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1 :2010/09/08 〜 最終レス :2012/10/17
http://www.melma.com/backnumber_149567/

2 :
三島由紀夫氏に初めて会ったのは昭和二十二年である。
三島氏の学習院時代の師であった豊川登氏の紹介によるものであった。当時、三島氏は渋谷に住んでいた。
初対面で心をうったのは彼の母倭文重さんの美貌だった。実に気高く美しい婦人だなあと思った。そして
三島氏が発した言葉で今もはっきり覚えているのは、「おかあさま、お客さまにお紅茶をお願いします」であった。
そしていろいろ語り合ううちに、「伊沢さんは保田与重郎さんが好きですか、嫌いですか?」との質問だった。
私は直ちに、「保田さんは私の尊敬する人物です。しかし、まだお目にかかったことはありません。御著書を
読んでいろいろ教えられている次第です。戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものが
ありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です」と答えた。
伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

3 :
三島氏は嬉しそうな顔をして「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、
伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言われたのである。これを御縁として、
しばしば面談するようになった。当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。そのため私は大蔵省へ
時おり三島氏に会うために通うようになった。
私は若手のエリート官僚に友人が何人か居たが、三島氏の立派な人格には心から惚れこんでしまったのである。
何しろ三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚であり乍ら、いささかも驕りたかぶるところがない
謙虚な人柄であった。そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。
つき合えばつき合うほど尊敬の念が湧いてくるのであった。東大出の秀才というのは思い上った人間がよくいる
ものだが、三島氏には全くそのようなところがなかったのである。
伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

4 :
この人は作家として偉大であるのは勿論だが、人格者として最高の人だと、つき合えばつき合うほど思うように
なっていった。その後、毎月のように三島氏と私は食事を共にし語り合ったのだ。(中略)それと共に三島氏の
要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。特に歴史では明治維新の志士について。
中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。話と同時に松陰の漢詩と真木和泉守の辞世の和歌を
三島氏の強い頼みで私は朗吟したのである。三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため
座布団をのけて正座してしまうのだった。私も特に吉田松陰の最期の話をする時などは情熱をこめ、時には涙を
浮かべて語ったものである。三島氏は吉田松陰の弟子たちに贈った「僕は忠義をするつもり諸友は功業をなすつもり」
という言葉が大好きになったようだった。
伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

5 :
その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく
望まれて語った次第である。特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った
友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。ついで乍ら記せば、永井は幕府の若年寄という重要な
地位にいた人で、アメリカの外交官であるハリスが尊敬の念を抱いていた程の欧米の事情に通じていた人物であった。
そのため後に私が主宰して行った近藤勇死後百年祭に真っ先に参加してくれたのだった。
三島氏が私に語った言葉で今も忘れられないのは、「私が日本を愛したのは源氏物語の世界だった。それが
伊沢さんとつきあう様になり幕末の志士たちの精神を知り、今は吉田松陰をはじめとする志士の世界に心が
入るようになった」ということである。
伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

6 :
また或るとき私が、「三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の
心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、
功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない」
と言うと三島氏は「その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ」と言ってくれたのであった。
三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の
倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても
残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。
偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。
だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ。
伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」より

7 :
吉田松陰が七世紀の壬申の乱のことを『講孟剳記』で語っています。そこで、たとえば弘文天皇が天武天皇に
三種の神器を奪われてしまったとき、レガリアがないとはたしてレジティマシーが天皇としてあるのかという
議論を、前期水戸学が問題にしている。これについて、吉田松陰はそんなことはどうでもいいと言うんです。
三種の神器を天武天皇から弘文天皇の臣下が奪い返せばいいんだと言うんです。つまり認識や理屈よりも行動だと。
実践的な行動が大事だと言っているんです。(中略)
(私は)日本人を非常に信頼しています。特に一般大衆と言いますか、庶民を昔から信頼しています。たとえば
徳富蘇峰が『近世日本国民史』で元禄時代の忠臣蔵、赤穂義士の事件のことについて触れています。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

8 :
あれはいつどういうときに勃発しているかと言いますと、元禄時代ですので、およそ享楽と歓楽の世です。
元禄の世の中は黄金万能主義で拝金万能主義の世の中だと。太平楽で一切戦争から離れて、元禄のデタラメかつ
狂乱の文化を謳歌していた時代に、突如として江戸に腹を斬らなければならない人たちが四十何人も出た
驚くべき事件が出来したと言っている。蘇峰はこれを大正時代の今日に東京丸の内へ虎が飛び出すよりも
驚くべき事件だと言っている。
つまり日本国民に潜在している尚武の気性は、歴史的にいよいよ危機になってくると必ず実践として噴出する
というわけです。山路愛山も福本日南も、歴代の近代ヒストリアンは皆同じです。
まさにその伝で三島由紀夫さんが身を捨てて、戦後の昭和元禄みたいな世の中に警鐘を鳴らしてくれたわけです。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

9 :
確かに表面上はどんどん悪くなっていると思います。たとえば北朝鮮の拉致問題とか、憲法改正問題を含め
何一つ手を付けられない。その背後には日本国民の国家意識の問題がありますね。
たとえば有事法制を作った。北朝鮮で不審船の侵入事件がありましたが、あのときに自衛隊法八十二条で
海上警備行動を発動しようとしましたが、最初は巡視船でやっていて自衛隊はなかなか出ない。私が教えを受けた
坂本多加雄先生に言わせると内閣がもたもたしていたからだと言う。ではなんでもたもたするのかと言うと、
一般国民のなかにそういう構えができていないからです。しかし日本国民は健全だから必ず目覚めると常に
一貫しておっしゃっていました。私もそう信じています。三島さんのような人が、まさに昭和元禄の頃に
突如としてああいう行動を噴出させたようにです。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

10 :
私はどんどん駄目になって遂に破滅に至る、日本が溶解するとは思っていません。近代以前もそうですけれども、
歴史を勉強しているうちに、そんなに捨てたものではないだろうと思うようになりました。
むしろこれから真の三島のような人がまた出てくるであろう。本当の危機のときに必ず日本人は英雄を生み出すと
山路愛山も徳富蘇峰も言っています。そちらのほうに私は賭けたいと思っています。
そもそも日本を溶解に導いているのは、むしろ政治家や知識人といったエリート層です。戦前も戦後も
そのパターンで、大衆国家日本の庶民の常識こそ信じたいのです。そしてそこから英雄が出現するだろうと。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

11 :
戦後の日本人に大きな魂を残したのは、三島由紀夫と神風特攻です。これも実はフランス人がそう言っているんです。
ベルナール・ミローが『神風』という本を書いていまして、「特攻の精神は、千年のときを貫いて人間の
高貴さを示している」と1970年代に書いています。戦後の日本人に対して特攻隊と三島の死が非常に大きな
力と言いますか、日本精神の原点は何かということを教えてくれた気がします。
憲法の問題ですが、アメリカが作って翻訳された「たかが成文憲法」です。しかしこのたかが成文憲法を戦後
60年近く押し戴いている日本は一体なんなんだというのが私の今の正直な感想です。自民党がこうなったのも
当然だと思います。
富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

12 :
三島が45年の11月25日に、自民党政権はもはや火中の栗を拾わない、すなわち憲法改正をしなくても
政権は維持できる。このことにどうして自衛隊の諸君は気がついてくれなかったんだと言っています。
そういう意味で、政治論ですけれども、たかが成文憲法を変えられない我々の問題も感じます。
あと二年のうちにということがどういう意味かと考えると、三島没後の72年にあれほど対立していた米中が
手を結びました。つまりあの瞬間に日本の憲法改正も、自衛隊が国軍になる日もなくなった。あるいはその
チャンスが失われかけた大きな危機だったのではないか。今はそれと同じ状況だと思います。スケールは違いますが、
同じ事態が出来している。アメリカと中国が経済同盟を結んで日本をスルーしていく。民主党政権の外交は全く
機能しておりません。
富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

13 :
何年も前から檄文のなかにあった二年後というのが気になっていて、一体なんなんだろうとずっと考えていました。
あるとき気づいたんですが、一つは米中接近がありますね。もう一つは沖縄返還です。昭和47年に沖縄返還が
行われることは決まっていて、そのときにどういうかたちで返還されるのか。それによって日本という国家が
相変わらず独立できないまま半独立国家として、アメリカの永久占領が限りなく続いていくことを三島は見抜いていた。
彼が45年の生涯で書いたものの全てが、今の21世紀の私たちに突き刺さってくる問題ばかりを書いている。
それが天才の所以なんでしょうけれども、認識と行動の問題もつくづく考えさせられます。二元論に自分を
追い込んでいって、ラディカリズムがニヒリズムを克服するという方法論をとったのではないかと私は解釈しています。
西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

14 :
(中略)
三島は現実的な問題も、十分捉えていたわけです。二年後に自衛隊はアメリカの傭兵になってしまうと
1970年の時点で言い切っていたのは、米中接近と沖縄返還のことを、すでに視野に入れていたということです。
(中略)
最近よく話題になる核のシェアリングの問題がありますけれども、そういったことも三島さんは考えていた。
それは日本の核戦略はどういうものになるのかと、40年前の時点で考えられ得る現実的なこともちゃんと
提起していた。国土を守るほうの自衛隊を、国軍として成立させることで、日米安保体制下のなかでの日本の
自主防衛をどうしていくかを、40年前のあの制約のなかで考えていたことは素晴らしい慧眼だと思います。
西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

15 :
三島さんの檄文を読んでみますと、説明は少ないんですけれども、「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を
守ることを喜ばないのは自明である」という文章があります。最後の部分で「今こそわれわれは生命尊重以上の
価値の所在を諸君の目に見せてやる」という有名な科白ですね。「それは自由でも民主主義でもない」と書いている。
これは普遍化のし過ぎかもしれませんけれども、先ほど富岡さんが言った特攻隊問題とも関係ありますが、
あえて分かりやすく言えば、三島さんは特攻世代です。帰されましたけれども、三島さんの頭のなかに、はっきりと
日本の特攻はアメリカ軍と闘ったんだという、当たり前のことが当然のこととして残っている。別に反米とか
なんかではないんです。三島さんの文学その他で、ほとんどアメリカのことなんて歯牙にもかけられていない。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

16 :
逆読みをすると、アメリカなんかは、とてもではないけれども、文学者なり文学者の感性、美意識その他から言って、
自分たちがまともにそれを受け入れるべき存在ではないということが、三島さんにとってはおそらく自明のことだった。
したがって、アメリカが日本の自主独立を喜ぶわけがない。もっと言うとアメリカの自由民主主義は、まともに
受け取る必要のない価値観だと。僕自身が別の径路で誠にそのように思っているんです。
アメリカは元々文明の本質論として左翼国家だとしか思われない。左翼の定義はフランス革命に見られたように、
分かりやすく言えば、自由平等、博愛=友愛等々の、言わば理想主義的な綺麗事で、歴史に対して大破壊を
起こしていくことによって、そこから進歩がもたらされるんだと考える者が、十八世紀の末に左側に座ったと
いうだけの理由で左翼と言われていた。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

17 :
アメリカは元々歴史感覚が、ないとは申しませんが、乏しい国です。アメリカの場合は言ってみれば個人主義的な
方向において近代主義を実現しようという巨大な実験国家だくらいにしか思われない。歴史に巨大な実験を
仕掛けているという意味において左翼国家だと考えるのが、文明論の本道だと思う。冷戦構造の他方の雄である
ソ連その他はなんであったかと言うと、近代主義的なものの考え方を、集団主義的、社会主義的に実現しようとした。
(中略)そう考えたら日本列島の戦後は、アメリカ的なものを保守と見なし、ソ連的なものを革新と見なす
などという馬鹿げた思想の分類軸で、自分を位置づけたり他人を評したりすることが半世紀以上にわたって
行われれば、元は立派な国民、民族でも大概頭も痺れるし背骨も溶けるだろうとどうしても推測してしまう。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

18 :
(中略)
平成に入って少しでも日本がよくなったかと言うと、構造改革論は簡単に言うとアメリカ的なやり方で日本社会を
抜本的に構造的に改革した。典型的人物で言えば小泉純一郎をクライマックスとして現れた構造改革論です。
それがぐちゃぐちゃになったら、今度は鳩山なる人物が出てきて、社会保障だ、弱者救済だとやる。
ソ連がないからアメリカしか残っていないのですが、アメリカのなかにある主流と反主流のシーソーゲームを
日本列島に映し直しているだけです。(中略)
アメリカ文明は歴史が乏しいが故に、結局個人民主主義と社会民主主義の間のシーソーゲームを繰り返すしか
ないのがアメリカ左翼国家の宿命です。もちろんアメリカを馬鹿にしているわけではないんです。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

19 :
(中略)
日本人全体が仮に頭のてっぺんでアメリカ様、進歩主義と言っていたとしても、歴史の慣性がありますので、
戦前戦中を経験した世代はその進歩主義のやり方、自由民主主義のやり方のなかに否応もなく日本の国柄を半ば
無意識に引きずっていた。したがって戦後日本の自由民主党が作り出した平等福祉国家は、たとえば日本的経営を
見ればよく分かるように、日本的なやり方をなんとか組み込むことによって、アメリカに近い国を作ってきた。
ところが昭和が終わる頃から世代交代が起こった。お年寄りの大半はどんどん死んでいく。まだ生存中でも
年寄りよりも若い者のほうがいいという理由で世代交代が叫ばれ、政治だけではなく学界だろうが財界だろうが
全部戦後世代です。
こう見えて僕は昭和14年生まれです。小沢一郎は僕よりも年下です。大概自分を見れば
あいつらろくでなしだろうなということは分かります。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

20 :
戦後に生まれたからろくでなしと言っているのではないんです。戦後は次々と歴史を蒸発させてきた。
昭和世代がとうとう第一線から退くにつれて、ほとんど歴史が蒸発してしまうのが昭和64年までだったと
分かれば、平成の御代は所詮戦後体制の確立であり、憲法体制の一層の実現である。ある種段階的な変化が
ありまして、それこそ日本の国柄を無意識にも引きずるという、昭和の時代の常識の、最後のかけらまでもが
砂漠に没してしまった。歴史なき、国民意識として言えば砂漠のようなところに、結局アメリカで行われてきた
自由民主主義と社会民主主義の間の極めて人工的なシーソーゲームを、この平成の21年間たっぷりやったし、
これからもやり続けるのであろう。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

21 :
こんなことをやっていれば、結局のところわが民族は、アメリカの半ば無自覚の猿真似のうちにギッコンバッタンで
脳震盪を起こして、そのうちにぶっ倒れるのが落ちである。
三島礼賛をする気はないけれども、心持ちから言えば、三島さんの猿真似でもやって、いつ何時でも死ぬに
やぶさかではないぞというくらいの感じでいるべきです。三島さんが最後どうして自死できたかと言いますと、
本当に絶望していたのではないか。何に絶望していたかと言うと、馬鹿な文学者たちは、三島さんのことを
自分の文学の能力の限界に絶望したなんてアホなことを言っていますが、そうではなくて、日本人に絶望して
いたのではないか。あれからもう39年です。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

22 :
全く希望がないとは言わないけれども、39年という凄まじい時間の持続を経て、我々がどれほど深々と砂漠の
なかに足を突っ込んでいるかを考えたら、そこで尚かつものを言うとしたら、日本人にはほとんど一切希望を
持つことができない。要するにこの社会はいずれどうしようもなく大脳震盪を起こして、周章狼狽、茫然自失に
陥るであろう。皆さんを励ます意味で言うと、何かある程度の覚悟と認識を持って、ある程度責任ある行動を
とろうとしたら、ほぼ負けを覚悟しないといけない。頑張ればいいことが起こるだろうなんていう生易しい
状況のなかにあるのではないと思います。逆に言うと、負けを覚悟しないとものを言う気がしません。
勝つだろうなんていう希望はどこを見渡したってないのに、「頑張れば勝ちますよ」と言うのは、最も人間を
疲れさせる励ましの言葉であって、高らかになんの希望もないのであるとにこやかに言うべきだし、本当に
そこまできていると思っています。
西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

23 :
アメリカの大神殿というべきWTCに旅客機が突っこみ、赤い炎に包まれながら超高層ビルが崩れ落ちていった日、
あの9・11を忘れる人はどこにもいないだろう。もう一つ、同じような分岐点がある。
作家・三島由紀夫が割腹自殺したとき、自分がどこで何をしていたか、たちどころに思いだせるはずだ。
…一九七〇年、長距離バスでイランの砂漠をよぎっていたときのことだ。
まわりの乗客たちはモスリムの人々ばかりだった。(中略)
モスリムは一日に五回の礼拝を欠かさない。その時間がやってくると、屋根を踏みならす音が響いてくる。
…運転手がしぶしぶエンジンを止めると、乗客たちは屋根や窓から飛びだし、いっせいに砂漠へ走っていく。
そして四つん這いになり、焼けついた砂に額を押しつけながらアッラーの神に祈る。車内に残っているのは、
運転手と、ぼくと、イギリス人だけだった。礼拝が延々とつづいているとき、
「ユキオ・ミシマのハラキリについてどう思うか?」唐突に、若いイギリス人が語りかけてきた。
宮内勝典「混成化する世界へ」より

24 :
ぼくはしばらく考えてから答えた。
「ああ、映画の話だろう」
「いや、ほんとうにハラキリしたんだよ」と読みかけのNewsweekを差しだしてきた。(中略)
窓の外ではモスリムの人々が真昼の砂漠にひれ伏しながらアッラーの神に祈っている。
そして、ふるさとの日本では「天皇陛下万歳!」と叫びつつ、三島由紀夫が切腹したのだという。茫然となった。
(中略)アフガニスタン、パキスタンを過ぎてインドに入り、カルカッタの日本領事館の新聞でついに
確かめることができた。切断された首が床に据えられていた。
金とRと食い物しかない日本で、一つの精神がらんらんと燃える虎のような眼でこちらを見すえていた。
宮内勝典「混成化する世界へ」より

25 :
それから二十数年が過ぎて、かれが切腹した市ヶ谷駐屯地の総監室を訪ねることができた。(中略)
三島由紀夫が日本刀をふりおろしたときの刀傷が、飴色のドアの上に残っていた。
…モスリムの人々が礼拝する砂漠で三島由紀夫の自決を知ったのだが、偶然とはいえ、イスラム原理主義者たちと、
かれの思想には、通低するものがあると思われてならない。
…アッラーの神のような超越性のない日本で、かれは天皇に固執した。文化を防衛しようとした。
むろん肯定できないが、三島由紀夫の文学そのものをぼくは畏敬している。恥ずかしいがあえて洩らせば、
十代の頃、かれの文章をノートに筆写していた。
…紙数が尽きたから結語を述べよう。ぼくもまた西欧近代に追随したくはない。
だがそれを拒むナショナリストにもなりたくない。ぼくは混成化していく世界を生きたいと思う。
宮内勝典「混成化する世界へ」より

26 :
小林:ぼくはあれを読んでね、素直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね。
つまり、あの人は才能だけだっていうことを言うだろう。何かほかのものがないっていう、そういう才能ね、
そういう才能が、君の様に並はずれてあると、ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな。
きみの才能は非常に過剰でね。一種魔的なものになっているんだよ。ぼくにはそれが魅力だった。あのコンコンとして
出てくるイメージの発明さ。他に、君はいらないでしょ。何んにも。
三島:ええ、何んにも。
小林秀雄との対談「美のかたち――『金閣寺』をめぐって」より

27 :
小林:その才能さ。その才能の過剰だよ。これが面白い。面白いっていうのは、いい意味だよ。ぼくはだから
退屈しなかった、ちっとも。たしかに、きみは人を乗せた、乗せてどんどん運んでいったよ。そういうものの中に、
ぼくは力を認めたね。
小林秀雄との対談「美のかたち――『金閣寺』をめぐって」より

28 :
例へば、右翼といふやうな党派性は、あの人(三島)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。
事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれるわけでせう。
事件を抽象的事件として感受し直知する事が易しくない事から来てゐる。いろいろと事件の講釈をするが、
実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。
事件が、わが国の歴史とか伝統とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、
この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。
さうでなければ、どうして確かに他人であり、孤独でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。
小林秀雄「感想」より

29 :
江藤淳は三島の自決は彼に早い老年が来たか、さもなければ病気じゃないかと言いましたが、トルストイの死に
「細君のヒステリイ」を見て悦に入る自然主義作家のリアリズム、いかにも分かったような、人生の真相は
たかだかこんなものという「思想の型」によく似ているといってよいでしょう。
そういえば三島事件後、俗耳に入り易い江藤流の原因説が数限りなく出ました。(中略)
私はいっさい関心を持ちませんでした。「細君のヒステリイ」に原因を求めて安心する現代知識人に特有の
気質にいちいち付き合っている気にはなれなかったからです。(中略)
江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした。生活実感を尊重する自然主義以来の文壇的リアリズムに
どっぷり浸っていた人でした。
三島の悲劇は分からない人には分からないのです。縁なき衆生には縁なきことが世にはままあります。
西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より

30 :
小林(秀雄)の「文学者の思想と実生活」の結びに近い個所に次のような言葉があります。
「思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに
離別しようとするところにある」
その通りだと思います。「思想の力」は理想と言い替えてもよいでしょう。私は次にみる同文の結語を読んで、
昭和十一年にこれを書いた小林秀雄がさながら三島の自決を予見していたかのごとき思いにさえ襲われたほどです。
「エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を
投じた。狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである」
一九七〇年代の半ば頃に、私はギリシア哲学者の故齋藤忍随氏にお目にかかる機会がたびたびありました。
三島事件は氏の関心事で、開口一番、三島はエンペドクレスですね、と言いました。エトナの噴火口に身を
投じたこの古代の哲人は、ヘルダーリンが歌い、ニーチェが劇詩に仕立てた相手です。
歴史の中には「狂人の愚行」としか思えない完璧なまでの正気の行動があるのです。
西尾幹二「三島由紀夫の死と私」より

31 :
あーあ、今回の独立宣言を作るという話は、どうも企画倒れに終わりそうだな。そう思いながら、新潮学芸賞を
受賞した徳岡孝夫さんの「五衰の人―三島由紀夫私記」を読んでいたら、なんと、びったりの文章が出てきた。
四半世紀も前、三島由紀夫が自決したときの「檄」の一部にこういうところがある。
「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみささがられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。」
まさに、今の日本そのものじゃないか。まずこの一文を、日本の独立宣言文の冒頭に掲げるところから
始めようかと思ったよ。
ビートたけし「憲法爆破」より

32 :
その視覚的、聴覚的に表現するということを考えた場合、三島由紀夫の戯曲は天才的な言葉で溢れている。
三島由紀夫の溢れる、迸る様な豊かな言葉というのはいうならばモーツァルトの音楽を連想させる。
モーツァルトのピアノソナタは初心者から円熟期に入った大ピアニストまで誰でも魅せられ虜にするが、
三島由紀夫の戯曲も思わず音読したくなる様な人を酔わせる様な豊かな言葉に溢れ、これは自分で演出したい、
これは自分で演じてみたいと人を駆り立てる様なものを持っている。
遠藤浩一「三島由紀夫と福田恆存――演劇をめぐって」より

33 :
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。
Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?
岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います
岡潔「蘆牙」より

34 :
「黒い大佐」と呼ばれるヴィクトル・アルクスニスという軍人がいた。ソ連邦維持、反共、反欧米を主張する
滅茶苦茶だが高潔な保守派の人物だ。ペレストロイカは世界革命のためだとわかっていた。領土問題については、
日本の北方領土に対する要求は絶対に認めない「愛国」、「憂国」の士だ。父はラトビア人、母はロシア人。
祖父は建国の大立者で、ナチスの陰謀だったといわれる「トハチェフスキー事件」ではトハチェフスキーを
ヒトラーのスパイとして死刑にした一人で後に銃殺された。父はカザフスフタンの炭坑に送られ一家で辛酸を
なめるが第20回党大会で祖父の名誉回復がなされた。
ラトビアに帰国したアルクスニスは航空学校に入るが目が悪く、ミグの整備兵になる。(中略)
アルクスニスはペレストロイカのもと、保守派に押されて国会議員になり、「反共ソ連邦維持連盟」を結成し、
改革派を西欧とつながった売国奴と非難してシュワルナゼ外相を辞任に追い込んだ。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

35 :
1991年8月19日から21日にかけて保守派によるクーデタが起こったが失敗する。
私は枝村大使の了解を得て、24日の朝アルクスニスに電話し国会で演説する前に昼飯の約束をした。
日本人は情報が入らないと離れる、力のある者にだけすり寄りよると思われることを危惧したからだ。
中華レストランに誘い、自分の母が14歳で沖縄戦に巻き込まれた苦難を、人民の敵として辛酸をなめた
アルクスニスに語り、以下のやり取りをした。
アルクスニス「これから国会でソ連邦維持の演説をする」
佐藤「やれ、信念を通せ!」
アル「日本はカミカゼの国だろう」
佐藤「実は(熱心な社会党支持者の)母はこっそり靖国神社に通っている。姉が祀られているからだ」
アル「スターリングラードでソ連兵はドイツ戦車に特攻した。このことはタブーとして歴史から隠ぺいされている」
佐藤「カミカゼの精神とスターリングラードの精神は同じだ!」
アル「北方領土は日本からスターリンが盗んだ土地だ。おれはそれを知っている。日本は還せと言い続けるべきだ」
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

36 :
アルクスニスは三島由紀夫の愛読者で、1989年ロシア語で出版された『憂国』が一番いいと言い次のように
評価した。 
・2.26事件の世直しとソユーズ(連邦維持を唱える院内会派)とは似ている。
・これは友情の小説だ。 
・主人公が決行部隊から外されたのは結婚したばかりというのはウソだ、決行の中心人物でなかったからだろう。 
・しかし主人公は夫人との愛、同志との友情の中にいる。
アルクスニスは私にボリス・プーゴのことを覚えているかと訊き、次のように語った。
「クーデタ派は破れソ連国家は崩壊した。 セルゲイ・アフロメーエフ参謀長はこめかみを打ち抜いた。
ラトビア人のプーゴ内務大臣はKGBが自宅に逮捕に来たが、役人を外で待たせ2発の銃声を発し、夫人と
一緒に死んだ。ラトビア人には血の掟がある。 名誉を守るために自決を選んだのだ。
ラトビア人は奥さんを先にし、『憂国』では奥さんが後だ。日本人は奥さんへの信頼が篤いからだろう」
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

37 :
日本人もキリスト教的で死後のよみがえり、死後の復活を前提にしているといえる。
私はキリスト教(プロテスタントのカルバン派)だが、日本の神話にある世界観と聖書の世界観は同じだと思う。
天照大神とキリストは同じだ。仏教は壮大精緻な世界観を持つが、日本の神話では、聖書同様混沌の中から
世界がうまれる。いざなぎ、いざなみの営みからだ。これは平田篤胤に継承されている。
近代国家は欧米思潮の流れにあるが、その源流はギリシアにあり、ギリシア世界はドイツ語にある。日本の
知的退廃はこのドイツ語を学ばなくなっているせいだ。(中略)
新渡戸稲造や内村鑑三などの神学者が日本の「国体論」を一番わかっている。各国のキリスト教は別々に
つくられ、存在している。臣民の道、靖国を位置付けられなければ、日本のキリスト教とはいえない。(中略)
靖国に行くなというキリスト教徒はダメだ。霊性、リインカネーションを感じる力が衰えているのだ。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

38 :
旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後身であるロシア連邦保安庁(FSB)ではカリキュラムの中で日本語の
三島の作品を読ませている。物欲のないこういった日本人にしてはならないと警戒しているのだ。
ロシアは新自由主義経済の流れの中でサブプライム問題に引っ掛からなかった日本の国力を恐れている。
ただぼんやりしていただけだが。
「ファシスト・サムライ」というロシア語には日本人への尊敬と畏敬の気持ちがある。
本当の日本人は「ファシスト・サムライ」でヘナヘナしているのはウソである、と思っている。
大いなる誤解だが誤解のままにしておけばいい。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

39 :
(中略)
私は大学の2回生のときに小説を読まないことにした。哲学と神学書を読み、そのためにヘブライ語、ラテン語、
ギリシア語を勉強する時間を確保するためだ。ただし役に立つ小説は読む。
モスクワでは30冊くらい『憂国』をロシア人に渡した。三島にはテクストだけではない生き方がある。
三島は個別の命を超えた大義に生きた。
言っていることとやったことがかい離していない三島はロシア人の心を打つ。
キリスト教は自殺を禁止しているというが、国家に忠義を尽くすことをヤン・パラフというチェコの青年は
「プラハの春」の1968年ヴァーツラフ広場で焼身自殺して示した。
15世紀宗教改革に命をかけたヤン・フスの末裔の殉教者と見られて、今でも広場に献花が絶えない。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

40 :
「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。
それが最もいいと信ずるからである。
若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。
日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の
文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。
この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。
我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。
此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。
併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。
蓮田善明
昭和16年「文芸文化 編集後記」より

41 :
交遊に乏しい私も、一年に二人か一人くらいづつ、このやうに国文学の前にたゝづみ、立ちつくしてゐる少年を
見出でる。
「文芸文化」に〈花ざかりの森〉〈世々に残さん〉を書いてゐる二十歳にならぬ少年も亦その一人であるが、
悉皆国文学の中から語りゐでられた霊のやうな人である…。
蓮田善明
昭和18年「文学 編集後記」より

42 :
三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう
……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の
由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。
(中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と
仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略)
「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで
お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と
一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が
別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。
小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

43 :
又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり
にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に
善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。
当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。
善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような
老成した人生観を述べていた。(引用略)
敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、
十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。
小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

44 :
(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」
という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅――殉難の
讃仰なのである。
大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略)
「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る
時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」
(三島由紀夫「蓮田善明とその死」序)
由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。
小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

45 :
(中略)
元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に
なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が
発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、
「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。
同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が
書けなくなるから止めてくれといったという。
私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の
名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆して
いたか、執筆すべく構想をしていたからだ。
小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

46 :
執筆にあたって彼は、当然シンガポール近くのゴム林に眠っている善明を想起し、その霊を呼んだろう。(略)
そういえば善明は前にも海を渡って帰ってきた。昭和二十年八月十九日、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の
前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた職業軍人・上條大佐をピストルで射殺し、かえす筒先で己がコメカミを
射抜いて果てた善明は、その時の完全軍装の姿で熊本県は植木町の留守宅に帰ってきた。明け近く、青蚊帳を
透かし、縁の外に佇んでいる夫をみつけた敏子さんは、「おかえりなさい」と挨拶した。善明は佇んだままだった。
「どうなさいました。お入りなさいまし」というと、前にくずおれるように姿はかき消えた。
その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない。
二人の合言葉は、『英霊』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」であったはずだ。そう、私が夢想し
思量するのも、或いは絶作『豊饒の海』の輪廻転生の示唆なのかもしれない。
小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より

47 :
新聞や週刊誌の中には、しごく単純に三島を異常性格者ときめつけ、最初から彼が自分の文学の主要テーマとして
選び貫いた同性愛をも風俗の眼で眺めたあげく、ホモだオカマだと立ち騒ぐ向きまであるのには一驚した。
死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である。
彼の内部に眼玉ばかり大きい腺病質の少年が棲み、あとからその従者として筋肉逞しい兵士が寄り添ったとしても、
それをただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか。
異常というなら、わけ知りの、ありきたりの、手垢まみれな説の援用でなしに、その淵に息をつめて身を潜め、
自身の眼でその深みの神秘をさぐろうとはしないものか。この一九七〇年代に、異常というレッテルを小抽出しに
張って、もうそっぽを向いていられる“正常人”がこれほど多いというなら、それこそが異常の証しであろう。
中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より

48 :
(中略)
ただ、あれほど感性すぐれた彼に、いま一言、突っこんで話をしたかったと思うのは、ぷよぷよとした肉体、
指で押すとちょっとの間はへこむが、またすぐ元に戻って知らん顔をする、さながら腐肉そのままの感触を、
何よりも徹底して憎悪していたのではないか。なぜそれを最後まで、ありのまま憎みとおさなかったかという
点である。「世の中すべて気に入らぬことばかり」にしろ、われわれを包んでいる情況の本質がそこにあり、
一番の敵がそれであることは三島も当然知りぬいていたので、この気持もまた、彼の死後にも変わらない。(中略)
芥川や太宰が、なぜ志賀直哉と長生き競争をしなかったのか、私には不思議でならない、というより、無理にも
そう思いたいのだ。三島にも、また。
中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より

49 :
三島「僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。」
武田「いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。」
三島「でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。」
武田「それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。」
三島「そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。」(略)
私は三島さんを懸命にナダめにナダめる武田氏に、つよい共感で(感傷的にも)涙ぐみたくなる。
しかし同時に、三島さんがもの書きとしての恥部をここまで口にする激しい自己意識に心をうたれずにいられない。
それはまたそっくり三島さんの社会への批判でもある。
田久保英夫「天上の人」より

50 :
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは
最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを
たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその
ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと
確信していた。(中略)
三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち――その名前をあげる必要はあるまい――を、道化役者のように
見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる
ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた
――つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。
ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

51 :
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった
深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。
三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。
彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。
三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。
三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした――(略)
…これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。
しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた
政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。
ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

52 :
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの
学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していない
ようだ。私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について
語った言葉から推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。
「あの人たちは日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に
限っていえば、三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性――国防の
問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である――を、認識できる人は
ほとんどあるまい。(略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい
世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から
信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義
原則の特殊性について、注意を喚起したのである。
ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より

53 :
彼と知り合いになったのが、彼の十七、八歳の頃で、それからの数年、昭和二十四年七月、文壇的R作とも
云っていい「仮面の告白」を書き出し、出版する頃までは、お互いに、文学に志し、文学で身を立てようと
励まし合い、刺激し合い、くどくつき合ったものであった。尤も、私は彼より十歳近くも年長であったが。
富士正晴氏は次のように「思い出」を語っている。
「三島と知り合ったきっかけは、伊東静雄の紹介によってやな。(略)伊東が『三島の本を出してくれへんか』
というので、七丈書院に三島を呼び出して会った。来たのは、えらい頭のデカイ目玉がギョロギョロした、
ゲジゲジ眉毛の長い色の青い少年やったけど、語る言葉は上流コトバ。(略)その足で林富士馬のところへ
連れて行ったんやが、林が『ビールでも飲もうか』といったら『私は外では飲みません』というのを、甚だ
きれいなコトバで云ったんやが、それで林はゾッコン参っちゃったんや」富士氏の回想に間違いがないなら、
私は三島君と知り合いになった当初から、三島君の拒絶にあっているわけだ。生涯、私はその三島君の拒絶に
心惹かれていたのかも知れない。
林富士馬「死首の咲顔」より

54 :
併し、その日常生活のなかで、知り合いになったばかりの三島君は、大変素直な、律義で、礼儀正しい、幾分
世間知らずの大人びたところもある少年であった。ひととはなしをする時、凝っとまともに正視した。
その当時の他の私達の仲間の、どこか、くずれたようなところ、だらしないところは微塵もなかったのが、
ひどく印象に残っている。当時、既に私は妻子持ちであったが、部屋によちよちと歩いて入って来る子供を、
三島少年は熱心にあやしたのを、そのいじらしい少年の姿を、不思議な思いで眺めていた。(中略)
私は他の私の年少の仲間を紹介し、毎日のようによく遭い、それでも手紙を書いた。私達はやがて、誰でもが
お召しを受け、血腥い戦場に遠征することは解っていたので、明日のない一日一日を、如何に文学だけを信じ、
それに縋って、一日一日を生きるか、ということに肝胆を練っていた。(略)仲間の一人、一人、戦場に
出掛けて行ったが、私達は謄写版で、五十部くらいの部数の同人雑誌を編みつづけた。それが私達の
レジスタンス運動であった。
林富士馬「死首の咲顔」より

55 :
(中略)
テレビの画面にあなたが七生報国と書いた白い鉢巻をしめ、「楯の会」の隊長の正装で、バルコニーから、
演説をしているのが見えた。それは演説というより、手を挙げて叫んでいる姿が見えた。声は聞こえない。
(略)三島君の身体は、傾くようにして動く。唇がはっきり見える。からからに乾いた舌が見えたように思った。
(略)併し、そういう画面だけが映し出されて、声はすこしも聞こえないのが却って、印象に鮮やかである。
三島君が、何を必死に訴えようとしているのか、勿論、こっちには、さっぱり判らないが、(略)コップ半分の
水でも、手渡すことが出来たら、自分自身が、どんなに楽になるだろう、(略)そんな思いがちらちらして、
数日間は安眠出来なかった。(略)
可哀そうな三島君、強情っぱりの三島君よ。(略)私が水を差し出しても、あなたはまた拒否しただろうか。
あなたのような憂国の士ではないが、私もつくづく、世の中が、近頃の人の心と云うものが味気ない。
林富士馬「死首の咲顔」より

56 :
(中略)
三島君の人生も作品も、あんまりひと筋で、そこに余裕がなかったので、私はむしろ、それを三島君の擬装とし、
遊びとして受けとろうとしていたようだ。そこで遠慮なく揶揄し、あなたの文学は新官僚派の文学ではないかと
悪口を云った。あなたは少しも弁護しなかった。弁護などすることが、男らしくないと思っていたのだろう。
腹の底では、腹を立て、ほんとうに理解する人のいないことを、くやしがっていたのだ。
併し、いまになってみると、あの人は、どんな作品に於いても、エッセイ、評論、日記、又、どんな座談会の
尻っ尾ででも、素直に、右顧左眄することなく、手を振り、声を高くして、おのれを語り、決意を云っていたのだ。
擬装などと、どうして私は受けとっていたのだろう。
いまになって、「仮面の告白」という文壇に登場して来た時の作品のほんとうの意味が判ったような気がする。
林富士馬「死首の咲顔」より

57 :
あの仮面は、「素顔」に対しての「仮面」ではなかった。告白するために「仮面」を使用したのではなかった。
「失われた世代」の一人として、私が在来の文学現実で考えていた「素顔」などを、既に喪失した人間として、
持ってはいなかった。その悲しみを、いっしんに訴えていたわけである。ほんとうの意味の新しい世代、
戦後派文学のほんとうの意味が、あそこにあったのだ。あの人は、仮面しかない悲しみを、一生懸命、文学の
世界に定着させようとしていた。(中略)
人間はいつでも、告白をするとき、うそをついて願望を織り込んでしまう。それを潔癖に嫌悪した。文学という
ものは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じ、作品における告白は、実は告白自体が
フィクションになっていた。(中略)
三島君の文学を一口に云うと、明治、大正、昭和の三代の近代日本文学にあって、はじめての意識された世界的
作家であったことではないか。
林富士馬「死首の咲顔」より

58 :
(略)その世界的作家としての気宇について云えば、そのR短編集「花ざかりの森」の後記に、少年らしい
気負いで、「そして、戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ
時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい」と、既に決意している。
又、それを獲得するために、どんなに刻苦勉励の一生であったか、その忍耐と憎悪と愛情とを思うと、胸が痛い。
彼は決して、器用な人でも、器用な作家でもなかった。人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、
ひとり、たたかっていたのである。(中略)三島君の突然の死が白日夢の如く報ぜられる数日前、私は東武デパートで行われている三島由紀夫展に行った。
(略)いろんなものが、小学校時代の通信簿や図画や習字などまでが陳列してあった。(略)「文芸文化」
という戦時中の雑誌、そこに三島君のR作とも云える「花ざかりの森」が発表された雑誌の終刊号が、
ガラス・ケースのなかに、見ひらきにして飾ってある。
林富士馬「死首の咲顔」より

59 :
その見ひらきの左の方は、三島君の「夜の車」という作品の書き出しになっているが、右の方の一頁は、私の
「終焉」という詩になっているのだ。(略)
   終焉
(略)道義の退廃と、忍従に姿が似てゐる無気力とに、詩人が身を以て弾劾と警告を発することをしないで、
誰れがこの危機の時代の、この任務につくひとがありませうか?
いまはなにを歎く?
逝く水の流れよ
ただ汝れ漲るやいなや
かの清らかなひとを慕ひ
遠く いまこそ山林に退き
立木の紅葉に雑つて
なほも燃えてゐたいのだ
以上のことがあってから数日して、私は青天の霹靂の如くに、あなたの激烈な死に出逢ったのだった。
林富士馬「死首の咲顔」より

60 :
たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという
根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、
三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、
あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、
それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。(中略)
恋愛結婚を人々が夢見ていたとき、結婚の夜に情死をとげる『盗賊』は、なんと悪意にみちた時代への挑戦で
あったろう。また、文学上の誠実主義が“自己確立”の名のもとに謳歌されていたとき、『仮面の告白』は、
なんと反時代的な作品であったろう。あるいは、人々は戦争の危害について語っていたとき、「金閣とともに
滅びうる幸福」を語った『金閣寺』は、なんと不吉な夢に貫かれていたことであろう。
磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より

61 :
三島氏が『憂国』あたりを境にして、急速に変貌したという見解を、私はほとんど信じることができない。(略)
三島の宿命は、すでに『仮面の告白』において、ほとんど予定されていたといってもよい。仮面の背後にある
空白が、いわば“太陽神”の欠落であるなら、それがやがて『林房雄論』や『英霊の声』となって蘇生する
ことは、なかば必然といってもいいものであった。“太陽神”が失われたとき、あの東京の廃墟の上に広がって
いた青空には、夥しい日光の氾濫があった。(略)廃墟の太陽への偏執は、やがてギリシャの廃墟の夥しい
陽光の氾濫に接続する。そして氏は、人間性という名の自然を否定するために、“肉体”を“鉄”のように
鍛える道を選んだのである。(略)三島は徹底して明るさに固執した作家であった。その明るさは健康優良児の
明るさとは、まったくの対極をなすものであった。それは“鉄の悪意”を秘めた明るさ、あるいは悪意を証明
するためには、死をも辞さないような、鉄の意志に裏づけられた明るさである。
磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より

62 :
(中略)氏にとって天皇とは、存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった。それは氏の
“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョンといってよく、もし氏がそこへ向かって飛翔するならば、
ただちに地上に失墜するであろうことを、氏は『イカロス』という詩に述べているように、どこまでも知り
ぬいていたのである。
三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、
徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、
共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能
以外の何が心を惹いたであろうか。思えば氏の不可能への夢、あの「青空による地上の否定」は、典雅な
造形力によって、作品のなかに封じこめられた。その危険な思想、不可能への渇きは、優に氏を“危険な思想家”
たらしめるに十分であった。
磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より

63 :
(中略)現世には仮構としての生活しかありえず、その「嘘偽の本質」を愛するほかはない。すでに世間的には
スタアであった三島氏は、その「嘘偽の本質」を、あるいは嘘偽のパラドックスを、どれほど深く愛したこと
であろう。その「嘘偽」の背後にある本心、それはあの“太陽神”の生きていた時代にたいする渇きである。
その渇きの基底にあるのは、いうまでもなく『葉隠』につながる日本的なラジカリズムの精神である。それは
いうなれば、有効性の彼岸にあるがゆえに聖なるもの、また聖なるがゆえに地上の汚濁に染まってはならない
ものであった。(略)この『葉隠』にたいする二重の自覚は、いうまでもなく“太陽”と“鉄”との二重性に
通じている。氏の渇きの喚び求めた、あの極限像としての“太陽神”は、つねに“鉄の悪意”に裏づけられた
ものであった。それは「戦後」という時代に向けられた悪意、あらゆる微温的な偸安にたいする悪意である。
(略)そして無効性を承知の上で、不可能性の一端を“死”によって可能に転化したとき、氏の“鉄の悪意”は、
ほとんど完璧な意味において、時代の偽善にたいする批評と化する。
磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より

64 :
遺作『天人五衰』の結末部に出てくる鼠の自殺のエピソードは、三島氏がどれほど醒めきっていたかを証して
余りある。(略)その自殺によって、猫や鼠の世界に大きな変動が起こりうるであろうか。猫がその奇妙な
鼠のことを忘れて、なおも偸安をむさぼっていることを、三島氏ははっきり書きそえている。いいかえれば、
氏は自分を愚かな鼠に擬したとき、氏にたいするいっさいの批評の無効性を、氏みずから確立してしまった
のである。この驚くべき自意識の屈折、残忍なまでのダンディズム、あらゆる批判の可能性を封じた鉄の悪意と、
不可能に挑んだこの倨傲。(中略)
“太陽神”の実在していた時代に、どうして不可能への渇きが必要だったであろう。また、戦後精神の
極限としての“鉄の悪意”なくして、どうして現実の戦後文化を軽蔑しつくすことができたであろう。(略)
三島氏には、死ぬというより死んでみせることが必要であった。そのかぎりにおいて、私小説家の追いつめ
られた生活演技とも、明確な一線を画している。政治的・外在的批判は別として、いったいここまで意識化
された死に、どんな批判が可能であろうか。
磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より

65 :
三島事件の直後、新聞記者たちの質問は、三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか、ということだったが、
私の反応は、ほとんど直感的に「ノー」と答えることだった。
たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい
国家意識の守護神と目されるだろう。
いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、
それを成し遂げたことを知ることができる。
エドワード・サイデンステッカー「時事評論」より

66 :
左翼人の私も右翼人の三島の「行動」には、かなり衝撃を受けたことも事実なのであって、これを匿す気には
ならないからである。
そして衝撃を受けなかった人はどんな人なのかと思ったりもするのだが、「行動」といい「芸術」といっても、
所詮人間はおなじなのかも知れない。しかも三島と私とはイデオロギーが全くちがっているのに、どこか類似性、
相似性があるような気がして、それが私自身気になるのである。
三島由紀夫こそはあきらかに、永井荷風や谷崎潤一郎やあるいは川端康成の耽美主義の系譜とその路線に沿いながら、
しかし明確な知性をもって、またその美的知性の故に、その路線の最終駅に到着しながら、それをなんらかの形で
社会的行動におきかえようとした努力家であり勇気ある誠実者ではなかったのだろうか。
山岸外史
三島事件についてのコメントより

67 :
三島は死ぬこと、さらに言えば意志的に死ぬことを欲した。
そのために彼の自己意識は何世紀もの意識を映し出すよう努め、彼の特異性は、もはや存在しないというあの
純粋な決断と一体となることで、より広い時間のなかに解体しようとした。
一つの生が完了をとげ、それと同時に、その生を結実させた一つの歴史を終了させた。
あの落日の短かく血まみれの光輝のなかに、自死の日本的伝統が要約され消滅したのだ。
モーリス・パンゲ「自死の日本史」より

68 :
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者をつなぐものこそ、蓮田の歌碑にきざまれた三十一文字の
調べなのではないか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは、「ふるさとの駅」の
「かの薄紅葉」のためだったのではないだろうか。
滅亡を知るものの調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。
それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。
なぜならそういう調べだけが、滅亡を知りつつ亡びて行くものたちのこころを歌いうるからだ。
江藤淳「南州残影」より

69 :
あの市ヶ谷での事件は、政治的なニヒリズムにもとづくパフォーマンスでも、非現実的なクーデタでもない。
三島は大塩平八郎と同様に、それが必ず失敗する事は識っていただろう。にもかかわらずそれを試みることは、
自滅ではなく、そのような大義を信じるものが日本に一人はいるということを示すための言挙げであり、
その言葉が、必ず、たとえば後世に対してであっても、聞く耳を持った者に伝わるという確信の表明だ。
故にそれはニヒリズムに似ており、ニヒリズムに発しているのだが、その大いなる否定なのである。
福田和也「保田與重郎と昭和の御代」より

70 :
日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、
はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある
扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。そんな国の下で平和を歎び、春夏秋冬口に入る
果物、野菜を讃へ、牛肉、鶏、(それらはすべて、体の中に蓄積されれば死の危険のある物質を含んでいる)を、
巴里の料理人を雇って来て料理させているレストランで会食して、得々としている、滑稽な日本人の状態を、
悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か?
このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。
議会の討論を聴いても、新聞を読んでも、私には日本の政府が暗愚だ、というよりも、狂気しているとしか
思われない。
私が三島由紀夫の怒りを見て、子供以上の純粋に感動したのは当然である。
森茉莉「気ちがいはどっち?」より

71 :
人間的に中身も何もないような、若いタレントのような人たちが、自衛隊の反応は正しかった、とか社会的な
影響はどうだとか、三島さんを断劾するようなことをしたり顔でテレビやラジオでいっているのを聞くと、ばかげてる。
ほんとに蹴とばしてやりたくなりますよ。
倉橋由美子
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

72 :
英雄や天才が卑小な人間に愛想をつかすのは当然の特権であって、これは病める人間が陥りやすい人間嫌いなど
とは全然別物である。私たちの敬愛は、三島氏が「おまへたちは阿呆ばかりだ」と思っていたことで損われる
性質のものではないので、三島氏は大声でその思っていることをいえばよかった。阿呆は自分以外の人間を
すべて阿呆だと思っている、などと歯切れの悪いことをいった芥川龍之介(鬼才とか秀才といった言葉はむしろ
この人にふさわしい)の場合とは違うのである。とにかく、そういう境地に達していた天才ならば、あとは
阿呆に対しても礼儀正しくふるまい、晴朗な顔をして憤死するだけだった。
昔から日本では三島由紀夫氏のような人があんなふうに憤死すれば神になることになっていた。ここで
神というのは英霊のもうひとつ先を考えているのであって、ユダヤ人が発明した神などとは無論関係ない。
(略)日本人は昔から三島由紀夫氏のような人間の霊を祀り、それにつながってその先にあるはずのものを
拝んできた。三島氏はみずから死んでそういう神と化す以外になかったのである。
倉橋由美子「英雄の死」より

73 :
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、
自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略)
その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。
「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ
まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略)
私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(略)
三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、
翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。
中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。
呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

74 :
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。
しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で
落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの
突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、
当時はそう断ずるだけの自信はなかった。
そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を
次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び
そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と
構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か
雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略)
呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

75 :
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には
師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。
それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な
連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門
(首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、
三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの
確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように
嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。
呉智英「『本気』の時代の終焉」より

76 :
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を
証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。
「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略)
三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には
先頭に立って闘う民兵組織である。(略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな
道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される
行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を
認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(略)
「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり
かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。
呉智英「『本気』の時代の終焉」より

77 :
私は実務の時代の価値を否定しない。(略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や
純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。
英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な
時代が到来した。(略)
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。
(略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。
呉智英「『本気』の時代の終焉」より

78 :
三島さんのこと少し判ってきたことがある。
(中略)イランとか、近東イスラム教の国家っていうのは、祭政一致でしょ。
あの振舞いは西欧からは不可解なはずなんです。でも、ぼくは戦争中の天皇というものを見ていると非常によく判る。
あれで類推すれば、もの凄くよく判る面があります。アジア的な部分で、ラマ教とか、イスラムとか、
生き神さまを作っといて、それを置いとくわけですね。
(中略)三島さんは、多分、ぼくの考えですけれども、インドへ行って、インドにおけるイスラム教の
あり方みたいなものを見て、仏教も混こうしているわけでしょう。そこの所で、天皇というものを国際的観点から
再評価したと思います。
それがぼくは三島さんの自殺当時判らなかったのです。
(中略)三島さんが国際的な視野を持ってきて、インドとか近東とかそういう所の祭政一致的考え方、それだと
思うんです。それ以外に日本なんて意味ないよと考えたとぼくは思うんです。
吉本隆明
小川徹との対談、雑誌「映画芸術」より

79 :
猪瀬直樹「三島由紀夫は、七十年に自衛隊のバルコニーに立って演説するわけです。
あの演説のとき、自衛隊員に罵倒されたでしょう。あれ、吉本さん、どうご覧になってました?」
吉本隆明「なんてやろうだ!と思ってました。死ぬ気でいる人間の言葉を、自衛隊に入隊して
一緒に訓練した人間の言うことを、黙って聞いてやることぐらいしたらいいじゃないか。
これじゃ、三島さんが気の毒だ…、というのがホンネでしたね。」
1994年12月2日号「週刊ポスト」より

80 :
昭和四十一年七月九日、三島さんは美輪明宏さんの日経ホールでのチャリティ公演に歌手として出演、美輪作曲で
自作詞の「造花に殺された船乗りの歌」を歌った。その年は「サド侯爵夫人」が芸術祭賞をとり、劇団NLTを
創った私たちは六月から七月にかけて関西公演に行く所だった。私はその打ち合わせに三島邸を訪ねた。
帰り際に三島さんは、いたずらっぽい笑みをたたえ「ちょっと聞かせたいものがあるんだが、今度ねえ、僕が
歌うんだよ。それをテープに入れたから――」と、既に用意してあったテープレコーダーをかけた。
ほとんどのものに手をそめた三島さんだったが、歌は初めてだった。お世辞にもうまいとは言えず、ためらう私に
たたみ込むように「丁度、関西から帰って来る日だろ。切符を用意しておくよ」と、にこりと笑った。
寺崎裕則「私の心の中に生きる三島さん」より

81 :
三島さんは、胸の開いた黒のポロシャツに真白なズボンの格好いいマドロス姿で歌った。素晴らしかった。
舞台には歌の巧拙を超越し、そこに一人の詩人がすっくと立っていた。私の不安は雲散霧消。
終って明宏さんを囲んで打ち上げパーティーをした。三島さんは私に感想を求めた。思った通りを話したら
「そうか」と言ったものの、ちょっと不満気だった。
おひらきになると三島さんは「寺崎君、プロの歌手の手前、あれ以上、ほめると明宏さんに悪いと思ったんだろ。
これからはもう遠慮はいらない。ほめ言葉というものは幾らあっても多過ぎることはないんだよ」と、瑤子夫人と
六本木のステーキ屋へ拉致され、朝迄、“歌手三島由紀夫讃”をする破目になった。三島さんはすっかり
満足され、瑤子夫人と夏の、昇る朝日に向かって帰って行かれた。そのうしろ姿に好奇心と、稚気が戯れ合って
美しいオーラ(光輪)を描いていた。
寺崎裕則「私の心の中に生きる三島さん」より

82 :
三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、
短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。
そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉
『我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。』
この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。
最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。
黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

83 :
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、
人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、
この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の
降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、
心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。
黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

84 :
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと
突き刺さる精神のクーデターだったのです。
(間)♪♪♪♪♪
三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような
弔辞を捧げました。そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず
起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で
日本の将来を期待とともに見守っていて下さい、このようにお願いをしました。
それから二十年。日本は変わったでしょうか! 残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。
あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。三島さん、あなたの名前は
今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、
あなたの思想は依然として危険視されています。
黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

85 :
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、
空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない。」
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。
また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。しかし、今までの二十年と同じく
あまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。ともあれ、いま、幽明境を異にした
あなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。
この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。…
黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)

86 :
まさにわれわれ左翼の思想的敗退です。あそこまで体を張れる人間をわれわれは一人も持っていなかった。
動転したね。新左翼の側にも何人もの「三島」を作らねばならん。体制側の動きがそういう人間を作ってくれる。
滝田修(京大パルチザン軍団)
三島事件についてのコメントより

87 :
天賦のもの、その質量ともに、作家としてこゝ何十年来、無類の人だつた。
その才能を人工する努力と、その多彩さに於ても、想像を絶した人だつた。
しかも絢爛とした人工造形に、天恵の感情がつねに匂つてゐる、かういふ評語を、殆ど第一級点で当てることが
出来るやうな文士だつた。
その上に、わが使命観を自ら律したその今生の風懐は、エヴエレスト山の頂を超えた。それは不思議なことか、
当然のことか、彼は、学ぶ以前に、知つてゐた。わが平安盛期の文脈の情意の如きも、それを学んだと思へない先に、
少年の彼は、驚くべき濃密度で知つてゐたことだつた。
彼を初めて知つたころから、東京帝国大学の学生だつた時代にかけての印象である。
私が彼を知つたのは、その中学校時代の終り方だつた。
保田與重郎「たゞ一人」より

88 :
日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考へる時、偉大なる生の本願を、文人の信実として
表現した人は、戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫たゞ一人を記録する。
過渡期を超越したこの人である。
…三島氏は、日本人について、「繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐい稀な結合」と云つた。
そして「これだけ精妙繊細な文化伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ衰亡してしまふ」と云ふ。
この史観と実践倫理を、彼の一代の生き方の上に重ねた時、わが身心は、たゞおののく感じである。
保田與重郎「たゞ一人」より

89 :
三島由紀夫氏の最後の四巻本の小説は、小説の歴史あつてこの方、何人もしなかつたことを、小説の歴史に
立脚した上でなしあげようとしたのであらう。さういふ思ひが、十分に理解されるやうな大作品である。
三島氏も、人のせぬおそるべきことを考へ、ほとほとなしとげた。
そこには人間の歴史あつてこの方の小説の歴史を、大網一つにつつみ込むやうな振る舞ひが見える。
人を、心に於て、最後に解剖してゆくやうな努力は、私に怖ろしいものと思はれた。
三島氏ほどの天才が思つてゐた最後の一念は、皮相の文学論や思想論に慢心してゐる世俗者よりも、さういふものとは
無縁無垢の人に共感されるもののやうにも思はれる。
その共感を言葉でいひ、文字で書けば、うそになつて死んでしまふやうな生の感情である。
保田與重郎「日本の文学史」より

90 :
私が三島由紀夫氏を初めて知つたのは、彼が学習院中等部の上級生の時だつた。
…そのあと高等部の学生の頃にも、東京帝国大学の学生となつてからも、何回か訪ねてきた。
ある秋の日、南うけの畳廊下で話してゐると、彼の呼吸が目に顕つたので、不思議なことに思つた。
吐く息の見えるわけはなく、又寒さに白く氷つてゐるのでもない。
長い間不思議に思つてゐたが、やはりあの事件のあとで拙宅へきた雑誌社の人で、三島氏を知つてゐる者が、
彼は喘息だつたからではないかと云つた。
私はこの齢稚い天才児を、もつと不思議の観念で見てゐたので、この話をきいたあとも、一応そうかと思ひ、
やはり別の印象を残してゐる。
保田與重郎「天の時雨」より

91 :
彼がそのわかい晩年で考へた、天皇は文化だといふ系譜の発想の実体は、日本の土着生活に於いて、生活であり、
道徳であり、従つて節度とか態度、あるひは美観、文芸などの、おしなべての根拠になつてゐる。
三島氏が最後に見てゐた道は、陽明学よりはるかにゆたかな自然の道である。
武士道や陽明学にくらべ、三島氏の道は、ものに至る自然なる随神(かんながら)の道だつた。
そのことを、私はふかく察知し、粛然として断言できるのが、無上の感動である。
保田與重郎「天の時雨」より

92 :
三島氏らは、ただ一死を以て事に当たらんとしたのである。
そのことの何たるかを云々することは私の畏怖して自省究明し、その時の来り悟る日を待つのみである。
私は故人に対し謙虚でありたいからである。
三島氏の文学の帰結とか、美学の終局点などといふ巷説は、まことににがにがしい。
その振る舞ひは創作の場の延長ではなく、まだわかつてゐないいのちの生まれる混沌の場の現出であつた。
国中の人心が幾日もかなしみにみだれたことはこの混沌の証である。
保田與重郎「天の時雨」より

93 :
私は日本民族の永遠を信じる。
今や三島氏は、彼がこの世の業に小説をかき、武道を学び、演劇をし、楯の会の分列行進を見ていた、数々の
この世の日々よりも、多くの国民にとつてはるかに近いところにゐる。
今日以後も無数の国民の心に生きるやうになつたのだ。
さういふ人々とは、三島由紀夫といふ高名な文学を一つも知らない人々の無数をも交えてゐる。
保田與重郎「天の時雨」より

94 :
総監室前バルコニーで太刀に見入つてゐる三島氏の姿は、この国を守りつたへてきたわれらの祖先と神々の、
最もかなしい、かつ美しい姿の現にあらはれたものだつた。
しかしこの図の印象は、この世の泪といふ泪がすべてかれつくしても、なほつきぬほどのかなしさである。
豊麗多彩の作家は最後に天皇陛下万歳の声をのこして、この世の人の目から消えたのである。
日本の文学史上の大作家の現身は滅んだ。
保田與重郎「天の時雨」より

95 :
わが国の民間人の歴史では、拝む神が何さまといふことよりも、拝む人の心のあり方が、世の中を決定した。
しかもそのことを本人はときあかさないのである。
さうした三島氏自身が、自分の仕事のすべてが、自身の末梢神経の働きで出来たものだといふやうな、空虚観と、
同時的に混沌の茫大な世界を眺めたやうに思はれる。
客観的に同時代の文士を懸絶してゐる彼のすぐれた文章が、彼の末端神経の所作のやうに私には思はれるのである。
保田與重郎「天の時雨」より

96 :
国のため いのち幸くと願ひたる 畏きひとや
国の為に 死にたまひたり

わがこころ なおもすべなし をさな貌
まなかひに顕つを いかにかもせむ

夜半すぎて 雨はひさめに ふりしきり
み祖の神の すさび泣くがに
保田與重郎
昭和45年11月某日、哀悼の句

97 :
その遺書をよんだ時、同志の青年に対する心遣ひの立派さに私は感動した。三島氏の思想行為については、
今のやうな状態でも、私はなほとかくのことをいふことが出来る。並んで自刃した森田必勝氏については、
この青年の心を思ふだけで、ただ泪があふれ出る。むかしからかういふ青年は数量上多数といへないが、無数に
ゐたのである。かういふ見事さがあるといふことだけを示した。何も残さぬものが、永遠と変革と創造を、
流れにかたちづくつてきたのである。(中略)
三島氏は内外の人心の悲惨や荒廃のありさまを、優秀な文学者の直感で、我々の知らない不幸まで了知し、
人道滅亡の危機をひしひし感じてゐたのであらう。彼の近年の思想上の急激な上昇現象には、第一義の高尚な
原因がある。彼の政治論は、今日の時務論の次元でよめば全く無意味である。しかし彼は清醇な本質論を、
汚れたけふの時務論のことばでいひ、卑しい政治論の次元から説き起さうとした。私は身のつまる思ひがする。
保田與重郎「眼裏の太陽」より

98 :
三島氏の描いた両界曼荼羅の金剛界は華麗無変の美文学だつたが、胎蔵界の解では、最も低級なものや、
人でなしまでも相手にせねばならぬと自身思ひ定めた。一見この空しい努力は、世俗といふ誤解の中へ投げ
だされてしまふ。しかし彼の思ひをこめたことばと振舞は、最も純粋に醇化された時の人の心の中で、人々の
かなしみをかきたて、さらにおびただしい若者の心に、考へることの無用な光りを、明りをともした。
偽りのもの、汚れたもの、卑怯なもの、利己主義なものは、皮相的な恐怖から、ありきたりのことばの罵倒を
しても、それによつて自己のいつはりと不安をうすめることは出来ない。無視するといふものは、沈黙して
無視しきれぬ卑怯な弱者である。正気の人はこの日民族の歴史をわが一身にくりたたんで、ものに怖れるべきである。
いつはりと卑怯に生きてきたものは、己の不安と恐怖の原因をしかと見つめることが出来ない。憎悪と猜疑しか
知らなかつたものは、明らかに最も怖れてゐる。
保田與重郎「眼裏の太陽」より

99 :
三島氏の心は、正実な者の間の戦ひを信じつづけてきたのであらう。しかし詩人のゆゑに英雄の心をやどした
稀有の文学者は、古来、詩人や英雄のうけた宿命の如く、最も低い戦ひにつかれ、いやしい下等な敵に破れた
のである。その死の瞬間に、眼うらに太陽を宿すといつたことばの実現を、私はただちに信じる。私は真の文人の
いのちをこめた言葉を、絶対に信じるのである。実証主義の人々は、死を如何ほどに描いても、死の瞬間は
わかるものではない。甦つた者のことばはその瞬間の証ではない、死んだ者のことばはきくすべがないといふ。
しかし秒で数へられる時間の彼方の未知といふことの方を何故怖れないのか。
三島氏は自衛隊を外から見聞してゐたのでなく、内に入つて見てきたのである。まことに誠実の人である。彼の
旧来の不思議な奇矯の行為も、誠実の抵抗ないし反俗行為として解釈すべきところと私は思ふ。身丈を越える
程の著述を残した人の片言隻句をとり出せば、どんな愚かな低い形にも三島氏の像をつくることが出来る。
それはつくつた者のいやしさの証にすぎない。
保田與重郎「眼裏の太陽」より

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