
>>15
正直ね、高柳センセは日本の歴史学を退化させたと思う。
犬HK御用達のその弟子もしかり。
この人たちが日本史を妄想物語に変質させたと思う。

18 :
その妄想で信長が過大評価されるわけよ

19 :
妄想も何も信長の評価はまだはじまったばかりだろw

20 :
妄想を省いた本当の評価は始まってもいないがな。

21 :
え?

22 :
>>21
現実に向き合えないヤツはスルーしとけ

23 :
>>18〜20
◯HK御用達、高柳弟子の仕事内容。
しゃべる場所によって話を変える。
あんま信長人気じゃなさそうな所では
 →「信長は残忍で非常識で彼の暴走を止めるため光秀は立ち上がった」(この師弟、なぜか光秀は必ずアゲる)
信長人気がやたらありそうな所では
 →「信長は革新的で新しいことをどんどん成し遂げた」(何の根拠もないけどそういうことにする)
こういう学者を大衆はどう評価する?

24 :
そんなの学者とは言わんw

25 :
長篠の戦い直後の岩村城攻撃を伝える信長書状には
しつこく言ってるように信忠若年だから万事において肝煎り専一しろと佐久間に命じ
信康の出陣なんていらんから留めておけと言ってる。
信長は信忠の無能さを心配し、
武田に内通している信康を邪険視しているのがわかる。
天正5年7月9日〜閏7月18日の期間に勝頼が長篠で戦死した者たちへの
相続やら、加増やらの処理を終わらせ戦後体制が確立するや
浜松の家康は信康を岡崎から遠江の掛川へ出陣させ武田へ備えさせてる(10月末まで)
武田との国境が積雪で不通になるや
12月15日に信長が1月下旬まで三河へ監視にやってくる
(徳川家臣は、家康は家康と呼び、信長を御家門様と呼ぶようになる)
2月に対武田籠城用の岡崎城拡張工事が終了後の
3月から岡崎衆の岡崎常住と毎月1日の信康への出仕を義務づける。
この事実上の徳川家後継者決定を受けて4月17日信康が浜松の家康へ礼に赴く。
9月5日突然、家康が家臣団の岡崎在郷無用の命がくだる。
この情勢下に10/17信長が三河へ来訪する意を伝える。
10/19勝頼出陣の報がきて出陣準備
10/27信康が浜松へ発つ。
10/28浜松に来た信康へ出仕したことが
申刻に大なへゆり候・五十年已来の大なへ之候(大地震?それとも信康の身を暗示?)
摂津で荒木の攻勢を受けた織田軍が大敗し水野忠分が戦死。
天正6年2月 対武田籠城用に浜松城の普請。
4/6勝頼が本願寺と荒木を援護するために義昭を擁する毛利軍の攻勢に呼応することを約する。
4/23勝頼が駿河まで出陣し、26日には浜松まで到着すると石川数正が報告する。
4/25武田軍が高天神城まで到着。4/26信康の合流を待って家康が三河吉田へ出陣。
6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、
なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。
天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。
基本的にデキの悪い信忠のこともあり信長の介入と圧力があって信康を殺したとしか思えない。
しかし家康もメンツの問題から懇望はしてるが、
かと言って信康をRことにそれほど悩んでいたようにも思えない。

26 :
信長は徳川家臣から御家門様と呼ばれるように
徳川家臣の織田家臣化を進めており、
岡崎城も織田が没収する既定路線が見える。
家康も織田家臣化される流れの中で
武田の後ろ盾を得て岡崎城の没収を免れ自立する希望を
託して、信康を後継者にした。
しかし信長はそれを許さず、家康に信康を殺させることで
家康の信忠への忠義を示させた。
その褒美として信長は岡崎城主五徳の美濃への帰還を許した。

27 :
山岡荘八の小説みたいだなw

28 :
滝田栄が号泣してる場面を思い出したw

29 :
>>25>>26
信頼性の高い「当代記」にも
信長は家康の好きなようにせよ、と言っただけとある。
信康切腹は信長の命令ではなく家康の意思。

30 :
御代将。わしもタイムスリップしてみたかったぞ

31 :
御代将も近代化で未来からタイムスリップしてきた者であるか?

32 :
>>28
歳がバレますぞ。

33 :
当代記は徳川家康の長女の子が編者だから
家康を贔屓目に書いてるからなぁ。

34 :
つまり「家康は信長の命令を受けるような立場ではなかった」という改竄が行われている可能性があるわけだ。

35 :
>>33
手元にある本には「筆者不詳」とあるけど?

36 :
メイン編纂者は松平忠明だろ。

37 :
>>29
信長が空気を読めと家康に無言の圧力を加えてるのが
はっきりわかるだろw
家康が酒井を使者に信長へ種々御懇してる時点で
信長が無理難題言ってきてんのは明らかなんだから。
懇望に信長が取り成しした結果、岡崎から信康追放が確定してるし。
その信長への感謝の書状を出したのが8/8
そして信長がそれになんらかの返答をした結果、9/15に信康が自害。

38 :
妄想を現実に出すなよw

39 :
どうして歴史研究者や映画評論家という人種は自らがやりもしないことを
自分なら軽く、簡単にできるくらいに吹聴するのだろうか?
自分はできるがただやらない、高みの見物をしているという風に
必死に自己のアイデンティテイを守っているんだろうか?
人間は冷徹な真実よりも自分に都合がいい妄想を好み、それしか見ないというようなこともよく言われているところだ
オレは偏向した妄想を好む、この世界の“普通人の感覚”から程遠いんだろうな

40 :
まあ、ああいう人達は自分の脳内では自分の事を
チート能力を持った大英雄だとでも思ってるんしょ。

41 :
どの研究家だ?
聞いたことないが。

42 :
つーか身内にやたらと甘い信長が娘婿の信康を殺そうとするなんて思えないんだよね
信康の方も織田が圧倒的有利な状況で将来を棒に振ってまで武田に内通するとは思えない
となると親にやたらと反抗する信康を家康が信長に讒言して嵌め殺したというのが実際じゃなかろうか
家康が築山殿を冷遇しまくっていたのは息子の信康にしてみれば頭に来ていただろうし
険悪な親子関係になっていたとしても不思議ではない

43 :
身内に甘いって弟とか叔父とか殺しまくっておるがな>信長

44 :
叔父信光「いやワシ、信長に殺されたんじゃないよ。火起請破ったからってさ、○○の奴がさぁブスッとやるからさぁ」

45 :
43
殺しまくってはいない。

46 :
>>43
殺したのが明確なのは信勝(信行)だけだろ
異母兄の信広だって一度背いたのに許しているし、
信興が一揆に殺されたのにはその一揆を皆殺しにして恨みを
晴らしている

47 :
信長は過大評価されすぎかもしらん
そして信玄なんかもっと過大評価されすぎ

48 :
目くそ鼻くそという言葉は武田信玄と織田信長のためにある

49 :
甲斐の山猿と一緒にされては困る
あんなのは朝倉義景や三好義継が比較対象でいい

50 :
だから目くそ鼻くそ

51 :
信長が本能寺で死ななかったら、近代国家作ってたとか
専制君主になったとかいうのはまだギリギリ我慢できるが
東アジアに巨大な日本王国できたとか、理想的な
素晴らしい世の中になったとかいうのは、
そう言ってる人は脳ミソが崩壊しているとしか思えん・・・

52 :
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

53 :
だーがだーがだがアスペの子♪

54 :
>>51
現実ではなく妄想の信長でしか評価できない奴らだからな。
本当は信長が嫌いなんだと思うわ。

55 :
今日は信長の命日やな〜
「わしもじゃ」山科言継

56 :
>>55
今は新暦だから旧暦の日付を当てはめるというのはちょっとおかしい。
本能寺の変はグレゴリオ暦換算で7月1日
2012年の旧暦6/2はグレゴリオ暦だと7月20日になる。

57 :
よく雑誌にある、あなたは戦国武将で例えるなら何タイプ
てのがあるが、うちの先輩が信長タイプを引き当て
「そっか〜やっぱ俺、信長タイプか〜」と喜んでるが
いや、あんた空気読めないでわがままなだけですから
と、ツッコミたい毎日です。

58 :
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。

59 :
>>58
幼少から三井寺に入れられていたのにそんなわけが無いだろう。

60 :
>>上月尼子は捨て殺し、別所裏切り、荒木謀反とほぼ侵攻できていない
秀吉が播磨・但馬などを制圧したのに、信長が政治レベルで失敗して
秀吉の足を引っ張っただけだろ。
その状況から秀吉兄弟は摂津・丹波・丹後戦線まで崩壊してたのに
援軍まで派遣して大活躍している。
別所の赤松家内での地位に配慮をしなかった信長が浦上を別所の上につけたのは致命的。
これで播磨は再び分裂してしまった。
というのも別所や東播磨の上月などは赤松御一門家に属しており、赤松内で同格だった浦上と敵対していた経緯も無視。
上月は散在領所と言われるほど、所領がアチコチに分散してるために
浦上や別所のような地域権力化→一円支配が成立せずに赤松政権権力を背景に統治することを余儀なくされ
結果、信長の赤松否定の政策に反発して、上月氏なども赤松氏にさらに接近してしまう。
赤松氏の被官である御着納所を勤めていた小寺氏なども同様で、せっかく微妙な空気を読んで
秀吉が播磨を纏め上げていたのに、信長が完全にブチ壊して、播磨・美作・備前の支配権を浦上に
やってしまったために浦上が播磨・備前方面で活動開始し秀吉の立場がなくなったのが原因。
>>第2次木津川で大阪湾の制海権を織田が握りその後石山本願寺降伏
信長は第2次木津川でも敗戦してるが捏造してるだけ。
本願寺顕如も天正8年9/23付けで宇喜多が敵についた為に
播磨兵庫や摂津尼崎や淡路岩屋へ渡海していた中国衆がことごとく帰国してしまったと書いている。
そして叡慮(天皇の意)で勅使がやってきたが、大坂退出は艱難至極と再三申し上げた〜などと書いていて
第二次木津川の戦いでの毛利敗戦が原因で制海権など織田は奪ってないし、
制海権喪失の原因は秀吉が宇喜多を味方にして信長の相次ぐ失敗を挽回すべく大逆転させたため。
>>毛利家中は揉めに揉めて結局宇喜多を選んだ
いやいや、毛利側では宇喜多が味方になっても三村氏は離反しないと踏んだ上でのこと。
その証拠に宇喜多が味方に参加しても三村はしばらく毛利に敵対してない。
つか毛利が一方的に三村氏へ内通を理由に攻め込んできたことから
毛利が備中の領国化をするために三村氏に汚名を着せたって説もあるからな。
>>村上3水軍の中で来島村上が羽柴についた
君は村上水軍の性格をまったく理解してないね。
天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と能島村上水軍村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えているなど
村上氏は利害を重視していて、毛利に無二の味方と言うわけじゃない。
秀吉の宇喜多調略後には来島が秀吉側について、能島も秀吉寄りになるなど
秀吉の調略で村上水軍なんざ、軽く毛利を裏切ってる。


61 :
>>51
では信長が本能寺で死ななかったのなら、どんな世の中になっていたのかを、
その崩壊していない脳ミソで存分に語ってくれ。

62 :
>>59
ソースは?

63 :
>>61
本能寺で死ななかったら、みたいな妄想語る時点で脳味噌が崩壊してるよw

64 :
信長マンセーの学者さん達の本読んでみると、
信長のアイデアや戦争のやり方なんかを
まるで自分達が考えた、及び自分達が戦国時代に
生きてたら同じ事をしていたみたいに書かれてるのが多い。
いや、そんな後だしジャンケンみたいの中学生でもできるわw

65 :
橋下さんの独裁発言は的を射た意見である。
たとえ優秀な政治家でも、民主主義という合議制の意思決定では、
有力国人衆の支持を必要とした上杉謙信や武田信玄と似たような者。
織田信長公のように効率的な発展をするには、
時間ばかり掛かる話し合いなど無駄。

66 :
>>64
お前も後出しジャンケンしてるやろ

67 :
信長が効率的?
家臣を統率出来ずに本能寺で死んだのが効率的なのか。

68 :
塚、痛い人はよく信光暗殺したのは信長とか言うけど何の確証もないのな
それ言ったら義信暗殺は信玄だし長野暗殺も信玄になるぞ?

69 :
>>67
しっかり統率できてるだろ 頭大丈夫か?
最近の研究では明智謀反の理由は野心で決定してる
家臣を統率できてようが謀反起こす奴は起こす

70 :
荒木村重
松永久秀

71 :
信長みたいな戦い方は非効率だろ
越前みたいに反乱起こされ
勝っても自軍は消耗
皆殺しだからその後は徴税徴兵期待できず
秀吉のように同盟関係を大事にした方が効率的

72 :
別所や波多野秀治や山名祐豊・・・

73 :
本願寺相手に十年も費やす効率のよさw

74 :
>>73
確かに信長は効率悪いよなぁ
武田程度潰すのに10日もかかってるんだもんww

75 :
武田なんてどうでもいいじゃん
信長の比較対照としてはちょうどいいとしてもw

76 :
ちなみに「武田に十日」とするなら、信長自体は明智に僅か一日(つーか数時間)で倒されたことになるよ。

77 :
脊髄反射みたいにすぐに武田を出す時点でたかが知れるわ。
明智に倒されたことはスルーかw

78 :
>>76-77
いみふ〜w
武田は十日で完全崩壊
織田は組織としては存続
この違い分かります?www
逃げずに答えてね♪www

79 :
秀吉の下に再編成された織田家
家康の下に再編成された武田家
あんまりかわらん

80 :
アンチ信長は頭悪すぎてどうにも

81 :
だから武家が横領した荘園も返却させたりして不満を買っていた。
公武が協力し合う関係であり足利義教に至っては天皇から治罰綸旨を出してもらって朝敵討伐してる。
皇族を無力化して〜足利家を珠玉とした時代なんて無いから。
天皇も家格だけで生きていたのではなく官位任命権なども保持していた。
それに将軍直属の奉公衆(近江・山城・摂津・大和・丹波などは特に多い)は義輝により再建整備され始めていて
伊勢氏や高氏や一色氏や上野氏や大館氏や松田氏や飯尾氏などなどがいて、さらに宗氏や島津氏らも
財政支援しておりそう簡単に将軍の首をすげ替えるのが難しくなっていたから三好&松永は暗殺の暴挙に出たわけだ。
君の言ってることの大半は間違えてる。そもそも君は鎌倉府を知らない時点でアウト
室町幕府は鎌倉幕府よりも東国西国での二元政治が顕著だよ。
義満が陸奥と出羽の統治権を鎌倉府に与えざる負えなかったのが致命的。
そのために義教が挙兵した鎌倉府を討つ時に朝廷の権威にすがって
朝敵にしてもらい幕府の正統性を付与してもらうハメになる。
有名無実どころか朝廷権威は根強いもので、鎌倉府が朝廷に錦御旗でも下されたら大乱ものなのは明らかだった。
しかも鎌倉府を滅ぼしたものの結局は関東が静謐にならないために
持氏の子の成氏を擁立して鎌倉府を再興させなければならず
しまいにはまた鎌倉府は挙兵してしまうなど足利幕府は常に不安定で
公家勢力&寺社勢力との調整で山城国周囲を保持していた。
義晴とは違い義輝が英明かつ武勇に優れていたために他国大名への御教書や外交を通じてかなりの支持を得ており、
さらに整備した奉公衆を元にかなり将軍権威を復興させてきており
その奉公衆の支持を受けたからこそ義昭は後継者として内外に認知されており、
(義輝を暗殺した三好らを奉公衆は仇として義昭上洛のために信長に協力したので六角氏や三好氏があっけなかった)
この武力があったからこそ信長に対して蜂起して籠城することが可能だった。
役に立たないならそもそも籠城なんてやらないで脱走する。
(姉川で朝倉に大苦戦した信長は三好勢の摂津出陣に兵力不足で困った挙句に、
織田家による陣ぶれでは兵が集まらないためにわざわざ将軍義昭の親征だよ!!!
などと義昭権威に頼って畿内から兵の参集を募っている。義昭奉公衆は三好は義輝の敵なのでつどって参加してきた)
つまり戦国時代の公家達は六角氏などに横領された京洛の自らの荘園を取り返してくれたから
足利将軍を支持してきた共存共栄の存在で、だからこそ将軍と横領を支持した管領が対立せざる負えない関係なわけ。
また京の五山の任命権や将軍庶子の権門寺社への出家を通じて畿内における隠然たる影響力の後援も受けていたし、
これは天皇の祭祀的権威の協力も必要な共存共栄の関係だった。
だから東国武家政権とはまったく異なり、山城周辺はただ単に武力のみに依存して支配はできないわけ。
だからこそ信長も邪魔な義昭をRことなど出来ないし帰京交渉もしたし義尋も手のうちにおいていた。

82 :
そもそも効率のよさが問題なのに武田との比較に話がいく時点で会話が成立してないわ。
信長は効率が悪いから天下人になれなかった。
武田は信長に滅ぼされた。
信長は明智光秀に殺された。
それだけの話も理解できない馬鹿しかいないのか。

83 :
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。


84 :
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w


85 :
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)


86 :
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に明智城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
続いて高天神城も勝頼に落とされるなど織田は連戦連敗・・・

87 :
ふつうに信長を史実通りに評価すれば済む話。
特別効率がいいとか革新的とか、ありもしないこと言うからこじれるのな。
武田が信長に滅ぼされたこととは無関係なのに、持ち出す時点で話が噛み合わない。
おれは武田厨じゃないから武田持ち出されても「はあ?」くらいにしか思わねえよ。

88 :
ちまちました領土拡張戦から天下統一を視野に入れた
天才信長の野望をただ指を咥えて眺めるしかなかった
周辺の大名連中は悲劇だったろうな
信長にとっては道端に転がる石ころでしかなかった大名達

89 :
その大名連中を馬鹿にしたきゃすればいい。
でも信長自身も破滅したことくらい理解するんだな。
間違っても天下統一とか海外進出なんてくだらない妄想はしないことだ。

90 :
信長時代に秀吉のような統一が可能だったかと言えば無理じゃないかな
秀吉って織田家勢力の統一時に相当大鉈振るって美味しいところ上手く自分と配下に分配できたけど
信長のまま行ったらそういう整理されない実力者が多数いてどうしようもないことになりそうなんだけど
あと信長は食生活のせいで長生きはできんだろ

91 :
信長は評価が過大になっても仕方ないとおもう
それだけの事を現実に成し遂げたわけだからね
逆に信長のお陰で大した実績も残していない
武将達が信長と同列に語られているのがなんともなぁ

92 :
信長が成し遂げたと言われるものは、実際には秀吉や家康、さらにそれ以降の世代のやったことがほとんどだけどねw

93 :
>>92
無知乙w
秀吉の政策のほとんどが信長のパクリw

94 :
パクリでも、成し得た秀吉家康と、破滅した信長の間には越えられない壁があるよね。

95 :
なにがなんでも信長を全てにおいてオリジナルだということにして、
天下人として失敗したことから目を背けたがるアホがいるよな。

96 :
信長は別格だから、そもそも過大評価なんていう概念はないはずなんだが
お隣さんみたいにちんたらやってたら寿命が100年あっても何にもできんでしょ

97 :
確かにあの基地害っぷりは別格だ

98 :
信長はどちらかというと過小評価されすぎ。
特にいくさに関しては戦国時代で図抜けてるだろ。


99 :
信長信者みたいなやつらがオウム事件みたいなこと起こすんだよな。

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