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2012年3月文学92: φ三島由紀夫の美文、名文、名言を引用してみようφ (469) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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φ三島由紀夫の美文、名文、名言を引用してみようφ


1 :
さあ、引用せよ。
dat落ちした前スレ
三島由紀夫の美文、名文、名言を引用してみよう
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1265269733/

2 :
あの慌しい少年時代が私にはたのしいもの美しいものとして思ひ返すことができぬ。
「燦爛とここかしこ、陽の光洩れ落ちたれど」とボオドレエルは歌つてゐる。「わが青春は
おしなべて、晦闇の嵐なりけり」。少年時代の思ひ出は不思議なくらゐ悲劇化されてゐる。
なぜ成長してゆくことが、そして成長そのものの思ひ出が、悲劇でなければならないのか。
私には今もなほ、それがわからない。誰にもわかるまい。老年の謐かな智恵が、あの秋の末に
よくある乾いた明るさを伴つて、我々の上に落ちかゝることがある日には、ふとした加減で、
私にもわかるやうになるかもしれない。だがわかつても、その時には、何の意味も
なくなつてゐるであらう。
三島由紀夫「煙草」より

3 :
「いつはりならぬ実在」なぞといふものは、ほんたうにこの世に在つてよいものだらうか。
おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。
また実在は天から堕ちて翼を失つた天使であらう、なにごとにもまして哀しいのは、
それが翼をもたないことだ。
そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。蜜蜂たちはそのまつ昼間の
よるのなかをとんでゐた。かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、
たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに
足をすくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

4 :
ほんたうの生とは、もしやふたつの死のもつとも鞏(かた)い結び合ひだけから
うまれ出るものかもしれない。
蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。
ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や
痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

5 :
無くなるはずのないものがなくなること、――あの神かくしとよばれてゐる神の
ふしぎな遊戯によつて、そんな品物は多分、それを必要としてゐるある死人のところへ
届けられるのにちがひない。
星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。しづかに
森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた
絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

6 :
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。
三島由紀夫「女の友情について」より
文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。
われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。
思春期に於ては人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時に
やることができないのであるが、かういふ人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。
思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは
少年たちを安心させるが、それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な
怠惰な安堵なのである。
思春期をしてしまつた詩人といふものは考へられない。
三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より

7 :
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、
選択である。
文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)
芸術作品になつてしまふ。
小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと
勝手であるが、技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ
無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。
理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、
愛は断じて理解ではない。
芸術家の才能には、理解力を滅する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より

8 :
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。
個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。
そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。
三島由紀夫「虚栄について」より
作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。
安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は
遠まはりを余儀なくされる。それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて
純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。さうでなければ、その純粋さは
贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。
三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より

9 :
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と
なるのである。 犯罪、殊に人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが
見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて
罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より
ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが
完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふが
よいのである。演劇とはスキャンダルだ。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より

10 :
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。
歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、
その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より
歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は
却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。
美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。
類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
三島由紀夫「歌舞伎評」より

11 :
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが
抱きうる決心である。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。
大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の
「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。
三島由紀夫「師弟」より
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより
数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より

12 :
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より
理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より
これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より
私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より

13 :
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より
伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より
物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より
趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より

14 :
このキチガイのメモ帳みたいなスレいい加減落とそうぜ

15 :
あって困る事は絶対にない!!

16 :
若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の
証左にされるのは、少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ
誠実さの証拠にはなる。といふのは、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、
生きてゐようが、自してみようが、心中してみようが、青春といふ肉体的状態にとつては
不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、
それゆゑに、さういふものは美しいのである。
三島由紀夫「心中論」より
女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は
微妙に侮蔑と結びついてゐる。(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものは
ないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。しかし氏にとつての関心は、
婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。エロスの
言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。
三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

17 :
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。
良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、
人の心を苛むものがどこかにあるのだ。
三島由紀夫「道徳と孤独」より
文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態を
とるにいたらしめる、さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、
ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。
それは野獣をも生むのである。
三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より
その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。
三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より

18 :
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。
若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの
安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。
自由やと? 平和やと? そないなこと皆女子(おなご)の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。
男まで嚔をして、風邪を引かんかつてええのや。
三島由紀夫「絹と明察」より

19 :
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。
演劇的批判にしか耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。
三島由紀夫「宗十郎覚書」より
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。
三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。
三島由紀夫「檀一雄『花筐』――覚書」より
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
三島由紀夫「恋する男」より

20 :
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。
三島由紀夫「冷血熱血」より
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。
まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。
三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より
生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も
浪漫派に限らず、芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、
死に対する媚態と死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。
三島由紀夫「日記」より

21 :
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。
精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば
若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、
目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。
三島由紀夫「青年像」より
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして
誠実であるかどうかについてもたえず疑つてをります。
三島由紀夫「青春の倦怠」より
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。
詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。
三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より

22 :
論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の
寄宿舎のそねみ合ひと大差がありません。
剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の
研師のちがひほどの問題で、剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、
し合ふのは当然のことです。
三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より
男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。
裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。
世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を
差し引いたものが、家庭での彼の姿。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より

23 :
私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、
生活のモラルではサムラヒである。
何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。
孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。
われわれは水晶の数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。
しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には中庸などといふものはありえない。
バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。
三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より

24 :
交通量の少ない交差点で赤信号の横断歩道を渡ろうとしたら
園児を連れて散歩中の保母さん(結構かわいい)に
「影響を与えるので子供たちが見ている前で信号無視しないでください」
って言われたとき、ちょっとアウトローな時間に追われるビジネスマンぶって子供たちに
「ボク達、ルールを守ってるだけじゃこの世界は生きていけないんだぜ」
ってかっこつけて去ろうとしたら軽トラに轢かれた

25 :
園児に卑猥な言葉を教えて立ち去ればよかったんだよ。なんでこのスレに書くのか…
川端スレに貼ってあった三島の川端に対する人物評は面白かったな

26 :
コンビニに入ろうとしたら女子高生から
「すみません、タスポ持ってますか?」って聞かれたので
『はぁ?タスポってなによ?|ならついてるよ?』と答えたら
「いえ、タバコを買うためのタスポです・・・」とか抜かしたので
『タバコなんて吸うんじゃねえよ。
 同じ吸うなら|吸え|!』と言ったら
「ポコチンじゃなくてニコチン吸いたいんだよ!」って怒鳴られた。
びびったおいらは速攻で逃げながらも
.。oOO(あの女子高生はなかなか上手い返しするじゃねえか・・・)
と感心した。
日本の未来も明るいなと感心した。

27 :
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、
日光を浴びなければならぬ。体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。
三島由紀夫「文学とスポーツ」より
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、
練習は必ず毎日やらなければならぬといふことである。
三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、
すぐれた読者にしかできないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。
三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者への手紙」より

28 :
芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。
四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な
美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、
どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。
三島由紀夫「美しきもの」より
芸術上の創造行為は存在そのものからは生れて来ない。自ら美しく生きようと思つた芸術家は
一人もゐなかつたので、美を創ることと、自分が美しく生きることとは、まるで反対の
事柄である。
三島由紀夫「女が美しく生きるには」より

29 :
童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。
三島由紀夫「川端氏の『抒情歌』について」より
小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の
笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

30 :
エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、
外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。
三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より
男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、
この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る
何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。
三島由紀夫「美しい女性はどこにいる」より

31 :
アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、
わびしさの同義語になる。
三島由紀夫「芸術家――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは
観客に対する思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、
実は同じ根から生れたものである。本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、
世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。
三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より

32 :
ttp://www.youtube.com/watch?v=r4Pf4oLJZv8

33 :
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を
作るからである。そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、
いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて
現代における薔薇の王権を回復する。
三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より

34 :
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、
このやうな光彩陸離たる芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、
日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた日本文化の数百年のあひだに、
それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。
三島由紀夫「舞楽礼讃」より
日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、
強い単純性に還元されるところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、
くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、又自然へ還つてゆくことだ。
生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、自然の
生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。
ギリシャ人は巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人も
この点では同じである。
三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より

35 :
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。
三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より
文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。
三島由紀夫「秋冬随筆」より
人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な
花の幻がなければならない。
三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より

36 :
歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、
はじめから入念に選び出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。
三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、
たくさんの船虫に蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、
風雅な住ひを飾るのだ。
俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、
観客席のはうへ顔を向けてゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、
しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。
三島由紀夫「俳優といふ素材」より

37 :
守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。
三島由紀夫「若さと体力の勝利――原田・ジョフレ戦」より
守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。
「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと
「若さ」に敗れる日が来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
巧くなつて不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。
三島由紀夫「原田・メデル戦」より

38 :
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、お節介な人間は、
善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。
人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、
すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、
又々十把一からげの顔になることかくの如し。
三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より

39 :
あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、
別居し、離婚した。
純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。
三島由紀夫「純粋とは」より
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。
倫理とは彼の生きる方法だ。
金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の
代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければ
ならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

40 :
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、
かういふ宿命を抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ
念願の仮の実現だからである。
三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か
一時間の会話の中には、人生の至福がひそむ。
三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。
他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。
三島由紀夫「内輪のたのしみ」より

41 :
どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、の隠語のやうな、
独特の血なまぐささがある。概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾が
くすぶつてゐるのである。
三島由紀夫「終末観と文学」より
今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、
ある場合には、社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、
平べつたい人間認識では、とても片付かない。
三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人しの風儀も地に落ちたが、
昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけに
エチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、思へば不安な時代である。
三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より

42 :
現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、
私は決して咎めないが、現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、
その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を発見するやうな人たちのはうを、私は
もつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふのである。
なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、
その恐怖の造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスの
ちがひでしかない。
三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より
夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。
性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、
ロックンロール的要素もあるのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

43 :
一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、といふのが人間の宿命である。
現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深く
ばらばらに分散させられてゐる時代である。
私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど
自己破壊的な否定、……云ひうべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属して
ゐるのである。
三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より

44 :
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり
新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に
一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、古くなるにしたがつて古ぼけた
滑稽なものと見られて行きます。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは
理知のもつともなごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より
作家は作品を書く前に、主題をはつきりとは知つてゐない。「今度の作品の主題は何ですか」
と作家に訊くのは、検事に向かつて「今度の犯罪の証拠は何ですか」と訊くやうなものである。
作中人物はなほ被疑者にとどまるのである。もちろん私はストーリイやプロットについて
言つてゐるのではない。はじめから主題が作家にわかつてゐる小説は、推理小説であつて、
私が推理小説に何ら興味を抱かないのはこの理由による。外見に反して、推理小説は、
刑事法的方法論からもつとも遠いジャンルの小説であり、要するに拵(こしら)へ物である。
三島由紀夫「法律と文学」より

45 :
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、
女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、
世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。
三島由紀夫「恋のし屋が選んだ服」より
今でも英国では、午後の紅茶に「ミルク、ファースト?ティー、ファースト?」と丁重に
きいてまはつてゐる。同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、
味に変りはなささうだが、そんなことはどうでもいいかといへば、そこには非合理な
各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが英国であることは、今も昔も
変りがない。「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは文化といふものを、
あつさり放棄してしまつた精神のやうに思はれる。
三島由紀夫「英国紀行」より

46 :
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を
見誤らず、それを信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には
循環論法が含まれてゐる。といふのはそれは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」
といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが面白いことを言つてゐる。
「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた。
三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より
天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の
諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。
三島由紀夫「解説(新潮日本文学6 谷崎潤一郎集)」より
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。
三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より

47 :
白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは
作家の苦悩だけだと思ひ込んでゐはしないだらうか。
三島由紀夫「解説(日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花)」より
よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。
三島由紀夫「解説(日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁)」より
「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」
「絎台」「針坊主」「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ
引き入れられる。生活の細目のあらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に
比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に
基づく「名」を与へることなのだ。
三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より

48 :
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。
共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質は
ちがはないといふ仮定が、あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の
相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、さらに辛辣なイロニイが
ゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ
無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふ
イロニイが。
日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は
弓のやうに日本人たちをたえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。
三島由紀夫「林房雄論」より

49 :
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、
「核兵器よりもまづ駆け足」といふことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。
人間の脚は、特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を持つのである。
三島由紀夫「自衛隊と私」より
空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。
日本の戦後も占領軍による武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、
徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道をふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。
三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より
正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、
汚ない水は人を病気にさせるのに似てゐる。
三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より

50 :
刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、
そのまま精神のあらはれになるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、
といふ要請から生れた言葉であらう。道具が生体の一部になればなるほど、道具はただの
道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の一本の枝になつて、
そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。
三島由紀夫「空手の秘義」より
「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息をもつともよく示してゐるのが、
空手だと思ふ。空手は正義の表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ
表現しえないのである。
三島由紀夫「『第十三回全国空手道選手権大会』推薦文」より

51 :
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、
情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の
上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に
墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、
矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代社会に於て、
真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より
電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて
動くのはよいが、人間は疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。
人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の証明なのだ。
三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より

52 :
真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て
留保したものが日本の天皇制である。天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、
帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき東洋文化の現代文化へのかけはし、
その最後の理解の橋も失はれるのである。
三島由紀夫「偶感」より
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から
何ものかを汲まねばならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の
文化がつひに死滅するときであらう。
三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より

53 :
文学には最終的な責任といふものがないから、文学者は自の真のモラーリッシュな
契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自しかみとめない。すなはち、
武士の自刃しかみとめない。
三島由紀夫「日沼氏と死」より
コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。
踏台を蹴飛ばせば万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやれば
おしまひだ。……作家が書きつづけるのは、生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に
足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を生かしてゐるのだが、
これはもともと自用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで
彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。
踏台が果してゐるのはいかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさない
といふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることであるが、自の目的に照らせば、
明らかに彼の意志に反したことである。
三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より

54 :
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして
行ひ難いことだ。
三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より
「ぜいたくを言ふもんぢやない」 などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと
無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが芸術(革命)を生むと信じられてゐる。
三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より
文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を
死後に持つことである。しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

55 :
人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙のどこかにすでに完成されてゐるもの――
すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎない。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して
意識することなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところに
はげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、
かういふことだけを述べておけばよい。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より

56 :
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、
その方式に於ては一つなのではないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が
悪いのではないか?
ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間で
ありながら、人生を扱ふ芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
…人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に
危険が伴ひ、その結果、彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、
生きながら亡霊になるのである。そして、医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、
それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や人間の心も、それを扱ふ人間には、
いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されてゐない人間は、
芸術家と呼ぶに値ひしない。
三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論」より

57 :
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつて
ゐても、醜聞といふものは、いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージと
よく符合するやうにできてゐる。ましてその醜聞が、大して致命的なものではなく、
人々の好奇心をそそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには尚更である。
かくて醜聞はそのまま神話に変身する。
微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは
社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が
個人の自由を守つてきたのである。しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より

58 :
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つて
おけば腐つてしまふ。伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の
歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方を
よくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの間には決定的な差があるが、
木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次のオリジナルに
なるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。
かくて伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の
秋は今年の秋とおなじである。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より

59 :
彼(三島)いいね
なかなかいいこと言うね

60 :
どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。
…なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は
支那に似てゐる。
「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、
他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を
尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、
(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に
参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、
いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。
事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか
とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。
三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より

61 :
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。
フランスのアメリカぎらひは、自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は
疑り深くて、新聞に書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。
しかし或る非常の事態にいたると、知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、
ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは自分の生活の場に立つて、
蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうな
あの民衆の本能的不信は、古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか
歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と考へられたのには、理由がある。
三島由紀夫「遠視眼の旅人」より

62 :
三島由紀夫の小説なんて読めたもんじゃない。
翻訳は一部外人に受けてはいるが。
崇拝している人はたぶんバカなんだろう。
お勉強が足りなさそうだ。

63 :
>>62
三島の小説は世界的には一流とは言えないでしょうが、美しい日本語や描写に酔えるし、それなりに面白いですよ。
マイナーな短編とかにも面白いのが、結構ありますからね。
たいして読んでないあなたにバカにされようが、そんなこと別に構いませんからね。
どうせ変な偏見で、頭から決めつけてるのがわかるし。

64 :
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に
屈服するとは限らぬと同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。
われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。
民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を
数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、
重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに多すぎる血潮や死の時代には、
人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を
与へがちになるのは、当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで
解決する問題ではない。
三島由紀夫「残酷美について」より

65 :
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、
血の比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが
明白な肉感的世界の象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。
ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに観念を交換し、互みに呼び合ふ
ものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、
やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の
復活がふんだんに見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続を
とつてしか現はれない時代に生きてゐる。
三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より
性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。
三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記――澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より

66 :
>>63
読書量ないんだろうなあなたは。
ペンキ絵みたいな描写とかくだらないと思うな。辞書から無理やり担ぎ出した言葉の修辞とかもくだらない。
空疎な比喩も空回り(寺田透の有名な三島論読んでみなさい。常識なので)。
そもそも読書量が少ない人の感想なんてバカバカしくて聞いてられないんだよな。

67 :
読書量が決め手ではないね。先天的な文学的感性の有無だろう。
それがあれば三島の文体の空疎さにたちどころに気づくはずだ。

68 :
はいはい、わかったわかった。紋切り型の空疎な三島貶しは他所でどうそ。

69 :
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、
鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的な
ものである。精神の羞恥心が肉を身にまとはせる。それこそ完全な美しい芸術の定義である。
羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。
三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

70 :
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を
感じるときには、もう衰退の中にゐるのだ。
春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして
青春は思ひ出の中でのみ美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、
思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春がこんなに人をいらいらさせるのは、
この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。あの春先の
まつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、
顔をそむけずにはゐられない。
三島由紀夫「春先の突風」より

71 :
名言至言

72 :
まあ、書かれなくとも一向に構わない、どうでもいい文章だ。

73 :
>>68
こっちのセリフだぜ無教養w
あっちゃこっちゃのスレに引用貼り付けるなバーカ
ていうかどうでもいいなバカバカしい。
さて寝るか
無駄時間費やしちまったな
サラバダゼ

74 :
>>66
横からだけどどのくらい読めばいいの?
いや三島はあまり評価してないけど

75 :
>>66
辞書から無理矢理もなにも、三島は少年時代から辞書を引くんじゃなくて読んでいたんだよ
語彙が異常に豊富なのはそういう習慣があってのこと
自分になじみのない言葉がたくさん使われてるからって、否定する根拠にはならないよ
三島の空疎さはよく言われることだけど、詩を書く少年などですでにそこに自覚的であることは表明されてる
当人がよくわかっててやってることを指摘しても、たいした批判にはなりえないだろう

76 :
>>75
つづきは、武陽隠士 ◆UCfK2Lx59sとやり合うスレでどうぞ。
武陽隠士って何様なんだよ?
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1285109087/

77 :
青春といふものは明るいと思へば暗く、暗いと思へば明るく、自分がその渦中に在るあひだは
五里霧中でありながら、時経てかへりみると、村の教会の尖塔のやうにくつきりと日を受けて
輝やいてゐる。意味があると思へばあり、ないと思へばなく、生の激湍(げきたん)と
死の深淵とにふたつながら接し、野心と絶望を併せ蔵してゐる。ティボーデが、小説に
青年を書いて成功したものの少ないことを指摘してゐるのは、青春のかういふ特質に
よるのであらう。いはば深海魚が大気の中に引揚げられると変形されてしまふやうに、
青春の姿は、さういふ変形された形でしかとらへられぬものかもしれない。しかし青春も亦、
病気のやうに、一人一人がその中を生きるもので、いづれは治る病気ではあるけれど、
療法をあやまると、とりかへしのつかないことになる。
三島由紀夫「あとがき『青春をどう生きるか』」より

78 :
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。
しかしその美しさの性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、
文明社会では、男でも女でも、この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸が
グロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に毒された低級な俗見である。
三島由紀夫「機能と美」より
エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、
自由につながつた生命の本質であることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、
後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、
日本人の心に与へつづけて来たのであつた。
三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より

79 :
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神への
いたましい堕落と思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては
「基督のまねび」それは愛においても肉体のまねびであつた。近代以後さらにその精神の
純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。
三島由紀夫「精神の不純」より
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。
古代には運命が、中世には信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。
ところが今では、政治以前には何ものも存在せず、政治は自然力の代弁者であり、
したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な患者のやうに、
しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より

80 :
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の
生きてゐる時代を「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。
あらゆる改革者には深い絶望がつきまとふ。しかし、改革者は絶望を言はないのである。
絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の
根絶に向けられてゐるからである。
「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に
生きようとする欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられた
ものではなく、偶発的なものである。なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。
しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く必然的に生きさせるのである。
三島由紀夫「美しき時代」より

81 :
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は
選択後の問題にすぎません。道徳とはいつの場合も行為なんです。
自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついて
くるだけのことです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より
すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた自然に他ならない。
地球上の人類は、全く未知の人同志が同じ瞬間に必ず息を引き取つてゐるといふ当然すぎるほど
当然な現象を、見て見ぬふりをしてをります。
運命的な愛こそは、人々の社会や国家や民族相互の愛の母胎をなし象徴をなすものである。
三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論――」より

82 :
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。
三島由紀夫「女の友情について」より
文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。
われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。
思春期に於ては人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時に
やることができないのであるが、かういふ人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。
思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは
少年たちを安心させるが、それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な
怠惰な安堵なのである。
思春期をしてしまつた詩人といふものは考へられない。
三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より

83 :
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、
選択である。
文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)
芸術作品になつてしまふ。
小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと
勝手であるが、技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ
無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。
理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、
愛は断じて理解ではない。
芸術家の才能には、理解力を滅する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より

84 :
空疎であることに自覚的だったから、それを指摘するのは無意味か?
冗談を言ってもらっては困る。三島は類い稀な知性を持っていた。
だが、残念ながら川端や谷崎のような傑作小説を書ける感性を
持っていなかった。まがい物であることを承知の上で、彼はあくまで
小説を書きたかったんだ。評論家でなく、芸術家でありたかったのだ。

85 :
>>84
川端や谷崎のような真性の陰湿なや異常者じゃなく、本質的には真面目な道徳的な面の方が強い人だったから、
今一つ悪魔的なものに欠けていたのでしょうね。それが不満な人達もいるんでしょう。
いろいろ偽悪的に記述や作品を書いていても、バランス感覚の優れた真面目な人柄が感じられます。
やはり小説家より、明るい行動人に向いていた人なんだと思います。

86 :
刑事が被疑者を扱ふやうに、当初から冷たい猜疑の目で作家を扱ふ作家論が、いつも犀利な批評を成就するとは
限らない。義務的に読まされる場合は別として、私は虫の好かぬ作家のものは読まぬし、虫の好く作家のものは読む。
すでに虫が好いてゐるのであるから、作品のはうも温かい胸をひらいてくれる。そこへ一旦飛び込んで、
作家の案内に委せて、無私の態度で作中を散歩したあとでなければ、そもそも文学批評といふものは成立たぬ、
と私は信ずるものだ。ましてイデオロギー批評などは論外である。非政治主義を装つた、手のこんだ
政治主義的批評は数多いのである。
これが私の基本的態度であるから、はじめから気負ひ立つた否定などは、一度も企てたことがなかつた。
否定が逸するところのものを肯定が拾ふことがある。もしその拾つたものに批評の意味が発見されれば、
本書の目的は達せられたことにならう。
三島由紀夫「『作家論』あとがき」より

87 :
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。
個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。
そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。
三島由紀夫「虚栄について」より
作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。
安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は
遠まはりを余儀なくされる。それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて
純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。さうでなければ、その純粋さは
贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。
三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より

88 :
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と
なるのである。 犯罪、殊に人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが
見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて
罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より
ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが
完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふが
よいのである。演劇とはスキャンダルだ。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より

89 :
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。
歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、
その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より
歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は
却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。
美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。
類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
三島由紀夫「歌舞伎評」より

90 :
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1221494175/

91 :
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが
抱きうる決心である。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。
大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の
「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。
三島由紀夫「師弟」より
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより
数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より

92 :
「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活がもたらす深い暮色の香りが
たゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。
インダストリーといふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね。
詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないか。
僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁を
そそるものがあるのを感じます。…昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、
汚れた河口や、並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が
聳(そび)え立つてくるのでした。
三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より

93 :
偽悪者たることは易しく、反抗者たり否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる
外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに万全を尽くすことは、
人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。
人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。
三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より
理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、
意地悪はヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、
やはり清潔な秩序の精神が、まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活の
シンボルであつてほしいと思ひます。
三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より

94 :
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より
理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より
これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より
私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より

95 :
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より
伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より
物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より
趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より

96 :
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも
一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。
ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に
はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。
三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より
君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは
野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて
似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。
三島由紀夫「新古典派」より

97 :
左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは
世間一般の言葉に飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と
切り離せぬ関係を持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもない
ニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。
暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で
売られてゐる雑誌に、縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかに
いたるところにサーディストが充満し、そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パRに
興じたりしてゐるかがわかるだらう。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より

98 :
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

99 :
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

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