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2013年01月日本史96: 【幸隆〜】真田氏について語る【〜近現代】 (284)
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【幸隆〜】真田氏について語る【〜近現代】
- 1 :2012/06/15 〜 最終レス :2012/12/31
-
・真田幸隆(幸綱)から近現代の話までOKです。
・少しでも真田氏と関係ある話題なら脱線もOKです。
・映画、ドラマ、小説、講談、軍記物等の話も歓迎、子孫ネタも歓迎です。
- 2 :
- 真田幸隆の出自が謎
- 3 :
- 幸隆
真田頼昌を棟綱の娘婿とする説
海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になった説
- 4 :
- 真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。
伊達政宗(仙台@)−忠宗(仙台A)−綱宗(仙台B)−宗贇(宇和島B)−村年(宇和島C)−村候(宇和島D)−
山口直清(旗本)−直勝(旗本)−伊達宗城(宇和島G)−真田幸民(松代I)−幸正−幸治−幸長−幸俊(現当主)
- 5 :
- 江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
「真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」
その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。
- 6 :
- 羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。
本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。
この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。
幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。
この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。
- 7 :
- 天文16年(1547年)
8月、武田晴信が志賀城の志賀清繁(笠原清繁)を攻める。
上野国から上杉憲政の援軍として金井秀景が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。武田方は板垣信方を大将として、 飫富虎昌、上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。
天文17年(1548年)
上田原合戦
真田幸隆は、武田晴信の家臣として上田原で村上義清と戦う。この戦で武田方は、板垣信方や甘利虎泰などの重臣を戦死で失っている。
2月22日、村上義清は上野国高山(安中)の小領主小林氏に佐久郡の知行を条件に援軍を要請。すでに板垣信方ほかを討取り、武田方の敗北は時間の問題だと伝えている。
天文18年(1549年)
3月、真田幸隆は望月一族を懐柔。望月源三郎、望月新六郎が武田氏に服属し、 真田幸隆は所領安堵の朱印状を望月源三郎に伝達した。 真田幸隆の活躍が確実な文献に見える最初である。 真田幸隆の工作に応じて蘆田氏(依田新左衛門)、伴野氏らも武田方に降る。
- 8 :
- 天文20年(1551年)
5月26日、真田幸隆は戸石城を不意を襲って乗っ取る。
7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飫富虎昌が真田幸隆に連絡する。これは飫
富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、 武田晴信が佐久、小県郡へ出馬する
ことを伝えた後、「尚、この趣、真田方へ物語り有るべく候」とあって、佐久郡小諸城
主飫富虎昌、内山城主上原昌辰と同列に扱っていることにより、 真田幸隆の武田家臣
としての地位が固まったことが明らかである。
- 9 :
- 天文22年(1553年)
川中島合戦 4月9日、宿敵村上義清は武田方によって葛尾城を攻落され、長尾景虎を
頼って越後へ亡命している。ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、真田幸隆の
活躍が大きかったことが窺える。 真田幸隆は戸石城の普請の実務担当をつとめた。
8月10日、真田昌幸を人質として甲府へ送る。代わりに真田幸隆は、武田晴信から上
田秋和の350貫の地を与えられる。真田昌幸が奥近習衆(小姓)に出仕した頃、 曽根
総次郎、曽根与一、金丸平八郎(土屋昌恒)、三枝勘解由、三枝新十郎含めた6名があげ
られる。
弘治2年(1556年)
長尾氏v.s.武田氏 真田幸隆は埴科郡東條の雨飾城を攻め落とし、城将となる。
- 10 :
- 真田は明治維新の時点で信之の女系が当主だったのは
大和郡山の柳沢、越後三日市の柳沢、高家武田の3つ
いずれも真田幸弘の娘と柳沢信鴻の子である柳沢保光の子孫
大和郡山の柳沢、高家武田は現当主も信之の女系だが
郡山の柳沢は更に女系となり今は女系の女系となっている
三日市の柳沢は現当主が信之の女系の血を引くかどうかはわからない
- 11 :
- 映画「真田幸村の謀略」1979年 東映 監督:中島貞夫 カラー 185分
なんと幸村が家康を討ち取ってしまう。
語り「翌年、幕府は家康病死云々」
夏の陣以降の家康は影武者説を採った破天荒なストーリーだった
- 12 :
- 真田幸隆が登場するドラマ
大河「武田信玄」
大河「風林火山」
- 13 :
- 幸隆の働きなら幸隆が海野を継いでてもおかしくないはずだが、実際には信玄の次男が海野を継いでる
であるからして幸隆は海野の嫡系ではないと推察するのが妥当では?
- 14 :
- 海野の名跡を信玄次男に継がせるという条件で幸隆を武田家側にさせた
ソースは大河ドラマ風林火山ですw
- 15 :
- 長寿武将
北条長綱 享年97
龍造寺家兼 享年93歳
真田信之 享年93歳
万治元年(1658)10月17日に信之が93歳の高齢で没すると、鈴木右近は2日後に殉死した。右近の享年は75歳または85歳。
当時の幕府は殉死を禁止していたが、右近は信之生前より殉死の約束をしてい
たらしく、また右近自身も高齢であったことから幕府から特別に許可が降りたといわれている。
信之の隠居所だった大鋒寺には信之の墓の傍らに右近の墓が建てられている。 現在も松代真田まつりでは信之(真田家現当主)の側近くには鈴木右近(右近の子孫)の姿が見られる。
鈴木右近の出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の役)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。
鈴木右近の墓 長野県長野市松代町法泉寺
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/hon110-21.jpg
- 16 :
- 現在の武田家は信玄次男・海野信親の系統
信玄期の信濃侵攻で征服した信濃国小県郡の国衆海野幸義の娘を娶り海野氏の名跡を継
承するが、一向宗(浄土真宗)の僧である長延寺実了の弟子となり出家し、竜芳と号した
- 17 :
- 天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣
七手組が出陣しなかったことが悔やまれる
- 18 :
- 真田家は信之以外にも矢沢頼綱や真田信尹みたいに意外と長命が多い
- 19 :
- その日、真田信之の家臣・木村渡右衛門は、江戸からの至急の書状を受け取った。
「!そうか、親父殿が・・・・・・」
真田家江戸家老の要職を務める渡右衛門の父・木村縫殿助は、今や死の床にあった。
昼も夜も無く渡右衛門は駆け続け、江戸藩邸へ向かった。
「父上!」
「・・・おぅ、間に合うたか・・・実はな、お前に頼みがある。わしは鈴木右近とある約束を交わし、誓紙まで書いたが
この有り様では、もはや約束も果たせぬ。お前、このまま国元へ帰り、誓紙を右近に返して謝ってくれ。」
真田家の名物男、鈴木忠重は国元で奉行職を歴任していた。
「そんな・・・誓紙を返すだけなら、他の者でも良いではありませぬか。せっかく急いで来たのです。
ここで、ご病状を看取らせて下さい。」
「いやいや、自分の体は自分が一番分かる。こたびは、もはや助からぬ。結果が分かるゆえ、看取るに及ばず。」
「しかし・・・」「たわけッ!!」
瀕死のはずの縫殿助が、鬼の形相を見せた。
「侍の親子が、国や主家を別にして死ぬ事など珍しくもないわ!末期に汝の顔など見とうもないわ、早く帰れ!!」
(わけの分からん約束事の誓紙一枚のために、親父の死に目に会えんとは・・・)
怒りと涙にまみれながら、渡右衛門は国元への道を急いだ。
- 20 :
- 「確かにお渡しした。では、拙者はこれで。」
「ああ、待て待て。その顔ではお主、父御の言いつけに納得しておらぬな?だがなお主、この件の他に縫殿助から
何か遺言を授かったかな?」
「・・・・・・」
「それはな、縫殿助がお主という立派な倅を持ったがために、『他に思い残す事は無い』という信頼の表れよ。
その証拠にお主の面構え、縫殿助をそのまま若くしたようじゃ。縫殿助が、うらやましい・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「そこで、だ。縫殿助に似たるお主に、わしと縫殿助の『約束』を引き継いでくれたら、幸いじゃ。」
忠重は渡右衛門に、誓紙の中身を見せた。
「これは・・・!心得申した。ぜひ私に父の約束、果たさせて下され!」
明暦4年(1658)、鈴木右近忠重、主君に殉じ切腹。幕府より殉死の禁が出される中、「右近ならば苦しからず」と
特に許されての殉死であり、忠義の臣・鈴木右近は、歴史に名を残した。
その見届け役の名を、木村渡右衛門という。
- 21 :
- >>16
織田・徳川による武田攻めで自害した悲運
しかし血は残った
- 22 :
- 永禄4年(1561年)
5月、真田幸隆は西上野に出陣。
9月21日、真田幸隆・真田信綱父子、川中島合戦に参戦。 真田幸隆・真田信綱父子は、妻女山を攻める。
斎藤憲広によって鎌原城を攻め落とされ、羽尾幸全が斎藤方として城代となる。真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。
- 23 :
- 歴史のif
長篠の戦いがなく、昌幸は武藤喜兵衛のまま生涯を終えた。
現代人から見て武藤喜兵衛はカッコいい名前になっていただろうか?
- 24 :
- 赤備え
飯富虎昌、山県昌景、小幡信貞、浅利信種、井伊直政、真田信繁、北条綱高
第二次長州征伐では赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず
長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。
- 25 :
- 真田昌幸、信幸、信繁のうち信繁にだけ豊臣姓が下賜されたのが不思議だ
- 26 :
- 信繁に豊臣姓下賜(史実)は、真田太平記には、なぜか出てこないな
- 27 :
- 豊臣姓下賜一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F#.E8.B1.8A.E8.87.A3.E5.A7.93.E4.B8.8B.E8.B3.9C.E4.B8.80.E8.A6.A7.E8.A1.A8
1594年 真田信繁
- 28 :
- 信繁は豊臣性を持ってたので、息子と一緒に秀頼の親衛隊長みたいな感じになってたっぽい。
そのためどうも目立つポジションには居たらしいが、実戦でどれだけ活躍したかは全く疑問。
- 29 :
- 真田家の人たちはほんと有能なんだけど
知行が能力に追いつかないのは何故だろうね、下剋上の世の中で
のし上がれてないじゃん、毛利や宇喜多はのし上がったけど
- 30 :
- 昌幸が生きてれば大坂方を利用して高値で幕府に寝返るだろうな。良くも悪くもそういう人間だw
- 31 :
- 後藤基次の近習、長沢九郎兵衛の証言によると
真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という
- 32 :
- >>29
大名として独立した時点で周囲は徳川、北条、上杉と大国だらけ。小牧・長久手で徳川滅亡でもあれば飛躍のチャンスがあったかもしれない
関ヶ原の際に昌幸が東軍についていたとしても真田の兵力(小勢)では加増は大してなかったと予想
- 33 :
- >>17
七手組が小身過ぎて役に立たない。親衛隊なら秀吉時代にもう少し強化・厚遇しとくべきだった。
- 34 :
- >>27
織田信長の六男のほうの織田信秀は羽柴姓と豊臣姓の両方を下賜されている珍しい例
- 35 :
- 木下秀吉
羽柴秀吉
平 秀吉
藤原秀吉
豊臣秀吉
- 36 :
- 真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。
真田男爵家 9代幸教の子・幸世が本家から別家した系統。8代幸貫の系統であり徳川家康・吉宗の男系だったが、現在は女系。
真田解勘由家 2代信政の長男・信就の系統。旗本から後に松代藩士となり明治維新まで存続。
仙台真田家 信之の弟・信繁(幸村)の二男・片倉守信(真田大八)の系統。仙台藩士として明治維新まで存続。
越前真田家 信之の叔父・昌輝の系統。福井藩士として明治維新まで存続。
旗本真田家 信之の叔父・信尹の系統。旗本として明治維新まで継続。
- 37 :
- 真田は、山家郷と称する村里の一角にある。狭まった谷の奥には、霊峰四阿山が裾野を
引いているのが望まれ、その山を源流に、清冽な流れの神川が、山家郷を潤している。
山家郷という雅な古名に表象されるような雰囲気が、この郷を包んでいる。
真田氏は、真田幸隆以前については確実な名が伝えられておらず、事績として伝わるも
のもない。真田氏が海野氏の嫡流と称したことにより、本当の先祖の方が抹殺されてし
まったためともいわれている。『寛政重修諸家譜』では真田幸隆が真田氏の祖としてい
るが、鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされており、室町時代中期にも真田の名がいく
つかの記録に残っているため、古くから真田に根づいていた一族であるという説が濃厚
であり、真田幸隆が真田氏の祖であるという説は現在では否定されている。
真田郷は古代の官牧地域であり、経営には大伴氏があたっていたとされており、滋野氏
が入部する前から根を張っていたという説もある。
享保16年(1731年)に江戸藩邸が類焼したとき、多くの記録や文書が焼失したこと
もあり、さらに他大名に比べて家史の編纂事業が大幅に遅れていたこともあって、真田
氏に関する史料はあまりにも貧弱であり、幕末にやっと家臣河原綱徳らが命により編纂
した『真田家御事蹟稿』ができあがるが、『綱徳注記』によれば、すでに関連史料の多
くが散逸してしまっていたという。『真田家文書』『群馬県史』『信濃史料』『新編信
濃史料叢書』など、近年真田氏の研究が進むにつれて、江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。
- 38 :
- 武田家滅亡後、真田昌幸を頼ったのは婿の小山田壱岐守、原隼人祐の子供兄弟、板垣修理、内藤、瀬下若狭、大熊五郎左衛門、羽田筑後、加茂、安中、白倉、丸山、花形、軍配者来福寺など。
- 39 :
- 戦国の浮き草〜〜真田信繁〜〜
悲しい九度山生活・・・父(昌幸)が死去し一層寂しい九度山生活に。
- 40 :
- 天王寺・岡山の戦い
天王寺口は茶臼山に真田信繁、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら兵3,500、茶臼山前方
に真田信繁寄騎の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら兵2,000、茶臼山西に福島正守、福島
正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら兵2,500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細
川興秋(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢、木村重成・後藤基次の残兵など
6,500が布陣した。
岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4,600が布陣した。
茶臼山から北西に離れた木津川堤防沿いに別働隊明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊(計15,000?)が布陣した。
- 41 :
- 「御前に侍りまするは豊臣が家臣真田左衛門佐信繁にござりまする」
- 42 :
- タイプミスしてた
「御前に侍りまするは豊臣が朝臣真田左衛門佐信繁にござりまする」
- 43 :
- >>38
小山田壱岐守茂誠:高遠城に籠城したほうの小山田氏。真田信繁からの手紙で有名に。
原隼人祐の子供兄弟のうち原隼人佑貞胤は越前松平家家臣。大坂の陣で真田信繁を徳川方(幕府方)に勧誘しようとしたとも伝えられる。
板垣修理(板垣信方の孫)第一次上田合戦に参加
瀬下若狭:第一次上田合戦に参加
大熊五郎左衛門(天目山で戦死した大熊朝秀の子孫):小田原の陣の際の上州松井田攻めにて殿を務めた
(ドラマ真田太平記では真田信幸が北条勢に包囲されたが、この話を元ネタにした創作か?)
羽田筑後:大坂の陣では長男、次男、三男が大坂方(三人とも戦死とも行方不明とも)。四男と五男が徳川方(幕府方)。
安中
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-462.html に出てくる安中作右衛門か?
白倉:白倉武助。(同姓の白倉武兵衛は勝頼期の沼田攻めで昌幸の旗本)
花形:武田氏滅亡後に真田氏を頼った(その後はよく分からない)
軍配者来福寺:原仁兵衛 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/bcb15ef90858e1688584d853b46167e7
- 44 :
- 大阪の役の真田信繁の旗印は総赤に金線
- 45 :
- > 自民石原幹事長、信之と幸村を堂々と間違え産経に突っ込まれる
>
>
> 「真田幸村のような心境」自民幹事長、愛知県知事と会談
>
> 「親子で戦うことになった真田幸村のような心境だ」。自民党の石原伸晃幹事長は1日、
> 愛知県の大村秀章知事から父親の石原慎太郎東京都知事に新党結成を促すよう求められ、
> 親子が敵味方に分かれ「関ケ原の合戦」に臨んだ戦国武将を引き合いに、苦しい胸の内を明かした。
>
>
> 石原氏が引用した真田幸村は関が原の合戦で父とともに西軍に、兄は東軍に加勢し敵対関係に。
> 幸村からみれば親子対決ではなく、兄弟対決が正解だが、石原氏は親子対決を回避したい心境を強調したかったようだ。
- 46 :
- 昌幸は二度の上田合戦だけでなく丸子の合戦やその前後の攻防でも大久保兄弟、鳥居、菅沼、保科、平岩、依田、諏訪など
信濃衆や戦歴豊富な武田旧臣や徳川古参の連中を苦しめてるしやはり防戦には長けている
- 47 :
- 根強い影武者説
家康の死は、大坂夏の陣から一年、徳川政権安定に至るまで伏せられ、翌元和二年四月、初めて病死として公表された
- 48 :
- 夏の陣で真田信繁隊から部隊壊滅までは逃亡者が出なかったのは凄いなー
- 49 :
- さて、真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていた。家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がいた。
中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、明治になって開けたときとんでもないものが入っていた。
なんと石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていたころの危険な証拠書類が詰まっていた。
これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていたにちがいない。
従順温和といわれた信之が危険な証拠書類を焼却せず、わざわざ不寝番をおいて秘蔵し、
後世に伝えたのは仇敵であった徳川家に対する反骨精神のあらわれであろうか。
まあ、これを信之の幸村や昌幸に対する本当の気持ちが
表れてたと解釈したら泣けるんだが
- 50 :
- 九度山の村人がはるばる信州から流されて来たどこの馬の骨かわからん連中を慕うようになったていうのはある意味すごい話だな
信繁はなんか人を惹き付ける魅力を持っていたに違いない
信繁の部下たちが最後の突撃で一人残らず討ち死にしたのは不思議だと当時から書かれてたしね
普通はあんな状況なら逃げたりする者も絶対いるはずなのにね
- 51 :
- 長野県民も薄情な連中だよな
二百年も治めてくれた真田家の創始者信之のことは一言も出さず次の大河ドラマには幸村をの一点張り
- 52 :
- 幸村は美化されすぎなんだよな
功績と言えば大阪冬・夏の陣しかないし。
他は親父さん同伴
- 53 :
- 昌幸主役で大河だったら最高だろうな
信玄・謙信・信長・秀吉・家康とそろい
合戦は川中島から。
- 54 :
- 信濃国松代藩主真田伊豆守幸貫は、閣老に起用され、従四位下侍従、信濃守に官位を改め、松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、海防掛を兼務した
- 55 :
- 真田昌輝の子は松平家に仕えてる
その松平忠直の部下・西尾が真田信繁を討ち取るわけだが…
- 56 :
- むしろ大阪夏の陣は毛利勝永の方が活躍してるだろ
真田が勝ってる部分って知名度だけだ
- 57 :
- 戦国最強の上杉謙信と最前線と互角で戦い抜いた真田幸隆(幸綱)こそ史上最強の鬼謀
- 58 :
- 武田信玄が勝てなかった村上義明を1日で葬り去り
織田信長でさえ避けて山本勘助も武田信繁も戦死させた上杉謙信と最前線でタメを張って生き残り
もはや真田一族開祖の幸綱こそスーパーチート
- 59 :
- 火坂の年表小説の真田大河は絶対見たくないなぁ
でも、地元民がキャンペーンやッているのは火坂版大河なんだよなぁ
- 60 :
- 大阪に在る南宗寺に家康の墓が在る
大阪の陣の時に家康が死んで葬られたという伝説の在る寺
眉唾に思えるが
寺の境内は三つ葉葵の瓦が張り巡らされ 秀忠、家光の参拝した形跡が在ったりしてあながち嘘ではないのかもと思えるのが面白い
- 61 :
- 自称子孫も含めた子孫の数
信綱系 福井県を中心に約700人
昌輝系 福井県を中心に約530人
信之系 宮城県を中心に約3170人
信繁系 宮城県を中心に約2240人
- 62 :
- >>61
わざわざ信綱系を名乗る人がいるのか
去就のはっきりしている昌輝-信正系ならともかく
- 63 :
- 当時、歴史読本に記載された。池波先生と
真田六文会の皆様の座談会の記事を
抜粋してあります。
「 歴史読本 」 昭和60年5月号
池波正太郎
「真田太平記」を語る 聞き手:真田六文会
http://www.geocities.jp/roodstar2005/rekisi.html
池波:樋口角兵衛ってのが出てくるでしょ。上田に樋口角兵衛の子孫て人が
いるんですよ。女の人でね。
六文会:そうですってね。
池波:「うちの先祖は、あんな男じゃありません」とかね。夜中に電話かかって
くるんですよ。
六文会:でも、最後にはうまくどんでん返しがありますもんね。
池波:ぼく、角兵衛のことは、悪く書いていない。
六文会:書いてないですよ、ちっとも。
- 64 :
- 真田家って10万石でありながら、何で最初は子爵だったの?
伯爵に昇格した理由についてご存知の方いらっしゃいますか?
- 65 :
- 「幸村」の名が見られるようになったのは江戸時代で、寛文12 年(1672 年)成立
の軍記物語『難波戦記』がその初出であると考えられる。その『難波戦記』が人気
を博し、広く読まれたため「信繁」ではなく「幸村」とすることのほうが一般的と
となったと言えるであろう。時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化し
てしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重衆諸家』や兄・信之の子孫
が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。
- 66 :
- >>64
侯爵→公爵・水戸徳川圀順(1929.11.18先祖光圀・斉昭の功)
伯爵→侯爵・宇和島伊達宗徳(1891.4.23父宗城の維新の功)
伯爵→侯爵・越前松平茂昭(1888.1.17父慶永の維新の功)
子爵→伯爵・旧大村藩大村純雄(1891.4.23父純煕の戊辰戦争の功)
旧津和野藩亀井茲明(同日父茲監の維新の功)
旧松代藩真田幸民(同日維新の功)
旧佐土原島津忠亮(同日父忠寛の維新の功)
- 67 :
- 真田信之の手許には石田三成との手紙が保管されていた。
「さいつ殿(=真田伊豆守信幸殿)」と書かれており気安い仲だった模様。
真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていて家老でさえ中を見たことがなく、
常に4人の不寝番がいて厳重保管されていた。
中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、
明治になって開けたときに短刀の他に石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていた頃の危険な証拠書類が詰まっていた。
これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていた。
従順温和といわれた信之が危険な証拠書類を焼却せずに 秘蔵していた理由は謎。
京都伏見の大名屋敷の地図を見てみると、
石田屋敷は近隣にあり(三成屋敷の右斜め上に真田信幸屋敷)、ここではご近所同士だった。
危険な証拠書類を焼却せず、不寝番をおいて秘蔵して後世に伝えたこの行為は、仇敵徳川家に対する反骨精神のあらわれと考えられ、真田信之もまた「真田」の血の者であったと言うことであると思われる。
松代藩への当地換えの時に、上田藩の検地資料を焼き払い、上田城の灯篭や植木をすべて抜いて持っていった等、忠誠を誓う反面、反骨する面も持っていた模様。
さすが、家名を守った最大の功労者はその中身も一味違っていた。
- 68 :
- 滝川三九郎一積
昌幸の娘・於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなどたびたび真田氏のために働いた。
しかし寛永9年(1632年)になって、突如としてこれら信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封されてしまう。
- 69 :
- 武田家旧臣のうち老中を輩出したのは真田と土屋だけ。
- 70 :
- 『大坂落城のみぎり、城中より年の程十六、七ばかりの容顔美麗なる女性、白綾の鉢巻し白柄の長刀を杖つきて重綱公の陣へ出けり。重綱公これを連れ帰りたまいて後室とす』(片倉家文書「老翁聞書」)
片倉が信繁の子供たちを保護した理由は多々あれど、
これは出来過ぎたストーリーのような気が。
ドラマ真田太平記第44回では滝川三九郎一積を通して阿梅を片倉家へ
嫁がせたという説のほうをを採って描いている
- 71 :
- 完子以外の豊臣の子孫
秀次の娘の一人は梅小路家に嫁ぎ、明治でも子孫は続いている。
一人は真田幸村の側室になり、娘を産み、
その娘は岩城家に嫁ぎ、これも子孫は明治でも続いている。
その他にもある。
福島正則は秀吉の従兄弟
加藤清正は又従兄弟
青木秀以も従兄弟
小出秀政は、秀吉の義理の叔父、その子は秀吉の従兄弟
大阪夏の陣の後に大阪を与えられた松平忠明の妻は小出氏の出身。
子孫は明治まで続いている。大阪城を与えられたのは
豊臣氏の縁者であったからではないだろうか?
- 72 :
- >>66に追加
公家華族、大名華族で爵位が上がった例。
「公家華族」
侯爵→公爵・西園寺公望(1920.9.7多年の功)
侯爵→公爵・徳大寺実則(1911.4.21多年の功)
伯爵→侯爵・四条隆謌(1891.4.23多年の軍功)
伯爵→侯爵・嵯峨公勝(1888.1.17父実愛の維新の功)
伯爵→侯爵・中御門経明(1888.1.17父経之の維新の功)
子爵→伯爵・大原重朝(1888.1.17父重徳の維新の功)
子爵→伯爵・沢為量(1891.4.23祖父為嘉の維新の功)
子爵→伯爵・壬生基修(1891.4.23維新の功)
男爵→子爵・岩倉具明(具視の孫・分家1891.4.23)
「大名華族」
侯爵→公爵・水戸徳川圀順(1929.11.18先祖光圀・斉昭の功)
伯爵→侯爵・宇和島伊達宗徳(1891.4.23父宗城の維新の功)
伯爵→侯爵・越前松平茂昭(1888.1.17父慶永の維新の功)
子爵→伯爵・旧大村藩大村純雄(1891.4.23父純煕の戊辰戦争の功)
旧津和野藩亀井茲明(同日父茲監の維新の功)
旧松代藩真田幸民(同日維新の功)
旧佐土原島津忠亮(同日父忠寛の維新の功)
公家で最初から公爵になったのは五摂家と三条・岩倉のみです(岩倉具視は死去していたのでその跡継ぎにです)
- 73 :
- 真田家って小県郡の小領主にすぎない家だろ。
しかも乗っ取りぽい。
- 74 :
- >>60
一説に家康の幼名は
二郎三郎。
同じく幸隆の幼名も二郎三郎。
もちろん二人が同一人物だと言いたいわけではなく
「二郎三郎」という幼名は
何か特別な由来を表しているのではないかと
怪しんでいる。
たとえば人身売買で買われた子とか。
- 75 :
- 幸隆の正体は小県郡と上州の境あたりを
テリトリーにする山岳ゲリラだな。
- 76 :
- 真田弾正忠幸隆 1513〜1574年
真田頼昌の次男。
真田幸綱、蝮弾正、鬼弾正、二郎三郎、源太左衛門、一徳斎、海野小太郎ともいう。
真田頼昌の次男として永正10年(1513)に松尾古城で生れる。本名は真田幸
綱。 真田幸隆の妻は海野棟綱の娘ともされているが、現在では否定されている。一
族羽尾氏の娘羽尾殿を妻としていたが早世してしまい、後に重臣河原隆正(河原丹波
守)の妹河原殿を娶ったとされている。妻河原殿は「松代長国寺」の過去帳に「喜山
理慶大姉、文禄2年(1593年)8月11日卒、真田弾正忠幸隆入道之妻」とある
が、天正8年(1580年)没説、天正20年(1592年)没説もあってはっきりしない。
天文10年(1541年)、村上義清、武田信虎、諏訪頼重ら連合勢に尾ノ山、海野
平、祢津を集中攻撃され、海野棟綱とともに信濃を追われ上野国箕輪城の長野氏を頼り身を寄せる。
天文11年(1542年)〜天文12年(1543年)頃には、武田晴信の東信濃攻略
の道案内という役割を荷い、武田傘下に加わる。以後、怨敵村上義清の戸石城の攻
略、上州吾妻郡の攻略など、信濃国内の調略に手腕を発揮した。 武田晴信の謀将と
して常に第一線で活躍し、武田家の勢力拡大に貢献した。 長尾景虎(上杉謙信)をし
て「我、弓を取らば真田に劣らぬが、知謀は7日後れあり。真田いる限り信濃をと
ること安からぬ」といわしめた。
天正2年(1574年)5月19日に没す。享年62歳。法名は一徳斎殿月峰良心庵主。長谷寺に葬られている。
- 77 :
- 大河ドラマ葵徳川三代
大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦い
真田幸村(演:西郷輝彦)「敵も聞け、味方も聞け。関東勢百万と候え、男はひとりもなく候!いざ決戦に及ばん」
講談そのままw
- 78 :
- >>76
矢沢頼綱が幸隆の弟であることは間違いないようだ
そして矢沢頼綱の父が真田頼昌であることも間違いないようだ
だがね〜、あくまでも弟つながりで幸隆の父が真田頼昌であるらしいとされてるだけなんだよね
- 79 :
- >>78
>矢沢頼綱が幸隆の弟であることは間違いないようだ
ドラマ真田太平記でもその設定でした
語り「昌幸の叔父にあたる」
真田昌幸「叔父ご(=矢沢頼綱)」って台詞が印象的
- 80 :
- 真田信繁の孫は大名
亀田藩第3代藩主・岩城重隆
母は真田信繁の娘・顕性院(豊臣秀次の外孫)
- 81 :
- 豊臣秀次の娘の中に、真田信繁に嫁いだ女性がいました。その女性は父・秀次の処刑の際は「既婚である」という理由で蓮座を免れているんです
- 82 :
- 矢沢頼綱と真田頼昌が実の親子である事は現存する資料から確実視されているが、
頼綱と幸隆が実の兄弟だと証明するに足る資料は、確かなかったはず・・
頼綱の実兄だから、頼昌とも実の親子だろう、という推定のレベル
幸隆は頼昌の娘婿という説もあり、そうなると頼綱とは義理の兄弟という事になる
>>79
頼綱も、「御館様」と「源五郎殿」を使い分けてたよね
昌幸と2人きりで、苦言を呈する時には「源五郎殿」と言っていた
- 83 :
- 2代信政の長男信就が家督を継げなかった理由はなんなのんでしょうか?
自分がかつて調べたところだと
・将軍家光に謁見した際に粗相(小便を漏らした)してしまい、「真田家の相続まかりならん」と家光が激怒した説。
・母親が2代目小野お通であり、家督を継ぐものの生母として如何なものか?+お通自体も殿様の生母になるのを嫌がった説。
なんですけど。
あと信就は、かなり変わり者(今で言うオタク)で、部屋の閉じ篭って絵や句ばかり作っていたという話しも何かで見た事があります
いずれにしろ、父信政死去後の沼田との騒動では、弟の幸道ではなく沼田の信利を支持しているし
父や祖父(信之)との関係は良くなかったと言う事ですよね?
まあでも幸道に子がなく、旗本の分家に養子に出していた信弘が4代目を継いで、以後男系女系含めて残ったのは信就の血統だし
勘解由家自体も松代に移って家として今も存続しているし、立派な屋敷も残っている
- 84 :
- >>80
その子孫は現存。「豊臣秀次系&真田信繁系」の女系だけど女系でも子孫は子孫。
>>82を見て走馬灯のように記憶が蘇った
矢沢頼綱「源五郎殿。そなた源三郎(信幸)を嫌っているのか」
真田昌幸「(前半失念)源三郎は出来が良すぎまする。時折恐ろしくもなりまする」(だっけ?正確な台詞は忘れました)
- 85 :
- >>83
長男信就の母親である二代目小野お通は真田氏に入るのを遠慮したため、信就は信政の長男であるにも関わらず勘解由という姓を名乗り、分家を立てました。
私には答えは全く分からないけど「表向かざる歴史」として史料に残らなかったのかな?
- 86 :
- お伏殿 1587〜1679年
小野宗鑑尼、お犬、国子、円子。二代小野お通とも呼ばれる。小野お通の一人娘。
母同様、箏曲の演奏、書道などに秀でていたとされる。やがて、真田信之の次男真田信
政の側室となり、長男真田信就を産んだ。松代へ住み、八橋流箏曲を同地へ伝えた功績
もある。延宝7年(1679年)12月18日に没したとされる。墓所は江戸下谷の広徳
寺桂徳寺。なお、真田信就の七男真田信弘が松代藩4代藩主に就任しており、お通の血
は松代藩主から真田家の歴代に流れていることになる。
- 87 :
- 真田氏の分流・真田勘解由家
真田勘解由家は、初代藩主真田信之の子二代信政と京の小野お通の子(二代目お通)圓子との間に生まれた信就を始祖とする家です。通称勘解由信就は長子でしたが大名家に入ることを好まず末弟の幸道が三代目を継ぎました。
幸道には子がなかったため、信就の六男信弘が四代目藩主となりました。
勘解由家は四代目は祢津家から養子を迎えました。
建物は、約160年前、花の丸の長局を移築したもので、その前は茅葺きでした。
現在もお住まいのようで、外からの見学のみです。門前に説明看板があります。
- 88 :
- >>83
>部屋の閉じ篭って絵や句ばかり作っていたという話しも何かで見た事があります
土岐頼芸と似たタイプだな
- 89 :
- >>56
どっこいどっこいでしょ
どっちも奮戦したで良いじゃん
- 90 :
- 信繁は大名討ち取ってないでしょ
- 91 :
- 大名は討ち取ってないけど、
片倉重綱を討ち取る寸前ぐらいまでは行った。
- 92 :
- 天文20年 ○真田幸隆×村上義清●
詳しい資料はないが、戸石城内にいたと思われる知人を通して裏切り工作を行った。
こうして、二度も信玄を破った義清は越後へ逃亡。この功により、小県郡の所領を安堵される。
○真田幸隆×上野諸城●
永禄6年岩櫃城、同8年嵩山城、同9年箕輪城、元亀3年白井城という堅城を次々と攻略、
いずれも城内から内通者を出して、自壊させるやりかたで、幸隆の非凡な才能が伺える。
天正7年 ○真田昌幸×藤田信吉(北条)●
沼田城を攻略するため、重要な支城となる名胡桃城・小川城を調略している、翌年沼田城開城。
天正13年 ○真田昌幸×徳川●
家康は昌幸を討伐するため7000の兵を派遣、昌幸は2000人弱でこれを迎え撃った。
昌幸は巧みな戦術で徳川軍を翻弄し、一日で1200余りの兵を討ち取り、負傷者をあわせると、
徳川軍の半数近くが戦闘不能に、家康は援軍に5000人を送るも、昌幸は決戦を避け、
ついに城を落とすことは出来なかった。
これと同時に北条は20000の兵で沼田城を攻撃するも、矢沢頼綱に撃退される。
天正18年 ○真田昌幸×北条諸城●
前田利家・上杉景勝らとともに、北条の諸城を攻撃。中央がなかなかはかどらない間に、
松井田城、箕輪城、鉢形城などを攻略した。
というように、真田幸隆・昌幸は城攻め、特に調略を得意としている、野戦が少ないのは、
武田時代は、武田軍として出陣したため、取り立てて記録には残らず、独立後は、
北条・徳川・上杉と野戦を仕掛けるにはあまりにも強大な相手に囲まれていたからだろう。
だが、信綱・昌輝・昌幸・信繁と、槍働きで評価されている者も多く、大阪の陣では
信繁の出したと伝わる昌幸の遺案を見ても野戦が下手であるとは、一概には言えない。
- 93 :
- 昌幸は武田滅亡後の大勢力を泳ぎ回る割に
沼田問題など理不尽な事には相手が徳川でも
屈しない所が好きだ。でも関ヶ原後は徳川に許しを乞う姿がな…
まあそこで終らず信繁がやってくれたから、話のいいスパイスに
なってるけどな
- 94 :
- 結城秀康の家臣に真田一族がいるのは以外に知られてない
津軽の家臣は有名かな
- 95 :
- いや、秀康のアンチ家康っぷりはそれなりに有名だろ
- 96 :
- 真田信利は
真田家の歴史の中では黒歴史かい?
- 97 :
- >>96
暴君と言うしかないかと
- 98 :
- 真田信利がまともな人だったら、松代と沼田合わせて13万石だった
- 99 :
- 真田太平記の毛利勝永はよかったなぁ。あと関係ないけど関ヶ原の平塚為広も。
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