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楚漢の時代の武将を光栄三国志式に能力化しよう!


1 :2007/06/14 〜 最終レス :2013/09/07
項羽・劉邦、秦末期の武将を能力化しましょう。
列伝というよりは経歴を記しています。その上で査定しています。
能力自体はあくまで目安です。光栄に帰存していますので評価はやや甘め。
経歴の文章に関してはwikiなどを繋ぎ合せただけですのであしからず。

2 :
【楚】項梁 ?〜B.C208
統率72
武力59
知力68
政治73
魅力71
義5 野12
項羽の叔父。項羽を連れて呉に入り、陳勝・呉広らが挙兵すると
殷通を殺害して会稽郡守となった。項梁はその地で軍の体制を整え、
8000人の精鋭を得、范増を始めとする豪傑・賢人を集めた。
陳勝・陳渉が敗れると動揺した召平は陳渉の使者に成りすまして項梁に出兵を促した。
これに応じ、挙兵すると陳嬰・英布らの軍が傘下に加わり大軍となった項梁の軍は
勝手に陳勝の後をついで楚王となっていた景駒を討伐した。
反秦軍の領袖となると范増の献言を聞き入れて楚の子孫の探しだし、懐王を立てた。
西進を開始した項梁は秦軍と戦い、連戦連勝を重ねると驕慢になってしまい、それを待っていた
章邯に定陶で敗死する。宋義は勝ち続けて奢る項梁を度々諌めたが聞き入られなかった。

3 :
【楚】項籍(羽) B.C232〜B.C202
統率94
武力100(120)
知力69
政治20
魅力95   (※能力は三国志11のものです)
義4 野15
代々楚の将軍をつとめる名門の家柄で項燕の孫。
陳勝・呉広の乱が起こると叔父の項梁に従って挙兵。定陶で叔父の項梁が
戦死すると楚軍の首領となり咸陽へ向けて北進を開始する。
趙の張耳、陳余の要請を受けて鉅鹿の救援に向かう途中、斉と内通していた宋義を殺し
懐王から上将軍に任ぜられ、 黥布や蒲将軍はみな項籍に所属することになった。
全権を握った項羽は秦の糧道を断ち、背水の陣を敷いて20万の章邯率いる主力を打ち破った。
更に勢いのまま秦軍を攻め、総大将の章邯も項羽に降伏を申し出、項羽はこれを受けるが、
20万人の捕虜は反逆の疑いがあると見て生き埋めにしてしまう。
関中には先に劉邦が入っており、これに激怒した項羽だが鴻門の会で劉邦を許してしまう。
秦が滅ぶと秦の最後の王である子嬰一族を殺し、咸陽を焼き払って財宝を略奪した。范増の意見を
無視して都を咸陽から彭城へ移し、楚へ帰ると覇王を名乗る。論功行賞では項羽の嗜好で優劣され、
諸侯に大きな不満を抱かせるものとなった。また、項梁が擁立していた懐王も暗殺した。
斉の田栄が反乱を先駆けに諸侯が続々と呼応する。その討伐をしてもすぐにまた各地で反乱が起き、
泥沼化した。関中を平定した劉邦に彭城を奪われるが3万の兵で50万の劉邦を打ち破り、追い込むも
兵糧の欠乏で逃がし、更には韓信による諸国遠征・神出鬼没の彭越や離反した英布等の諸侯による
後方撹乱行動に悩まされる。
その間隙を狙うように行われた陳平による内部分裂工作により范増が離反。斉の救援に龍且の
軍勢を向かわせるが韓信によって大敗。斉の平定を許し兵力を大幅に減らしてしまう。
ここにきて劉邦・韓信の力が強大化し楚包囲網が完成する。
項羽は劉邦の家族を変換する事で一旦和睦し故郷へ帰ろうとするが約束を破られ背後を襲われ
垓下に追い詰められた。項羽は鬼神の強さを見せるが烏江の畔で自刎し、その生涯を閉じた。

4 :
【漢】劉邦(李) B.C247〜B.C195
統率67
武力66
知力44
政治58
魅力100   (※能力は三国志11のものです)
義11 野15
漢の高祖。沛県で亭長の職にいたが酒色を好み、不真面目ではあるが人に好かれる質だった。
呂公に気に入られて娘の呂雉(後の呂后)を娶る。始皇帝陵を作る人夫を咸陽へ送り届けようと出発する際
重労働と刑罰に脱走や畏怖していた人夫達を見て劉邦は人夫を逃がし、自らも一部の人夫を
引き連れて党の党首になった。
陳勝らが大規模な反乱を起こすと沛の県に協力を要請をし、呼応した所を蕭何・曹参らが県令を殺害して
劉邦を迎え入れて県令となった。このとき集めた兵力2000で周辺の県を攻めるが豊の留守を任せていた
雍歯が魏咎に誘いに乗って裏切り、怒った劉邦は豊を攻めるが落とせず、景駒から兵を借りて碭・下邑を
落としてその兵力を持って豊を落とした。項梁が反乱軍の盟主の下、項梁の下で項羽と共に秦軍と戦う。
訪問していた酈食其の進言に従って交通の要所と大量の兵糧を得て、韓に援軍して韓を再建。そのお礼に張良を借り入れて重用した。
更に西進して咸陽を目指すと余計な戦闘はせず降伏させ、その後も兵を規律し略奪を許さなかったので
次々と降伏し、秦最後の嶢関も張良の策により打破し、関中に入った。これにより項羽が激怒し
鴻門の会で弁明して虎口を脱した。その後封建で劉邦には漢中及び巴蜀が与えられ、命令に従い漢中に向かった。
この時期に劉邦陣営に新たに韓信が加わり、蕭何の推挙により兵の全権を持つ大将軍として任命した。
斉の田栄が反乱を起こし項羽が討伐に出かけている隙に章邯らを滅ぼして関中を手に入れ、東へと軍を進めて
途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。56万の軍勢を引き連れて彭城へ入城し
浮かれていた所を項羽の軍3万に敗れて劉邦は命からがら逃げ延びる。その後英布を引き込み滎陽で篭城する
構えを取ったが食糧不足により西へ逃亡する。武関から出陣して成皋へと入るがここでも項羽に攻められ、修武に
駐屯していた韓信の軍に逃れた。そこで斉を攻める様に命じ、韓信は悉くそれを打ち破った。
その後項羽と退陣すると防衛に専念し、膠着状態が続くと項羽が様々な手を使って挑発するが応じず、天下を
半分に分ける事で講和した。しかし張良と陳平の進言により退却する項羽の背後を討ち、韓信と彭越に領土を与えて
挟撃し、外かに下に追い詰めて兵糧攻めを行い、そして四面楚歌の計略を用いて楚軍を崩壊させ、項羽を倒した。
その後皇帝に即位すると功臣を次々と粛清し、晩年を汚す。

5 :
【漢】樊噲 ?〜B.C189
統率85
武力90
知力45
政治37
魅力66
義15 野3
劉邦と同じ沛県の出身。犬の屠殺業で生計を立て、劉邦とは親しい間柄だった。
呂公の娘のうち、妹の呂須を娶った。劉邦の旗揚げに加わると第一線で活躍する。
方与を攻め、豊を守り、泗水の郡監を豊の城下で討ち破り、東行して沛を平定し、
泗水郡守を薛の西で破り、秦の軍を次々と打ち破った。関中に入ると咸陽に留まろうとする
劉邦を張良と共に諌めた。鴻門の会では肉を食って劉邦の危機を救い、覇上の陣営まで護衛した。
この事で臨武侯に封じられ、その後の対楚戦でも武勲を挙げ、趙賁を攻め、郿・槐里・柳中・咸陽を
降し、鄒・魯・瑕丘・薛を攻め破って功績をあげる。
漢王朝成立後は反旗を翻す韓信・陳豨・英布等を討って更に武功を上げたが高祖の晩年に
盧綰討伐を命じられると讒言によって捕らえられるが、高祖の死によって釈放される。
その後劉邦のあとを追うように没し、武侯と諡される。

6 :
【秦】贏政 B.C259〜B.C210
統率50
武力58
知力91
政治100
魅力78    (※能力は三国志11のものです)
義3 野15
秦の始皇帝。13歳で即位するが丞相の呂不韋が実権を握り、年若い政は
まだ政治は執れなかったが、贏政の母の愛人が起こした反乱を鎮圧すると、
呂不韋を失脚させて蟄居に留めた。その時に呂不韋の元から李斯を得て、
李斯の主導の下に法家の思想から君主独裁、郡県制、厳罰主義を
一層推し進め、強力な独裁権を手に入れた。外征面では王翦、王賁親子や
李信などを起用し、次々と他国を滅ぼした。
燕からの刺客の荊軻に暗殺されかけたことに激怒し、王賁に命じて燕を滅ぼし
紀元前221年、六国の中で最後に残った斉を滅ぼし、中国を統一した。
新たな称号を皇帝と名付け、自らを始皇帝として二世皇帝、三世皇帝と永遠に続けていくとした。
李斯の進言により全国を36郡に分割し、それぞれに官吏を置いて治めさせることを決めた。
その上で亭と呼ばれる交番を全国に設置した。首都・咸陽には全国の富豪12万戸を強制移住させた
終戦の象徴として巨大な像の建造、貨幣、車の幅を統一、更には文字うぃ秦で使われていた漢字を
全国で使うように定めた。そして行幸を重ね、全国の交通の整備を進めた。
北の匈奴に備えるために万里の長城を修復し、匈奴、南の嶺南を征服した。
李斯の提案に従って焚書を行い、不老不死の仙薬作りを命じて逃亡した学者を取り調べて
460人を穴埋めにした。晩年は宦官の趙高を置き、5度目の巡遊の途中で死去した。
始皇帝は長子の扶蘇を跡継ぎとする遺言を趙高に渡していたが、趙高と李斯が結託して
胡亥が跡継ぎとなる遺言を捏造した。

7 :
【秦】趙高 ?〜B.C207
統率32
武力3
知力63
政治2
魅力1
義0 野15
秦の宦官。始皇帝・胡亥に仕える。
勤勉で獄法に通じていたので、始皇帝に登用され、中車府の令となった。
ある時大罪を犯し、蒙毅は処刑するよう命じられた。蒙毅は法のとおり死罪とし
趙高の官籍を除いたが、始皇帝は趙高が仕事に勤勉であるということでその罪を許した。
このことで趙高は蒙毅を恨み、彼を殺そうと下心を持った。始皇帝の五度目の行幸中に病死すると
李斯を抱き込み遺言を捏造して太子の扶蘇を自決に追い詰めて、末子の胡亥を即位させる。
そして自ら郎中令に就任し、胡亥を傀儡して自らが代わって政務を取り仕切って実権を握る。
蒙恬を服毒自殺に追いやり、蒙毅も讒言で殺し、阿房宮の増設、自分に歯向かう者は一族ごと殺した。
天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵を皮切りに一気に全土に反乱が広がった。
事態を憂慮し対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに
趙高は胡亥に讒言して、李斯を処刑させ自分が後任の丞相となった。
その間にも反乱は広がり、主力部隊でもある名将章邯が項羽に破れた際も、趙高は増援どころか
責任を擦り付けたため、章邯は20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。
咸陽の近くにまで劉邦の軍勢が迫ると、ようやく事の次第を知った胡亥にその責任を問われる。
身の破滅を恐れた趙高は、一族を率いてクーデターを起こし、胡亥を自殺に追い込む。
この時、劉邦軍と密かに内通をしたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。
胡亥の後継として、人望の厚い子嬰を擁立することで自身への非難をかわそうとするが、
趙高を憎悪する子嬰と韓談らによって、屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

8 :
【その他】陳勝(渉) ?〜B.C209
統率21
武力51
知力27
政治34
魅力48
義1 野13
陽城の出身。漁陽守備のための囚人達を率いていたところ、途中突然の大雨で
日程までに間に合わなくなり、一日でも遅れれば処刑されるため陳勝は仲間の
呉広とともに指揮官を殺害して反乱を起こした。反乱軍は瞬く間に膨れ上がり
陳城を占領し、楚を復興したという名目で国号を張楚とし陳王に就き、これに
応じ地方の将軍や農民らが反乱を起こした。勢いに乗った陳勝は呉広に命じ
咸陽に向けて遠征軍を起こす。しかし、この軍は秦の章邯に大敗し、元々農民で
あった呉広に軍の指揮能力がないと見た田臧がクーデターを起こし呉広を殺害する。
だが、田臧軍も章邯軍に壊滅され、陳勝自身も大軍を率いて章邯と会戦するも大敗を喫し
逃走中に御者の荘賈に裏切られて殺された。

9 :
政治
100 蕭何
99 張良
98 范増
97 陳平
96
95 李左車
94 韓信
93
92 李斯
91
90
89
88
87
86 陸賈
85
統率
100 項羽
99 韓信
98 
97 
96 英布
95
94
93 王陵
92 章邯
91 樊カイ
90 龍且
89 彭越
88 
87 鍾離昧
86 周勃
85 季布、夏侯嬰、周苛
知力
100 張良
99 韓信、陳平
98 范増
97 
96 李左車
95
94 李斯
93
92 荊通
91 麗食其
90
89
88
87 王陵
86
85

10 :
【漢】酈食其
統率18
武力9
知力80
政治88
魅力75
義10 野7
漢の臣。楚漢戦争期の儒者。隠遁生活を送っていたが
劉邦が陳留を攻撃した際、劉邦に惹かれて会見し、陳留の兵糧の奪取と城主の説得を
するべきだと進言し、陳留攻略を助けた。その後、諸侯の中で東奔西走し、折衝に当たった。
秦が追い詰められると丞相の趙高は二世皇帝を殺し、使いを劉邦のところへやり、関中の地を分け
ふたりで王になろうと言ってくると劉邦は張良の計を用い、酈食其と陸賈を秦将のもとへやって
説得させこれを利益で釣って降し武関を急襲し、これを破った。
韓信による斉攻略が進んでいる時に、酈食其は進言して斉との和平交渉に臨み、
一旦はそれに成功する。しかし酈食其に功績を独り占めにされることを恐れた韓信と
腹心の?通は独断で斉を攻撃し、怒った斉王田広により煮殺される。
劉邦が前漢王朝を樹立すると、酈食其の子の酈商を高粱侯に封じ、その功に報いている。

11 :
【秦】胡亥 B.C229〜B.C209
統率3
武力8
知力6
政治9
魅力5
義4 野0
始皇帝の末子秦の二世皇帝。 始皇帝が崩御すると丞相の李斯と宦官の趙高に
擁立されて即位する。そして趙高の言われるままに始皇帝の世継ぎとされていた扶蘇、
公子高ら兄弟を含む皇族や重臣など、璽書の改竄に疑惑を抱く者を次々に粛清した。
趙高を郎中令として政務を取り仕切らせて自身は酒色に耽り、始皇帝の陵墓や阿房宮、
万里の長城の建築を急ぎ、匈奴の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行ない、人心の反発を買った。
その結果、陳勝・呉広の乱の挙兵を招き、半年余りで鎮圧したものの胡亥はさらなる大工事や
贅沢な暮らしをして人心の反発を招き、これを諌めた李斯を趙高の讒言により処刑してしまう。
この頃から、楚の項梁を中心に再び反乱の勢いが強まり、秦の軍隊の力では対応出来なくなるが、
趙高が反乱に関する情報を全て握り潰していた為、胡亥にはそれらの情報は全く入らなかった。
秦軍は各地で反乱軍に敗退し、なかでも劉邦に率いられた軍は咸陽のすぐ近くに迫っていた。
ようやく状況の悪化を知った胡亥は趙高の責任を追及する。身の破滅を恐れた趙高は一族を率いて
クーデターを起こし、捕らえられて自殺させられた。

12 :
項梁の評価が低いな…
挙兵〜敗死までの手腕はみごととしか言いようが無い
定陶での敗死は章邯を評価で
統率72
武力41
知力83
政治84
魅力81
おれはこんな感じ

13 :
>>12仰るとおり。魅力と知力は低すぎましたね。
彼の挙兵で范増を始め多くの優秀な人材が集まってきたわけですし…。
知力を75、魅力を80くらいが丁度いいかと。
【楚→漢】陳平(仲) ?〜B.C178
統率71
武力44
知力95
政治92
魅力37
義10 野12
劉邦の参謀。陳勝・呉広の乱が起こると最初は魏咎に仕え太僕に任命されるが
進言を聞いてもらえず、周りの讒言によって疎まれると逃亡し、項羽の元へ。
小部隊を指揮して軍事能力を発揮。卿の爵位を与えられた。
その後漢に寝返った殷王・司馬卬の反乱を鎮圧し、降伏させた功績で都尉となるが
司馬卬が東進してきた劉邦にあっさりと降ったため、項羽の怒りを恐れて再び出奔した。
出奔中に野盗などに襲われそうになったりするものの、機知を利かせて裸一貫で漢にいた
旧知の魏無知を頼り、そのつてで劉邦に面会する。その話し合いで気に入られ、都尉に任じられる。
その事で古参の将からの嫉妬により讒訴されるが、それでも劉邦は陳平の才能を見込んで重用し続けた。
まもなく劉邦は項羽に追われ、滎陽城に籠城することとなった。そこで陳平は項羽の
疑り深い性格を逆手に取り、大金を用いて部下の離反を誘った。これにより項羽と重臣に
大きな綻びを生む事になり、特に范増へは入念に行った為項羽の元を去る事になった。
更に滎陽城の脱出する際は影武者を用いるべきと進言し、韓信が斉王を名乗りたいと
願い出た際には、憤る劉邦を張良とともに説得した。また広武山で項羽と和議を
結んだ際には、和議を破って疲弊した項羽軍に攻め込むべきであると張良と
ともに進言し、最終的な漢の勝利を得ることとなった。漢の建国後は故郷の戸版に
封じられて戸版侯と成った。匈奴討伐では平城の白登山で包囲されて
食糧も尽きてしまうと、陳平は単于の正妻の閼氏に賄賂を贈り、包囲を解いてもらう
奇策によって和睦を成功させて、劉邦は窮地を脱した。樊噲逮捕による呂氏一族の
粛清を避けるため劉邦の死に号泣をしたり酒と女に溺れて警戒を持たれない様に
振る舞い、周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに
打ち合わせを重ね呂氏を宴会に誘ってクーデターをを実行し、劉邦の子の
代王・劉恒を立てた。その後まもなく引退したが、周勃と文帝に乞われて再び右丞相となった。

14 :
【楚】范増 B.C279〜B.C204
統率27
武力4
知力93
政治80
魅力76    (※能力は三国志11のものです)
義14 野12
楚の軍師。歴陽侯。居巣の人。
70歳になるまで誰にも使えずひっそりと暮らしていたが項梁が挙兵すると出廬して
大義をたてる為楚の子孫を楚王として立てるべきだと進言し、項梁は楚の子孫を
見つけ出して懐王と名乗らせた。これより范増は項梁軍の参謀となる。
項梁が戦死すると項羽は宋義の指揮下に入って陳余の救援に向かう途中、
宋義が斉との内通を看破する。項羽軍が函谷関に達すると、劉邦が既に秦を
滅ぼしており函谷関を閉ざしていた。劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことを、
范増は劉邦大志があるものと察知し、劉邦をRよう項羽に進言した。
そこで鴻門の会では何度も項羽らに対し劉邦暗殺を行うように指示するものの、張良や
項伯や樊噲などが邪魔をし、結局は暗殺出来なかった。会の後、范増は劉邦を
暗殺できなったことを悔しがり、劉邦から贈られた器を叩きつけて壊した。
その後、項羽が秦を滅亡させて各諸将を封建する際、劉邦を漢中の辺境の地へ
左遷させ、また劉邦が攻め入ってきても大丈夫なように、秦の故地である関中には
章邯ら旧秦の将軍たちを配置した。韓信が仕官すると重用するように項羽に進言したが、
聞き入られなかった。項羽が斉を鎮圧している間に劉邦が韓信を得て章邯らを滅ぼし、
項羽の本拠地彭城を衝いた。項羽は3万の兵で56万の劉邦の軍を蹴散らして滎陽まで
追い込んで城を包囲するが陳平の離間の計にかかり、范増たちを疑うようになる。
范増は滎陽城はあと数回急襲すれば落とせると項羽に急襲を進言したが
聞き入られず、失意の中引退を項羽に宣言、帰郷する途中で背中に
膿が溜まる病気にかかり死亡した。
范増を失った後の項羽は、戦争に勝っても勝っても劉邦を追い詰めることが出来ず滅亡する。
劉邦は楚漢戦争後に、「項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。
これが項羽の滅亡した原因である」と語った。

15 :
長文にも程があるだろ
ちゃんと肥ゲーの列伝らしく4行程度にまとめてくれよ
そのまとめ方が秀逸かどうかが成否を分けるんだろうに

16 :
>列伝というよりは経歴を記しています。その上で査定しています。

17 :
酈食其は張良を味方に引き入れる計画を立てたし
弁舌一つで秦の将やを斉を降伏させるまでしている
知力、政治力が足りないと思う
統率18
武力9
知力84
政治90
魅力78
これくらいは欲しい

18 :
【漢】張良(子房) ?〜B.C178
統率65
武力33
知力100
政治95
魅力91    (※能力は三国志11のものです)
義15 野5
五代に渡って韓に宰相を務めた家柄で、漢の三傑の一人。
韓を秦に滅ぼされた張良は復讐を近い、始皇帝暗殺を画策したが失敗し逃亡。
下邳で隠れ住んでいる頃不思議な老人に見出され、太公望の兵法書を授かる。
陳勝・呉広の乱が起こると、西方を攻略していた劉邦の傘下に加わった。
その後、劉邦は項梁の下に入って一方の軍を任されるようになる。項梁は新しい
旗頭として懐王を立てる際、張良は韓の公子であったの成を韓王に立てるように
項梁に進言した。項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒に任命した。
その後韓王成に従い、劉邦の兵と合わせて韓の故地の城を十数個攻め取り、韓を再興した。
秦への攻め上る途中の武関では張良は守将が商人出身であることに目をつけ、
買収して関を開かせ、相手が油断したところで襲撃して守将を殺し、関中に入った。
そこでは咸陽に留まろうとする劉邦を樊噲と共に諌め、先に咸陽に入られた事に
激怒した項羽は劉邦を攻め殺そうと考えていた。叔父の項伯は親友の張良は助けようと思い、
話を持ちかけるが張良は劉邦に義理を誓い、項伯を劉邦に会わせ、項羽に釈明を
して貰えるよう頼み込んだ。その後、論功行賞により劉邦は漢中王となり巴蜀へ行くに当たり
張良は、桟道を焼くように進言した。攻められにくくする為、謀反の気が無いと思わせるためである。
項羽は張良を手許にとどめていたが主君の韓王成を殺されたため逃亡し、劉邦の下に行って仕えるようになる。
その後、広武山で項羽と和議を結んだ際には、和議を破って後方を襲うように進言し、
同時に韓信と彭越の2人の武将に恩賞を与えて一緒に項羽を攻めるように命令し、
垓下に包囲して項羽を討ち取った。
統一後は斉の地の3万戸を辞退して留の地のみを貰い、雍歯に先に恩賞を与える様に
進言して諸将を安心させ、都の遷都には長安の利点を述べて長安に決定させた。
この判断が後の反乱の頻発にも係わらず、中央が安定したままで居られた要因となる。
体制が確立された後は引退して神仙になろうとしたが、劉邦が戚夫人を寵愛して子の劉如意を
帝に立てようとしたため、危機感にかられた呂后に進言を求められる。張良は劉邦が招請できない
四人の賢者を、太子が呼び寄せれることができれば、廃嫡はありえないと答えた。
そのとおりにすると、劉邦も太子を変えることを言い出せなくなったという。

19 :
【秦→楚】章邯 ?〜B.C205
統率87
武力86
知力77
政治69
魅力73
義13 野7
秦、楚の将軍。九卿の末席である少府を務めていたが、
陳勝・呉広の乱で楚に仕えていた周文率いる軍が咸陽付近まで迫って来た時に
反乱軍始皇帝の陵墓の囚人20万人を反乱軍討伐に当てる策を献じ、自らその
軍を率いて周文を叩いた。その勢いで陳勝の本拠地・陳を目指し、田臧、李帰らを
討ち取り、ケ説を討ち、許にいた伍徐も撃破した。陳に到達すると攻撃の手を弛めず、
援軍の司馬欣・董翳と合わせて張賀を破って陳勝の反乱軍を鎮圧した。
陳勝死亡後は項梁が引継ぎ、苦戦するも章邯はわざと敗走を続けて侮らせる
策を実行して定陶で夜襲をかけて項梁を殺した。
その後趙の攻略に向かい、
趙の将軍李良に寝返りを誘い反乱を起こさせ、その
不意を衝いて趙の都邯鄲を襲い、趙王武臣を殺した。しかし張耳と陳余は取り逃がし、
篭られた時の対処に邯鄲の都を破壊して攻めやすくさせた。次いで趙王と張耳の籠る
鉅鹿を包囲した。甬道を築かせていた為兵糧が欠乏することは無かった。張耳から
要請した各国反乱軍は戦意を喪失したが、最後に要請を受けた楚の項羽だけは違っていて
甬道と本隊を同時に攻撃して蘇角が戦死し、渉間が自決を遂げ、王離が捕虜となって
敗北してしまう。この勢いにより一気に進軍し、秦軍は連敗を重ねた。
章邯は司馬欣を都に送り皇帝に指示を請うが逆にあらぬ罪を着せられ家族が処刑
されたことを知って殷墟で将兵と共に項羽に降伏した。この時投降した20万の兵士は
楚軍を裏切る可能性があるとして項羽に生き埋めにされている。
その後秦が滅亡し、章邯は雍王に封じられた。漢中の劉邦を監視し、万が一漢軍が
進軍しても防がせる目的であったが劉邦配下の韓信に油断し旧道から攻められ、
陳倉で戦うが敗北し、好時でも敗れ、廃丘に籠って九ヶ月間猛攻を耐えるが
廃丘の水攻めに遭い、自刃して果てた。

20 :
【秦】蒙恬 ?〜B.C210
統率88
武力85
知力69
政治65
魅力80    (※能力は三国志11のものです)
義14 野7
秦王朝の将軍。当初は文官として裁判文書を処理する職に就いていたが、忠節を認められて
将軍に任じられてB.C.224に李信の副将として楚討伐に加わわり、平輿・寝丘を叩くが
楚の項燕(項羽の祖父)に反撃にあい、二ヶ所の塁壁を破られて大敗する。
B.C.221、斉を討伐し、内吏とされた。その後30万の軍を率いて胡を攻め、オルドスを奪って
辺境に陣して長城を築いて地形を利用して直通道路の開通にもあたった。
これがいわゆる万里の長城の原型で、匈奴を北へと追いやり、始皇帝から弟の蒙毅と
共に取り立てられ功績を認められた。この頃始皇帝の子の扶蘇を蒙恬を監督させる
という名目で蒙恬の元にやって来て扶蘇の指揮の下に匈奴に当たるようになった。
始皇帝が没すると胡亥・趙高・李斯の三人は共謀して胡亥を皇帝に立てて自らの
権力を護ろうと画策した。そして始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に死罪を言い渡される。
蒙恬は身の潔白を主張し、詔書が本物であるか確かめるべきと抵抗したものの
最期は服毒自殺した。尚、筆の改良をした人物として伝えられている。

21 :
【漢】蕭何 ?〜B.C193
統率21
武力17
知力86
政治98
魅力89    (※能力は三国志11のものです)
義12 野4
漢の三傑の一人で、劉邦と同じく沛県の出身。
若い頃からから生真面目な性格で沛県の小役をしていた。秦末の動乱期に曹参等とともに沛
県城でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令を殺害し、劉邦を迎えて後釜の県令に迎えた。
劉邦が咸陽を目指すと蕭何が内部事務の一切を取り仕切り、兵士に略奪や民を捕虜に
することや乱暴させることを一切禁止した。劉邦が咸陽入りすると兵士が宝物殿などに殺到する中
蕭何だけは丞相・御史の役所に駆け込み、秦の法令・全国の各地図・戸籍簿などをすべて接収した。
これが漢王朝の基礎作りに役立ったと言われている。
秦の滅亡後、劉邦が漢王に封建されると蕭何は丞相に任命され、内政の一切を担当する事になる。
そこに夏侯嬰が韓信を推挙してきて、蕭何も韓信の才能に驚き、韓信を将軍として重く
用いるよう劉邦に度々推挙し、すんなりとはいかなかったが大将軍へ就かせる事に成功した。
劉邦が軍勢を率いて関中に入ると、蕭何もこれに従い関中に入る。楚漢戦争が激化し、
劉邦が戦地に出て関中を留守にすると、王太子の劉盈を補佐しながらその留守を守った。
そこでも行政手腕は遺憾なく発揮され、関中から戦地に向けて食糧と兵士を送り、劉邦を後方から
支え、関中の民衆も名丞相として称えた。楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦功第一として
戦地で戦い続けた将軍らを置き蕭何が選ばれた。
劉邦が皇帝に即位すると引き続き丞相として政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で
荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。韓信の謀反の予兆を知ると策謀を用いて
討ち、未然に防いだ。この功績により、臣下としては最高位の相国に任命される。
しかしこの頃から劉邦は蕭何にも疑惑の目を向けられる。そこで蕭何は部下の助言を容れて、
わざと悪政を行い自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期投獄
されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した。
劉邦が亡くなった2年後、後を追うように亡くなった。後継として曹参を指名した。

22 :
【楚】項纏(伯) ?〜B.C192
統率52
武力59
知力68
政治70
魅力74
義7 野4
項羽の叔父。左尹。
楚の名門の出だが秦に滅ぼされてからは国を追われ、各地を転々とした。
その際殺人を犯し、学友の張良に匿われたことで親友になった。
また、張良が始皇帝暗殺を失敗した時も今度は項伯がこれを匿っている。
同族の項梁が項羽とともに会稽で挙兵するとこれに参加。以降、主に項羽の行軍に
付き添い、その補佐をしていたようである。
劉邦が咸陽入りした事で項羽が激怒し、劉邦を討とうとしているのを知って
項伯は夜中に劉邦の陣営に赴き、張良に逃亡を勧めるもこれを断り、劉邦との
面会を強く勧められ已む無く会見すると劉邦と親しくなり、婚姻の約束までも交わした。
陣営に戻ると項羽に劉邦の助命を嘆願し、鴻門の陣屋にて謝罪をさせる事になった。
翌日、会見が行われて和解が成立し、記念の酒宴となるも范増は項荘に余興の剣舞に
こと寄せて劉邦をR事を指示。それに気付くと自らも合わせて剣舞を舞い、身を挺して
項荘の相手役を演じ、さらに劉邦配下の樊噲がその場に乱入して劉邦を守った。
漢楚戦後、項伯は劉邦から鴻門の会での功績などにより射陽侯に封じられ、項氏の姓では
劉氏の世の中では暮らしにくかろうと劉邦の計らいで漢の姓である劉氏を賜った。

23 :
【秦】李斯 ?〜B.C208
統率15
武力24
知力88
政治98
魅力40    (※能力は三国志11のものです)
義3 野10
秦代の宰相。荀卿の門下で学んだ後、秦に入って呂不韋の食客となり、
才能を絶賛されて贏政の近侍になった。
李斯は政の命令で他国に潜入し、各国の王族と将軍の間の離間を行ない、功績を立てて客卿となった。
B.C237にに嫪毒という他国出身者が反乱を起こしたために、国内で他国出身者の評判が悪くなり、
やがて他国人の追放令が出た。李斯は手紙を贏政に出して追放令の撤回を求めた。
この手紙が名文で、贏政もこの名文に説得されて追放令の撤回を決めた。
その後、政敵の韓非を讒言によって自殺に追い込んでいる。
秦の天下統一後は丞相として統一国家の体制作りのため、始皇帝を補佐した。
郡県制度、度量衡や文字書体の統一、焚書坑儒等を献策した。
始皇帝が巡幸途中で死去し、胡亥を即位させ二世皇帝として、元の太子扶蘇を自決させる
陰謀を趙高が画策したが、李斯は趙高に抱き込まれて二世皇帝擁立に一役かった。
始皇帝が没した事で内乱が勃発し、陳勝・呉広を筆頭とした反乱が拡大した。この時でも外界の状況を
知らされずに遊び呆けている二世皇帝を李斯は諌めようとしたが、朝政の実権を握った
趙高に疎まれ、まもなく長男の李由が楚軍と内通しているという罪をでっち上げられ、腰斬の刑に処された。

24 :
【秦】子嬰 ?〜B.C207
統率71
武力44
知力70
政治73
魅力86
義14 野3
扶蘇の息子。秦王。在位前206。
秦に対する反乱が全土に広がり、秦政府の力では対処出来なくなっている最中
趙高のクーデターにより胡亥が自殺させられると、混乱する人心の安定を図る趙高により
器量に優れ、人望も厚い子嬰が擁立されることになった。
しかし、咸陽の近くにまで攻め入っていた劉邦に呼応して殺されると身の危険を感じ、
秦を食いつぶす元凶でもある趙高とその一党の粛清を決意し、仮病を使って
趙高自ら寝所まで説得に出向いて来たところを殺害した。続いてその一党も粛清した。
そして国の建て直しに尽力したが及ばず、咸陽の目前に迫っていた劉邦に降伏。
その一族ともども身の安全を保証された。秦の王として子嬰が在位したのは49日間だけだった。
まもなく項羽が咸陽に入ると、かつて始皇帝が諸国を滅ぼした罪等を持ち出され、
一族ともども処刑された。この処刑が、後に劉邦による項羽討伐の大義名分のひとつとなった。

25 :
【楚→漢】韓信 ?〜B.C196
統率100
武力74
知力92
政治73
魅力76
義7 野14
漢の大将軍。三傑の一人。淮陰侯。
淮陰の出身で、若い頃は働かずに人に寄食した毎日を過ごしていたため
周りは軽蔑の目で見ていた。韓信の股くぐりを始め、様々な逸話がある。
大規模な反乱が起き、項梁が淮水を渡って勢力を広げた時に仕え、郎中となり、
度々進言するも用いられる事はなかった。秦の滅亡後、項羽の軍を抜け出し漢王劉邦の
下へ走った。しかし連敖という小さな役しか貰えなかった。その事があってか法を犯して
斬刑にされる所を訴え、その場にいた夏侯嬰に気に入られて助けてもらい、韓信を
劉邦に推薦した。そこで治粟都尉になった。韓信は蕭何とも語り合い、蕭何も韓信を
異才と認め、劉邦に何度も推薦するも劉邦は受け付けなかった。韓信は逃亡するが、
蕭何に連れ戻され、蕭何の強い説得で劉邦も折れて韓信に大将軍の地位を与えた。
韓信は時代の趨勢と関中を手に入れる策を述べ、その的確さに全ての諸将を唸らせた。
別働隊を率いて出兵すると、まず章邯を始めとする三秦を平定し、河南王の申陽を降し、
韓王鄭昌をも撃破した。続いて魏を囮の船を並べて敵軍の兵を引き付け、その間に木の桶で
作った船で兵を渡らせて魏の首都を攻撃し、魏を滅ぼした。趙へと進軍し、背水の陣という
独創的な戦術を採って趙を打ち破り、捕虜となった趙の李左車の進言を入れて燕を降伏させる。
そこで兵を休ませていると項羽に大敗して逃げてきた劉邦に叱咤され、兵を取り上げられて
斉の
討伐を命令される。ところが攻め込む前に酈食其が斉と和議を結んでいた。
韓信の軍中にいた弁士蒯通は酈食其に功績で劣ると言い、蒯通の勧めに従って
そのまま斉に侵攻した。斉の城は次々と破れ、怒った斉王の田広は酈食其を煮殺して逃亡した。
斉は楚に対して救援を求め、楚はこれに将軍竜且と20万の軍勢を派遣するが塞き止めていた
河の水攻めでやられ、竜且は捕まって処刑されてここに斉を平定した。
ここで韓信は斉の仮王となりたいと願い出ると、劉邦は真の王になる事を許された。
項羽は武渉を立てて和議を誘い、蒯通からも独立して天下をとる事を勧められたが断った。
その後、30万の軍勢を指揮して楚軍を追い詰め、垓下にて項羽を破った。
統一後、斉王の約束を反古にされて楚王となり、鍾離昧を匿ったことや韓信の出世に
嫉妬した者の讒言により淮陰侯に格下げされた。
その後★陳豨と謀って反乱をを起こし呂后と皇太子の劉盈を監禁し政権を奪おうとする計画を
立てたが事前に漏洩し、呂后に相談された蕭何の招待に誘い出された時に捕えられて
処刑、親族もすべて誅殺された。自分を推挙してくれた蕭何だけは信用していたため、
誘いに乗ってしまったのである。

26 :
【斉→楚】竜且 ?〜B.C203
統率75
武力93
知力49
政治37
魅力54
義8 野7
斉の司馬、楚の将軍。
章邯が反乱軍の討伐の際、斉の田臧を討ち取ると弟の田栄は残兵を
まとめて東阿に逃げ、城を包囲される。そこを項梁の軍と共に救援し、秦軍を破った。
その後劉邦が反乱を起こし、東進してきた漢将曹参と灌嬰を魏の宰相項他と共に
定陶で迎撃したが敗れて敗走する。英布が楚に叛旗を翻すと項声と共に討伐に急行。
英布の軍を打ち破り九江の首都の六を包囲するが英布と随何を取り逃がし、
置き去りになった英布の妻子や親族を皆殺しにした。
★?陽の戦いでも項羽に従軍し、活躍をみせるが陳平が献策した計で項羽に内通を疑われる。
韓信が斉に攻め込むと斉は楚に対して救援を求め、竜且は20万の軍で救援に駆けつけた。
竜且は持久戦に持ち込むことを進言されたが、竜且は以前の韓信を知っていたので
韓信を侮り決戦を選んだ。その性格を読まれ、おびき出されて楚軍が河を渡ろうとした所で
前日★?水の河を塞き止めた砂嚢を崩し、大量の水が楚軍を襲って軍勢は散り散りとなり、
竜且は捕虜になって斬刑に処された。竜且が死ぬと兵は敗走し、田広は逃亡した。

27 :
【秦】王離 ?〜?B.C208?
統率71
武力65
知力41
政治44
魅力60
義6 野6
武城侯。秦の名将王翦の孫。
陳勝・呉広の乱で章邯の副将として反乱軍の鎮圧に当たり、
周文を破って陳渉を攻め、定陶では項梁を緩兵の兵で倒した。
秦の勢いは止まらず趙王趙歇と宰相張耳が籠もる鉅鹿を包囲した。
王離は蘇角と渉間と共に包囲軍の大将を任され、章邯は南に陣を敷いた。
張耳から要請を受けた項羽は英布に命じて甬道を攻撃させ、英布の軍を迎撃
している間に項羽が全軍を率いて包囲軍を突撃。その攻撃で蘇角は乱戦の中で戦死し
渉間が自決を遂げ、王離は捕らえられた。その後王離がどうなったのかは定かではない。

28 :
【楚】鍾離昧 ?〜B.C201
統率84
武力82
知力63
政治48
魅力62
義8 野7
楚の将軍、伊盧の人。鍾離眜とも。
項梁・項羽の挙兵に参加し、秦滅亡後の楚漢戦争においても項羽の部将として活躍した。
劉邦も散々鍾離昧に苦しめられたため、恨んでいたという。
滎陽を包囲するが陳平による内部分裂工作により范増の他、重臣が疑われた。
その中に鍾離昧も入っており、項羽との間に大きな溝が出来てしまう。
その後も項羽に従って奮戦するが、垓下の戦いで四面楚歌となった項羽を見捨てて逃亡する。
劉邦が帝位に即き、韓信が楚王に封建されるとお尋ね者となった鐘離昧は旧友の
韓信のもとに身を寄せた。その事が劉邦の耳に入り、韓信が謀反を企てているという噂が
流れるにいたって、鐘離昧も韓信に実際に謀反を起こすことを勧める。
だが、自らの保身を図る韓信は逆に鐘離昧を殺害する事で高祖への忠誠を誓った。
この件を知った鍾離昧は「貴公は有徳の人ではない」と韓信を罵って自刎した。
韓信は鍾離昧の首級を持って陳で劉邦に拝謁したが、逮捕を免れることはかなわず、淮陰侯に降格された。

29 :
【楚→漢】英布 ?〜B.C195
統率84
武力97
知力56
政治33
魅力54    (※能力は三国志11のものです)
義7 野14
通称黥布。若い頃、連座制で罪に問われ黥の刑を額に受けたためそう呼ばれる。
始皇帝陵をつくる懲役を課せられていたが囚人達を団結させて逃亡し、頭目となる。
陳勝・呉広の乱が勃発したのもこの頃で、英布は呉芮を頼り、その後は陳勝が敗れて
反乱軍の筆頭となっていた項梁の傘下に入る。先陣を務め、秦の秦嘉の軍を完膚なきまで叩いた。
この功績で当陽君の称号を賜る。趙の救援の際には甬道を攻撃して章邯の軍を破った。
その投降した20万の軍を殺害する役目を命じられる。
秦滅亡後、九江王に封建されるが、義帝を殺害や始皇帝の墓を暴くなど、項羽の悪事の
実行役を全てかぶることになった。その翌年斉が楚に背くが英布は仮病を使って出陣を拒否し、
項羽が漢の劉邦に攻められた時は要請があっても出兵すらしなかった。
その事で項羽から恨まれ、窮地に立たされた時に使者としてやってきた漢の随何によって
劉邦軍に帰順を決意する。しかし九江から脱出の際に英布の討伐を命じられた竜且に
家族や兵を皆殺しにされてしまう。漢では淮南王に任じられ、江南を皮切りに次々と城を落とし、
項羽の留守を守っていた周殷を降伏させ、垓下の包囲にも参戦し楚に勝利した。
統一後は淮南王に封建される。しかし韓信や彭越が粛清されると自分もいずれ同じ運命に
なると思い、謀反を起こした。劉賈の軍に猛攻を加え、劉賈を殺し、荊の兵をすべて奪い取るも
親征して来た劉邦と交戦して破れ、妻の弟である呉臣の元へと逃れた。が、関わるのを嫌った
呉臣は酒宴にかこつけて酔った英布を殺害した。

30 :
【漢】彭越(仲) ?〜B.C196
統率87
武力81
知力72
政治40
魅力70    (※能力は三国志11のものです)
義9 野9
建成侯。初代梁王。
若い頃は鉅野の沼沢で漁師を営みながら盗賊業を行っていた。衆に推されて首領となるが
反秦の勢力には属さず、あくまで独自の秦打倒のゲリラ部隊を率いた。厳しい軍律も立てた。
劉邦が咸陽へ向けて進軍する途中で魏の領内にある昌邑を攻め、彭越はこれに協力し
昌邑を攻め落とした。項羽は秦を滅ぼし、諸侯を王としたが、彭越は衆兵一万余を擁しながら
何も与えられず、これに怒った彭越は同じく不満を持っていた田栄たちと結び、田栄は彭越を
将軍に任命し、彭越は梁を攻めて外黄・高陽・雍越など、いくつも都市を落とした。
これを見た項羽は蕭公角らに大軍を付けて討たせたが、彭越はこれを撃退した。外黄の地で
劉邦と合流し、彭越を魏の宰相とし、梁の領土を賜る。劉邦は項羽の軍に敗れて逃亡したので、
彭越も根拠地を離れて逃亡し、ゲリラ戦術に入った。以降は神出鬼没で楚軍の兵糧を焼いて回り、
項羽がやってくると逃げると言うことを繰り返したために楚軍は食糧不足が続いた。
項羽は彭越討伐に梁に向かい、彭越は城を捨て遁走したため楚軍はあっさりと梁の地を取り戻した。
しかしその間漢軍に成皋城を落とされ、項羽が滎陽に向かうと再び梁の地を奪い返した。
結果的に彭越の活躍が瀕死の劉邦を救ったのである。
その後、楚軍と漢軍が広武山で対峙し援軍を求められるが恩賞が無いことで応じなかった。
劉邦は彭越を梁王に封じ、納得した彭越は戦場に向かい、項羽を垓下に追い詰めて滅ぼした。
統一後、陳豨が反乱を起こした際、劉邦から出兵に応じなかったため劉邦から怒りを買い、
讒言もあって梁王の地位を取り上げ、蜀へ流罪にした。彭越は故郷の昌邑へ帰って隠棲したいと
望み、呂后に泣きついたが逆に呂后から謀反の罪をでっちあげられ、一族もろとも処刑された。
彭越の死体は呂后によって醢にされ、諸侯に贈られたと言う。

31 :
【匈】冒頓単于 ?〜B.C174
統率98
武力92
知力83
政治46
魅力93
義10 野15
匈奴の単于(皇帝)。頭曼単于の子。
当初は、父の頭曼は冒頓を廃して末子を後継としようとしていたため、
冒頓を月氏の人質として送った上で戦争を仕掛け、月氏の手で殺害させようとした。
しかし、この危機を悟った冒頓は、月氏の良馬を奪って脱出し、父のもとに逃亡する。
その後父との関係は悪化すると、私兵を秘密裏に養成していた冒頓はB.C209年に
クーデターを起こし、父、継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位した。
単于即位後、中国が秦末の動乱とそれに続く楚漢戦争で混乱している隙に、東胡を
滅亡させ、西方の月氏を討って、内・外モンゴルを征服した。更にオルドスに侵入して
父の頭曼の代に、始皇帝が派遣した将軍・蒙恬によって奪われていた旧領土を回復した。
B.C200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせ、
さらに劉邦の親征軍・32万を破って白登山で包囲し、匈奴に有利な条件で講和した。
これにより、約60年間、武帝が大規模な対匈奴戦争を開始するまで、匈奴は漢から
毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者を
その配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を
築き上げることとなった。これには成立したての漢王朝は対抗する手段を持たなかった。
その後烏孫・楼蘭ほか西域の二十六カ国を平定し、東西交易路の商業権を掌握した。

32 :
【楚】季布 ?〜B.C145
統率82
武力79
知力72
政治51
魅力90
義15 野3
楚の義将。子供の頃から義理堅い人物として評判で、季布の一諾という諺を作られるほど。
項梁の挙兵に参加し、項梁の死後も項羽の元で勇戦する。項羽は季布の任侠とその義を
よく知っていた上、敬意を払っていたので、将軍に留任し部隊を率いさせ、劉邦を幾度も
窮地に立たせた名将であった。
楚の滅亡後は追手から逃れる為に各地を逃亡し、濮陽の町の周という家に潜伏していた。
劉邦は季布を千金の賞金首にして、匿う者は一族諸共死刑と布告した。周氏の主人は
季布に勧めて、魯国の朱家の下で過ごすこととなった。季布は朱家の客分となったが、
朱家は夏侯嬰に接見して季布の追捕令を取り消すように説得した。その結果季布は
漢に仕える事を許され、呂后にもその硬骨ぶりを認められ、河東郡の太守にまで出世した。
季布は義理堅さと物事を直言する人柄とで次第に宮廷でも重みをますようになり、
「黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず」とまで言われるようになった。

33 :
周苛
統率:78
武力:56
知力:73
政治:71
魅力:75

34 :
【秦】扶蘇 ?〜B.C210
統率70
武力60
知力71
政治72
魅力85
義14 野1
始皇帝の第一皇太子。聡明で知られ、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていた。
焚書坑儒を諌めたが、始皇帝の怒りを買い、北方の匈奴に対する国境警備の監督を
命じられ、僻地の蒙恬の駐屯地へ遠避けられた。だが始皇帝にとっては帝王学や
武者修行の一環として蒙恬の下へ行かせたという考えであり、後継者には扶蘇と
当然ながら決めていた。しかし始皇帝が亡くなると趙高が李斯と結託し詔書を偽造し、
後継は胡亥として扶蘇には自害を勧める偽の詔が渡された。
扶蘇はその命に従い、自ら命を絶った。

35 :
【秦】章邯  ?〜B.C215
統率92
武力74
知力80
政治56
魅力77
義9 野2
秦末期の将軍。陳勝が挙兵すると章邯は秦の将軍として囚人20万人を兵士として
雇用し戯水で周文を撃破し、曹陽、メン地で転戦して陳勝軍の主力軍を壊滅させる。
その後、田臧、李帰、張賀、トウ説といった武将を次々の討伐し、陳勝の居城陳都
に迫り、これを攻め落とした。さらに魏に軍勢を進めて魏、斉、楚の連合軍を撃破
し、勢いに乗って楚に侵攻するが、項梁に撃退される。しかし、項梁に油断が生じた
ところを急襲し、これを屠った。その後、趙を厳重に包囲するが、項羽の急襲によって
敗れた。さらに奸臣趙高の手によって章邯は讒言を受けたため、項羽に投降。秦の滅亡後、
劉邦からの防御のため、三秦の守備を命じられるが、漢将韓信の策略によって
大敗し、廃丘城に篭城。何ヶ月も持ち答えるがとうとう韓信の水攻めによって廃丘城は
陥落し、章邯は自害した。

36 :
【その他】呉広 ?〜B.C209
統率18
武力50
知力33
政治14
魅力38
義2 野11
陽城の出身。辺境守備のために農民兵の引率を補佐をしていたところ、
途中の大雨により期日に間に合わなくなったため、陳勝と決起し役人を
殺して反乱を起こした。この時に民衆の支持を集めるために陳勝は
扶蘇、呉広は項燕を名乗った。この一揆によって各地の人民が呼応し、
勢いづいた陳勝は呉広を仮の王として諸将を統率させ、西へ征かせるとともに、
武臣に張耳・陳余をつけて趙の地を略定させ、ケ宗に九江郡を攻略させた。
魏へは周市が派遣された。呉広は滎陽を攻略していたが、李由の防戦に
あって攻めあぐねていた。その内に周文は敗走し、秦軍は呉広の軍に迫ってくる。
呉広の部下の田臧らは呉広に大将の資格なしと至り、呉広を殺して指揮権を奪い取った。
陳勝はやむなく暗殺を正当だと認め、田臧を令尹としたが、田臧も章邯の前に敗れ、戦死する。

37 :
【漢】曹参(敬伯) ?〜B.C190
統率77
武力75
知力82
政治91
魅力84
義12 野5
漢の政治家。平陽侯で諡は懿侯。
劉邦と同郷の沛県生まれで刑務所の属吏をしていた。蕭何はその時の上司にあたる。
劉邦が挙兵した時に中涓として従軍し、藍田の東の秦を攻めて夜襲をかけ、首都
咸陽をおとした。このとき、曹参は将軍に任命される。劉邦が彭城の戦いで大敗すると
その時寝返った反乱鎮圧を独断で行っていた。その功績で仮の左丞相に任命され、
劉邦の本体から離れて韓信の軍に従軍して魏・趙・斉を平定した。この時右丞相に昇格する。
楚漢戦争後の選評での戦功第一は常に前線で戦った曹参を推す声が多かったが、結果的には
後方支援で劉邦軍に絶えず兵糧・兵馬を支援し続けた蕭何が選ばれた。
天下が平定されると曹参は斉国の相国とし、平陽の地を授かり、平陽侯となった。
反乱を起こした★陳豨の将軍張春と英布を打ち破り、改めて曹参は斉国の丞相に任じられた。
斉では生え抜きの葢公を招聘し、彼の意見を採用して統治を行った。また、魏勃ら有能な人材を
登用し、斉国の丞相となって九年間で斉国は安定し、賢相として称えられた。
蕭何の死後は二代目丞相に就任し、蕭何の作った法律や規約を何一つ変えず全て従った。
人民とともに休息し自然にまかせたので天下の人々は皆その徳を称えたという。

38 :
【楚】虞子期
統率51
武力54
知力42
政治35
魅力64
義7 野4
項羽の愛人である虞美人の弟。
虞美人が項羽の妾になると、虞子期も楚に仕えて従軍した。
小説では滎陽包囲戦で降伏の確認の使者として劉邦の陣営に赴くが
降伏は陳平が仕組んだ罠であり、偽情報を吹き込まれて項羽に范増が劉邦と
内通していると報告し、范増追放の原因を作ってしまう。
劉邦軍により垓下に追い詰められ、項羽の傍にいた虞美人は
項羽の足手まといにならないように自殺した。虞子期も後を追い、虞姫の墓前で自害した。

39 :
訂正
【楚】虞子期
統率51
武力53
知力32
政治22
魅力64

40 :
【秦】蒙毅 ?〜B.C209
統率35
武力32
知力73
政治85
魅力77
義13 野6
秦王朝の臣。蒙恬の弟。
匈奴討伐と長城の築造の功で蒙恬が始皇帝に信任されると、蒙毅も親近される。
蒙恬は軍事面で活躍し、蒙毅は上卿の地位にあって内政をはかり、重要な政策に
常に参画していた。蒙恬・蒙毅兄弟はその才能・功績などあらゆる面において、彼らを
凌ぐ者はいなかったので、彼らに対して逆らおうとする者はいなかった。
宦官の趙高が大罪を犯すと蒙毅は裁く立場にあり、処刑するよう命じたが始皇帝の
とりなしにより死刑は恩赦となった。が、この一件で趙高は蒙氏に深い恨みを抱く。
始皇帝が沙丘で崩御すると趙高は胡亥と李斯と謀って胡亥を立てて太子とした。
この時蒙毅は始皇帝の病気平癒を山川の神に祈願するため、その場に居合わせなかった。
仮に居合わせたとしたら謀略が始る事すらなかったであろう、こうして趙高の謀略は
上手く事を運び、公子扶蘇と蒙恬に自殺を命じた。祈願から帰った蒙毅も捕らえられて
獄に繋がれた。蒙毅は弁明したが聞き入られず、蒙恬の死後、蒙毅も趙高から
言いがかりを付けられて一族皆殺しにされた。

41 :
【秦】李由 ?〜B.C209
統率59
武力48
知力43
政治45
魅力42
義6 野6
秦王朝の臣。秦の丞相李斯の長男。三川郡の太守。
陳勝・呉広の乱が起き、呉広が攻めてくると滎陽の防備に当たり、これを守った。
その内章邯の軍が救援に駆けつけ張楚軍を破ったため、滎陽は救われた。
その後新たに反乱軍の頭目となった項梁の部隊の項羽・劉邦の軍と雍丘で
戦うが木っ端微塵に砕かれ、捕まり、斬首された。

42 :
【楚】桓楚 ?〜B.C202
統率72
武力80
知力29
政治21
魅力47
義13 野6
楚の将軍。
于英と共に8000人を従える盗賊の頭だった所を、会稽郡守の殷通は桓楚と項梁を
将軍にして、秦に叛乱しようとしたが、項梁に殺され 桓楚は項梁の配下となった。
斉と内通していた宋義を殺した際には懐王に事後報告する。秦の章邯との
戦いでは五千騎を率いて英布、于英と共に秦の勢を撃ち破った。
その後も数々の戦いに同行し、最後の垓下の戦いまで項羽に殉じた。

43 :
【漢】夏侯嬰 ?〜B.C172
統率73
武力62
知力67
政治71
魅力81
義13 野2
漢の文侯。曹操の祖先。
劉邦と同じ沛県の出身で、廐司御・書記の見習を務めていた。
劉邦の亭長時代の頃から慕っており、劉邦が罪を犯したときも劉邦を庇い続けた。劉邦が
挙兵すると夏侯嬰は劉邦に従って雍丘で胡陵を攻め、蕭何と共に泗水の軍監平を降し、
胡陵を降した。 この功績により太僕に任命され、滕公に封じられる。
その後戦車部隊を率いて雍丘で李由を叩き、続いて趙賁・楊熊を打ち破った。
この功績で滕公と称された。その後も藍田・★芷陽で戦い、兵車をもって
覇上に迫り、秦の息の根を止めた。
劉邦が漢王に封じられると、夏侯嬰は列侯の爵を賜わり、昭平侯と号した。
蜀にいた頃、韓信の器量を始めて見抜き、国士として推挙した。その後劉邦に従って
蜀漢に入り、三秦の地を平定した。劉邦が彭城で項羽に敗れると、劉邦は己の子達と
夏侯嬰の馬車で追手から逃げていた。追いつかれると恐怖した劉邦は子供を
馬車から突き落とすが、夏侯嬰はそれを何度も引き上げて滎陽城に逃げ込んだ。
これにより、劉一門からの信任が篤くなった。その功績で昭平侯に封じられ、
天下平定後も粛清の対象となることは無かった。また常に劉邦の車に奉侍した。
楚を滅ぶと汝陰侯に累進し、元・楚の将軍の季布を上奏して郎中に任命させている。
晩年は、呂氏が滅び少帝弘を自ら宮中より追い出し、陳平と周勃と灌嬰らと共に
代王の劉恒を擁立した。その功で彼は太僕に任じられた。

44 :
【漢】曹無傷 ?〜B.C207
統率6
武力4
知力33
政治27
魅力9
義1 野9
劉邦に仕えた漢の左司馬。
劉邦が秦を破り、咸陽を占領した後、函谷関を閉じて項羽が
関中に入れないように進言した。これにより項羽の怒りを買い、
英布をはじめとする諸将の攻撃を受け、函谷関が破られた。
これを見て劉邦を見限った曹無傷は范増に密使を送って項羽と通じ
劉邦が関中王になろうとしていると密告した。范増はこの機会に劉邦を
R好機だと判断して項羽に上奏し、項羽は劉邦の軍を攻撃することとした。
このため劉邦は項伯を通じて鴻門の会にて項羽に謝罪を行った。
その時に項羽は曹無傷の告げ口だと語り、裏切ったことを劉邦に話した。
覇上に帰陣すると直ちに劉邦は曹無傷を処刑した。

45 :
楼煩
統率56
武力81
知力48
政治42
魅力59

46 :
【秦→楚】司馬欣 ?〜B.C207
統率76
武力72
知力46
政治49
魅力53
義6 野7
秦・楚の将軍。長史。塞王。
かつて犯罪を犯して捕まった項羽の叔父の項梁を獄吏の曹咎の
進言で匿ったことがある。陳勝・呉広の乱では援軍として章邯の軍に加勢し、
反乱平定に大いに貢献した。しかし項羽に敗北すると徐々に旗色が悪くなり、
章邯の命で趙高に援軍要請の使者として咸陽に向かうが、そこで旧部下から
趙高が自分達を処刑すると囁きかけられたため、慌てて裏街道から逃げ出した。
やがて章邯に対して項羽に帰順すべく説いて西楚に降伏し、塞王に封じられた。
その後、韓信に攻められて敗北し、董翳と共に漢に降る。睢水で劉邦が項羽に
大敗した際に董翳と共に再び楚に降ったが、項羽に許されず二人まとめて処刑された。
もう一つの説があり、この時に項羽に許されて曹咎と共に成皋を守るよう命じられた。
しかし劉邦の軍に敗れ、曹咎・董翳と共に水の辺りで自刎したとされている。

47 :
アイテム

●烏騅 【移動速度上昇】 所有者:項羽
元は野生の暴れ馬であったが、項羽が捕まえて乗りこなし、
以後彼の愛馬に。名前の由来は全身が黒に覆われている事から。

●黄石公三略 【統率+4】 所有者:張良
黄石公が若き頃の張良に授けたという書。張良はこの兵書を読み、
家宝として扱った。死後は一緒に墓に入れられたという。
●元戎剣 【武力+1】 所有者:韓信
張良が韓信を説く際に送った剣。後、三国の時代に呉でこれを
発見し、帝は周瑜に下賜した。が、この説は真偽に疑わしい。

48 :
【秦】蘇角 ?〜B.C208
統率53
武力70
知力50
政治23
魅力39
義8 野6
秦の将軍。
趙の討伐のため章邯から派遣され、趙王と張耳が篭城する
鉅鹿を包囲した。しかし援軍に現れた項羽の突撃により
浮き足立った所を討ち取られた。

49 :
【漢】辛奇 ?〜B.C204
統率54
武力86
知力23
政治15
魅力36
義9 野5
漢の将軍。
祖父と父は周に仕えていたが秦に滅ぼされたため
陳倉で年老いた母と酒屋を営んでいた。虎刈りを
しているところを韓信と偶然出会い意気投合し、後漢に仕える。
韓信の下で活躍するが、滎陽の戦いで
項羽と一騎打ちの末斬り殺された。

50 :
【楚】項荘 ?〜?
統率57
武力71
知力35
政治28
魅力46
義7 野6
項梁の息子で項羽の従弟。
鴻門の会で范増は項羽に劉邦を暗Rる様に進言したが
劉邦の下賤な態度に見縊ってしまい、殺意が消えてしまう。
それを見かねた范増は項荘を呼び、項羽に代わり剣舞と称して
劉邦暗殺を命じる。項荘は剣舞を始めたが、察知した叔父の
項伯によって阻まれた上、樊噲の乱入によって失敗する。
その後項羽に従い多くの戦闘に参加したが、生死は不明。

51 :
【秦】韓栄 ?〜B.C207
統率39
武力26
知力30
政治38
魅力18
義3 野2
秦の臣。元商人。
趙高一派を殺害後、子嬰の命で嶢関の援軍に向かった。
敵の張良は一計を案じ、無数の旗を立てて大軍と見せかけ、
高価な財物を持たせて降伏するように誘った。韓栄と守将は
利益に目が眩み、降る事を約束したが張良は兵士は降る事が
ないと察しており、これは油断させるためで、その不意を襲撃した。
これにより嶢関は反秦軍に突破され、韓栄は逃げる所を討ち取られた。

52 :
【漢】王陵 ?〜B.C188
統率81
武力77
知力74
政治39
魅力75
義15 野7
漢王朝の宰相。襄侯。安国侯。右丞相。
沛県の豪族で、劉邦が兄事していたこともある。しかし雍歯と仲が良かったため、
劉邦が豊を攻める際に雍歯に協力し、劉邦は豊を落とす事が出来なかった。
その後、劉邦が咸陽に入った時、王陵も自ら徒党数千人を率いて宛付近を攻略して
そこを本拠地とし、劉邦に従属するのをいさぎよしとしなかった。
劉邦は三秦を討つと薛欧と王吸に命じて家族を沛から迎えさせようとする際、王陵を頼った。
王陵は義侠を頼まれた事に感激し、全力をあげて太公と呂后を迎える事に成功した。
劉邦が彭城に向って進撃を開始すると王陵も始めて参加して彭城を落とし、滎陽の防備には
夜襲をかけて楚軍から守りきった。彼の名声を知っていた項羽は彭城を取り返す時に
捕らえた王陵の母を使って彼を楚へ引き抜こうと画策したが、王陵の母は項羽の意図を
見抜いて自Rる。これを聞いた王陵は慟哭して項羽に命を賭けて復讐することを誓った。
その後は劉邦につき従って勇戦し、遂に天下を平定した。封爵に取りかかると劉邦は
過去王陵が雍歯に協力し豊を奪った恨みを忘れておらず、王陵には一番遅く侯に封じた。
劉邦の死後右丞相に就くが呂后と衝突し、呂后の専横に猛反発するが政戦に負けて
丞相の権限を奪われた。王陵は悲憤を発し、官職を捨て自分の領国に帰郷し、その後
政治に関わることは無かった。

53 :
【秦】
贏政 >6   蒙恬 >20   王離 >27
趙高 >7   蒙毅 >40   蘇角 >48
胡亥 >11 . 扶蘇 >34
李斯 >23 . 子嬰 >24
李由 >41 . 韓栄 >51
【楚】
項羽 >3   .鍾離昧 >28 章邯 >19 >35
項梁 >2 >12 季布 >32  . 司馬欣 >46 
范増 >14   桓楚 >42
項伯 >22   項荘 >50
竜且 >26   虞子期 >38-39
【漢】
劉邦 >4  . 陳平 >13   王陵 >52
張良 >18  英布 >29   酈食其 >10 >17
蕭何 >21  曹参 >37   周苛 >33
韓信 >25  彭越 >30   辛奇 >49
樊噲 >5   夏侯嬰 >43  曹無傷 >44
【その他】
陳勝 >8
呉広 >36
【匈】
冒頓単于 >31
楼煩 >45
【アイテム >47】

54 :
【楚】宋義 ?〜B.C208
統率47
武力56
知力68
政治52
魅力43
義3 野11
西楚の宰相、上将軍。卿子冠軍。
西進を始めた項梁に従軍し、秦の章邯相手に連戦連勝を重ねると
敵の計略だと気付き、諫言したが項梁は聴き入れず、宋義は斉に使い出された。
宋義は斉に向かう途中、斉からの使者に会った。宋義は使者に項梁が戦に
敗れると予言し、定陶には行かない方が無難だと忠告した。
はたしてその通りになり、項梁は戦死した。懐王は項梁が破れると宋義を
上将軍に抜擢して指揮権を委譲し、項羽を魯公としてその副将とした。
そして章邯に攻められている趙を救援する様命令した。しかし宋義は途中の
安陽まで進軍するとそこで軍を留めて動かなかった。兵糧が次第に底を突いて
兵士は飢え、項羽は何度も宋義に出陣を求めるがまるで聞き入れなかった。
実はこの時宋義は斉の宰相と結託して、楚に反旗を翻す計画を立てており、その見返りに
子の宋襄を斉の大臣にして貰うつもりだった。宋義の企みを調べ上げた范増は
項羽に報告し、激怒した項羽は宋義を殺害した。これにより項羽が総司令官となった。

55 :
【漢】周勃 ?〜B.C169
統率79
武力83
知力60
政治55
魅力77
義7 野9
前漢王朝の将軍。絳侯。弓の名手。
機織業をしており、葬儀屋を副業として強弓をよく引いていた。
劉邦が兵を起こした時、それに従い、各地を転戦。秦を討ち、下邑を降した時は
先登第一で、 その功で五大夫の爵を賜った。その後武関・嶢関を取り、秦軍を藍田で破って
劉邦の関中入りに貢献した。劉邦が漢王になると、周勃は爵を賜って威武侯とし、
将軍に任じられた。その後韓信に従って槐里・好畤を攻め、趙賁と内史保を討ち、章邯の
軍を廃丘で水攻めで打ち破る。敖倉の守備に周り、転じて項羽を追撃した。
陳平が漢に降って重用されると嫉妬心から灌嬰と共に讒言するが、その実力を認めると
素直に従い、対項羽戦で奮闘した。 平定後は絳侯に任命される。
その後反乱の鎮圧にしばしば功績を挙げ、燕王臧荼や韓王信、韓信、陳豨
、盧綰など、
虜にした総数は相国1人、丞相2人、将軍および2000石の大官それぞれ3人、
軍2人と城3つを降し、郡5つと県79を定め、 丞相・大将それぞれ1人に及ぶという。
周勃はその後昇進して太尉となった。劉邦の死後は呂后が政治を指揮していたが、
彼女が死んだ直後呂一族が皇位簒奪を狙っているらしき発言が斉王の弟の耳に入り、
斉王が反乱を起こす。その時右丞相であった陳平と謀って呂氏一族を誅滅した。
この功績で病気と称して官を辞した陳平の代わりに丞相となったが、陳平の才能の
高さに自信を無くした周勃は陳平に丞相を任し辞任する。その後、陳平が没すると
再び丞相となった。文帝が周勃に臣下の礼を取るほど尊敬されていたが、
それを袁盎に諫められ、急に文帝の態度が変わったことから周勃は処刑を恐れ、
使者が訪れる度に武装して迎えていた為に使者も反乱の兆しがあると勘違いして
投獄された。その際に獄吏に賄賂を渡し、周勝之に無実だと書いた手紙を渡す。
そして無実だということが袁盎や薄太后に伝わり、文帝を通じて周勃は釈放された。
死後、武侯と諡された。

56 :
カイ通
統率36
武力38
知力89
政治84
魅力56
義6 野10

57 :
つーか曹参や王陵、周勃なんかは随分過小じゃねーか?
勝利舞もだな。

58 :
陸賈先生はどうなんだろう?

59 :
>>57
勝利舞ワロスwww

60 :
曹参も王陵も周勃も鍾離昧も、どこも過小評価とは思えないな。
それよりも司馬欣、桓楚の過大評価と武力バカにされた竜且が気になる。
横山準拠っぽいから、そうだといわれればそうなんだろうけど。

61 :
【楚】于英 ?〜B.C204
統率70
武力74
知力27
政治24
魅力42
義11 野5
会稽山の麓で桓楚と山賊の頭領だったが項梁の挙兵に従い、
秦討伐では函谷関から出撃した章邯率いる大軍を迎え撃ち、勝利する。
楚漢戦争に突入すると常に前線で戦い続けた。彭城を占領した劉邦を
僅か3万の軍で斬り込み、睢水に追い詰めて大勝する。
漢に止めを刺そうと滎陽を目指すが次に陣頭を指揮した韓信
の軍と交戦する。そこで韓信が考案した戦車部隊の包囲攻撃により
敗北を喫し、于英は戦死した。楚軍の初めての敗北だった。

62 :
【漢】陸賈 ?〜?
統率24
武力18
知力79
政治88
魅力68
義8 野7
楚の出身。劉邦が挙兵した頃に仕え、説客を担当した。
秦討伐する際、嶢関で守将と韓栄に賄賂を持たせて酈食其と共に説き伏せる役を務めた。
その後、楚軍と漢軍が広武山で対峙している際、楚に捕虜となっていた劉邦の父や
親族を返してもらう様に説得に赴くが、失敗する。
劉邦が天下を統一すると、劉邦に儒教の素晴らしさを褒め称え、最初は反発していた劉邦も認め、
新語の編纂を命じられた。国家の存立と滅亡の兆候を詳しく述べたもので、劉邦や群臣は
新語の出来栄えに賞賛した。後、南越で武王を名乗り、独立勢力を築いていた趙佗を説得して
服属に成功。その功で太中大夫に任じられた。
劉邦が死に、呂雉による専横が始まると病と称し引退する。趙佗から頂いた宝を売り、その金を
5人の息子に分け与え独立させ、楽士を数人引き連れ息子たちの元へ訪れるという、年2回巡業の旅に出ていた。
呂雉が死ぬと呂后の専横を討つために丞相の陳平の家へ来訪し、太尉の周勃と連絡を取る様に進言し、
陸賈・陳平・周勃の三人で呂氏への対抗策を練った。
その後、陳平らが呂氏を討ち多額の褒美を得ることになり、文帝に太中大夫として再び漢に仕え
南越などの国へ再び説客として回った。のちに天寿を全うした。

63 :
【楚】曹夾 ?〜B.C203
統率63
武力61
知力28
政治26
魅力41
義7 野5
もと蘄の獄吏で、項梁が連座の罪で逮捕された時、書信をもって司馬欣に
項梁を差し出して項梁を助けたことがあり、のちに楚に仕えた。
彭越が黄河を渡って楚軍を東阿で討ち、項羽が彭越を討つため梁に出撃し、
その間成皋の守りを任される。守備に当たると漢軍は執拗な挑発を繰り返す。
それに耐えかねて出陣するが、それを待っていた漢軍に挟撃を受けて大敗。
汜水で自刎した。

64 :
【漢】廬綰 B.C247〜?
統率58
武力55
知力42
政治56
魅力67
義12 野4
劉邦と同年同日に生まれ、住居も隣同士の馴染み、
劉邦の旗揚げに付き従い、彭越と協力して兵糧を焼き払う等して陰で支えた。
漢統一後は太尉に任じられる。その後造反した燕王の臧荼を下すと
燕王の後任に封じられた。まもなく劉邦の弾圧が起こると審食其の讒言で
廬綰は謀叛の疑いをかけられ、長安に呼ばれるが殺されると感じた彼は
病気を理由に拒否。これにより劉邦の疑いは決定的なものになり、劉邦は
盧綰の王位を廃して自分の末子の劉建を燕王に立てた。
盧綰は匈奴の地へ亡命し、匈奴で劉邦の死後まで生き続ける。

65 :
【漢】紀信 ?〜B.C203
統率52
武力69
知力68
政治28
魅力59
義15 野3
漢の臣。劉邦と同郷で彼の旗揚げに参加する。
鴻門の会では劉邦が項羽から逃れた際、夏侯嬰らと共に劉邦を
覇上の陣営まで護衛した。劉邦が睢水で楚に大敗し、項羽率いる軍勢が
劉邦が立て篭もる滎陽城を包囲した。食糧が尽き落城寸前に陥った時、紀信は劉邦を
逃がすため、自分が劉邦の影武者となって楚に降伏するふりをして、その隙に逃亡する
策を進言した。献策通り劉邦は陳平ら数十騎と共に脱出に成功し、成皐城まで逃げ延びた。
囮となった紀信は項羽によって火刑に処された。

66 :
陸賈の政治力88って…
それに曹夾って楚の大司馬の曹咎のこと?

67 :
陸賈は新語を著書して絶賛されてるし南越の勧告にも
成功したから政治力はそれくらいあってもおかしくなくね?

68 :
【秦→楚】董翳 ?〜B.C207
統率72
武力73
知力42
政治38
魅力49
義6 野6
秦王朝、楚の臣。三秦の一人、翟王。
章邯が反秦勢力を撃退している時に司馬欣と共に援軍に駆けつけ、本拠地の
陳に進行し、蔡賜を討ち、更に張賀と交戦して打ち破り、鎮圧に止めを刺した。
反秦勢力は楚の項梁に引き継がれ、これが中々攻略できず、章邯の策で
項梁が慢心したところを殺した。その後手を休めることなく趙の征伐に向かうが、
援軍に来た項羽の軍に敗北し、そこから一気に形勢は逆転して秦は窮地に陥り、
その報告に咸陽にいる趙高は責任をなすりつけた為章邯・司馬欣と共に楚に降った。
しかし項羽は降伏した20万人の兵は許さず殺した為、三人は秦の人々に恨まれる事となる。
秦の滅亡後は漢中に左遷した劉邦の監視と漢軍が出撃した場合に食い止める役として
翟王に封じられ、咸陽の周りを固めさせた。その後漢は反乱を起こして董翳は防備に
当たるが、漢軍は陳倉の旧道を補修させ、そこから奇襲をかけられて董翳の守る高奴は
あっさりと陥落し、降伏。その後は漢に加わり奮戦するが、彭越を落とした直後の項羽の
奇襲によって劉邦が打ち負かされた時に司馬欣と共に楚に降るが許されず殺された。

69 :
【漢】審食其 ?〜B.C177
統率42
武力34
知力58
政治42
魅力25
義3 野13
前漢王朝の宰相。辟陽侯。郎中令。左丞相。太傅。
劉邦と同郷の沛出身で若い頃からの友人。劉邦が挙兵する際に従い、劉家の
家事取り仕切りを任された。劉邦が彭城を落とした直後に項羽の奇襲にあって
敗北した際、劉邦の妻や親、親族と一緒に審食其も捕らえられた。
彼はそこでも呂后に仕え、この事から呂后に寵幸された。後、楚漢の鴻溝の盟約で
審食其と劉邦の一族は劉邦の元に返された。垓下では項羽討滅戦に参加し、
この戦いと呂后を守った功績により辟陽侯に任命された。
天下が平定された後も常に呂后の側に侍り、呂后の庇護下でおおいに権力を奮った。
陳豨の部下の発言により謀反の疑いをかけられていた盧綰を讒言によって確定させ、
領土を全て没収した。その後王陵が丞相を罷免されると左丞相となり、ますます政権を強固にした。
ある時劉邦が謀反の罪で趙王張敖を捕えた時、後宮の女官も投獄された。その女官は
劉邦が趙を通過した際に寵愛を受け、子を身篭っていた。彼女の弟の趙兼が審食其を訪ね、
釈放を頼んだ。審食其は呂后に口添えするが、呂后は嫉妬して怒って劉邦へとりなそうとは
しなかった。審食其も呂后の怒りを憚ってそれ以上何も言えず、女官は獄中で自殺した。
その女官の子が末子の劉長であり、母を見殺しにした審食其にいつか復讐しようと考えていた。
周勃らが呂氏一族を誅滅すると審食其は左丞相を罷免させられ、その後再び丞相に就くが
三年後、成長して淮南王になった淮南王劉長に暗殺された。

70 :
【楚】周蘭 ?〜B.C203
統率68
武力71
知力45
政治34
魅力44
義7 野5
項梁・項羽の配下。項梁の挙兵に付き従い、反秦、楚漢戦争で勇猛果敢に戦場を駆け回った。
項羽は滎陽の包囲から逃げ出した劉邦を追撃して成皋を包囲し、
陳留・外黄・睢陽を落としたが別働隊を率いていた漢の韓信が斉に侵攻したと
連絡が入ると、項羽は斉の救援と韓信の討伐のために竜且と周蘭に向かわせた。
漢軍は前日堰き止めていた濰水を崩し、大量の水攻めにあって楚軍は
打ち破られ、竜且は捕虜になって殺され、周蘭も曹参の追撃を受けて捕らえられた。
周蘭は逃れたが、苦・譙を攻められた際、再度灌嬰によって拿捕、斬られた。

71 :
【秦】渉間 ?〜B.C208
統率56
武力52
知力34
政治30
魅力36
義8 野4
秦王朝の臣。
反秦勢力の討伐では章邯の佐将を務め、王離とともに
趙王趙歇と宰相張耳が籠もる鉅鹿城を囲んだ。
が、奇襲に現れた項羽の攻撃を受けてあえなく瓦解し、全滅。
渉間は楚に降らず焼身自殺をした。

72 :
【斉】田儋 ?〜B.C208
統率60
武力54
知力57
政治50
魅力75
義6 野9
初代斉王。狄の人。斉王族の分枝の一人で、従弟の田栄や、田栄の弟の
田横は「狄の田氏」と呼ばれ、人望を得ていた。それは秦が滅び郡県制が
敷かれた後でも彼らの影響力は衰えていなかった。
反乱の発端となった陳勝に呼応し、秦の県庁を乗っ取って斉王を自称し、
秦打倒の勢力を起こした。同時期に劉邦や項梁も挙兵し、楚王陳勝を盟主と
仰ぎ続々と傘下に入り反乱軍は数十万人に膨れあがった。
まず周市の軍を攻めて打ち破り、斉の周辺の都市を次々と略取し斉を平定した。
しかし秦では章邯が20万の兵を率いて反乱の鎮圧に向かい、盟主の陳勝を破っていた。
その後章邯は魏王魏咎の都を包囲し、田儋は救援に向かうが、章邯の夜襲によって
破れ、臨済の城下で戦死した。魏咎は降伏し、田栄・田横は命からがら魏城から逃れた。

73 :
【斉】田栄 ?〜B.C206
統率73
武力69
知力62
政治45
魅力73
義9 野13
斉の臣。田儋の従弟。三代目斉王。
田儋が戦死すると田栄は残兵を取りまとめて東阿に走った。
章邯は東阿を包囲したが、項梁の救援により助けられた。しかし斉では田健の弟の田仮を
斉王にしていた事に激怒し、兵を率いて田仮とその一族を放逐して楚と趙に追いやり、
田栄は田儋の子の田市を立てて新たな斉王とし、自ら宰相となって弟の田横を
将軍とした。項梁が章邯に逆撃されると救援を求められたが、楚と趙が逃げ延びた田仮らを
殺さなかったために兵を出さず、項梁は敗死した。項梁の死に項羽は田栄を恨んだ。
そのため秦の滅亡後、論功行賞で田市を辺境の山東半島に追いやり、田都を新たな斉王とした。
田栄はその処置に怒り、陳餘と通じて田都を撃退し、項羽を恐れて即墨に遷った田市をも殺した。
更に田安を滅ぼし、斉全土を支配下に収めて斉王を称して項羽に反旗を翻した。
結果的にこの反乱が反楚戦争のきっかけとなった。田栄は彭越に将軍の印を与え、梁の地で
西楚にそむかせ、済陰を南下して楚を討つように命じる。項羽は斉の討伐に向かうと田栄は
抵抗したものの項羽に敗れ、逃亡した所を農民により殺された。田栄の弟の田横は趙へと逃れた。

74 :
【斉】田市 ?〜B.C206
統率7
武力11
知力16
政治13
魅力34
義4 野0
二代目斉王。田儋の子。
従弟の田栄に立てられ、二代目斉王となる。
秦打倒後は項羽から元々納めていた斉の地を移されて、山東半島を新天地として
膠東王に封じられる。斉に比べると山東半島は明らかに領土が少なくなった辺境の
地であり、叔父の田栄はこれに激怒する。田市は項羽の意趣を恐れて従おうとしたが、
それを見かねた田栄によって殺される。

75 :
【斉】田横 ?〜B.C202
統率67
武力53
知力66
政治74
魅力82
義12 野10
田栄の弟。五代目斉王。
項羽が田栄を滅ぼした後も怒りは収まらず、住民を虐殺し捕虜を生き埋めにし、
住宅を焼き払ったので斉の民衆は項羽に反抗し、田横は民衆を集めて抵抗した。
項羽がそれに苦戦している間に劉邦が項羽の本拠地・彭城を陥落させた。項羽は
彭城を奪還するべく斉を離れると、その隙を突いて、斉の城邑を取り戻し、田栄の子の
田広を立てて斉王とし、田横はその宰相となった。
その後、劉邦は韓信に斉の侵攻を命じた。また、その一方で酈食其を派遣して
説得しようと試みた。田横と田広は利害を説かれて漢に降るが、韓信の軍が攻め寄せた
ために交戦に出た。しかし韓信の前に次々と斉の都城は陥落し、楚に救援を求めた。
しかしその援軍も韓信によって破られたため、斉は滅亡して田広も殺された。
田横は逃げ延びて、田広の死を聞かされると自らも斉王を名乗り、韓信に戦いを挑むが
韓信配下の灌嬰に撃ち破られ、梁にいた彭越を頼って落ち延びた。
天下が平定されると田横は誅殺を恐れて、部下500余名と共に海上の島に移り住んだ。
劉邦は田横が仲間を集めて反乱を起こす前に召喚させて殺そうとするが、田横は
酈食其を殺した事への報復を理由に拒絶した。劉邦は食い下がらず、弟の酈商に
報復を禁じる詔を出してまで呼び出し、田横は仕方なく劉邦の招きに応じた。
殺されると既に悟っていた彼は自ら自刎してその首を食客に持たせて劉邦に献上させた。
劉邦はその行為に感動し、彼のために盛大な葬儀を行った。葬儀が終わるとその食客も
田横のあとを追って自刎し、島に残っていた500余りの部下も殉死した。

76 :
【斉】田広 ?〜B.C203
統率40
武力31
知力34
政治36
魅力45
義 野
四代目斉王。旧斉国の王族。田栄の子。
B.C203年、劉邦は韓信に対して更に斉を討つように命令した。
しかしその後で劉邦は酈食其を派遣して和平交渉を行っていた。
斉王田広は宰相の田横と相談し、結局漢に降ることにした。
その頃韓信は斉との国境付近まで来ていたが説客の蒯通に、酈食其に
功績で上回ってしまうことになると弁論に乗せられ、韓信は斉を攻撃した。
そのため田広は怒り、酈食其を釜茹での刑にして殺して迎え撃った。
韓信は容赦なく淄臨を攻め、斉の都はいとも簡単に落ちた。東方の高密に逃がれた田広は
楚に救援を要請し、楚将竜且が20万人もの兵士を率いて援軍に駆けつけた。
しかし韓信はこれも破り、竜且は死亡する。田広は捕まり、処刑されて斉は滅亡した。

77 :
【楚】丁公 テイコウ ?〜B.C202
統率49
武力63
知力48
政治31
魅力29
義2 野8
季布の腹違いの弟。
項羽の軍将として漢と戦い、#&30562;水の戦いで彭城から逃げ出す
劉邦を追い詰めるが、劉邦はここで天下の趨勢を語り、ここで自分を逃がせば
天下を統一した後重き恩賞を与えると命乞いをする。丁公はそれを聞き、
一考した結果劉邦を見逃した。漢が天下を平定すると、丁公は褒美に預かろうと
劉邦の元を訪れたが、項羽を売った不忠者として処刑されてしまった。

78 :
【漢】灌嬰 ?〜B.C176
統率86
武力84
知力69
政治57
魅力72
義10 野5
漢の車騎将軍。太尉。潁陰侯。懿公。
一人で多くの山賊を討ったという逸話があり、洛川の灌嬰と呼ばれた。
元は睢陽の絹商人だったが秦打倒のために劉邦に付き従う。
南陽郡の平定を始め、劉邦が咸陽に至るまで度々戦功を挙げる。その功で郎中に任じられた。
秦が滅亡し漢が楚に反旗を翻すと韓信の直属の軍隊長に就き、司馬欣・董翳を降伏させ、
章邯を廃丘に閉じ込めて三秦を平定する。降将の陳平が重要されると周勃と共に非難するが
陳平が失脚する事はなかった。
斉の討伐では平定で幾度となく撃破し、斉将である華毋傷、田吸、宰相・田光を捕え、将校や
官吏の五十人余りを捕え、国都も陥れた。 項羽派遣の楚軍との戦いでは、敵将竜且を討ち取り、
自身で周蘭を捕えた。この功績により列侯を賜わり、昌文侯と号し、食邑として杜の平郷を与えられた。
その後は、韓信に派遣されて淮水北部一帯へ進撃し、楚将数人を討ち取り、楚領の大半を平定し、
漢の天下統一に大きく貢献したといえる。その後車騎将軍に昇進した。
以降も項羽追撃、燕王・臧荼の叛乱鎮定、代の韓王信とそれに呼応した匈奴の討伐、 鉅鹿で
叛いた陳豨や英布の征伐にも参戦し、これらでも武功多数。
劉邦崩御の後は呂后摂政期に入るが当時の風潮である老荘思想も相まった観が あり、政略面に
おける灌嬰の目立った働きは少ない。その為粛清の対象からは外されている。
呂后死後に呂氏反抗の軍を挙げた斉王・劉哀の討伐を命じられたが、使いをやって斉王や
諸侯と連合し、呂一族誅滅の同盟を結んだ。そして灌嬰は大将軍として陳平、周勃らと共に
果たし、劉恒を文帝即位に立てて大尉、後に丞相となり、そのまま薨じる。

79 :
【漢】随何 ?〜?
統率22
武力20
知力79
政治78
魅力71
義7 野4
秦末から前漢初期にかけての儒者、政治家、外交官。六の人。
随何は漢軍の謁者であったが、劉邦が睢水の戦いで項羽に大敗し、
傘下の諸侯に次々と寝返られて苦境に立った時に、張良の提案から
九江王英布を漢に寝返らせることを命じられる。
英布と随何は同郷であり、弁説をもって英布を漢へ寝返らせることに成功する。
漢の天下平定後、劉邦に「腐れ儒者」と罵られたことがあったが、先の功績を
兵五万、騎馬五千より優れていたと反論し、護軍中尉に任じられた。

80 :
【楚→漢】周殷
統率73
武力67
知力47
政治34
魅力50
義8 野6
西楚の将軍。大司馬。
楚の大司馬で項羽に従い楚の要地を守っていた。
項羽が滎陽で劉邦を包囲した際、陳平の計略で部下の離反を誘った。
その際劉邦を苦しめた楚将、范増・鐘離昧・竜且の中に周殷が入って
いる事から、骨?の臣だ窺われる。
その後、英布が劉邦に帰順した後も項羽についていたが、劉邦の従兄弟の
劉賈に説得されて楚に叛き、舒の兵を率いて垓下に集まった。

81 :
【秦→楚】章平 ?〜B.C205
統率55
武力57
知力36
政治29
魅力46
義7 野5
章邯の弟。
秦滅亡後、対劉邦の備えとして散関の守りを任されるが、
陳倉から韓信率いる漢兵の奇襲に遭い、敗北。散関の門を閉じて死守するが
兵の中に潜伏していた漢将によって取り押さえられ、捕縛され、散関は落ちた。
解放され、兄と共に再び韓信に挑むが敗北、戦死する。

82 :
結局どうしたいのこのスレ?

83 :
ただ書き連ねるだけでスレ主の意図がみえないし。

84 :
【秦】閻楽 ?〜B.C207
統率31
武力56
知力17
政治6
魅力8
義2 野4
咸陽令。趙高の娘の夫。
趙高の子飼いの手下で、扶蘇の殺害や蒙氏一族の根絶など、趙高の
手足となって働き、二世皇帝殺害計画に至っては実行役として二世皇帝に
自害を迫り、「私を王、万戸候、それが駄目なら庶民にして欲しい」という哀訴に
「私は丞相の命で貴方を殺しにきたのだ。何と言われようと無駄なことだ」と冷酷に言い捨てた。
その後、子嬰が趙高の独裁政治を憂いて趙高を粛清する際、閻楽も殺された。

85 :
>>62の陸賈をアイテムがつくので知力76、政治86にして下さい。
●新語 【政治+2】 所有者:陸賈
国家の存立と滅亡の兆しを述べた書。劉邦に褒め称えられる。
後に司馬遷が史記を書くにあたり、新語を参考にした。
●楚漢春秋 【知力+1】 所有者:陸賈
文学九篇。楚漢の攻防記録。現存していないが、芸文類聚・北堂書鈔・
太平御覧・水経注・文選の注などに断片が残る。

86 :
スレ主は通俗漢楚軍談読んでないな。
せいぜい横光止まり。

87 :
>>86
そもそも>>1
>経歴の文章に関してはwikiなどを繋ぎ合せただけですのであしからず
とあるわけで

88 :
それでよく数値化なんて作業できるな。

89 :
>>88
とりあえず、煽るだけだったら、誰でも出来るから、
お前さんも何か書いたら、どう?

90 :
力を貸してくださいお願いしますだろ?

91 :
叔孫通お願いします><

92 :
>>91


99







93 :
もうおしまい?
武将ファイルみたいで好きだったんだけどなこのスレ

94 :
>>1
頑張れ
三国や信長、他の歴史物も書いてくれれば嬉しい

95 :
そういうのは他のスレでうんざりするほどやってるだろ

96 :
過疎板なんだし邪魔になる訳でもない程にさがりまくっているんだから、そうカリカリしなさんなや

97 :
ここはスレタイ通り楚漢に絞って欲しいもんだが

98 :
いっそ全中国史を対象にしようぜ。

じゃ毛沢東よろ

99 :
そかん
福岡県の行橋市という少子化の進む地域がある
そこで話されている方言で「そかん」と言うのがある
そうなの?という表現を「そうかん?」または「そかん?」などと使う
そこで缶を置いておくとこんな会話が成立する
「このカンカン誰のかん?」
「○○のカンやねん?」
「そかん?」
知力は3くらいかな?

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