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2012年6月日本史28: ◎邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)に存在した!2 (209) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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◎邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)に存在した!2


1 :12/05/16 〜 最終レス :12/06/07
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
前スレ
邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)である
http://logsoku.com/thread/awabi.2ch.net/history/1296451185

2 :
前スレの流れがわかるようにかいつまんだテンプレート
日向の古墳で卑弥呼の墓の候補は、西都原81号墳などで、
畿内なら箸墓古墳だろうけど、
出土品の新旧ぐらいしか、つまり何世紀に作られたか、ぐらいしか記されておらん。
ttp://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/saitobarumain/kofun/81gofunhappyo0592-1.jpg
畿内から九州に入った土器文化として代表的な
ものに櫛目波状文土器が挙げられる。
それは、弥生中期に畿内に発生した櫛描文土器
文化が瀬戸内海を経て九州に入り、弥生後期〜
終末期における九州東部(大分県・宮崎県)で
顕著な発展をとげたものである。
>宮崎が邪馬台国とか言ってるやつは、何が根拠なんだ。
倭人伝のとおりに進めば宮崎だ。それに中国が王侯に与えた玉璧がでているのは
宮崎だけだ。弥生時代から古墳時代にかけ連続して繁栄していたことが考古学的
に確認できるのも宮崎だけだ。
どう進んだら宮崎なんだよww
玉璧って串間のやつだろ?箱書にかいてあるだ
けで、本当に串間の遺跡からでたのかもわから
ない。

3 :
上北方の笠置山墳墓にしろ生目古墳群の近くの北にあるものは
確実に生目より古くて、古墳時代の範囲すら出かねないからもはや古墳ではないということで
面倒や前提が覆るのを怖がって調査しないということらしいが
これらが事実ならもう確定だろうな
箸墓古墳 撥形前方後円墳
全長280m 後円部直径157m/高さ22m 前方部幅125m/高さ13m
生目1号墳 撥形前方後円墳
全長136m、後円部直径86m/高さ17m 前方部幅65m/高さ12m
生目古墳群(いきめこふんぐん)にある地下式横穴墓1号墳は全長136メートル、高さ17メートルの前方後円墳。
一説にわが国最古の前方後円墳といわれ、畿内の箸墓古墳はこの古墳を2倍に拡大した相似形と言われている。
これが神武東征の動かぬ証拠だ。

4 :
>水行一日を千里、陸行一月を二千里という換算で、
水行10日は距離の不明確な帯方郡から末盧国までの海路1万余里。
末盧国から陸行2000里が1ヵ月。
投馬国への水行10日も末盧国までの海路1万余里と、
ここから先、残りの水行10日は、里程を知らない倭人の手漕ぎ倭船による日程。
(中国人は投馬国へは行ってはいない)。
>陸行一月を二千里という部分の 根拠がよくわからない。
1万2000里から海路10日の1万余里を引くだけ。根拠など無用。
>短里二千里なら、150キロ〜160キロ程度だが。
短里など持ち出さなくても、魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれているという事実がある。
>>214
>水行十日陸行一月が、帯方郡からの距離なら、
>不弥国から先の距離は記載していなかったことになる。
1000家(1000戸ではない)の不弥国は、邪馬台国エリアに入る最終関門の官衙とみた。
>距離がないのは、全行程から引き算して求めよという、
「簡潔にして饒舌」をもってよしとする歴史書は、行間のほうが饒舌な場合が多い。
不弥国から邪馬台国までは、残りの陸路1300里。バカでも計算できる。
ただし、すべて魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれている。
>水行陸行の日数表記は、 距離を表していると解釈する。
だ・か・ら。
「日数表記」が「距離を表している」とは日本語にもなっていなかろう。
いずれにしても、「邪馬台国が墓場の西都原」などとは現実からほど遠い願望空論だ。

5 :
玉璧って串間から出たと江戸時代に書かれてる話だろ
串間は高鍋藩が治めた飛地だ
高鍋藩の本領には古墳群がいくつかあるんだが原因は不明だが過去の盗掘がひどい
幕府領だった西都原の妻・穂北は状況は良いけどな

6 :
>>4
万二千里では邪馬台国までは行かないぞ。末盧国から二千里(150〜170キロ)
はせいぜい熊本だ。

7 :
10000里で約700kmだからな
末盧国から残り2000里だとどんなに遠くても熊本だな
直線じゃ行けないし

8 :
伊都国から先を考えれば、残りは千五百里だ。これは百キロから百二十キロ。
倭人伝が書く水行十日陸行1月とは絶対に合わない。
つまり、万二千里というのは、邪馬台国までの距離ではない。女王国までの距離に
過ぎないってことだよ。で、女王国とは何だ?って話になる。

9 :
女王国とは何か? ここで注目すべきは、旁国の奴国について「此女王境界所尽」
とあることだ。当然、これは奴国までは女王国だってこと。
つまり、万二千里の所から境界の尽きる奴国までの間にある国々が女王国に属する
国々だってことだな。

10 :
自郡至女王國、萬二千餘里
末廬國までに1万里、伊都国までに10500里使ってる
残り1500里だと熊本の八代あたりになるな

11 :
陸行で二千里しか使えないのに陸行一月ってどういうこと

12 :
女王国の北の境界までが二千里なんだよ。
邪馬台国までが二千里なのではない。邪馬台国までの距離は良く分からない
から水行十日陸行一月と日数で書いているんだ。

13 :
境界までの距離だというと拒否反応を起こす連中が多いが、魏志は何度もそうゆう
書き方をしているんだよ。扶余は玄莵を去ること千里に在り、高句麗は遼東の東千里
に在り、これらはどれも国の境界の話だ。

14 :
>>4
この名無しは誰だ?  まるで俺説のコピーだが。
どこかで俺が書いたのをコピペしたのか? 気味がわるいぜ。
孫引きするのは構わんが、「伊作説」と断りを入れろや。

15 :
タブセjp (最新のニュース) ナンノ皇后陛下 2012・5・17
http://blog.livedoor.jp/jikeyasumasa-oomuroyasumasa/
2017年衆議院選挙で周栄康正が山口2区(岩国「田布施」選挙区)から出馬。
(維新の会から。)
2017年周栄内閣発足へ 約
2年間「首都機能移転内閣」
地家ヤスマサ

16 :
こういうこと?
水行10日が帯方郡→末盧国の10000余里
『南至投馬國水行二十日』
これも帯方郡からかかる日数
つまり末盧国から水行10日陸行0日が投馬國
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』
末盧国から水行0日陸行30日
『次有奴國 此女王境界所盡』
奴國は伊都国から南東へ100里=陸行数時間、帯方郡から10600里(海路10000陸路600)で水行10日陸行2日ほど
伊都国と奴國との境界までを記していて2万戸を有する奴國は当然さらに奥へ続く
同様に帯方郡から12000里、末盧国から2000里約150kmが女王國との境界までの距離
女王之所都は境界からまだまだ進まなければならない

17 :
九州から出ることもじゅうぶん可能になって九州説には不利な考え方だね
ただ当時の手漕ぎ舟で1日に1000里70〜80km進めるのかという疑問が

18 :
>>14
ごめん
>2>3>4は前スレからのコピペ

19 :
時期を考えれば当然かとは思うけどほとんど無視されてる例の二つ。
同時期築造で隣り合ってる例の狭穂塚×2はどういうふうに受け止める?
コノハナサクヤヒメはどうかと思うしやっぱ日向髪長媛と父君の墓なんかね?
同時期に同じ場所にあれだけ接して作ってるしかも九州1番目と2番目の規模だ磐井比定陵墓よりかなりでかい。
明らかに異様なことが起こってるが先がぼんやり見えてるからあんまりおもしろくはないか。
男狭穂塚は謎が残るが女狭穂塚はどう見ても5世紀のシロモノで、
それまでぼんやりだった大和朝廷にはっきり組み込まれた証左に思える。
もっと古い生目のはずれにあるものと笠置というものが興味深い。
笠置というのはなんだかよくわからんが。

20 :
笠置とか上北方とか笠置山と教育委員会とか遺跡資料リポジトリとセットで検索しても出てこん

21 :
>>16
デタラメな読み方をして辻褄を合わせてみたところで何にもならん。

22 :
「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、
当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、
後に飾りとなったのだという
▲ならば入れ墨のない者は当時の役所をクビになったのか??とは、むろん大阪市での職員への入れ墨調査を聞いて頭をよぎった妄想である。
役所が職員の入れ墨の有無を一斉調査するというのもびっくりだが、「110人」という調査結果にも驚いた向きが多かろう
▲そういえば最近タトゥーと呼ばれるファッション感覚の入れ墨を就職活動を機に消す手術をする若者が多いという。
欧米の映画などをまねて気軽に入れたタトゥーも、いざ職探しとなれば入れ墨がアウトローのシンボルとされてきた日本社会の市民感覚に突きあたる
▲さて映画では片肌脱いで桜吹雪を見せる遠山の金さんこと町奉行、遠山景元には本当に入れ墨があったか。
放蕩(ほうとう)ざんまいの若い頃に遊び仲間と腕に桜の入れ墨をしたと記すのは元幕臣の漢学者、中根香亭だ。
旗本の子弟が「武家彫り」などという入れ墨をした時代だ
▲だが香亭によれば、幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐことがなかったという。
さて景元は「若気の至り」を後悔したのかどうか。ともあれこと奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをしたと香亭は絶賛を惜しまない
▲大阪市職員の入れ墨事情は人それぞれだろうし、何らかの措置が必要なケースもあろう。
ただ未来の景元を失わぬようにするのも組織の「マネジメント」だ。
毎日新聞 2012年05月18日 00時16分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120518k0000m070123000c.html

23 :
魏志倭人伝とか連続とか放射?とかそういうのは習った覚えがあるけどそれしか知らん俺に言わせれば
デタラメなのか正しいのか分からない>>16さんの読み方でも西都原か知らんけどこのへんに持って来れるんじゃね?w
帯方郡って朝鮮半島でしたよね?
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』 てのはつまり南に邪馬壹國があって舟で10日歩いて1ヶ月って意味なんでしょ?
舟で10日てのは九州の北の海岸に着いたってことでしょ
そこから1ヶ月?南ときてる?w
最強すぎるだろwww
それとも鹿児島とかなんですかね
アホが汚してすまんけど

24 :
伊都国から南へ水行十日陸行1月で邪馬台国へ到達するということですね。
当時の旅はゆっくりしたものですし、2日歩いたら1日休みみたいなペースです。
平均すれば、1日6、7キロという進行速度、邪馬台国は南九州です。

25 :
>>23
素直に読めばそうなるな。先入観が無い子供に読ませてもそうなる。
医学のある分野の権威の人とか自然科学者とか理系の人が読んでもそうなるらしく、そういう本も出てる。
ただそうすると考古学的視点から考える考古学者はなんなのかという話になって意図せず考古学を侮辱することになる。
学者じゃない趣味でやる一般人はそんなこと知らんし考え方が見れれば良いだけの話なんだけどな。
>>24
それがどうも末廬國から陸行30日じゃないかという話の>16>23なんだがそうすると九州を出る可能性が出てくるな
でたらめ読みなのか

26 :
いやそうならんwすまん
邪馬壹國の南には狗奴國がなきゃならん。
なので南が海の鹿児島は地理的に無理がある。
鹿児島は投馬國ということになってて、大隅から球磨にかけて狗奴國というのがここでの話だな。
あくまでこの場ではな。

27 :
次有斯馬國〜次有奴國 此女王境界所盡 ときて
其南有狗奴國 とくるんだが、これにも不都合な点がない。
奴國にとっても邪馬壹國にとっても南方に狗奴國があるのだから。

28 :
>それがどうも末廬國から陸行30日じゃないかという話の>16>23なんだが
水行十日が末盧国までの話だとか、陸行1月が末盧国からだというような読み方は、
漢文を読める者ならば絶対にしないデタラメ読みだよ。

29 :
>漢文を読める者ならば
行程記事の文章構成をみれば、起承転結で転じた部分の語順がまるで違っていることに気づく。
中国語は語順が重要な言語で、語順が違えば読み方も意味も違ってくる。
お前らタコは、読み変えが必要な文章を、バカづらさげて続け読みしてるだけだ。
偉そうに大口叩くな。

30 :
俺はセンターで7割レベルの漢文力だw
魏志倭人伝を手元に持ってないので、ここで出てる
『南至投馬國水行二十日』
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』
『次有奴國 此女王境界所盡』しか知らない
探してみます

31 :
倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴
又南渡一海千餘里名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 宮曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王皆統属女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兒馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲 支次曰奴佳醍 可七萬餘戸
自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳

32 :
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有窮臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
計其道里當在會稽東冶之東
場所比定に関するとこだけ抜粋
すまんけど字は違うとこがあるし改行も空白も分かりやすく入れただけ

33 :
陸行一月を好きな方位にするなら、最初から行程なんて考えなくていいんじゃない
どうせ進んだ距離も目的地に合わせてるだけだから

34 :
>>30
なんだ・その「センターで7割レベルの漢文力」て。
中国語の古文と古文の文法が正しく分かるのでなければ、
7割レベルの読みで決まったというような、無責任な断定はしてくれるなよ。

35 :
俺がいう文章構成の構造と語順の違いと、起承転結の「転じた部分」がこれで分かる。バカでもなければな。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/4c/f568d5ce7cc76bb027c37437b459a2dc.jpg?random=30f49e7a4e8f8975f89bd8312df59f57

36 :
おっと。
これも日本では俺独自のものだ。
先の例のように、クレジットも入れずパクったり無断使用は禁じる。

37 :
>>31>>35乙!
ありがてぇ
勉強みたいに強いられるんじゃないこういうのおもしろいな
よーく考えてみますありがとう

38 :
>>33
素直に読めってんならもっともだよな。
南至邪馬壹國で水行十日陸行一月なんだから南に水行十日して上陸して南に陸行一月しなきゃならない。
でもそれならそのまま水行すればいいだけで不自然。
陸行で北に逆戻りするようなのも不自然。
上陸地点から西〜南西か東〜南東なのが自然だと思うんだよな。
陸行ならどこ行ってもいいってわけでもないよ。

39 :
中国天子の代理として日本に来る目的は一つ
日本の植物やら見て廻ったおっさんみたいにあっちこっち歩き回ったりしないよ
船でズドンだよ 魏も戦時下で暇じゃないんだから

40 :
本当に陸行一月したのか縛り上げて白状させたいな
戦の最中の狗奴国を避けるために外縁を通るように九州山地を延々と
前に八代→坂本村→五木村→水上村→椎葉村→西米良村→西都とか言われてるが
たしかに一月くらいかかりそうだが歩きたくないよ
陸行一月って狗奴国とか特殊な事情があっても全国規模で見ても限られてるんじゃないの

41 :
>>40
それは平家の落人のたどった道みたいだな。

42 :
上陸地点は川内だな
唐浜という地名が残ってる
そこから川内川経由だろ

43 :
>南至邪馬壹國で水行十日陸行一月なんだから南に水行十日して上陸して南に陸行一月しなきゃならない。
>でもそれならそのまま水行すればいいだけで不自然。
伊都国が怡土ならば、確かにそのまま水行すればってことになる。しかし、倭人伝のとおり進んで
伊都国=佐賀市付近ならば、陸行五百里も合理的だよ。海流に逆らって西回りに船を進めるのは大変
だ、陸行して有明海側に移動することは労力的にも安全面でも十分に考えられる。


44 :
「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。
水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、後に飾りとなったのだという
▲ならば入れ墨のない者は当時の役所をクビになったのか??とは、むろん大阪市での職員への入れ墨調査を聞いて頭をよぎった妄想である。
役所が職員の入れ墨の有無を一斉調査するというのもびっくりだが、「110人」という調査結果にも驚いた向きが多かろう
▲そういえば最近タトゥーと呼ばれるファッション感覚の入れ墨を就職活動を機に消す手術をする若者が多いという。
欧米の映画などをまねて気軽に入れたタトゥーも、いざ職探しとなれば入れ墨がアウトローのシンボルとされてきた日本社会の市民感覚に突きあたる
▲さて映画では片肌脱いで桜吹雪を見せる遠山の金さんこと町奉行、遠山景元には本当に入れ墨があったか。
放蕩(ほうとう)ざんまいの若い頃に遊び仲間と腕に桜の入れ墨をしたと記すのは元幕臣の漢学者、中根香亭だ。
旗本の子弟が「武家彫り」などという入れ墨をした時代だ
▲だが香亭によれば、幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐことがなかったという。
さて景元は「若気の至り」を後悔したのかどうか。ともあれこと奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをしたと香亭は絶賛を惜しまない
▲大阪市職員の入れ墨事情は人それぞれだろうし、何らかの措置が必要なケースもあろう。
ただ未来の景元を失わぬようにするのも組織の「マネジメント」だ。
▽毎日新聞 2012年05月18日 00時16分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120518k0000m070123000c.html

45 :
以下は言語学者の川崎氏の主張抜粋の引用。
「 狗加は犬トーテムだ。証明は略し、これが高句麗では桂寠部となり、王を出す部族となる。
ご承知のように韓国では犬を食べる。トーテムとは崇拝する事はあっても、自分の神を食べる事はありえない。
このことからして朝鮮の人々は犬族を今でも快く思っていないようだ。
犬族は印欧系であるという。エジプトで犬はエルと発音しそれが転じてエン、インになった。
En-g-land、G−er-man In−d、Ira−q、Ira−n すべてに、enとinが入っている。
これはすべてアーリア人の国であることを証明している。つまり、犬族はアーリア人だったと言う事だ。
狄(てき)は犬ヘンに火、犬族で拝火教徒、もしくは製鉄部隊を示している。」
地理的なものや、時間軸から考えても隼人の犬吠がこの流れを汲んでいると考えるのは自然な事だろう。
高句麗と隼人は同根であり、南九州の支配民族であって原住民族とは別種だと考えられる。
薩摩藩は類のない上士下士の身分差が激しい国だったが、逆に言えば、他の地域のように旧勢力を一掃できなかった事実を示す。
鎌倉以降に中央から任命された島津氏が、それ以後は下士として扱われる事になった旧勢力に対し
政治的譲歩せざるをえなかったほど強固な政治地盤を持っていた事を示す。
さらに後年、秀吉も家康も、それぞれ薩摩を解体するチャンスがあったにもかかわらずこの地域には一切触れようとしていない。
これはなぜか。

46 :
一方で大和民族は鳥トーテム。
ここでも引用しよう。
「 猪加はいのしし、あるいは豚を表す部族であるが、トーテムとしてとてもふさわしいとは思えない。
朝鮮、中国ではその発音は「ちょ」であり、殷時代の主力、鳥トーテム部族と思われる。
殷のマークは「三本足烏」であり、高句麗の伝説、ヤタガラスそのものである。
「猪奴部」と書いて「ちょなべ」すなわち、順奴部であろう。
そして、いのししはヰであり、「ヰなべ」と読める。雄略12年、建築の専門家として、猪名部御田が登場する。
彼等は建築の達人だったのだ。三重県の員弁、猪名部神社は猪加の事だ。
原シナ人として殷王朝時代に燕を建国していた。しかし、牛族の周が殷を倒し、
塩族・牛族が燕の国王に「召公」を封じたため、満州方面に逃亡した。
日本では、「い」と「ヰ」を区別しない。
しかし、伊勢は「伊勢」であり、井上は「ヰのうえ」である。チョンナで木を削るのは猪名部の名残である。」
つまり、近畿勢力は中国の古代勢力、現シナ人だと見ていい。
要するに、大雑把にって、弥生人主力が彼らに当たると見ていいだろう。

47 :
では、銅鐸文化である旧近畿勢力は一体何者であるのか?
言うまでもなく銅鐸は牛の首飾りであり、牛トーテムの象徴であると見ていい。
牛トーテムはその発祥であるオリエントのものだ。
もう引用はアレなので略すが、言語的に見て銅鐸文化圏にその名残は多い。
つまり時間軸はこうだ。
3万5千年前→バイカル文化系定着。原日本人。
2万5千年前→姶良カルデラ形成。九州全滅。南方系がその後定着(熊襲)
3千年前→中央平原を移動してきた牛トーテムの民(ヒッタイト系火信仰)到達。近畿に政権。
2千300年前→中国から鳥トーテム渡来。
        太陽信仰(アマテラス)と火信仰(スサノオ)のウケイ(政略結婚)が行われる。
        連邦国家の邪馬台国(大和国)の誕生。
        近畿を中国勢力(銅鐸系)が制圧し、出雲に旧勢力が存続する。
        最初期の出雲大社がオリエントのピラミッドや祭壇に酷似してる点などを踏まえても、
        出雲の方が古い勢力の名残である事は間違いない。
        製鉄民(火信仰)もその激動の中渡来し、南九州に政権。隼人。
        都井岬の馬の遺伝子から、馬もこの時にもたらされたと考えられる。隼人とは速人、つまり騎馬民族)
        彼らが親衛隊となった理由も、同じ渡来系の戦闘に長けた民族だったからだろう。
2世紀頃→気候変動で政変。内紛。南中国系が駆逐され、北方中国系(銅鏡系)が政権を取る。
     その後戦乱の時代が続く。
5世紀頃→九州の大和政権の傍流が隼人と連合。東征、近畿を制す→大和朝廷の誕生。

48 :
>現シナ人だと見ていい。
間違えた。原シナ人。

49 :
つまり、日本の武士(支配階級)の源流は大きく二つの民族に分かれるという事だ。
片方がオリエント系。後に騎馬系が融合。これが源氏。
もう片方が中国系の周王朝封建将軍の系列であり、平氏。
みなもと(である旧勢力)を平らげる、というのがおおもとの暗喩だろう。

50 :
絵がうまければ、漫画家にはなれるかも・・

51 :
>>39
だよな〜
後の時代みたいに牛車や籠に乗せるでもなく使者も歩くんだろーに
平家の落人の隠れ里になるようなそんな険しい道を通るか?って話で
東回りか横断するなら阿蘇高千穂経由だろうJK
それなら21国のうちいくらか通ってることになるね

52 :
メソポタミアのピラミッド
http://ameblo.jp/momocat1010/image-10231823610-10157868575.html
出雲大社
http://ameblo.jp/momocat1010/image-10231823610-10157868575.html

53 :
間違えた。
出雲大社
http://inoues.net/mystery/izumo_nazo.html

54 :
出雲は古い古い原日本人正当日本的勢力で時期だけ考えればメソポタミアとかそんな影響を受けたかもね?
天孫は中国色が濃い新興勢力
どっちにしろ出雲の方が歴史が古い

55 :
崇神天皇のおり、一度、出雲の御神体が大和に引き渡されている。
これは神主の留守に行われ、事態を知った神主が激怒し返還を求めたところ、殺された。
その御神体が三輪山にあるとも言われるが、その後も幾度か朝廷は出雲に人をやって
出雲の神体の調査を行っている。
この辺り良くわからないが、御神体だけではどうやら意味が分からないものだったらしい。
しかし、この事から確実に言える事は、出雲は伊勢よりも古く全く異質の宗教であったことが伺える。

56 :
出雲は毎年冬の初め頃西の海から海蛇がやってくるんだよね
重要なタンパク源として蒲焼にしておいしくいただいてたのかな

57 :
>>47
アカホヤが抜けてる
やり直し

58 :
>5世紀頃→九州の大和政権の傍流が隼人と連合。東征、近畿を制す→大和朝廷の誕生。
古墳時代の途中で勢力交替があった形跡はない。

59 :
現代人の感覚では川や海を国境にしたがるが、それは軍事的技術が発達した国の話であって
国境は即ち気候区分の事だった。
九州と朝鮮南部、黄海は同じ気候で、同じ生活形態だった。
つまり、魏などからすれば、この地域は丸ごと同じ地域だった可能性は高い
それを踏まえて考察すると、
http://www.kyuhaku.com/pr/exhibition/exhibition_s17.html
中程の地図を見れば解る通り、実はこの地域の中心は熊本である事が解る。
大きな意味での倭国、はこの地域の事だったろう。
むしろ近畿や紀伊半島は同じ気候区分に属しながらも、はずれの辺境だった。
同じ考えでいくと、出雲を含む日本海沿岸、東海・関東は全く別の気候で
これらの地域は生活形態が違い、即ち倭国ではなかった。
狗奴国とはこれらの地域の事であったのだろう。

60 :
アジア大陸に近いのが九州、それが倭国というのは理解できますね。
しかし、熊本が中心として支配力をもったかとなると・・・

61 :
筑紫国なら博多湾岸、太宰府付近、場合によっては久留米付近に
中心部が移ることもあるだろう。
肥国なら、北部の菊池玉名と南部の熊本宇城八代
に動くこともあるかな。
佐賀に移す可能性は低いかもしれない。

62 :
相変わらず大多数バカ多いな
筑紫国とか肥国なんて国名は
邪馬台国時代からず〜と時代が下った
後に勝手に付けられた固有国名詞だろ
絶対的な固定観念に囚われすぎなんだよ

63 :
>>62
http://www.genbu.net/engi/higo.htm
馬鹿は君。

64 :
延喜式で既に肥後と呼ばれている。
同時代の他の地域と批准しても、
字面は当て字であるが、音は変わらない場合がほとんど。

65 :
うてな遺跡のうてなって「台」を「うてな」って読むんだな
熊本説の人ってこれに惑わされちゃってるのか?

66 :
延喜式って平安時代だよ

67 :
肥前国風土記の時代ですでに肥前国であり、
それ以前は肥国であったと書かれている。
どのくらい遡るかは不明だが、
風土記以前であることは確実である。

68 :
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、あめにぎしくににぎし あまつひたかひこ ほの ににぎのみこと。
普通に解釈すれば、これは本来名前ではなく
天下全てがにぎやかに、天高く稲穂豊かなり、という祝詞の序文であろう事は想像に易い。
しかし、この日高彦、日が高い、はいかにも日向っぽくて男狭穂塚にふさわしく感じるけれども
実際にはこれは「ひこひこ」と読むのだろう。彦の彦であるから、孫の事。
そう考えるとこの名前にはルーツが見え隠れする。
では誰の孫であるか、といえば天照大神の孫で、あめ、は中国の天慶思想で
あまつ、はアマテラス家系である事を示す。
この事からもアマテラスが本来、男性神である事が伺える。(天皇家は父系だからね)
にぎしく、はにぎやか、つまり多くの国を従えた豊かな国、であり連邦国家の覇王である事を示す。
その意味で解釈すればホのニニギは
ひがにぎやかの神子、つまり「日の御子」であって卑弥呼の事である事が解る。
もっとも、卑弥呼とは人名ではなく役職名だろう。
つまり、倭国連邦議長国天照の孫、日御子という意味。
男狭穂塚が本当にニニギの陵墓であれば、そこには間違いなく邪馬台国の証、
魏製の銅鏡がはいっているだろう。

69 :
穀璧は魏でなく呉のものということなんだけど二股してたのかな?

70 :
呉血統だが俺のところにも朝貢して来てるぞっつう牽制だろ。ハッタリ作り話の可能性も大だなw

71 :
>穀璧は魏でなく呉のものということなんだけど二股してたのかな?
南九州はもともとは呉と通交していたんだろう。その南九州が北九州を破り、
九州全体を支配することとなった。そこで、魏と通交することを考えたって
ことだろうな。

72 :
水行10日and陸行30日でなくて、水行10日or陸行30日の可能性はないの?
投馬国には同じ方向で水行20日だから、orなら投馬国への道程の中間点の海岸から遠くないところにあることになる。
其餘旁國遠絶不可得詳 が駄目になるけど。
さらに遠いところにある投馬国について分かってるじゃないかって。
やっぱりandなのか…

73 :
>水行10日or陸行30日の可能性はないの?
学者でその主張をする人はいるが、駄目だろうね。投馬国については、陸行が書いてない。
それにorならば又はとか或いはという語句を入れるだろう。
or読みは距離を短くしたいがために無理をしているんだよ。

74 :
実際に旅した時に南至と東至を間違えるわけがないが、
書き記す時に誤った可能性を完全否定までできる根拠はないな。
南でなく東に向かったとすれば、水行10日+陸行1月で大和に行けるだろうな。

75 :
昔ながらの投馬国=妻国を捨てきれん
ミミとかミミナリとかかなり日向くさい
個人的には、古墳群形成より前の時代の日向の中心は現在の妻=西都に確定するほどではなく、
平野部で3つか4つの勢力に分散していて、そのうち最大勢力が宮崎市あたりにあったと思っているし、
また、日向国レベルの広域地名でツマと呼んでいたのか、そもそも当時にツマと呼ぶ地名があったのか
ってところで疑いが生まれるが、そう言うならどこでも同じだし投馬=妻、都万を捨てきれませんわ
狗奴国の狗古智卑狗=菊池彦といった熊本狗奴国説なら、その北が奴国か邪馬台国。
邪馬台国の場所が伊都国からにせよどこからにせよ水行10日and/or陸行30日というところで
「熊本狗奴国の北=邪馬台国説」は破綻するので、熊本狗奴国の北にあるのは奴国になるしそのあたりに位置するのはたぶん奴国だ。
投馬国=日向で狗奴国=熊本で奴国=福岡なら邪馬壹國はどこだとなると大和になるのか。
南至投馬国はだいたい合っているが、南至邪馬壹國が誤りで東至邪馬壹國が正解、邪馬壹國を畿内大和に比定しても叩かれるほどではないはず。
でも次有○国は全部九州内のようにも思える。

76 :
南九州と同じ地名が、実は北関東に再現されているのに驚くだろう。

77 :
>>74
それを言ったら「陸行一月」は「陸行一日」の誤写である可能性も否定できないでしょ

78 :
>>76
そういう地名の相似をまとめたサイトとかないかな?

79 :
>>77
きりがなくなるな

80 :
>>74
>書き記す時に誤った可能性を完全否定までできる根拠はないな。
南は、女王国以北や女王国の東渡海千里などと関係しており、誤写説はとうてい
成立しないよ。

81 :
>>75
投馬国=妻国という類似に気を引かれているようだが、地名の類似はいくらでもある。
投馬国=薩摩国ということも考えられるね。宮崎を投馬国とすると、使者が邪馬台国を
訪ねる前に何で投馬国を訪ねたのかを説明することも難しい。

82 :
南至邪馬壹國
自女王國以北其戸道里可得
自女王國以北特置一大率檢察諸國
南と書いた後に以北と二回言ってるし書き誤りではなくて本当に南だったか、南と思い込んでいたってことだろうな
東だったのに南と思いこんだ可能性が無いとは言えないが

83 :
>>81
邪馬台国を訪ねる前に投馬国を訪ねてたんかね?
投馬国は訪ねてないんじゃないかと思ったりする
邪馬台国すら訪ねてなかったりして?

84 :
生目古墳群の1号墳が箸墓の相似形なら、3世紀後半には大和の墓制の下にあったということで、
すでに大和は畿内から九州に至る勢力となっていたということ。
つまり3世紀中ごろの邪馬台国はほとんど確実に大和。
使者の勘違いか日向の在地勢力が詐称したのだろう。
畿内の支配はゆるやかな体制でまだまだ地域勢力が強かっただろうし。

85 :
>生目古墳群の1号墳が箸墓の相似形なら、3世紀後半には大和の墓制の下にあったということで、
>すでに大和は畿内から九州に至る勢力となっていたということ。
伊都国、奴国などが女王国に統属していたことは明らかなのに、北九州に箸墓の相似形古墳はない。
初期古墳とされる柄鏡式古墳は、大和に比べ日向の方が圧倒的に多い。
日向で始められた墓制が大和に持ち込まれたと見るべきだよ。

86 :
柄鏡形は日向の特色と言えるくらい数が多いが畿内には数えるほどしかないな
柄鏡形に関しては畿内に持ち込まれた形式…かもしれない
撥形は知らん
どっちにしても日向にしろ九州にしろこのへんの撥形は規模の面で箸墓に到底及ぶものではないので
箸墓当時にはかなりの勢力差があったんだろ

87 :
古墳を造ったのは、全国同じ政治勢力だよ。だから、墓の大きさは勢力差を表
すものではない。単にそこに労働力がどれだけあったかに過ぎない。

88 :
そう。古墳を作ったのは全国同じ「畿内」の勢力である。
畿内の古墳築造技術者が派遣されて現地の人々を労働者として徴用して造った。
最初は畿内大和が中心の連邦国家で後は集権化が進んだ。

89 :
それはひとつの推論で証拠はないだろ〜
関係ないけど景行天皇とかヤマトタケルの遠征譚とかあれも
天皇自ら畿内からわざわざやって来て6年も仮の宮に住むなんて

90 :
前方後円墳より前方後方墳の方が古そうなんだけど、
前方後方墳から前方後円墳が派生したという可能性はないんかね?

91 :
畿内が勢力の中心でないことは考古学的に間違いないね。
で、吉備からきたとか、出雲からきたとか言われてるが、どう考えても
辻褄が合わない。南九州にまで勢力をのばしたなんて到底無理。

92 :
思いっきり感覚でしかないが
大型前方後円墳があるところは
その時期に開拓されたところという
印象をもっている。
古い弥生集落が比較的少なく、
組織力、技術力をもった集団が
新たに入って開拓したのではなかろうか。
そもそも、人がすでに住んでいたら
追い出すのも一苦労だ。

93 :
大型古墳は農地開拓の残土処理と威信誇示の一石二鳥

94 :
>>90
あやしいな
前方後方墳は古い時代の畿内にも点在するし中国地方から北陸東海関東にまで及ぶ

95 :
>92>93
すごく合理的な推測乙
開墾するときに出た不要な石は古墳の葺き石用にどこかに集めてとっておいたのかもしれない
葺き石をおよそどこから持ってきたのか調査してくれないものかねー
河原由来か台地由来か低地由来かくらいが分かればどのくらい開墾されてたかの推測にも役立ちそう

96 :
>>94
神郷亀塚古墳の前方後方墳より古い前方後円墳ってあるの?

97 :
これより古い前方後方墳だとはっきり言えるものはないんでないの
弥生時代の方形墓に造り出しみたいに後方部を付けたものをどう扱うのかとか
神郷亀塚やホケノ山古墳とか檍1号からは木槨が見つかってることで共通するけど=中国なのかしらん
中国から直接影響を受けたのかこういう墓にしているらしいということでそうしてみたのか分からんよね

98 :
西都原の100号墳見てくればわかりますぜ。発掘時のまま葺き石が保存されてる。
やっと運べそうな大きなものから小石まで大きさは様々で別に規格があったわけではないみたいだ100号の場合は。
開拓で出た石を有効活用してたのかもしれん?
次このへんに造るから要らない石や土はここに置いといてねって具合で集めとけば造るときに効率よく造れそうだ。
川原なりどこかで拾って運んでくるならだいたいの大きさを決めて持ってきた方が見た目にも良さげでそうしそうなもの。

99 :
>大型前方後円墳があるところはその時期に開拓されたところという印象をもっている。
それより、軍を駐留させた所と考えたらどうかな?
兵にその訓練のため開拓や古墳造りなど力仕事をさせたということ。
巨大な山まで造って見せつければ、被征服者に対する力の誇示にもなる。

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