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2012年09月日本史6: 古田史学および古田武彦について 5 (897) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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古田史学および古田武彦について 5


1 :2012/09/22 〜 最終レス :2012/10/24
古田武彦
1926年 福島県に生まれる
1945年 東北帝国大学法文学部日本思想史学科入学、1948年卒業
(その後高校教員を続けながら親鸞の文献研究者として有名になる)
1969年 『史学雑誌』に邪馬壹国説を発表
1970年 教職を離れる
1984年 昭和薬科大学文化史研究室教授
1996年 昭和薬科大学退職
著書
「邪馬台国」はなかった(1971年朝日新聞社)
失われた九州王朝(1973年朝日新聞社)
盗まれた神話(1975年朝日新聞社)
ほか多数

2 :
前スレ
古田史学および古田武彦について語るスレ(4)
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1324766252/

3 :
前スレ>>986
>繰り返すが、中国史書はこう書いている(書いていない)ということを、日本書紀の記述の真偽をはかる基準にするのには無理がある。
九州王朝説は中国史書の記述を元にしているのに何言ってんだよw
こういうのをご都合主義っていうんだよ

4 :
>>3
論点が違うよ。
その前の両者の議論の流れを読みなおしてくれ。

5 :
古田信者に明史に記述されている日本国王良懐について解説をお願いしたい。

征西将軍に過ぎなかった懐良親王が、明から正当な”日本国王”として認められた
良懐と同一人物とかありえないだろ?
名前が違うし、懐良親王の死後も朝貢しているのだから荒唐無稽だよな?
室町時代に記録に残っていない”良懐”という人物が国王を務めるもう一つの日本が
存在し、日本の記録からは抹消されたでOK?

6 :
基本的には文献の記述を尊重する。
しかし、どうやっても矛盾する場合には、
間違いや書き換えを疑う。
って程度でよくね?

7 :
古田信者って陰謀論者なんだよね
オカルト信奉者と同じ臭いがする

8 :
>>5
君の考えを聞かせてくれ。

9 :
>>4
違わないよ
つーか中国史書を基準に日本書紀の真偽をはかっても何の無理もないだろ
比較史料はそれしか無いのだから

10 :
>>9
日本語を勉強しなおしてから書き込んでくれ。

11 :
>>996さん、ご明察です。
初代神武から垂仁天皇までは4倍年(暦)です。

12 :
>>8
当時、倭寇が猛威を振るい、これに手を焼いていた明の太祖(朱元璋)は
”日本国王”に倭寇の取り締まりを命じる使者を送った。
当時、北九州を支配し大宰府にいた懐良親王がこれを迎え、1371年に日本国王
良懐として倭寇によって奴隷としてとらえられた中国人70人などをつれた
朝貢使節を送った。
朱元璋は喜んで日本国王良懐として冊封した。
懐良親王が、なぜ日本国王良懐を名乗ったのは不明。
日本国王を名乗らないと朝貢ができなかったのかもしれない。
また当時、全国の南朝勢力で唯一室町幕府に脅威を与えうる自分が
京都に攻め上がれば、天皇になるという意識もあったかもしれない。
ただ、懐良親王自身が朝貢したのはこの一回のみ。
この後、数次にわたる日本国王良懐の朝貢は全て日本国王良懐を詐称して
行われた。(記録から島津氏や北朝勢力の関与が疑われている。)

13 :
>>10
君は論理的思考が出来るようになってから書き込んでくれ

14 :
>>977
>王の系譜と言うのは、自王朝の系譜というのは正当性の表明でもあるわけだから、そのくらいには大切なことだろう。
系譜の食い違いがあれば、別王朝だってか(笑)
「永徽初其王孝徳即位改元曰白雉獻虎魄大如斗碼碯若五升器。時新羅爲高麗百濟所暴高宗賜璽書令出兵援新羅。未幾孝徳死其子天豐財立死子天智立。
明年使者與蝦[虫夷]人偕朝。蝦[虫夷]亦居海島中其使者鬚長四尺許珥箭於首令人戴瓠立數十歩射無不中。天智死子天武立。死子總持立。(唐書)
書紀に拠れば、天豐財は孝徳の子じゃない。持統は天武の子じゃない。 ただ食い違いがあるだけ。
空想の九州王朝など出る幕無し。

15 :
>>13
そうか、君は日本語が苦手なことは認めるのか。
潔い態度に感服したw

16 :
>>12
>この後、数次にわたる日本国王良懐の朝貢は全て日本国王良懐を詐称して行われた
詐称というより、明側がその名じゃないと許さなかったから、という説もあったような?

17 :
>>13
俺は論理的な思考は得意だけどね。

18 :
古田信者たちもここまでコケにされてるんだから
九州王朝(仮名)が存在した根拠をズバーンと出しちゃいなよ!

19 :
>>16
日本国王良懐と名乗れば倭寇でもOK?
明が日本国王と認めたのは良懐だけなんだから良懐以外の日本からの
使節は認めないのは当然だろ。

20 :
死ぬ前に御大、和田に騙された、と認めてくれないかなあ。

21 :
>>19
日本国王としての国王印が下賜されてるだろ? 普通は。
その日本国王印が真正の証明だから、それを持ってる人物にそれなりのものを払って朝貢(貿易)したんだろ? 詐称というより。

22 :
>>18
>古田信者たちもここまでコケにされてるんだから
わざと煽っているんだが、なかなか詳しい方が、出て来ないんですよ。幼稚な僕ちゃんだけでねえ。
ただ、スルーきめこめば 返信不可能の未熟さをごまかせると 、自分に言い聞かせてるのが、手に取るように見えるのが 哀れと思いつつ…

23 :
>>22
レス乞食は無視されるから、違うコテにしてみたら?

24 :
ほら、2分で屑レスは返せても 既述のスレタイに沿った投稿に関しては、
予想通り返信不可能。

25 :
前スレで出てきた「三国史記」のことで、だれか詳しい人はいる?

26 :
素朴な疑問だが、記紀と、漢籍で年代まで一致している、
最古の人物は誰だろう。
名前まで一致すればなおよし

27 :
聖徳太子でさえ、ほぼ間違いなく別人だからなあ。

28 :
 このスレ、古田の人間性を云々する書き込みが少ないね。
 古田ってさ、思想家として登場してきた面もあったはずだ。親鸞の如くあらん
ってね(笑)

29 :
聖徳太子は居なかった
邪馬台国はなかった
九州王朝は存在した
なんか同じ臭いがする

30 :
>>26
>記紀と、漢籍で年代まで一致している、最古の人物は誰だろう。
>名前まで一致すればなおよし
   
乙祁 : 扶桑國王 「名國王爲乙祁」梁書扶桑國伝
億計(仁賢天皇) : 播磨系畿内王権(顕宗・仁賢・武烈)

31 :
>>30
ちょっと書いてる意味が分からないんだが、「乙祁」と「億計」が同じ名前ということなんだろうね?
そうなら二つの疑問が出てくる。
元の字も当時の発音もわからないのでただの疑問だが、「乙祁」は「オツギ、オチギ」または「イツキ」あたりの読みが近いのかな?
同様に「億計」は「オクケ」または「ヨクケイ」あたりが近いのかな?
あまり似てないように感じる。
次に「扶桑國」。
これが日本(倭?)のことだという説もあるようだけど、それ自体もどうなんだろう?
それぞれ少し無理があるんじゃないだろうか。

32 :
>>31
T.
@扶桑國には、宋大明二年(458)に佛法が伝わっている。
A「扶桑在大漢國東二萬餘里(1400km) 地在中國之東」
  ここで、大漢國は梁の都の地(現南京)にあたる。
B扶桑國の風土が播磨國に似ている。「其地無鐵有銅不貴金銀」等。
以上から、扶桑國は播磨國を指していると看做せる。
その他『梁書』諸夷傳(東夷条)扶桑國伝を参照のこと。
U.
「乙祁」オケ 呉音
「億計」ヲケ
「億計」ヲケの弟に「弘計(顕宗天皇)」オケがいるが、億計が播磨國王である。

33 :
>>32
T.についてはなんともいえないというか、仏教伝来とか鉄がないとかいう風土の関連で同じと言えるかどうかよくわからない。
なお、2万里は普通に読めば8000キロ前後かと。
U.の「乙祁」を呉音だとすれば「オツギ、オチギ」?、短くして(短くできるの?)「オギ、オキ」ぐらい?
「億計」は呉音なら「オクケ」、短くして「オケ」?
両方とも前提がちょっとあいまい。
あいまいなもの同士を重ねて結論付けるのはどうかなあ?

34 :
「億計」は「ゥオケィ」で「ヲケ」 [wokei]
「乙祁」は「オケ」と「オキ」の中間音 [oke]
2万里は、短里70〜80m/里で。1400〜1600kmである。(私は短里70m/里説)
鉄が産地がなくて、銅銀金が豊富に産出する。
銅銀金鉱山があり、播磨の4本の川からは砂金が採取できた。

35 :
九州王朝の直接証拠は
日帝がぜぇんぶ焼き尽くしたニダ。

36 :
倭王武=雄略天皇、という説が正しいとしても、これが上限になるな。
それ以前は年代なんて無いようなものだし。
上限案2は、タリシヒコ=聖徳太子説か。
名前の一致はないが。

37 :
聖徳太子関連では、
ついでに遣隋使記事も一致しないんで、
多分まともに記録が残っていなかったと考えたほうが良い。

38 :
清水守民〜ペンタクロス古代史〜 http://blogs.dion.ne.jp/ pentacross
この在日も古田信者で、九州王朝を本家、大和朝廷を分家としている。

39 :

           【現実】
        九州(東遷)説
.            ↑
【左翼】(朝鮮系)←┼→【右翼】(無知蒙昧)
 九州(王朝)説  ↓  畿内説
           【妄想】

40 :
古田史学は、要するに、
「邪馬台国畿内説をなんとしても叩き潰したい!!」ここから脳内妄想の大暴走が始まって、
-(邪馬台国畿内説に基づく)大和朝廷が百済王子を人質に取っていた史実を、磐井の乱、百済本紀やアメノタリシホコを根拠として九州王朝を妄想捏造することで歪めた
-その脳内妄想・九州王朝が朝鮮半島に軍事介入し、最終的に「白村江の戦い」で滅亡したことにして、歴史の教訓としたかった
こういうことだろ?

41 :
随分と被害妄想がひどいな。

42 :
>>40
まぁ、そういうことだね。
在日韓国人が古田史学に飛びつく理由もそこにあるんだろうね。
「日本に追いつけ追い越せ」が国是だから、今の天皇家の先祖に自分たちの王子が人質に取られていたという史実はどうしても受け入れられないんだろう。

43 :
>>34
発音についても『梁書』についても何かを言える知見はないのでその説をとってみるが、それでも疑問がでてくる。
「扶桑國」を日本のことだとすると、同じ梁書の倭国伝(倭伝)との関係だ。
梁書倭国伝ほとんど他史書からの引き写しにも見えるが、それはともかく、「扶桑國」を「扶桑略記」との関連で見れば国名だろうが、日本の国名だとすれば、「倭」と「扶桑」は別の国として認識されたことになるんじゃないだろうか?
「慧深」という人の話として「扶桑國」と紹介しているようだから、日本の地域名と見る見かたもあるかもしれない。
ただ、地域名とすれば、「乙祁(乙?)」は立太子前にそこの「領主」であったということになりそうだが、仁賢天皇の逸話からみるとそれは難しそうだ。
そのあたりの疑問についてはどう考えているんだろう?

44 :
古田信者は梁書倭国伝、扶桑略記まで持ち出して、大和朝廷は近畿の一地方政権に過ぎず、
九州王朝こそ一貫して列島を代表する政権だったと言い出す始末。
妄想に妄想を重ね、推論に推論を重ねて、歴史を捏造していくのが古田史学。

45 :
>>44
「億計」と「乙祁」の話か?
「梁書倭国伝、扶桑略記まで持ち出」すと「大和朝廷は近畿の一地方政権に過ぎ」ないことになるのか?
>大和朝廷は近畿の一地方政権に過ぎず、九州王朝こそ一貫して列島を代表する政権だった
誰かがそんなこと主張してるのか?
古田氏はそんな主張してないと思うんだが?
もしかしたら、自分が「妄想に妄想を重ね」ちゃってるんじゃないか?

46 :

ウリナラの百済王子を人質に取っていたから、九州王朝は滅びたニダ!
チョッパリは九州王朝の滅亡を歴史の教訓にするニダ!

47 :
この辺で古田氏の説を整理してみる。
だいぶ前に読んだので記憶違いがあると思うけど、著書が手元にないので誰か修正してね。
邪馬壹国
一般に3世紀の「邪馬臺国」と言われているのは、魏志倭人伝の表記によれば「邪馬壹国」。
現存する魏志倭人伝には「邪馬壹国」表記以外はない。
「邪馬壹国」は魏志全体の方位や距離の表わしかたと整合させると、現大宰府付近にあったと記述されていることになる。
九州王朝
宋書倭国伝に記述のある5人の倭国王を検討すると、卑弥呼、壹与の後継者と考えられる。
邪馬壹国から続く九州の王権を九州王朝と名付けることにする。
この九州王朝は「武」の後、「白村江」を象徴とする朝鮮半島での戦いに惨敗して急速に勢力を失った。
大和王朝
2、3世紀頃に南九州(現日向市付近)にいた邪馬壹国に連なる有力豪族が東へ新天地を求めて移動。
この豪族の首長が「神武天皇」であり、この時の移動が「神武東征」説話として伝えられた。
神武は近畿の「ナガスネヒコ王朝」を撃破して近畿王朝を立てた。
6世紀後半に九州王朝を滅ぼして全国統一を成し遂げた。

48 :
>>45
>「億計」と「乙祁」の話か?
>「梁書倭国伝、扶桑略記まで持ち出」すと「大和朝廷は近畿の一地方政権に過ぎ」ないことになるのか?
そうだ。
日本書紀の「億計」と梁書扶桑國伝の「乙祁」の話だ。
播磨國の「億計」は、弟の「弘計」に大和朝廷を征服させ、大和朝廷を支配した。
その「億計」とは、扶桑國王の「乙祁」のことである。
「顕宗」「仁賢」「武烈」三代の天皇は大和を支配した播磨王である。
だから、この三代の期間の大和朝廷を「播磨王朝」とした人(畿内派学者)もいる。
「其地無鐵有銅不貴金銀」梁書扶桑國伝
播磨國では、鉄の産地がなく、銅銀金が豊富に産出する。
銅銀金鉱山があり、播磨の4本の川(加古川・市川・夢前川・千種川)からは砂金が採取できた。
なお、扶桑木は青桐のこととみなして良い。

私は、古田説を一部支持するが、古田信者ではない。

49 :
もう長くない。
一トンデモ研究者として終わるのか。

50 :
古田氏は逝かれる前に全てを告白していただきたいな

51 :
古田氏は著書に「陳寿を信じ通した」と書いている。(魏志倭人伝を徹底して読む)
言い換えれば、「三国志に、何一つ間違いは無いと仮定すれば」という前提で立論を試みたんだろう。
つまり、通常の史料批判には有り得ない手法で自説を述べたに過ぎない。
勿論、「陳寿を信じ通した」と公言した上で書いている訳であるから、それ自体はアンフェアではない。
ただ、自身で決めた前提に基づいて持論を展開したのだから、通常の批判を受ける対象ではない。

52 :
>>51
実は「陳寿を信じ通した」のではなく、
南宋時代の刊本を信じ通しただけなんだけどなw

53 :
>>51
「信じ通した」という表現は、確かに誤解されやすい点だが、
それまでの論者がやたら原文を恣意的に改訂しまくってたので出た表現だ。
やってることを見ると、古田の史料批判はかなり正当と言える。
それを理解するには、彼の親鸞の一連の著作を読むと良い。
ちょうど同じ手法なんだが、結果、それまで誰も明かせなかった事実を突き止めた。

54 :
>それまで誰も明かせなかった事実を突き止めた。
kwsk

55 :
>>53
逆に、邪馬台国にからむ古田氏の論証の仕方を見ると、
親鸞研究も、プロの学者から本当に学問的に評価されていたのかと疑わしくなる。

56 :
>>48
「文身國、在倭國東北七千餘里」
「大漢國、在文身國東五千餘里」
「扶桑在大漢國東二萬餘里」
扶桑國は、倭國のやや東4万里ほど。
短理を採用したとしても、6000キロ前後だ。
この方位、距離を否定するなら、ほかの記事も信用するのは難しい。
銅はともかく、金銀が珍しくないぐらい豊富だというのはちょっと日本の風土に合わない。
「無兵甲、不攻戦」
兵士や武器がなく、戦いがない。
これもどうだろうか?
たまたま「億計」や「弘計」と「乙祁」と音が似ているかもしれない、ということだけで結びつけるのはどうかなあ?
「乙祁」ではなく「祁貴人」を王の名と解釈する人もいるようだ。
仏教も扶桑國は5世紀にインドからともあるが、日本書紀の仏教公伝は6世紀に百済から。
その前に伝わっていたとしても、インドからというのはどうか?
なかなか一致するところを見つけ出すのが難しい。

57 :
>>52 >>55
文献がはじめから間違っていることを前提にしても無意味だろ?

58 :
>>58
@「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東」
A「其南有侏儒國」(魏志倭人伝では東南)
B「文身國、在倭國東北七千餘里」
C「大漢國、在文身國東五千餘里」
D「扶桑在大漢國東二萬餘里」
Cの大漢國は、倭國から万二千里(850km)の毛野(関東平野である。)
Dの大漢國は、宋代に荊州(湖北省)に来ていた扶桑國の留学僧慧深からの伝聞であるから、
新興国「梁」の都である建康のある江蘇省南京付近である。
大漢國(江蘇省)の東二萬餘里(1400km)は近畿地方。
>銅はともかく、金銀が珍しくないぐらい豊富だというのはちょっと日本の風土に合わない。
播磨は古代の銅銀金の大産地。生野銀山等は現在まで名前が残っている。
>「無兵甲、不攻戦」
>兵士や武器がなく、戦いがない。これもどうだろうか?
銅鐸社会のあった近畿全体に言えることである。
兵甲皆無であるのではなく、シナで言うところの「兵甲」が無かったのである。

>仏教も扶桑國は5世紀にインドからともあるが
インドからの直伝ではない。
罽賓國から荊州に伝えた仏教がそのまま播磨に伝えられたのだ。

59 :
アンカー間違い
>>58 ⇒ >>56

60 :

たしかに近年の古田氏は、見つけたものを手当たり次第に自説に引き寄せていく強引すぎる論考が目立つ。
万葉集を朝鮮語だとする論とあまり変わらないくらい支離滅裂に見えることすらある。
とはいえ、初期?の「盗まれた神話」までの論考の力強さは簡単に否定できるものではない。
人間の老いというものは、残念なことに避けられる人はいないということだろう。

61 :
>>58
「大漢國、在文身國東五千餘里」の
>大漢國は、倭國から万二千里(850km)の毛野(関東平野である。)
ここまではそういう読み方ができないこともないかもしれない、と言ってもいい。
「扶桑在大漢國東二萬餘里」のときの
>大漢國は、宋代に荊州(湖北省)に来ていた扶桑國の留学僧慧深からの伝聞であるから、
>新興国「梁」の都である建康のある江蘇省南京付近である。
と読んだのでは、なぜ同じ「大漢國」を異なる国(場所)とするのかちょっと理解できない。
「漢」はそのときよりはるか昔の国名だ。
「梁書」で自国を「漢」と呼んでいるなら別だが。
「扶桑在大漢國東二萬餘里」
他の部分は伝聞なり、前の記録の引き写しであったとしても、これは5世紀の「慧深」が話したことだろうから、短里で話したということも理解しにくい。
>播磨は古代の銅銀金の大産地
どこかに根拠があるのだろうか?
ここまで強引ではこじつけの域に入ってしまうだろう。

62 :
古田説は九州王朝というものを史上にくっきり描き出してくれた事に関しては評価するが
天智系の復活が九州王朝の血筋の復活とか言い出したあたりからついていけない
最後の倭国王が西暦700年に大和朝廷に倒されて、これが大化の改新と呼ばれたものであった・・・ここまでで終わっとけばいいのに

63 :
>>53
>「信じ通した」という表現は、確かに誤解されやすい点だが、
そうかな?「三国志に間違いは無いという前提で論じてみました」の意味以外はないだろう。
誤解しているのは信者連じゃないかな?
「陳寿が間違える訳がない」とか「倭人伝に間違いなど無い」とかいう投稿を、時々、見かけるがね。
>>57
>文献がはじめから間違っていることを前提にしても無意味だろ?
逆! 疑ってかかる事が史料批判。
頭から、肯定してたら、古文書っぽいのにひっかかるだろう。

64 :
>>61
>なぜ同じ「大漢國」を異なる国(場所)とするのかちょっと理解できない。
Dの「大漢國」は、扶桑國の留学僧慧深が梁の人に証言した中に出てくる国名である、
宋代に留学した慧深は、新王朝梁に対する敬称として「大漢國」使ったのである。
>これは5世紀の「慧深」が話したことだろうから、短里で話したということも理解しにくい。
「慧深」が話したからこそ、東夷で使われていた「短里」で表現したのである。
>>播磨は古代の銅銀金の大産地
>どこかに根拠があるのだろうか?
ここで根拠を説明できるものではありません。
播州地域についての多くの方々の郷土史等民間諸研究を調べて下さい。

65 :
>>64
>新王朝梁に対する敬称として「大漢國」使った
他の同様の使用例を出してくれ。
「短里」が >東夷で使われていた  という根拠は?
特に日本で使われていたという根拠は?
>播州地域についての多くの方々の郷土史等民間諸研究
当該部分だけでも引用してくれるとありがたい。
せめて題名だけでも教えてくれ。

66 :
>>65
>「短里」が >東夷で使われていた  という根拠は?
>特に日本で使われていたという根拠は?
横からだが、文書記録が残る時代にならないと、
証明不可能な設問じゃないかね?


67 :
>>66
なにも根拠がなければ、立論の前提にできないというだけのこと、だろ?

68 :
>>57
文献に何一つ間違いは無いことを前提にするのはもっと無意味じゃないのかな?

69 :
>>57
間違っていない伝本なんてない、ということを出発点にして、
「どう工夫したら原文の形を復元できるのか」を熟考するのが普通の研究。
原文を復元しようという努力を捨てたのが古田式。

70 :
>>68
すべて検討結果でてくるもの。
古田氏も倭人伝、東夷伝、魏志、さらに三国志全体を十分に検討した後に、倭人伝は基本的な部分で間違いはないと確信して、さらに詳細な部分の検討を進めると、非常に合理的に書かれていることに気がついた。
その後、さらに多くの中国史書を検討している。
その読み込みについてのまともな反論は見たことはない。

71 :
で、古田は陳寿の思想や晋の史官としての立場、三国志という書物の性格を考慮しているのかね?
三国志を詳細に分析したと豪語はしても、日本史学者だけではなく東洋史学者にも相手にされていないという現実をよく考えてみることだ

72 :
三国志に東夷の国では短里(made in japan)が使われていたなんて書いてないし、
距離を実測したような数字でもない
中国には度量衡が統一されてなかった時代はあっても、
短里なるものが度量衡に使われていたことを示す記録はない
東夷伝の方位も間違ってるであろう箇所がある
古田の解釈も数多く立てられる仮説の一つでしかない
古代のように不明確なことがほとんどであるような時代は、
得られる情報すべてから総合的に推論せず、一つをピックアップして拡大解釈してしまうと
どんな妄想でもできてしまう

73 :
>>70
>その読み込みについてのまともな反論は見たことはない。
普通、誰もまともに相手せんだろう。
「高峻二十余里」を道のりではなく海抜だという類いに。

74 :
>>72
>三国志に東夷の国では短里(made in japan)が使われていたなんて書いてないし、
隋書までに編纂された史書の東夷部分は全て短里で書かれています。
(短里の1里は70〜80m、周髀算経によればBC1100年頃の1里は約75.5m)

75 :
約76.5m

76 :
>隋書までに編纂された史書の東夷部分は全て短里で書かれています。
嘘はよくないな
九州王朝説の人はいつも平気で断言するが
東夷伝に書かれた起点と終点はすべて判明してるのかね?
周髀算経の理論が度量衡に使われたという記録もない
唐代に大掛かりな実験をしたことなら記録として残っているが
こういうのを恣意的解釈というんだよ

77 :
短里の基本は、倭人伝からの逆算だろうな。
ただ、周髀算経でも、近い数値となるから、存在の可能性が
高まるってことだな。
逆に、倭人伝で全く一致しない以上、公里の使用は明確に否定される。

78 :
実は倭人が周代の数学書に書かれた里数を知っていたという仮説だな
公里の距離は東夷伝では合わないのは確かで、可能性はいくつか考えられる
魏の公里に合わないから周髀算経の里数が東夷の国で使われていたというのは
一つの可能性を明確に否定する文献・物証が今のところないというだけ
東夷伝の千里単位の大雑把な里数からは可能性が高いとはとても考えられない

79 :
個人的には、実際の正しい距離や日数を、
陳寿、または報告者が知っていたが、
何かの理由で、短里に該当する、特殊な距離単位に換算して記載したと、
疑っている。
現実に短里に該当する単位「名」が存在しないからである。
例えば、「周里」が短里相当であれば、話が早いが、勿論そんなことはない。
しかし、周髀算経で数学的に処理できるような、体系的にきれいな単位であり、
数学的に導き出された、仮想単位なのかもしれない。

80 :
>>77
>短里の基本は、倭人伝からの逆算だろうな。
なるほど、では末廬國はどこ?伊都國はどこ?その根拠は?

81 :
>>76 >>78
東夷伝からでも、魏志全体からでも、明らかに「短里」がなりたたない例を示せばいいんじゃないか?

82 :
>>80
>なるほど、では末廬國はどこ?伊都國はどこ?その根拠は?
ローガンさんは、まず、自説を説明してからにしてくれませんかね?
末廬國はどこ?伊都國はどこ?その根拠は?

83 :
>>81
典型的な「悪魔の証明」だな

84 :
>>83
なんで?
一番簡単なことじゃない。
とりあえず朝鮮の大きさは「短里」でぴったりだったんだから、それを否定するならそれに反する例を示さないといけないのは当然だろ?

85 :
古田説も知らないただの「自分の家の近く説」だろw

86 :
>>82
末廬國は多分、唐津辺り。
伊都國は糸島一帯。
楽浪系遺物から見る原之辻経由、半島との交易ルート。古地名の一致。潟港の機能等
自説の来倭ルートは狗邪韓國→伊都國。長くなるので、あとにする。
切り返しの質問の前、私の質問が解決してからね。
で、末廬はどこ?伊都はどこ?その根拠は何? その根拠に基づいて確定した二国間の距離が、「短里の基本」なんでしょう?
私の説云々は、これを片付けてからにしましょう。

87 :
>>86
なるほど、それでは、
末廬國までは、同じく一般的な定説に沿った、唐津あたり
ここまでの里程記事と実測距離の計算から、誤差はあるが
一里あたり80m程度とする。
ここまでの里程距離を根拠として、これから先を推測すると、
倭人伝のとおりに唐津街道を南東に進み、多久を経由し小城へ
記事では500里だが、小城の弥生遺跡群は、400里相当のところ。
弥生後期の朝鮮半島由来と推測される銅器なども出土している。
ここが伊都国に相当すると考える。
また、倭人伝のとおりに進むと佐賀大和である。旧大和町から、
佐賀市に至る広域の領域を指す。大和町史によると、
この領域には環濠が確認されている集落遺跡が少なくとも5箇所、
確認された大小古墳が2000以上、住居跡600以上という、大集落群である。
大国として記録されている奴国として妥当なところであろう。


88 :
あと、数値計算の実測値と計算過程を示しておく。

@「韓地は帯方郡の南にあり、方4000里」、より求める。
方4000里を平方里とすると総面積は、16000000平方里、現在の韓国の総面積は、98480平方キロ
これより、1平方里=0.006155平方キロ=6155平方メートル、従って、1里=√6155m=78.453m
A海州から釜山巨済島付近までの海上距離が7000里、実測距離が630キロ、従って、1里=90m
おなじく、平壌から釜山巨済島付近までの実測距離が754キロ、従って、1里=107m
B釜山巨済島から、唐津までの、各島の主要港をたどった場合の距離が207キロ
倭人伝では3000里ということから、1里=69m
C唐津までの総行程距離1万里に対して、実測距離が630+207=837キロ
従って、1里=83.7m

89 :
>>84
そんな説明を証明と呼ぶのは信者だけだ。
その説明の実態は、
朝鮮半島の大きさの表現を直線距離表記と仮定したら1里≒80m近辺になるという一点だけ。
その想定通りに諸国の位置を推定したら、候補地がまさにその国だったと確定する必要がある。
で。
現実には、倭人伝に記されている倭国内の国々の位置は一つとして証明されていない。
どの説明もすべて空論だろ。

90 :
方四千里なんて表現は、
・天子の治める国=方万里
・諸侯の治める国=方千里
の中間的なものという、理念的な表現に過ぎないだろうに。

91 :
>>79
>周髀算経で数学的に処理できるような、体系的にきれいな単位であり、
>数学的に導き出された、仮想単位なのかもしれない。
それは君の夢想。
周髀算経には、BC1100年頃の天体観測のデータも書かれている。
BC2世紀商時代の北極星(大星)と天の北極(北極樞)の位置関係を正確に測定している。

92 :
『古代は輝いていたT』p193以降、「『三国志』の里程」の論証がおかしいことについて
--------------以下引用-----------------------------
〈その一〉
山険に縁りて行き、二千里に垂んとす。(呉志十五、鐘離牧伝)
これは鐘離牧が武陵から五谿まで進軍したときの記事だ。
この間(川沿い)の実距離は、倭人伝と同じ「里単位」(短里)で、
ほぼ二千里に当っている(五谿は、入口まで。湖南省常徳県)。
----------------引用終わり--------------------------
二千里は、一里434mなら868km、一里76mなら152km。
鐘離牧が進軍した二千里は、どちらで解釈すべきか?
古田氏は下記ページで、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic24.html
「武陵郡治(常徳)から五渓の中心部たる「元*陵(辰州) ーー 辰渓」に至るまで、
約一五〇〜一八〇キロメートル(魏晋朝短里、約二〇〇〇里。長里、約三五〇〜四〇〇里だ。」
と主張しているが、百度地図の測距を利用して川沿いの距離を見ると、
常徳から辰渓まで約300kmあった。
これだけでも、短里だと四千里近くになってしまう。長里なら七百里程度。
さらに、古田氏は川沿いの距離で検討しているが、
「山険に縁りて行き」だから、川沿いとは違う。
ワインディングと高低差という二つの要素によって、
移動距離は川沿いより伸びる。
これを2倍から3倍と見積もれば、短里だと八千里から一万二千里になってしまうが、
長里なら千四百里から二千百里となって、垂二千里と合致する。
私見では、郭純が駐屯していた遷陵・赤沙のあたりまで進軍したのではないかと思うが、
それでも距離はあまり変わらない。

93 :
--------------以下引用-----------------------------
〈その二〉
潜中、天柱山有り。高峻二十余里。 (魏志 張遼伝)
この山は、歴史上著名な名山であり、現存する。その高さ、一八六〇メートル。
したがって、やはり倭人伝の「里程」と同じ里単位と見なしたとき、妥当する。
----------------引用終わり--------------------------
上記ホームページで、古田氏はこの一八六〇メートルを海抜と言っている。
3世紀の中国人が山の高さを海抜で表現することに、何の疑問も感じないのだろうか。
短里で考えると海抜一八六〇メートルと合致するということは、
逆に、二十余里という数値が、短里による高さの数値ではないということの証拠。
上記ホームページでは、
「もしこれを山麓より山頂付近までの“道路距離”と解しても、大異はない。」
とも言っているが、現代の登山ではないので、傾斜45度の山を直線で登攀するわけがなく、
短里の数値がこれに合致するということは、
やはり短里による“道路距離”でもないことを示している。

94 :
--------------以下引用-----------------------------
〈その三〉
(イ)江東に割拠す、地方数千里。 (呉志 周ユ伝)
これに対比すべき好例がある。
(ロ)江東、小なりと雖も、地方千里。(史記 項羽本紀)
三世紀の読者にとって、(ロ)は周知の名場面だった。その目で(イ)の記事を読む。
必然に、(ロ)の世界(秦・漢代の長里)と(イ)の世界(魏・西晋朝の短里)との里単位が
「一里対・数里」の比率をもってちがっていた、そのことが明示されているのである。
----------------引用終わり--------------------------
古田氏は、他の例も引いて、上記の比率を「約五対一」としている。
(ロ)は、項羽が劉邦に負けて逃げ帰ってきたとき。
東越の地(今の福建省)は、劉邦に帰順し、項羽と敵対していた。
一方、三国・呉では、東越の地を支配している。
(イ)と(ロ)では時代も五百年離れており、漢の時代の領土拡張があって、
同じく江東といっても、その指し示す領域は全然違う。
そこを考慮せずに、単純に同じと思い込んだ結果の誤り。

95 :
『古代は輝いていたT』p194以降、「『三国志』以外の里程」の論証のおかしなところ

〈その一〉
北軍(魏の曹操)を去る二里余、同時発火す。  (『江表伝』)
古田説のポイント。
現地(赤壁)の川幅は、ほぼ「四〜五〇〇メートル」。
「短里」によるときは、妥当する(二里余=約一八〇メートル)
「長里」によるときは、全く妥当しえない(二里余=約一キロ)。
「短里」が用いられていることが判明する。
--------------以下引用-----------------------------
 呉の周瑜の部将、黄蓋が策を建て、十艘のもやい舟を率いて「中江」(真ん中あたり)に出た。
さらに北岸(魏軍側)に近づき、偽っていっせいに「降服する」と大叫した。
そしてさらに北岸に近づき、「北軍を去る二里余」の地点で、兵は小舟で去り、
無人火船を北岸の、鎖でつなぎ合っていた魏の大船団に突っ込ませ、大勝を博した、という。
----------------引用終わり--------------------------
古田氏は、「北軍を去る二里余」を「北岸を去る二里余」と読みかえて論じてしまっている。
魏軍は上流から、呉軍は下流から進軍している。
十艘のもやい舟が突っ込んで損害を与えられるということは、
魏軍はかなり密集して停泊していたのであり、
p194の第11図のような、川岸に船が一列に並んでいる布陣はありえない。
江表伝は、下流の呉軍から上流の魏軍への長江の流れに沿った奇襲の話だが、
古田氏は、これを長江を横断する奇襲と誤解したのだろう。

96 :
--------------以下引用-----------------------------
〈その二〉
(イ)海を度ること千里、復た国あり、皆倭種。
倭人伝にも、同類の文がある。
(ロ)女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り、皆倭種。
右の「千余里」が、いずれも同一の実定距離をしめしていることは、明瞭だ。
すなわち、『魏略』と『三国志』が同一の「里単位」にたっていることがしめされている。
「短里」だ。
----------------引用終わり--------------------------
『魏略』と『倭人伝』が、同一系列の資料をもとに編纂されたことは、
両者を見比べれば、誰にでもわかる。
ならば、文章や数値が似通うのは当然。
「『魏略』と『三国志』が同一の《《里単位》》にたっていることがしめされている。」
のではなく、
「『魏略』と『三国志』が同一の《《資料》》にたっていることがしめされている。」
両者が同一の資料に拠っていることと、その数値が「短里」かどうかは、無関係。
引用はしないが、〈その三〉の漢書地理志の注についての論も、同様のミスリード。
〈その四〉の海賦は読むのが大変なので、今回はやらない。


97 :

>>84だけど、ありがとう。
こういう指摘を期待していたんだ。
>>92
武陵、五谿と言ってもそれなりの大きさのある地名だろうから、起点と終点の選び方によっては距離が違うだろう。
また、道としての距離を記述したものか、大雑把な直線距離を記述しているのかの検討も必要だろう。
>>93
これは海抜というか、山の高さの表現の例がもう少しないと断定できない。
そのころ山の高さをどう表現していたか、という検証が必要だ。
これはもちろん古田氏にも言える。
古田氏がその検証をした上で論証したのであれば古田説が正しいと言うことになるが。

98 :
>>94
これは逆に、そのころの江東の広さを提示できなければ反証にはならない。
>>95
指摘が正しいかどうかはわからないが、仮にその指摘が正しいとしても、古田氏の論証のひとつが消えるだけで「短里」の否定にはつながらない。
この部分は「短里」に関する、この戦闘を基にしての誰かの反論に対する再反論じゃなかったかな?
>>96
前資料を参考にしていたとしても、明らかにおかしいところがあれば修正するなり注釈を入れるなりするだろう。
修正したと添えるか添えないかは別として。
古田氏は倭の五王で他の史書を扱ったときには、そのあたりのことも検討したうえで論証している。

99 :

いろいろ否定的なことを書いてしまいましたが、こうした検討が史実に近づくにはとても大切だと思うので、ぜひ続けてください。

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