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2012年6月大河ドラマ673: 結局、直江兼続って何した人なの?Pert2 (593) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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結局、直江兼続って何した人なの?Pert2


1 :09/04/22 〜 最終レス :12/01/14
2009年大河ドラマ主人公直江兼続について語るスレッドです。

2 :
つい先日読んだ3、40年前に書かれた評論に兼続の名前があったのには驚いた
知ってる人は知ってたんだね
自分は大河になるまで、ぜーんぜん知らなかったんだけどさ

3 :
My goodness!

4 :
@直江執政体制をしいて、豪族の独立性が強い上杉家で主君景勝の権力集中を図った
A秀吉死後、上杉家の勢力拡大(謙信以来の宿願である関東奪還)を試みる大博打を打った
B夢破れ、上杉家を徳川政権下での大名へ転換させた
政治的な動きはこんなものかな。内政とか文化事業はほかにもあるけど。

5 :
漢籍に詳しい知識人のようだね。
平和な時代に生まれて学者やってたらぴったりな人かな。
和歌より漢詩なイメージというか。そういや辞世の句は知らないな…。
ふつう残ってそうだけど

6 :
>>4
でもさ、それらの事象は景勝の業績なんじゃないの?
何か直江ファンは良いことは直江の業績にして、悪いことは景勝のせいにしてる気がするな?
あとAの根拠は何?

7 :
直江の功績であって景勝の功績じゃないという話ではない。二人を分離
して考えるべきではない。ただ、景勝が「万事すきなく差配する」
と信頼した直江がいなければ、または狩野が生きていて独裁制にな
らなかったら家中が一本化してたかはわからない。
Aについては、最上と伊達を屈服させて関東へ侵攻する計画があった
ことが直江や景勝の書状からわかる。もともと単独で戦う気だった上
杉家が、西軍敗退でいきなり降伏に転じたことも「滅亡したら意味
がない。生き残ることも義だ」といきなり悟るより、なにか大きな
野心が潰えたと考えたほうが納得できる。この説はtruth of Histo
ryの直江本でも主張しててなかなか興味深かった。

8 :
まあ野心を抱くのは自由だからな
伊達にも最上にもボコられてるのが現状だが

9 :
小説「関ヶ原」の影響で、景勝と兼続は二人でワンセットのイメージが
ありますねぇ、そういえば。
前スレでいろいろ挙げられていた業績も、あくまで個人レベルのことだったし。
当時の上杉家がどういう行動をとって、その中で兼続がどんな役割を果たしたのか
ってことになると、あまり記録が残ってないのかな。
重臣としてどこそこで指揮をとってた、ぐらいで。

10 :
あくまで兼続の存在は景勝の補佐だからな。
他家の家老より上杉家中において有力な立場の執政だったが
それでもやはり兼続は景勝の権力内の存在であって
兼続の事績は景勝の事績と切り離せるものではない。
独自裁量など行っていたら越権行為。
兼続の事績は古書の収集編纂といった個人的趣味の範疇以外の政治的動向は
景勝の意を受けたものと見るべき。

11 :
>>7
>最上と伊達を屈服させて関東へ
権力者の後ろ盾がないと勝ったこと無いホモ主従が
百戦錬磨の最上や伊達を屈服させるって言われても…ww

12 :
>>11
最上は上方の情勢が定まるまで時間稼ぎしようとしてたけど、
秋田との共謀がばれて直江に攻められた感じ。でも結局は序盤
の時間稼ぎが功を奏して、関ヶ原の決着付くまで持ちこたえた。
伊達は小山会議の後は上杉と徳川両方に従属の意向を示していて、
直江は「関東に侵攻する際は政宗本人か家老数人に兵を率いさせ
て従わせる」と書いてるので、話はだいぶ進んでいた様子。 でも
政宗を信じてはおらず、「向こうが破っても何度も停戦の使者を
送るよう」命じてる。そのとおり、政宗も東国の情勢を家康に伝
える役目も果たしてる。

13 :
直江の辞世の句を教えてください

14 :
>>9
史料は多いよ。『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』(吉川弘文館)などの研究書もある。
家中のことに関しては↓の文章がまとまってる。
「従来の研究において、兼続が『執政』と呼ばれる大きな理由には、自分の家臣である与板衆を次々
 と抜擢登用して、検地の奉行、上杉の直轄領の代官、知行宛行状の発給、および佐渡・出羽庄内
 の支配などを担当させていたことにあり、上杉氏の分国支配の根幹をなしていたとされる」
                              片桐昭彦「直江兼続と一族・家中」
                                        (2009)
>>6の言うような景勝の業績を奪うとかいう話ではないけど、実際に細かな差配をしていたのは兼続で
あることは先行研究からも残ってる史料からも疑いのないこと。直江が家中で圧倒的な勢力を誇れば、
彼が主君と一体である以上は景勝の権力上昇につながる。そして実際に同化したような存在になった。
最近では、直江家断絶もお船の上杉家への同化によって、養子をとる必要がなかったという指摘もさ
れてる(浅倉有子 2009)
>>13辞世の句は伝わってないですよ。

15 :
景勝=小泉
兼続=竹中
謙信が死んでから衰退→衰退→衰退→衰退

16 :
なんか、直江山城守兼続のドラマなのに、今一兼続の影が薄いね。
今一度、彼(及び景勝)の功績?を思いつくまま列記します。
@ 日本で最初の図書館(誰でも書物を見れる寺)禅林文庫を造った
(米沢藩校興譲館が出来る実に200年前)。
A 直江版と呼ばれる日本で最初の銅活字本を造った
(全61巻、国宝)。
B キリシタン禁教令後も景勝とキリシタン(信教の自由)を保護し続けた
 (「米沢藩領に切支丹これなく候」、との幕府宛書状あり)。
C 最上川上流の松川に石堤を作り洪水を回避し開墾を奨励。
 米沢30万石を約15年で実石高51万石まで引き上げることに成功(米沢は四方を山に囲まれ、開墾には不向きだが)。
  米による経済だけでなく、紅花、青祖、楮、ウコギ等栽培を奨励し、家臣リストラせず逼迫する藩財政を潤した
(兼続死後兼続の政策は無視されていたが、後に上杉鷹山が兼続の政策を自ら実践)。
 半米半金税(半分が米半分は紅花等商品作物で納める:日本初の税制)を敷き民衆の商品作物を重視。
D朝鮮出兵で、貴重な論語や漢詩等を持ち帰り禅林文庫に収めた。
E直江家の婿になり、いとこのお船と結婚(生まれた子供は近親相姦のためか、早く死亡)
側室も持たず、春日山林泉寺には、戦国武将の墓として珍しく、夫婦全く同じ大きさの墓が並ぶ。
F武田から菊姫を景勝の妻を迎えることに成功、武田家血筋も残すことに尽力。
G伊達家存続に尽力(伊達政宗に小田原早期参陣を促し、佐竹対策で上杉領を通らせた)。
H直江状(転封まもなく、内政忙しい。謀反など全くないことを説明(上杉家として一戦も辞せずとの考えはあり)
 家康方は、経済発展のための道路建設事業等まで「戦いの準備」ととらえた。 まあ、兼続ならずとも反論したくなりますわな。
I大将兼続自ら約500の兵で殿を務めた最上領からの撤退作戦
(相懸引作戦)は旧日本陸軍「日本戦史」でも取り上げられ撤退戦の手本となった。
 敵将最上義光曰く「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と。家康も「聞き及びし、よりいや増しの武功の者」と賞賛。
J東北の地で初めて鉄砲製造を行った。
K鉄砲の撃ち方指南書(1604年 鉄砲稽古定)を書いた
 今福・鴫野の戦い大野治長・後藤又兵衛(負傷)軍2万数千を打ち破り、大阪城に閉じ込めることに成功。
L数々の漢詩を残した(例えば、1599年の「春雁、花に背いて帰る」の詩には豊臣からの誘いを断って会津に帰る決心が読み取れ、
 また亀岡文殊堂にて1602年初詣詩会で奉納した「元日」の短冊には、つつがなく新年を迎えた人々を見て安堵する兼続の姿が浮かぶ)
M1604年、四季農戒書(養子の本多政重が加賀藩へ行ったため、加賀藩に残っている)
N米沢と庄内を繋ぐ「朝日軍道」を引いた(個人的にはNHK天地人のオープニングに流れる雪山の行軍は「朝日軍道」だと思う。
O神指城建設事業←若松城では城下が手狭。また小田山からの攻撃に弱い面(270年後の戊辰戦争で兼続が懸念した弱さが露呈)。平地に城下を大規模(若松の約2倍)にし道路も整備。経済が発展しやすいよう工夫。完成した神指城、是非見てみたかったです。
P上杉の人質となった真田信繁を客人として丁重に扱い、「義」の精神を伝授。
Q第一次上田合戦で上田城防衛のため上杉軍の援軍を入れ、また「軒猿」と呼ばれる忍者を使い、徳川軍を翻弄した。

17 :
ここまで突っ込みどころが多いとアンチではないかと疑ってしまうな。

18 :
>>16
@日本最初の図書館というのはどうも...
A直江版は現在の研究では銅版ではなく、木活字であることがわかっている。
 それでも画期的なことだけど。
Bこれはイエスズ会に史料がのこってるらしい。
 ただし史料には、「景勝」とある。
 実際、米沢藩のキリシタン政策は、兼続死後ではなく景勝死後に大転換している。
C51万石の実高は、定勝時代の寛永検地のもの。
 定勝時代には、福島の西根堰が完成している。
 青祖の栽培は定勝時代以降に軌道にのった。西村家が青祖の専売を始めたのも定勝時代。
 綱憲時代には全国最大のシェアを誇ることになる。
 兼続時代に基礎があたことは否定しないが、兼続死後その政策が無視されたなんて...
 Dこれは完全に否定するつもりはないが、以前朝鮮から持ち帰ったとされた
  「史記」等の書物は、現在では日本で収集したものとされている。
 F武田との同盟に兼続がどうかかわったのか、歴史上は不明。
  長安事件で配慮したことは事実か。なお武田信清の息子の嫁はお船の養女(本庄長房の娘)
 Gこれも実際、兼続がどうかかわったか不明。
 M四季農戒書は元禄時代の作との説もあり。
 Pこらはもう火坂氏の妄想.....
 Q「軒猿」って...史料あるんすか?
 
 

19 :
いとこ同士は近親相姦じゃねーよ。現在でもいとこ同士の夫婦はいるわ…。
単純に子供らは運無く死んだんだろ。

20 :
会社に例えると
景勝 ブランドイメージの高い老舗企業の跡取り。地元の国立大卒
兼次 企画など管理部門担当の専務執行役員
こんな感じですか?

21 :
>>16
>>18
あえて言っちゃうけど、公務以外はほとんど個人レベルの業績ですよね。
歴史に影響を与えるようなものがない。
公務にしても、当然ではあるけど景勝のもとで、という範囲内のもの。
もちろん知性に恵まれていたことは疑いようがないし、宰相としての能力が
優秀だったことも確かで、機会さえあれば、という想像をさせてくれる人だとは思うけど。
日本史にはあまりいないけど、主君の地位をその器量以上に押し上げて見せたり、
秀吉亡きあと、景勝と共に家康と天下を争った、とかしてればともかく、
歴史上のポジション自体は、どうしても石田三成より下に感じてしまいますねぇ。
景勝とワンセットのイメージで、なおかつ、あくまで謙信の跡取りでしかない。
勝頼みたいに、信玄の跡取りというより、信長のやられ役のイメージがついちゃってるよりは
ましでしょうけど。

22 :
歴史への影響というなら、関ケ原の発端を開いたということで
十分影響を与えてると思うが(穿った見方かもしれないが)。
史実から掛け離れた美化には合点できないが、
米沢時代の史料からみても、濃やかな差配のできる第一級の行政官だったと思っている。

23 :
第一級といえば増田長盛とかすげーよな。

24 :
>>22
>歴史への影響というなら、関ケ原の発端を開いたということで
十分影響を与えてると思うが(穿った見方かもしれないが)。
いや、自分から積極的に動いて、の話のつもりです。
どちらかというと、そんなつもりはなかったのに、家康に利用されたくさいし。
まーその点に関しては、結果からの思い込みかもしれませんけど。

25 :
直江状に関しても景勝の意見と一致しているからな。
だからこその直江の立ち位置なんだろ。
あくまで主君景勝に従い景勝を支える名宰相って扱いなんだから。
景勝がただのボンクラ跡取りで兼続の大活躍で大老になった訳でもないし
兼続が主君の意志を無視した独自行動を取った馬鹿でもない。
景勝は上杉家を運営する上で兼続がいないとあちこちで支障がでると評価してるが
結局のところそこなんだろ。
他の誰より仕事ができるからいないと凄く不便な宰相。
異常な兼続賛美も貶めもうんざりするな。

26 :
>>18
すいません。16さんにつられて間違った字書いちゃいました。
青祖→青苧です。

27 :
会津に代わる拠点として築城していた神指城の建設は直江状書いたあとも
上杉征伐が決まるまで続けてるから、もともとは反逆の意志はなかったん
だろうな。もっとも、直江状では前田の一件についても触れてるから、家
康の狙いには気づいた上で、簡単には屈しない意地を見せたかったんだろう。
家康も利用したつもりが、三成方に大老や奉行が味方して一転ピンチに陥ったけど。

28 :
>>27
>家康も利用したつもりが、三成方に大老や奉行が味方して一転ピンチに陥ったけど。
でも、最終的には家康は、ピンチを乗り切って最大の成果をあげましたよね。
もちろん結果論ですけど。
ただ、事前に打つべき手は全部打った上での話で、ギリギリの勝負だったってわけでもない気がする。
もちろん最大の賭けではあったでしょうけど。
最近の小説とかで、兼続を主人公にしたもので違和感があるのはこの点で、
現実には家康みたいな真似は、兼続には絶対出来なかった気がします、武将として。
天下を目指すには相応の器量が必要で、景勝の家臣という立場を抜きにしても、
兼続にはその器量があったとは思えない。色々挙げられてる業績を見ると、
なぜか余計にそう思えちゃう。
例え石田三成と立場が入れ替わったとしても、やっぱり家康には勝てなかっただろうし
三成以上の事は出来なかった気がします。

29 :
>>27
あくまで上杉征伐時〜三成挙兵時の話です。その後ピンチを乗り切ったのは
事実ですが、家康の読みとは大きくかけ離れてしまったのは確かです。
家康は謀反を起こすのが石田や大谷ぐらいだと過小評価していたので、誓紙
を交わした毛利や家中がゴタゴタ、上杉征伐にも参加予定だった宇喜多など
が敵になって相当ショックを受けたはず。鳥居元忠も上方がみな敵になった
ことで小早川や島津を疑い、伏見に入城させず。毛利や宇喜多なども敵にな
るのを想定してたとしたら、自ら大軍を率いて上方を空けたのは相当軽率な
行動です。小早川は最初から東軍に加わるつもりだったのが、西軍の調略に
より、当日もぎりぎりまで寝返りませんでした。前日に松尾山を占拠した時
点で東軍であることを宣言したようなものだったのに、開戦後動けなかった
のは西軍が優勢に戦っていたから。打つべき手は全部打ったのでしょうが、
余裕の勝利というわけでもなかったと思います。
直江の器量云々はIFの世界なのでなんともいえませんが、絶対にと断定するのもどうかと思います。

30 :
>>29
おれとしては、家康の読みが外れたというよりいろんな予測のうち、
より悪い側へ事態が動いたというイメージです。
上方を留守にしたのも、そうでもしないと三成一党を釣り上げられなかったんでは。
秀頼を担ぎ出される危険さえなければ、敵がある程度増えることは覚悟してたような気がします。
しつこく結果論ですけどね。
関ヶ原の決着まで、思いもよらなかったトラブルが、次々と起きてバタバタしてるうちに、
いつの間にか収まってた、なんてはずはないですよね。
問題は起きても、全部想定の範囲内というか、最終的には何とかできる自信と読みがあったんじゃないでしょうか。
もちろん余裕なんかは、なかったでしょうけど。
兼続の、というか景勝も含めての器量が、家康に敵わなかったと思う理由は、
関ヶ原合戦後、何で家康に謝っちゃったんだろう、という疑問がわいたからです。
上杉家内部の諸事情とか当時の情勢とか、詳しく知らずに書いちゃいますけど、
程度はともかく、最初に家康に対して突っ張って見せたのなら、何で最後までそれを
通さなかったのかな、と。
おれの勝手な想像ですけど、景勝と兼続にとっては、天下人が誰になろうとおれらには関係ない
とか思ってたような気がするんですよね。
財産が減って、かなり厳しくなるけどしょうがないよね、もう決まっちゃたんだし、みたいな、
前向きな意味での官僚的な、切り替えの早さを感じてしまうのです。
そういう潔いのとは違う、あきらめの早さは天下をねらうには不向きというか
家康とは格が違うと思うのです。

31 :
>>30
スレ違いなので詳しく説明はしませんが、家康がすべてを見通し
ていたとするのは徳川史観のなごりです。毛利や宇喜多、大坂城
の奉行衆まで敵になったことは秀頼が担ぎ出される危険性も非常
に高く、それを想定していたなら、三成の釣り上げにしては博打
が過ぎます。家康の命を受けていた小早川や島津の入城を鳥居が
拒否した一件も、当初の想定からはかけ離れてしまったことを示
しているのではないでしょうか。
天下を狙う狙わないというのは器量とか格を測るのとはまた違う
ものさしだと思います。負け組の上杉主従が江戸時代以降も悪く
言われたかったのも、むしろそうした姿勢(そういうイメージ)
が要因でしょう。
関ヶ原で勝敗がついた後も、実は上杉家では佐竹口からの関東侵攻
を選択肢に入れています。降伏したのには、結果的に与した西軍の
敗北のほか、結城秀康をはじめ、家康周辺に上杉家への同情論、上
杉征伐前にはなかった態度の軟化に原因があると思われます。

32 :
これで勝っちまうから家康はすげーよ。「家康の計算通り」って
言いたくなるのもわかるわ

33 :
>>31
いやいや、おれも家康がすべてを見通していたとまでは思いませんけどね。
秀頼に関しても、担ぎ出される心配がなかったからこその、行動だと思ってます。
三成は当然秀頼を大将にしたかったけど、淀殿が戦いそのものに乗り気じゃなかったので
断念せざるを得なかったという記事を見たことがあります。
これ以上は、スレ違いですかね。おれとしては、最近の兼続の取り上げられ方を
踏まえた上で、比較の意味で家康を持ち出したんですけど。
兼続自身の業績は前スレで出尽くしちゃった気がするし。
もっとも、家康以外に同時代で比較対象を上げるにも、他はあまり知らないんですが。
>関ヶ原で勝敗がついた後も、実は上杉家では佐竹口からの関東侵攻を選択肢に入れています。
そういう手があるんなら、なぜこっちを選択しなかったのよ、と思うんですよ。
それこそ、博打を打つには、失うものが大きすぎるとは思いますが。
上杉家からすれば、家康が上杉討伐の軍を出した時に相当な覚悟をしたと思うのです。
なのに、関ヶ原戦後とのギャップがあまりに大きくて、どうしても理解できない。
それとも、強硬派と和睦派で二つに割れてたんだろうか。
戦前と戦後で、主導権を握った勢力が入れ替わったとか。むしろそのほうが普通かな。
>負け組の上杉主従が江戸時代以降も悪く
言われたかったのも、むしろそうした姿勢(そういうイメージ)
が要因でしょう。
すみません。この部分だけ意味が通じなかった。
上杉主従が、悪く言われるのを望んだってことですか?
兼続が、直江家断絶を望んだとかいう説は見たことあるけど。

34 :
>>34
秀頼が出陣しなかったのは結果論です。総大将の毛利も大坂城に入っており、
秀頼が担ぎ出される心配がないと、遠くにいる家康が思えるだけの材料はな
いと思います。ちなみに小説などで家康派にされている北政所も実は中立、
または三成寄りだったと言われ、西軍の必勝祈願にも出席しています。
上杉征伐前は「上洛しろ」の一点張り。家康は事前に城の普請を認めながら、
後になってこれも謀反の動きとみなしています。関ヶ原後、結城秀康は上杉
家の謀反がはっきりしたことでないことなどを家康に言上し、寛大な処遇を
するよう訴えています。上杉家の奉行の安田は「毛利みたいに二カ国だけに
なっていいから許してくれというのはいやだ」と言いながら、「和平の件は
私も強く推したので大丈夫」と書状に残しています。おそらく家康の側から
は謀反に関してはもう糾明しないーなど、上杉家の面目が立つような形で和
平を持ちかけたのだと思います。
「江戸時代以降も悪く言われなかった」のミスでした。

35 :
>>34>>33のミス

36 :
結局、景勝も兼続もわずか15万石の大名に落ちたわけだから、謙信の遺産を食いつぶしただけってこと?

37 :
謙信の遺産って全方位敵の状況ですか古志と上田の対立を放置してたことですか
敵国の人間を後継権持ったまま放置していたことですか。

38 :
>>36
謙信の遺産といってもなあ。
むしろ上杉研究者たちは、景勝、兼続たちは有力国人の集合体にすぎなかった越後を
より強力な権力のもとに再統一したととってるんじゃない?

39 :
関ヶ原は、結局、毛利輝元が徹頭徹尾腰抜けだったことに尽きる。
大阪城西の丸退去により上杉が取るべき道は一つになった。

40 :
>>36
15万石になったのは、景勝・直江が死んだ40年後です。
嗣子無しで通常取り潰しの所、会津の保科正之が上杉家存続に奔走したのだそうです。

41 :
閻魔状書いて領民虐殺したステキな人

42 :
>>41
直江は立派な方です。亀岡文殊堂に奉納されている「元日(直筆)」の詩でも読んでみたら領民に対する「愛」が伝わりますよ。

43 :
>>36
わずか魚沼一郡10万石から
置賜プラス福島・伊達51万石なら
大躍進と思われ

44 :
>>40
その後は、実質「吉良家」だろw
ま、もともと「上杉」ったって長尾家なんだから、むしろ吉良に戻ったほうが正統なんだが

45 :
だてに着こなして…甲冑販売 仙台
 三越仙台店が、戦国武将をイメージした男性用下着「甲冑(かっちゅう)」の販売を始めた。
ご当地の仙台藩主伊達政宗のほか、直江兼続、上杉謙信の3モデルをそろえた。
 包帯と同じ素材で作られ、甲冑模様の斬新なデザインとは裏腹に、はき心地は抜群。購入者は歴史好きな50代男性が中心だという。
 常在戦場。男の人生とは、常に戦いの連続だ。「心を奮い立たせる気合の一着。
だてに着こなし、男ぶりを上げてほしい」と、販売員も一押し。
2009年05月10日 日曜日
河北新報 宮城
http://www.kahoku.co.jp/news/2009/05/20090510t15035.htm

46 :
「愛」のバカ兜のを
これから女とやろうって時に曝したら、引かれるだろ

47 :
デアゴスティーニの「歴史のミステリー」、6/2発売号は
直江兼続の実像特集。どんな内容になるだろうか。

48 :
結局何した人なのさ?
何も出て来ないじゃん

49 :
大河が悪いんですぅっ

50 :
>>44
当主が女系相続しただけで「実質」は上杉家のままじゃん。
家臣団構成も何も変わってないし政治的に吉良の影響も受けてない。
金出してただけで口出しはさせてないぞ。
長尾景虎→上杉政虎の時は完全に上杉家は長尾家に食われた形になってるが。

51 :
女系相続はムチャ家格ダウン
吉良の影響受けないどころか吉良に植民地化されて搾取されまくり
→長尾→吉良で実質上杉は消滅。乗っ取った長尾も消滅

52 :
植民地化?
上杉家を動かす層のどこが吉良に乗っ取られたんだ?
家臣団の動きや藩政ちゃんと調べたほうが良いぞ。
憲政→謙信や謙信→景勝は家臣団体制が完全に変化し
重臣衆もそれぞれ府中長尾・上田長尾の家臣に入れ替わってしまい
政治的にも上杉家は飲み込まれてしまっているが吉良家にはその傾向はない。

53 :
米沢から絞り出した富を吉良家の本領の方に回していたみたいよ
そっちでは吉良ってありがたい殿様だったらしい

54 :
で、政治介入させていた根拠は?
吉良が上杉から金を出してもらってた事くらいは最初から書いてるだろ。

55 :
介入なんて誰が書いてんの?
介入でなく、吉良による乗っ取りでしょ

56 :
だから全く乗っ取られてないが。

57 :
つうか長尾が乗っ取った時点で上杉なんてのが実体無くなって
形骸化したから

58 :
つーか上杉が倒されたのは明らかに北条ではなく長尾のせいだしな。
謙信ばかりに目が向けられるが謙信以前の時代の長尾一族は
越後でも関東でも上杉家ボコりすぎ。
長尾一族の戦闘能力は異常。

59 :
結局、景勝が凄いってこと。
直江が幾ら優秀だって、男気があったって、戦が強くたって、景勝(社長)が直江に一任しない限り、歴史の表舞台へは出て来なかった人。
現在、企業の社長でもなかなかここまで専務にここまで任せられるオーナー社長はいない。

60 :
>>59
実態なく傀儡だったかもよ
又は、やる気ない番頭任せの2代目社長

61 :
結局、直江兼続って何人殺した人なの?

62 :
畑谷城では500人以上ぶっ殺したらしいけどな

63 :
最上義光 「暗殺なら民は幸福に暮らせるよw」

64 :
藤島・仙北一揆で撫で斬りした分があるから、かなりイイ数字が出るはず

65 :
直江兼続が存在したことの一番大きな歴史的意義は上杉家の近世大名化
直江家は長尾家(上杉家)の家宰で、主家と非常に近い位置にある。
取次を務めるなど頭角を現した兼続はその直江家に養子入りし、景勝
の下、上杉家の近世大名化を図った。直江に権力が集中するのは、彼
が背かない限り景勝への権力集中にもなる。国人を排除するだけでは
なく、色部、須田といった有力豪族は婚姻関係を結んで手なずけた。
すごいのは直江でなく景勝という指摘もあるが、能力がなければ史学
界で「直江執政」と呼ばれるような特殊な体制は維持できない。
勘違いしてる人も多いが、生存中(死後しばらくたっても)は直江執
政に対する反発はほとんど表面化していない。

66 :
反発はありまくりだし、死後直江は否定されてお家断絶してるよ
藤田、上条と対立して追い出しているし
杉原や安田も直江を嫌っていたみたい

67 :
直江の反発からお家断絶になったのなら、
直江の与力中の与力ともいうべき志駄は、なぜ死ぬまで藩政を牛耳ることができたんだろ?
菩提寺の破却に関しても、そのことを伝える史料(藤林年表)の信憑性を研究者は疑ってる。
最初から兼続は林泉寺に埋葬されたんじゃないかという説もあるよ。
直江死後、与板衆独占への反発があったのは事実かもしれないが。
定勝は志駄の息子の奉行就任を認めなかったからね。
最上家の例をみても、あの困難な時代を直江執政という強力なリ−ダ−シップで乗り切ったのは
結果としてよかったんじゃないか。

68 :
>>66
・上条は遠ざけられて勝手な行動ばかり。川中島統治がうまくいかず、春日山に戻されて
 隠居状態でふてくされて出奔。豊臣奉行衆にあきれられる。直江執政への反発云々以前の問題。
・藤田は対徳川問題で直江というより上杉家中で孤立。
・水原と仲が悪いソースは親戚が関わった軍記物。直江の行軍に嘆息する水原の場面について、
 『関ヶ原軍記大成』の編者は直江の行軍進路は適切で「ありえない逸話」と断じている。
・安田は書状で直江を「旦那」と呼んでいる。直江のせいで安田の大坂の陣での武功がもみ消され
 たという逸話があるが、同じ大坂の陣の逸話では直江が安田を先鋒に推したが、景勝が退け、須
 田にしている。須田は将軍から感状をもらった。
直江死後は平林正恒、その死後は志駄義秀が「執事役」として藩政を取り仕切る。
志駄、清野長範、広居忠佳が中心だが、藩主御成の回数などから志駄がその中でも
特異な地位にあったとみられている。志駄の息子義繁も「執事役」を継いだが、一
年ほど、直江の死からは十数年経ってから解任されてる。
志駄義秀の母は直江景綱の娘(お船の姉か?)で、父を早くに亡くしたので義秀も
直江家で養育された。

69 :
上杉家の場合、「何を成したかではなく、どう生きたかが問題」なんだよな、謙信公以来の伝統
そういう所は、戦国時代や平成の世では理解されない
むしろ、「儒教的な"人道"」を重んじた、江戸期や昭和期に評価される人だと思う

70 :
>>69
朝鮮は儒教の国だからああいうのか?
パクリ、責任転嫁、中傷、負け犬根性、上等

71 :
なんだ結局直江一派の志田の息子は遠ざけられているじゃないか
上杉の義なんてのは、江戸期になってから後付された無能への言い訳だからな
ところで、このスレの「何した人なの?」に全然答えが無いじゃないかよ?
業績ない人、で決定でOk?

72 :
大河ドラマの主人公になったことがそんなに悔しいのか?

73 :
ていうか自分らが払っている視聴料を
変な武将に使われたのが皆くやしいというか
皆迷惑してる

74 :
武将が変なんじゃなくドラマが変なんだろ。

75 :
>ていうか自分らが払っている視聴料を
>変な武将に使われたのが皆くやしいというか
>皆迷惑してる
良く聞く「精神的苦痛を受けた」ってやつですね
ところで、どちらの団体・組織の方々ですか?

76 :
いやいやお金取られてるんだから
精神的どころか実質的な苦痛だよ
謝罪と補償を求めたいくらいだ
おおっと、どっかの国みたいになっちまうがな

77 :
ぼろ糞言われるのは想定済み
子孫がすぐ断絶してしまった人だから、跡腐れなく一年たったら次の番組へ
NHKは確信犯だと思うな

78 :
冤罪で殺した遺族にぎゃーすか騒がれてムカついてまとめて殺しちゃった僕ちゃんでしょ(゚Д゚)
違ったっけ?

79 :
愛の1字のみか

80 :
 

81 :
>結局、直江兼続って何した人なの?
それよそれ、歴史オタではない俺が見てると、
今回の主人公は何やってるか、どっちに向かってるのかさっぱりわかんね。

82 :
脚本協力も意味ねえな。

83 :
まあ>>4あたりで満足できない人はどう答えたって満足しないんだろうけどね

84 :
努力したぁー?頑張りましたぁー?
結果、結果。要はいくら儲けたが問題なんだよ(怒)
by 営業部長<平取まであと一歩>

85 :
豊臣奉行や幕閣に食い込んでるんだから営業部長とし
てもたいしたもんだろ

86 :
直江状[豊光寺充直江兼続書状(慶長5年4月14日)]
直江状は、原本が所在せず、写(うつし)が江戸時代に流布しました。
日付や言い回しに不自然な部分があることや、部分的に内容の異なる写が
複数あることなどから、偽文書であるという説があります。
承兌の書状も原本が実在しないのですが、相国寺の「鹿苑日録」には、
承兌が3月29日から4月1日にかけて大坂・伏見に滞留したことが記されて
います。4月22日には、徳川家康からの進物が承兌に届けられたと記録されて
いることから、家康の意を受け、伏見にて承兌が書状をしたためたとする
見解が有力視されています。
また、承兌に対して兼続が書状を送ったことは、「鹿苑日録」の5月11日条に
「自直江来状之返礼調之」という記載があるので確実と言えますが、
これが「直江状」なのかどうかは不明です。また、5月7日付け
「豊臣氏奉行衆連署條書」写(「歴代古案」1813号)における
「今度直江所行不届之儀、御腹立御尤ニ存候」の一文も、兼続の返書が
家康を怒らせたとする通説の傍証とされています。

87 :
何年か前、フジの「トリビアの泉」で、「愛の兜」が紹介されて
へぇそんな奴がいたんだぁ、ってことで爆笑の渦で「満へぇ」が出た。
つまり、そういうこと。
直江兼続なんて。

88 :
石田三成の上杉家版

89 :
今回で言えば、この頃に
越後に新田開発などを行い、
現在の越後の農業の基礎を築いたそうです
(『新潟県史』などより)
+金銀山の開発を進める
(佐渡をはじめ主要な金山のほとんど
上杉家財政の支柱ともいえる金山開発は兼続が把握していた)

90 :
新田や鉱山の開発はやって当たり前で
やってない藩が無いというほど普通のもの
米沢の新田開発は伊達家の業績
伊達家が去って上杉家が入った時点で、置賜・伊達・信夫郡で30万石もあった
国持ち大名でも30万石無いところもあるから、いかに伊達家が増産したかが分かる
その後上杉になってからの最高石高は50万石ぐらいだった
これは30万石の藩の豊作の時の石高だから
直江が入ってからあまり増産できなかったということを示している
これらから推測すると
直江って普通の事業を責任者として乗っかって
業績を独り占めする名人だったんじゃないかと

91 :
家康が小山から西へ引き返して関ヶ原合戦に
景勝:直江!追うのだ!!!
兼続:追いとうございますが、背後の伊達が会津に雪崩れ込んできます
景勝:伊達かぁ!!!
兼続:三成殿にはアイスマン箏をスタ
一時的に会津失っても上杉軍も西下して関ヶ原で東軍を背後からつく形で参戦する策はなかったか?
東海道街道筋が鬼門か?中山道(小諸経由)はどうか

92 :
越後の話にわざわざ伊達の名前を出してきてアンチとは

93 :
>91
家康が小山から西へ引き返して関ヶ原合戦に
兼続:景勝様!追撃しましょう!!!
景勝:いかん!後から追撃する卑怯は、上杉の義に反する!
兼続:兼続、生涯の願いにございます!!!
景勝:内府(家康)のやりようがどうであれ、我らは勝って誇れんような戦いなどすべきでない!
こっちが本当

94 :
賭けに出なかったといえばその通りだが、実際に徳川軍を追
撃して、最上・伊達に会津を蹂躙されてたら今頃大河にもな
ってないし、アホ武将呼ばわりだったろうな。

95 :
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/kin/1248884968/l50

96 :
大河用に後世創作された全く架空の人物
そう言われたら俺は信じてしまう
歴史の中に埋もれてる有象無象の無名のひとり
どうせならさらに嘘をつらねてSF的超人でも俺は一向に構わんよ
声を出しても構わんよ

97 :
泣き落としで全て解決した人

98 :
Pert2????

99 :
地元新聞より
Q「天地人」の直江兼続ってどんな人?
A 主君・景勝とともに兼続は神仏を信じ、人として正しい行いをした謙信の「義」という心を学んだ。
当時は戦国時代で、人を信じられない時代だったが、みんなの幸せを願って「愛」という言葉にたどりついたのでは、と言われる。(愛の兜は、戦いの神である愛宕権化や愛染明王が由来ともいわれる)
 6〜8歳の頃に仙桃院(景勝の母)に認められて景勝の小姓になった。
5歳年上の景勝とは兄弟のように仲が良く、共に雲洞庵ウントウアン(寺院)で学問に励んだ。
その頃の武士はひらがなが書ける程度の者も多かったが、兼続は漢語はもとより他の知識も幅広く優秀だった。(後に、謙信にも目を掛けられる)
しかも、常に人の為になる事を考えて実行した。
「少年時代に、田畑に水を引く為に、湖から川まで水路を作る計画を立て、地元の子供を2千人も集めて成功させた」という言い伝えも残っている。
 「天地人」のタイトルは、上杉謙信が言った「天の時、地の利、人の和の3つが整った時、物事は上手く行く」という言葉から。
兼続は自分の城を持っても、田畑の仕事をして、人の和を大切にしながら町造りをしたと言われている。
そういう全てのものを愛した人という意味も込められているかもしれない。
 豊臣秀吉が「陪臣ながら天下の仕置きが出来る人物の一人」と言うほど信頼され、徳川家康に謀反を疑われた時も、堂々と立ち向かった。
敵と話し合う時は「信じて貰うことが大切」として、武器を持って行かなかったとも言われている。
それ位に、人を愛した武将だった。
※「天地人」実行委員会企画宣伝部参照より。

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