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2012年4月一般書籍200: 川端康成とか三島由紀夫のおすすめ作品2 (390) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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川端康成とか三島由紀夫のおすすめ作品2


1 :11/01/27 〜 最終レス :12/04/06
日本文学の名作揃い
前スレ
川端康成とか三島由紀夫のおすすめ作品
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1284823130/

2 :
前景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて
背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がつて、うなだれてゐる。わづかに左隅の
前景の数人の兵士が、ルネサンス画中の人のやうに、こちらへ半ば暗い顔を向けてゐる。
そして、左奥には、野の果てまで巨大な半円をゑがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と
識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がつてつづいてゐる。
前景の兵士たちも、後景の兵士たちも、ふしぎな沈んだ微光に犯され、脚絆や長靴の輪郭を
しらじらと光らせ、うつむいた項や肩の線を光らせてゐる。画面いつぱいに、何とも云へない
沈痛の気が漲つてゐるのはそのためである。
すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向つて、波のやうに押し寄せる心を
捧げてゐるのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思ひが、
中央へ向つて、その重い鉄のやうな巨大な環を徐々にしめつけてゐる。……
古びた、セピアいろの写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないやうに思はれた。
三島由紀夫「春の雪」より

3 :
女がとんだあばずれと知つたのちに、そこで自分の純潔の心象が世界を好き勝手に描いて
ゐただけだと知つたのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋心を味はふことができるだらうか? 
できたら、すばらしいと思はんかね? 自分の心の本質と世界の本質を、そこまで鞏固に
結び合せることができたら、すばらしいと思はないか? それは世界の秘密の鍵を、
この手に握つたといふことぢやないだらうか?
歌留多(カルタ)の札の一枚がなくなつてさへ、この世界の秩序には、何かとりかへしの
つかない罅(ひび)が入る。とりわけ清顕は、或る秩序の一部の小さな喪失が、丁度時計の
小さな歯車が欠けたやうに、秩序全体を動かない靄のうちに閉じ込めてしまふのが怖ろしかつた。
なくなつた一枚の歌留多の探索が、どれほどわれわれの精力を費させ、つひには、
失はれた札ばかりか、歌留多そのものを、あたかも王冠の争奪のやうな世界の一大緊急事に
してしまふことだらう。彼の感情はどうしてもさういふ風に動き、彼にはそれに抵抗する術が
なかつたのである。
三島由紀夫「春の雪」より

4 :
夢のふしぎで、そんなに遠く、しかも夜だといふのに、金と朱のこまかい浮彫の一つ一つまでが、
つぶさに目に泛ぶのです。
僕はクリにその話をして、お寺が日本まで追ひかけてくるのは別の思ひ出でせう、と笑ふのです。
そのたびに僕は怒りましたが、今では少しクリに同感する気になつてゐます。
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかもそれら三つは、
いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。手で触れることのできたものから、
一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないやうな美しい
ものになる。事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、
それは汚濁になつてしまふ。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを
涜(けが)し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから。
三島由紀夫「春の雪」より

5 :
夢とちがつて、現実は何といふ可塑性を欠いた素材であらう。おぼろげに漂ふ感覚ではなくて、
一顆の黒い丸薬のやうな、小気味よく凝縮され、ただちに効力を発揮する、さういふ思考を
わがものにしなくてはならないのだ。
法律学とは、まことにふしぎな学問だつた! それは日常些末の行動まで、洩れなく
すくひ上げる細かい網目であると同時に、果ては星空や太陽の運行にまでむかしから
その大まかな網目をひろげてきた、考へられるかぎり貪欲な漁夫の仕事であつた。
何故時代は下つて今のやうになつたのでせう。何故力と若さと野心と素朴が衰へ、
このやうな情ない世になつたのでせう。
一瞬の躊躇が、人のその後の生き方をすつかり変へてしまふことがあるものだ。その一瞬は
多分白紙の鋭い折れ目のやうになつてゐて、躊躇が人を永久に包み込んで、今までの紙の表へ
出られぬやうになつてしまふのにちがひない。
三島由紀夫「春の雪」より

6 :
あたかも俥は、邸の多い霞町の坂の上の、一つの崖ぞひの空地から、麻布三聨隊の営庭を
見渡すところへかかつてゐた。いちめんの白い営庭には兵隊の姿もなかつたが、突然、
清顕はそこに、例の日露戦没写真集の、得利寺附近の戦死者の弔辞の幻を見た。
数千の兵士がそこに群がり、白木の墓標と白布をひるがへした祭壇を遠巻きにして
うなだれてゐる。あの写真とはちがつて、兵士の肩にはことごとく雪が積み、軍帽の庇は
ことごとく白く染められてゐる。それは実は、みんな死んだ兵士たちなのだ、と幻を見た瞬間に
清顕は思つた。あそこに群がつた数千の兵士は、ただ戦友の弔辞のために集つたのではなくて、
自分たち自身を弔ふためにうなだれてゐるのだ。……
幻はたちまち消え、移る景色は、高い塀のうちに、大松の雪吊りの新しい縄の鮮やかな麦色に
雪が危ふく懸つてゐるさま、ひたと締めた総二階の磨硝子の窓がほのかに昼の灯火を
にじませてゐるさま、などを次々と雪ごしに示した。
三島由紀夫「春の雪」より

7 :
百年たつたらどうなんだ。われわれは否応なしに、一つの時代思潮の中へ組み込まれて、
眺められる他はないだらう。美術史の各時代の様式のちがひが、それを容赦なく証明してゐる。
一つの時代の様式の中に住んでゐるとき、誰もその様式をとほしてでなくては物を見ることが
できないんだ。
様式のなかに住んでゐる人間には、その様式が決して目に見えないんだ。だから俺たちも
何かの様式に包み込まれてゐるにちがひないんだよ。金魚が金魚鉢の中に住んでゐることを
自分でも知らないやうに。
貴様は感情の世界だけに生きてゐる。人から見れば変つてゐるし、貴様自身も自分の個性に
忠実に生きてゐると思つてゐるだらう。しかし貴様の個性を証明するものは何もない。
同時代人の証言はひとつもあてにならない。もしかすると貴様の感情の世界そのものが、
時代の様式の一番純粋な形をあらはしてゐるのかもしれないんだ。……でも、それを
証明するものも亦一つもない。
三島由紀夫「春の雪」より

8 :
ナポレオンの意志が歴史を動かしたといふ風に、すぐに西洋人は考へたがる。貴様の
おぢいさんたちの意志が、明治維新をつくり出したといふ風に。
しかし果してさうだらうか? 歴史は一度でも人間の意志どほりに動いたらうか?
たとへば俺が意志を持つてゐるとする……それも歴史を変へようとする意志を持つてゐるとする。
俺の一生をかけて、全精力全財産を費して、自分の意志どほりに歴史をねぢ曲げようと努力する。
又、さうできるだけの地位や権力を得ようとし、それを手に入れたとする。それでも歴史は
思ふままの枝ぶりになつてくれるとは限らないんだ。
百年、二百年、あるひは三百年後に、急に歴史は、俺とは全く関係なく、正に俺の夢、理想、
意志どほりの姿をとるかもしれない。正に百年前、二百年前、俺が夢みたとほりの形を
とるかもしれない。俺の目が美しいと思ふかぎりの美しさで、微笑んで、冷然と俺を見下ろし、
俺の意志を嘲るかのやうに。
それが歴史といふものだ、と人は言ふだらう。
三島由紀夫「春の雪」より

9 :
俺が思ふには、歴史には意志がなく、俺の意志とは又全く関係がない。だから何の意志からも
生れ出たわけではないさういふ結果は、決して『成就』とは言へないんだ。それが証拠に、
歴史のみせかけの成就は、次の瞬間からもう崩壊しはじめる。
歴史はいつも崩壊する。又次の徒(あだ)な結晶を準備するために。歴史の形成と崩壊とは
同じ意味をしか持たないかのやうだ。
俺にはそんなことはよくわかつてゐる。わかつてゐるけれど、俺は貴様とちがつて、
意志の人間であることをやめられないんだ。意志と云つたつて、それはあるひは俺の
強ひられた性格の一部かもしれない。確としたことは誰にも言へない。しかし人間の意志が、
本質的に『歴史に関はらうとする意志』だといふことは云へさうだ。俺はそれが『歴史に
関はる意志』だと云つてゐるのではない。意志が歴史に関はるといふことは、ほとんど
不可能だし、ただ『関はらうとする』だけなんだ。それが又、あらゆる意志にそなはる
宿命なのだ。意志はもちろん、一切の宿命をみとめようとはしないけれども。
三島由紀夫「春の雪」より

10 :
聡子と自分が、これ以上何もねがはないやうな一瞬の至福の裡にあることを確かめたかつた。
少しでも聡子が気乗りのしない様子を見せれば、それは叶はなかつた。彼は妻が自分と同じ夢を
見なかつたと云つて咎め立てする、嫉妬深い良人のやうだつた。
拒みながら彼の腕のなかで目を閉ぢる聡子の美しさは喩へん方なかつた。微妙な線ばかりで
形づくられたその顔は、端正でゐながら何かしら放恣なものに充ちてゐた。その唇の片端が、
こころもち持ち上つたのが、歔欷(きよき)のためか微笑のためか、彼は夕明りの中に
たしかめようと焦つたが、今は彼女の鼻翼のかげりまでが、夕闇のすばやい兆のやうに
思はれた。清顕は髪に半ば隠れてゐる聡子の耳を見た。耳朶にはほのかな紅があつたが、
耳は実に精緻な形をしてゐて、一つの夢のなかの、ごく小さな仏像を奥に納めた小さな珊瑚の
龕のやうだつた。すでに夕闇が深く領してゐるその耳の奥底には、何か神秘なものがあつた。
その奥にあるのは聡子の心だらうか? 心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、潤んで
きらめく歯の奥にあるのだらうか?
三島由紀夫「春の雪」より

11 :
清顕はどうやつて聡子の内部へ到達できるかと思ひ悩んだ。聡子はそれ以上自分の顔が
見られることを避けるやうに、顔を自分のはうから急激に寄せてきて接吻した。清顕は
片手をまはしてゐる彼女の腰のあたりの、温かさを指尖に感じ、あたかも花々が腐つてゐる
室のやうなその温かさの中に、鼻を埋めてその匂ひをかぎ、窒息してしまつたらどんなに
よからうと想像した。聡子は一語も発しなかつたが、清顕は自分の幻が、もう一寸のところで、
完全な美の均整へ達しようとしてゐるのをつぶさに見てゐた。
唇を離した聡子の大きな髪が、じつと清顕の制服の胸に埋められたので、彼はその髪油の香りの
立ち迷ふなかに、幕の彼方にみえる遠い桜が、銀を帯びてゐるのを眺め、憂はしい髪油の匂ひと
夕桜の匂ひとを同じもののやうに感じた。夕あかりの前に、こまかく重なり、けば立つた
羊毛のやうに密集してゐる遠い桜は、その銀灰色にちかい粉つぽい白の下に、底深く
ほのかな不吉な紅、あたかも死化粧のやうな紅を蔵(かく)してゐた。
三島由紀夫「春の雪」より

12 :
貧しい想像力の持主は、現実の事象から素直に自分の判断の糧を引出すものであるが、
却つて想像力のゆたかな人ほど、そこにたちまち想像の城を築いて立てこもり、窓といふ窓を
閉めてしまふやうになる傾きを、清顕も亦持つてゐた。
聡子はそのころふさふさと長い黒いお河童頭にしてゐた。かがみ込んで巻物を書いてゐるとき、
熱心のあまり、肩から前へ雪崩れ落ちる夥しい黒髪にもかまはず、その小さな細い指を
しつかりと筆にからませてゐたが、その髪の割れ目からのぞかれる、愛らしい一心不乱の横顔、
下唇をむざんに噛みしめた小さく光る怜悧な前歯、ながらにすでにくつきりと遠つた
鼻筋などを、清顕は飽かず眺めてゐたものだ。それから憂はしい暗い墨の匂ひ、紙を走る筆が
かすれるときの笹の葉裏を通ふ風のやうなその音、硯(すずり)の海と岡といふふしぎな名称、
波一つ立たないその汀から急速に深まる海底は見えず、黒く澱んで、墨の金箔が剥がれて
散らばつたのが、月影の散光のやうに見える永遠の夜の海……。
三島由紀夫「春の雪」より

13 :
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど愚かなのだから、
今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて一つの結晶を成した月光姫を
見てゐるのかもしれないのだ。別れてゐることが苦痛なら、逢つてゐることも苦痛でありうるし、
逢つてゐることが歓びならば、別れてゐることも歓びであつてならぬといふ道理はない。
さうでせう? 松枝君。僕は、恋するといふことが時間と空間を魔術のやうにくぐり抜ける秘密が
どこにあるか探つてみたいんです。その人を前にしてさへ、その人の実在を恋してゐるとは
限らないのですから、しかも、その人の美しい姿形は、実在の不可欠の形式のやうに
思はれるのですから、時間と空間を隔てれば、二重に惑はされることにもなりうる代りに、
二倍も実在に近づくことにもなりうる。……
優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を。
三島由紀夫「春の雪」より

14 :
彼はまぎれもなく恋してゐた。だから膝を進めて聡子の肩へ手をかけた。その肩は頑なに拒んだ。
この拒絶の手ごたへを、彼はどんなに愛したらう。大がかりな、式典風な、われわれの
住んでゐる世界と大きさを等しくするやうなその壮大な拒絶。このやさしい肉慾にみちた肩に
のしかかる、勅許の重みをかけて抗(はむか)つてくる拒絶。これこそ彼の手に熱を与へ、
彼の心を焼き滅ぼすあらたかな拒絶だつた。聡子の庇髪の正しい櫛目のなかには、香気に
みちた漆黒の照りが、髪の根にまで届いてゐて、彼はちらとそれをのぞいたとき、月夜の森へ
迷ひ込むやうな心地がした。
清顕は手巾から洩れてゐる濡れた頬に顔を近づけた。無言で拒む頬は左右に揺れたが、
その揺れ方はあまりに無心で、拒みは彼女の心よりもずつと遠いところから来るのが知れた。
清顕は手巾を押しのけて接吻しようとしたが、かつて雪の朝あのやうに求めてゐた唇は、
今は一途に拒み、拒んだ末に、首をそむけて、小鳥が眠る姿のやうに、自分の着物の襟に
しつかりと唇を押しつけて動かなくなつた。
三島由紀夫「春の雪」より

15 :
雨の音がきびしくなつた。清顕は女の体を抱きながら、その堅固を目で測つた。夏薊の
縫取のある半襟の、きちんとした襟の合せ目は、肌のわづかな逆山形をのこして、神殿の
扉のやうに正しく閉ざされ、胸高に〆めた冷たく固い丸帯の中央に、金の帯留を釘隠しの
鋲のやうに光らせてゐた。しかし彼女の八つ口や袖口からは、肉の熱い微風がさまよひ出て
ゐるのが感じられた。その微風は清顕の頬にかかつた。
彼は片手を聡子の背から外し、彼女の顎をしつかりとつかんだ。顎は清顕の指のなかに
小さな象牙の駒のやうに納まつた。涙に濡れたまま、美しい鼻翼は羽搏いてゐた。そして
清顕は、したたかに唇を重ねることができた。
急に聡子の中で、炉の戸がひらかれたやうに火勢が増して、ふしぎな焔が立上つて、双の手が
自由になつて、清顕の頬を押へた。その手は清顕の頬を押し戻さうとし、その唇は押し
戻される清顕の唇から離れなかつた。濡れた唇が彼女の拒みの余波で左右に動き、清顕の唇は
その絶妙のなめらかさに酔うた。それによつて、堅固な世界は、紅茶に涵された一顆の
角砂糖のやうに融けてしまつた。そこから果てしれぬ甘美と融解がはじまつた。
三島由紀夫「春の雪」より

16 :
あの花々しい戦争の時代は終つてしまつた。戦争の昔話は、監武課の生き残りの功名話や、
田舎の炉端の自慢話に墜してしまつた。もう若い者が戦場へ行つて戦死することは
たんとはあるまい。
しかし行為の戦争がをはつてから、その代りに、今、感情の戦争の時代がはじまつたんだ。
この見えない戦争は、鈍感な奴にはまるで感じられないし、そんなものがあることさへ
信じられないだらうと思ふ。だが、たしかに、この戦争がはじまつてをり、この戦争のために
特に選ばれた若者たちが、戦ひはじめてゐるにちがひない。貴様はたしかにその一人だ。
行為の戦場と同じやうに、やはり若い者が、その感情の戦場で戦死してゆくのだと思ふ。
それがおそらく、貴様をその代表とする、われわれの時代の運命なんだ。……それで貴様は、
その新らしい戦争で戦死する覚悟を固めたわけだ。さうだらう?
三島由紀夫「春の雪」より

17 :
繁邦は思つてゐた。人間の情熱は、一旦その法則に従つて動きだしたら、誰もそれを
止めることはできない、と。それは人間の理性と良心を自明の前提としてゐる近代法では、
決して受け入れられぬ理論だつた。
一方、繁邦はかうも思つてゐた。はじめ自分に無縁なものと考へて傍聴しはじめた裁判が、
今はたしかに無縁なものではなくなつた代りに、増田とみが目の前で吹き上げた赤い
熔岩のやうな情念とは、つひに触れ合はない自分を、発見するよすがにもなつた、と。
雨のまま明るくなつた空は、雲が一部分だけ切れて、なほふりつづく雨を、つかのまの
孤雨に変へてゐた。窓硝子の雨滴を一せいにかがやかす光りが、幻のやうにさした。
本多は自分の理性がいつもそのやうな光りであることを望んだが、熱い闇にいつも
惹かれがちな心性をも、捨てることはできなかつた。しかしその熱い闇はただ魅惑だつた。
他の何ものでもない、魅惑だつた。清顕も魅惑だつた。そしてこの生を奥底のはうから
ゆるがす魅惑は、実は必ず、生ではなく、運命につながつてゐた。
三島由紀夫「春の雪」より

18 :
海はすぐそこで終る。これほど遍満した海、これほど力にあふれた海が、すぐ目の前で
をはるのだ。時間にとつても、空間にとつても、境界に立つてゐることほど、神秘な感じの
するものはない。海と陸とのこれほど壮大な境界に身を置く思ひは、あたかも一つの時代から
一つの時代へ移る、巨きな歴史的瞬間に立会つてゐるやうな気がするではないか。そして本多と
清顕が生きてゐる現代も、一つの潮の退き際、一つの波打際、一つの境界に他ならなかつた。
……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に
終るのだ。
……しかし、それにしても、何となごやかな、心やさしい挫折だらう。波の最後の
余波(なごり)の小さな笹縁は、たちまちその感情の乱れを失つて、濡れた平らな砂の鏡面と
一体化して、淡い泡沫ばかりになるころには、身はあらかた海の裡へ退いてゐる。
三島由紀夫「春の雪」より

19 :
あの橄欖(オリーブ)いろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり、怒号で
あつたものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいづれ囁きに変つてしまふ。大きな
白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてその逞しい横隊の馬身は消え去つて、最後に
蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。
退いてゆく波の彼方、幾重にもこちらへこちらへと折り重つてくる波の一つとして、白い
なめらかな背(せびら)を向けてゐるものはない。みんなが一せいにこちらを目ざし、
一せいに歯噛みをしてゐる。しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力づよく見えてゐた渚の
波も、実は稀薄な衰へた拡がりの末としか思はれなくなる。次第次第に、沖へ向つて、
海は濃厚になり、波打際の海の稀薄な成分は濃縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の
水平線にいたつて、無限に煮つめられた青が、ひとつの硬い結晶に達してゐる。距離と
ひろがりを装ひながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この稀いあわただしい波の重複の
はてに、かの青く凝結したもの、それこそは海なのだ。……
三島由紀夫「春の雪」より

20 :
本多は、頭のよい青年の逸り気から、やや軽んずるやうな口調で断定した。
「それは生れ変りの問題とはちがひます」
「なぜちがふ」とジャオ・ピーは穏やかに言つた。「一つの思想が、ちがふ個体の中へ、
時を隔てて受け継がれてゆくのは、君も認めるでせう。それなら又、同じ個体が、別々の
思想の中へ時を隔てて受け継がれてゆくとしても、ふしぎではないでせう」
「猫と人間が同じ個体ですか? さつきのお話の、人間と白鳥と鶉と鹿が」
「生れ変りの考へは、それを同じ個体と呼ぶんです。肉体が連続しなくても、妄念が
連続するなら、同じ個体と考へて差支へがありません。個体と云はずに、『一つの生の流れ』と
呼んだらいいかもしれない。
僕はあの思ひ出深いエメラルドの指環を失つた。指環は生き物ではないから、生れ変りはすまい。
でも、喪失といふことは何かですよ。それが僕には、出現のそもそもの根拠のやうに思へるのだ。
指環はいつか又、緑いろの星のやうに、夜空のどこかに現はれるだらう」
三島由紀夫「春の雪」より

21 :
本多はその言葉を聴き流しながら、さつきジャオ・ピーが言つたふしぎな逆説について思ひに
耽つてゐた。たしかに人間を個体と考へず、一つの生の流れととらへる考へ方はありうる。
静的な存在として考へず、流動する存在としてつかまへる考へ方はありうる。そのとき
王子が言つたやうに、一つの思想が別々の「生の流れ」の中に受けつがれるのと、一つの「生の流れ」が別々の
思想の中に受けつがれるのとは、同じことになつてしまふ。生と思想とは同一化されてしまふ
からだ。そしてそのやうな、生と思想が同一のものであるやうな哲学をおしひろげれば、
無数の生の流れを統括する生の大きな潮の連鎖、人が「輪廻」と呼ぶものも、一つの思想で
ありうるかもしれないのだ。……
それは正しく琴だつた! かれらは槽の中へまぎれ込んだ四粒の砂であり、そこは
果てしのない闇の世界であつたが、槽の外には光りかがやく世界があつて、竜角から雲角まで
十三弦の弦が張られ、たとしへもなく白い指が来てこれに触れると、星の悠々たる運行の音楽が、
琴をとどろかして、底の四粒の砂をゆすぶるのだつた。
三島由紀夫「春の雪」より

22 :
……いつか時期がまゐります。それもそんなに遠くはないいつか。そのとき、お約束しても
よろしいけれど、私は未練を見せないつもりでをります。こんなに生きることの有難さを
知つた以上、それをいつまでも貪るつもりはございません。どんな夢にもをはりがあり、
永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは愚かではございませんか。
私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし永遠があるとすれば、それは
今だけなのでございますわ。
清顕は皆に背を向けて、夕空にゆらめき出す煙のあとを追ひながら、沖の雲の形が崩れて
おぼろげなのが、なほ一面ほのかな黄薔薇の色に染つてゐるのを見た。そこにも彼は聡子の影を
感じた。聡子の影と匂ひはあらゆるものにしみ入り、自然のどんな微妙な変様も聡子と
無縁ではなかつた。ふと風が止んで、なまあたたかい夏の夕方の大気が肌に触れると、
そのとき裸の聡子の肌がそこに立ち迷つて、ぢかに清顕の肌に触れるやうな気がした。
少しづつ暮れてゆく合歓(ねむ)の樹の、緑の羽毛を重ねたやうな木蔭にさへ、聡子の断片が
漂つてゐた。
三島由紀夫「春の雪」より

23 :
「君はのちのちすべてを忘れる決心がついてゐるんだね」
「ええ。どういふ形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いてゐる道は、
道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終つて、海がはじめるのは仕方がございませんわ」
彼はかねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めてゐるのを知りつつあつた。いちばんたやすい
解決は二人の相対の死にちがひないが、それにはもつと苦悩が要る筈で、かういふ忍び逢ひの、
すぎ去つてゆく一瞬一瞬にすら、清顕は、犯せば犯すほど無限に深まつてゆく禁忌の、
決して到達することのない遠い金鈴の音のやうなものに聞き惚れてゐた。罪を犯せば犯すほど、
罪から遠ざかつてゆくやうな心地がする。……最後にはすべてが、大がかりな欺瞞で終る。
それを思ふと彼は慄然とした。
「かうして御一緒に歩いてゐても、お仕合せさうには見えないのね。私は今の刹那刹那の
仕合せを大事に味はつてをりますのに。……もうお飽きになつたのではなくて?」
と聡子はいつものさはやかな声で、平静に怨じた。
「あんまり好きだから、仕合せを通り過ぎてしまつたのだ」
と清顕は重々しく言つた。
三島由紀夫「春の雪」より

24 :
落着き払つたこの老女の、この世に安全なものなどはないといふ哲学は、そもそも保身の
自戒であつた筈が、それがそのまま自分の身の安全をも捨てさせ、その哲学自体を、冒険の
口実にしてしまつたのは、何に拠るのだらう。蓼科はいつのまにか、一つの説明しがたい快さの
虜になつてゐた。自分の手引で、若い美しい二人を逢はせてやることが、そして彼らの
望みのない恋の燃え募るさまを眺めてゐることが、蓼科にはしらずしらず、どんな危険と
引きかへにしてもよい痛烈な快さになつてゐた。
この快さの中では、美しい若い肉の融和そのものが、何か神聖で、何か途方もない正義に
叶つてゐるやうに感じられた。
二人が相会ふときの目のかがやき、二人が近づくときの胸のときめき、それらは蓼科の
冷え切つた心を温めるための煖炉であるから、彼女は自分のために火種を絶やさぬやうになつた。
相見る寸前までの憂ひにやつれた頬が、相手の姿をみとめるやいなや、六月の麦の穂よりも
輝やかしくなる。……その瞬間は、足萎えも立ち、盲らも目をひらくやうな奇蹟に充ちてゐた。
三島由紀夫「春の雪」より

25 :
実際蓼科の役目は聡子を悪から護ることにあつた筈だが、燃えてゐるものは悪ではない、
歌になるものは悪ではない、といふ訓(をし)へは綾倉家の伝承する遠い優雅のなかに
ほのめかされてゐたのではなかつたか?
それでゐて蓼科は、何事かをじつと待つてゐた。放し飼の小鳥を捕へて籠へ戻す機会を
待つてゐたとも云へようが、この期待には何か不吉で血みどろなものがあつた。蓼科は毎朝
念入りに京風の厚化粧をし、目の下の波立つ皺を白粉に隠し、唇の皺を玉虫色の京紅の照りで
隠した。さうしてゐながら、鏡の中のわが顔を避け、中空へ問ふやうなどす黒い視線を放つた。
秋の遠い空の光りは、その目に澄んだ点滴を落した。しかも未来はその奥から何ものかに
渇いてゐる顔をのぞかせてゐた。……蓼科は出来上つた自分の化粧をしらべ直すために、
ふだんは使はない老眼鏡をとりだして、そのかぼそい金の蔓を耳にかけた。すると老いた
真白な耳朶が、たちまち蔓の突端に刺されて火照つた。……
三島由紀夫「春の雪」より

26 :
聡子は意外なことを言つた。
「私は牢に入りたいのです」
蓼科は緊張が解けて、笑ひだした。
「お子達のやうなことを仰言つて! それは又何故でございます」
「女の囚人はどんな着物を着るのでせうか。さうなつても清様が好いて下さるかどうかを
知りたいの」
――聡子がこんな理不尽なことを言ひ出したとき、涙どころか、その目を激しい喜びが
横切るのを見て、蓼科は戦慄した。
この二人の女が、身分のちがひもものかは、心に強く念じてゐたのは、同じ力の、同じたぐひの
勇気だつたにちがひない。欺瞞のためにも、真実のためにも、これほど等量等質の勇気が
求められてゐる時はなかつた。
蓼科は自分と聡子が、流れを遡らうとする舟と流れとの力が丁度拮抗して、舟がしばらく
一つところにとどまつてゐるやうに、現在の瞬間瞬間、もどかしいほど親密に結びつけられて
ゐるのを感じた。又、二人は同じ歓びをお互ひに理解してゐた。近づく嵐をのがれて頭上に
迫つてくる群鳥の羽搏きにも似た歓びの羽音を。
三島由紀夫「春の雪」より

27 :
「お髪を下ろしたのね」
と夫人は、娘の体を掻き抱くやうにして言つた。
「お母さん、他に仕様はございませんでした」
とはじめて母へ目を向けて聡子は言つたが、その瞳には小さく蝋燭の焔が揺れてゐるのに、
その目の白いところには、暁の白光がすでに映つてゐた。夫人は娘の目の中から射し出た
このやうな怖ろしい曙を見たことはない。聡子が指にからませてゐる水晶の数珠の一顆一顆も、
聡子の目の裡と同じ白みゆく光りを宿し、これらの、意志の極みに意志を喪つたやうな幾多の
すずしい顆粒の一つ一つから、一せいに曙がにじみ出してゐた。
聡子は目を閉ぢつづけてゐる。朝の御堂の冷たさは氷室のやうである。自分は漂つてゆくが、
自分の身のまはりには清らかな氷が張りつめてゐる。たちまち庭の百舌がけたたましく啼き、
この氷には稲妻のやうな亀裂が走つたが、次には又その亀裂は合して、無瑕になつた。
剃刀は聡子の頭を綿密に動いてゐる。ある時は、小動物の鋭い小さな白い門歯が齧るやうに、
ある時はのどかな草食獣のおとなしい臼歯の咀嚼のやうに。
三島由紀夫「春の雪」より

28 :
髪の一束一束が落ちるにつれ、頭部には聡子が生れてこのかた一度も知らない澄みやかな
冷たさがしみ入つた。自分と宇宙との間を隔ててゐたあの熱い、煩悩の鬱気に充ちた黒髪が
剃り取られるにつれて、頭蓋のまはりには、誰も指一つ触れたことのない、新鮮で冷たい
清浄の世界がひらけた。剃られた肌がひろがり、あたかも薄荷を塗つたやうな鋭い寒さの
部分がひろがるほどに。
頭の冷気は、たとへば月のやうな死んだ天体の肌が、ぢかに宇宙のかう気に接してゐる感じは
かうもあらうかと思はれた。髪は現世そのもののやうに、次々と頽落した。頽落して無限に
遠くなつた。
髪は何ものかにとつての収穫(とりいれ)だつた。むせるやうな夏の光りを、いつぱい
その中に含んでゐた黒髪は、刈り取られて聡子の外側へ落ちた。しかしそれは無駄な収穫だつた。
あれほど艶やかだつた黒髪も、身から離れた刹那に、醜い髪の骸(むくろ)になつたからだ。
かつて彼女の肉に属し、彼女の内部と美的な関はりがあつたものが残らず外側へ捨て去られ、
人間の体から手が落ち足が落ちてゆくやうに、聡子の現世は剥離してゆく。……
三島由紀夫「春の雪」より

29 :
ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に。
すべてが辛く当る。僕はもう陶酔の道具を失くしてしまつた。物凄い明晰さ、爪先で弾けば
全天空が繊細な玻璃質の共鳴で応じるやうな、物凄い明晰さが、今世界を支配してゐる。
……しかも、寂寥は熱い。何度も吹かなければ口へ入れられない熱い澱んだスープのやうに熱く、
いつも僕の目の前に置かれてゐる。その厚手の白いスープ皿の、蒲団のやうな汚れた鈍感な
厚味と来たら! 誰が僕のためにこんなスープを注文したのか?
僕は一人取り残されてゐる。愛慾の渇き。運命への呪ひ。はてしれない心の彷徨。あてどない
心の願望。……小さな自己陶酔。小さな自己弁護。小さな自己偽瞞。……失はれた時と、
失はれた物への、炎のやうに身を灼く未練。年齢の空しい推移。青春の情ない閑日月。
人生から何の結実も得ないこの憤ろしさ。……一人の部屋。一人の夜々。……世界と
人間とからのこの絶望的な隔たり。……叫び。きかれない叫び。……外面の花やかさ。
……空つぽの高貴。……
……それが僕だ!
三島由紀夫「春の雪」より

30 :
――さうして、寝苦しい夜をすごして、二十六日の朝になつた。
この日、大和平野には、黄ばんだ芒野に風花が舞つてゐた。春の雪といふにはあまりに淡くて、
羽虫が飛ぶやうな降りざまであつたが、空が曇つてゐるあひだは空の色に紛れ、かすかに
弱日が射すと、却つてそれがちらつく粉雪であることがわかつた。寒気は、まともに雪の
降る日よりもはるかに厳しかつた。
清顕は枕に頭を委ねたまま、聡子に示すことのできる自分の至上の誠について考へてゐた。
本多は、決して襖一重といふほどの近さではないが、遠からぬところ、廊下の片隅から一間を
隔てた部屋かと思はれるあたりで、幽かに紅梅の花のひらくやうな忍び笑ひをきいたと思つた。
しかしすぐそれは思ひ返されて、若い女の忍び笑ひときかれたものは、もし本多の耳の迷ひで
なければ、たしかにこの春寒の空気を伝はる忍び泣きにちがひないと思はれた。強ひて抑へた
嗚咽の伝はるより早く、弦が断たれたやうに、嗚咽の絶たれた余韻がほの暗く伝はつた。
今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で。
三島由紀夫「春の雪」より

31 :
本多にとつて青春とは、松枝清顕の死と共に終つてしまつたやうに思はれた。あそこで
凝結して、結晶して、燃え上つたものが尽きてしまつた。
もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになつてゆく。
かつてあつた、といふことと、かくもありえた、といふことの境界は薄れてゆく。夢が現実を
迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似してゐた。
ずつと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、
年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。そして
過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついてゐるやうに思はれるので、夢との堺目は
一そうおぼろげになつてしまふ。それほどうつろひやすい現実の記憶とは、もはや夢と
次元の異ならぬものになつたからだ。
きのふ逢つた人の名さへ定かに憶えてゐない一方では、清顕の記憶がいつも鮮明に呼び
起されるさまは、今朝通つた見馴れた町角の眺めよりも、ゆうべ見た怖ろしい夢の記憶のはうが
あざやかなことにも似てゐた。
三島由紀夫「奔馬」より

32 :
そこでは、本多の耳朶を搏つ「裂帛の」気合は、わづかな裂け目から迸つた少年の魂の
火のやうにきこえてきた。(中略)
それは時といふものが人の心に演じさせるふしぎな真剣な演技だつた。過去の銀にかけた
記憶の微妙な嘘の銹を強ひて剥がさずに、夢や願望の入りまじつた全体の姿を演じ直して、
その演技をたよりに、むかしの自分も意識してゐなかつたもつと深い本質的な自分の姿へ
到達しようとする試みだつた。かつて住んでゐた村を、遠い峠から望み見るやうに、そこに
住んだ経験の細部は犠牲にされても、そこに住んだことの意味は明らかになり、住んでゐた間は
重要なことに思はれた広場の甃の凹みも、遠目にはそこの水たまりの一点の煌きだけに
よつて美しい、何らこだはりのない美になるのであつた。
飯沼少年が最初の雄叫びをあげた瞬間に、かうして三十八歳の裁判官は、その叫び自体が
矢尻のやうに少年の胸深く刺つて残つてゐる、鋭いささくれた痛みにまですぐに思ひ至つた。
三島由紀夫「奔馬」より

33 :
乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから
立ち現はれ、手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に
揺れはじめ、踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、会ひ、
又、離れて、空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに見えるのだつた。
そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことが
なかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、
竹刀が百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、
濃い白粉の頬の上に、日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと
一緒になつたりした。……
三島由紀夫「奔馬」より

34 :
水平線上で海と空とが融け合ふやうに、たしかに夢と現実とは、はるか彼方では融け合つて
ゐることもあらうが、ここでは、少なくとも本多その人の身のまはりでは、人々はみんな
法の下にをり、又、法に護られてゐるにすぎなかつた。本多はこの世の実定法的秩序の
護り手であり、実定法はあたかも重い鉄の鍋蓋のやうに、現世のごつた煮の上に押しかぶさつて
ゐたのである。
『喰べる人間……消化する人間……排泄する人間……生殖する人間……愛したり憎んだり
する人間』
と本多は考へてゐた。それこそ裁判所の支配下にある人間だつた。まかりまちがへばいつでも
被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。嚏をし、笑ひ、
生殖器をぶらぶらさせてゐる人間、……これらが一つの例外もなしにさういふ人間であるならば、
彼が畏れる神秘はどこにもない筈だつた。よしんばその中に一人ぐらゐ、清顕の生れ変りが
隠れてゐても。
三島由紀夫「奔馬」より

35 :
それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取つてそれを静止させ、すべてを
一枚の地図に変へてしまつたことだらう。それが裁判官といふものであらうか。彼が
「全体像」といふときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一巻の絵巻物、一個の死物に
すぎぬではないか。『この人は、日本人の血といふことも、道統といふことも、志といふことも、
何もわかりはしないんだ』と少年は思つた。
『全体像だつて』勲は先程の手紙の文句を思ひ出して、ちよつと微笑した。『あの人は
火箸が熱くて触れないといふので、火鉢だけに触らうとしてゐるんだ。しかし火箸と火鉢とは
どこまでもちがふんだがなあ。火箸は金、火鉢は瀬戸物。あの人は純粋だけど、瀬戸物派なんだ』
純粋といふ観念は勲から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。勲は
スローガンを拵へた。「神風連の純粋に学べ」といふ仲間うちのスローガンを。
三島由紀夫「奔馬」より

36 :
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸に
すがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。純粋とは、
正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。
すべての屈折した物言ひ、註釈、「しかしながら」といふ考へ、……さういふものは勲の
理解の外にあつた。思想はまつ白な紙に鮮やかに落された墨痕であり、謎のやうな原典であつて、
飜訳はおろか、批評も註釈もつきやうのないものだつた。
爆弾は一つの譬(たと)へさ。神風連の上野堅吾が、主張して容れられなかつた小銃と
同じことだ。最後は剣だけだよ。それを忘れてはいけない。肉弾と剣だけだよ。
三島由紀夫「奔馬」より

37 :
勲のはうへ向けた目は、やさしく、母性的な慈愛に潤んで、夜の庭の濡れた草木のどこかに
潜んでゐる血の夕映えの残滓を探るやうに、彼を見るとも、彼の背後の庭を見るともない
遠い視線になつた。
「悪い血は瀉血(しやけつ)したらいいんだわ。それでお国の病気が治るかもしれない。
勇気のない人たちは、重い病気にかかつたお国のまはりを、ただうろうろしてゐるだけなのね。
このままではお国が死んでしまふわ」
神風連が戦つたのは、ただ軍隊を相手といふわけではありません。鎮台兵の背後にあつたものは、
軍閥の芽だつたんです。かれらは軍閥を敵として戦つたんです。軍閥は神の軍隊ではなく、
神風連こそ陛下の軍隊だといふ自信を持つてゐたからです。
勲は自分の言葉が未熟なことをよく承知してゐたが、志がその未熟を補つて、焔のやうに
相手の焔と感応することをも信じてゐた。とりわけ今は夏だつた。毛織物のやうな厚い重い
息苦しい熱気の裡に対坐してゐて、何かが爆ければ忽ち火が移り、何もはじまらなければ
そのまま熔けた金属のように、あへなく融け消えてしまひさうに思はれた。
三島由紀夫「奔馬」より

38 :
涙は危険な素質である。もしそれが必ずしも理智の衰へと結びついてゐないとしたら。
壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士のさし出した
槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、
褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。血も花も、
枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。だからこそ、血と花は名誉へ
転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。
その御目と勲の目が、一瞬、ごく古い鉄の鈴が永らく鳴らずに錆びついてゐたものが、
何かの震動によつて舌がほぐれて、正に鳴らんとして鈴の内側に触れるやうに、触れ合つた。
そのとき宮の御目が何を語つたか勲にもわからなかつたし、宮御自身も御存知ではなかつたで
あらう。しかしその一瞬に交はされたものは、並の愛情を超えたふしぎな結びつきの感情で、
宮の動かぬおん瞳には、何か遠来の悲しみが刹那に迸つて、勲の火のやうな注視を、宮は
その悲しみの水で忽ち消されたやうに思はれた。
三島由紀夫「奔馬」より

39 :
「はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に
差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が
御空腹でなく、すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と
仰言つて、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒を
つけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が
御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を
切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は
万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに
置いたらどうなりませうか。飯はやがて腐るに決まつてゐます。これも忠義ではありませうが、
私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に
作つた握り飯を献上することであります」
三島由紀夫「奔馬」より

40 :
「罪と知りつつ、さうするのか」
「はい。殿下はじめ、軍人の方々はお仕合せです。陛下の御命令に従つて命を捨てるのが、
すなはち軍人の忠義だからであります。しかし一般の民草の場合、御命令なき忠義はいつでも
罪となることを覚悟せねばなりません」
「法に従へ、といふことは陛下の御命令ではないのか。裁判所といへども、陛下の裁判所である」
「私の申し上げる罪とは、法律上の罪ではありません。聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に
生きてゐながら、何もせずに生き永らへてゐることがまづ第一の罪であります。その大罪を
祓ふには、涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を拵へて献上して、自らの忠心を
行為にあらはして、即刻腹を切ることです。ばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、
右すれば罪、左すれば罪、どのみち罪を犯してゐることに変りはありません」
三島由紀夫「奔馬」より

41 :
同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。思想などではなく、もつと遠いところから来る或るもの、又、もつと明確な
外面的な表徴であつて、しかもこちらにその志がなければ決して見分けられぬ或るもの、
それこそが同志を作る因に相違ない。
寡黙と素朴と明快な笑顔は、多くの場合、信頼のおける性格と、敢為の気性と、それから
死を軽んずる意気とのあらはれであり、弁舌、大言壮語、皮肉な微笑などはしばしば怯惰を
あらはしてゐた。蒼白や病身は、或る場合には、人を凌ぐ狂ほしい精力の源泉だつた。
概して肥つた男は臆病でゐながら慎重を欠き、痩せて論理的な男は直観を欠いてゐた。
顔や外見が実に多くのことを語るのに勲は気づいた。
勲は綱領を作らなかつた。あらゆる悪がわれわれの無力と無為を是認するやうに働らいて
ゐる世なのであるから、どんな行為であれ、行為の決意が、われわれの綱領となるであらう。
三島由紀夫「奔馬」より

42 :
「どうしてみんな帰らんのだ。これだけ言はれても、まだわからんのか」
と勲は叫んだが、これに応ずる声は一つもなく、しかも今度の沈黙はさつきのとは明らかに
ちがつて、何かの闇の中から温かい大きな獣が身を起したやうな感じのする沈黙だつた。
勲はその沈黙に、はじめてはつきりした手応へを感じた。それは熱く、獣臭く、血に充ち、
脈打つてゐた。
「よし。それぢや、のこつた君らは、何の期待も希望も持たずに、何もないかもしれない
ところへ命を賭けようにいふんだな」
「さうです」
と一人の凛々しい声がひびいた。
芦川は立上つて、勲へ一歩歩み寄つた。ずつと顔を寄せなくては見えないほどの闇の中で、
芦川の涙に濡れた目が迫つて来て、涙が咽喉に詰つた、ひどく低い野太い声でかう言つた。
「僕も残ります。どこへでも黙つてついて行きます」
「よし、では神前に誓ひ合はう。二拝二拍手。それから俺が誓ひの言葉をのべる。一つづつ
みんなで唱和してくれ」
勲、井筒、相良とのこる十七人の柏手が、闇の海に白木の船端を叩くやうにあざやかに
整然と響いた。
三島由紀夫「奔馬」より

43 :
勲がかう唱へた。
「ひとつ、われらは神風連の純粋に学び、身を挺して邪神姦鬼を攘(はら)はん」
一同の若々しい声が唱和した。
「ひとつ、われらは神風連の純粋に学び、身を挺して邪神姦鬼を攘はん」
勲の声は、おぼろげな白い社の御扉にぶつかつて反響し、強い深い、悲壮な胸腔から、
若さの夢幻的な霧が噴き上げられるやうに聴かれた。空にはすでに星があつた。市電の響きが
遠く揺れた。彼は重ねて唱へた。
「ひとつ、われらは莫逆の交はりをなし、同志相扶(あひたす)けて国難に赴かん」
「ひとつ、われらは権力をねがはず立身をかへりみず、万死以て維新の礎とならん」
――誓がすむとすぐ、一人が勲の手を握つた。双の手を重ねて握つたのである。それから
二十人がこもごもに手を握り合ひ、又、争つて勲の手を握つた。
目が馴れて、ものの文目が明らかになりかけた星空の下で、手は次々とまだ握らぬ手を求めて、
あちこちでひらめいた。誰も口をきかない。何か言へば軽薄になるからである。
三島由紀夫「奔馬」より

44 :
心の一部はすでにそれが誰であるかを認めてゐる。しかし心の大部分が、今しばしそれが
誰であるかを認めぬままに、保つておきたいと望んでゐる。幽暗に泛ぶ女の顔にはまだ名が
つけられず、名に先立つ匂ひやかな現前がある。それは夜の小径をゆくときに、花を見るより
前(さき)に聞く木犀の香りのやうなものである。勲はさういふものをこそ、一瞬でも永く
とどめておきたい心地がしてゐる。そのときこそ、女は女であり、名づけられた或る人では
ないからだ。
そればかりではない。それは、秘し匿された名によつて、その名を言はぬといふ約束によつて、
あたかも隠された支柱で闇に高く泛んだ夕顔の花のやうに、一そうみごとな精髄に化してゐる。
存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、現はれ漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。
勲はまだ女を抱いたことがなかつたけれども、かうして、いはば、「女に先立つ女」を
ありありと感じるときほど、自分も亦、陶酔の何たるかを確かに知つてゐると強く感じる
ことはなかつた。
三島由紀夫「奔馬」より

45 :
大正初年の、思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の
「英姿」は、今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、
今では、個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内奥の核をなしてゐたのだらうか。あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に滑稽の塵が
降り積つたにすぎぬのだらうか。
清顕において、本当に一回的(アインマーリヒ)なものは、美だけだつたのだ。その余のものは、
たしかに蘇りを必要とし、転生を冀求(ききう)したのだ。清顕において叶へられなかつたもの、
彼にすべて負数の形でしか賦与されてゐなかつたもの……
もう一人の若者の顔は、夏の日にきらめく剣道の面金を脱ぎ去つて、汗に濡れ、烈しく息づく
鼻翼を怒らせ、刃を横に含んだやうな唇の一線を示して現はれた。
三島由紀夫「奔馬」より

46 :
蔵原は何かこの国の土や血と関はりのない理智によつて悪なのであつた。それかあらぬか、
勲は蔵原についてほとんど知らないのに、その悪だけははつきりと感じることができた。
ひたすらイギリスとアメリカに気を兼ねて、一挙手一投足に色気をにじませて、柳腰で歩く
ほかに能のない外務官僚。私利私慾の悪臭を立て、地べたを嗅ぎ廻つて餌物をあさる巨大な
蟻喰ひのやうな財界人。それ自ら腐肉のかたまりになつた政治家たち。出世主義の鎧で
兜虫のやうに身動きならなくなつた軍閥。眼鏡をかけたふやけた白い蛆虫のやうな学者たち。
満州国を妾の子同然に眺めながら、早くも利権あさりに手をのばしかけてゐる人々。……
そして広大な貧窮は地平の朝焼けのやうに空に反映してゐた。
蔵原はかういふ惨澹たる風景画の只中に、冷然と置かれた一個の黒い絹帽(シルク・ハット)だつた。
彼は無言で人々の死を望み、これを嘉してゐた。
悲しめる日、白く冷え冷えとした日輪は、いささかの光りの恵みも与へることができず、
それでも、朝毎に憂はしげに昇つて空をめぐつた。それこそは陛下の御姿だつた。誰が再び、
太陽の喜色を仰がうと望まぬ筈があらうか?
三島由紀夫「奔馬」より

47 :
勲の百合は?
留守中に捨てられたりせぬやうに、彼はそれを一輪差に活けて、硝子の戸のついた本棚の中に
納めてゐた。はじめは毎日水を換へてゐたのが、このごろは忘れて、水換へを怠つてゐることを
勲は愧(は)ぢた。観音開きの硝子戸をあけ、数冊の本を引き出して覗き込んだ。百合は
闇のなかにうなだれてゐる。
灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合の木乃伊(ミイラ)になつてゐる。そつと指を
触れなければ、茶褐色になつた花弁はたちまち粉になつて、まだほのかに青みを残してゐる茎を
離れるにちがひない。それはもはや百合とは云へず、百合の残した記憶、百合の影、不朽の
つややかな百合がそこから巣立つて行つたあとの百合の繭のやうなものになつてゐる。
しかし依然として、そこには、百合がこの世で百合であつたことの意味が馥郁と匂つてゐる。
かつてここに注いでゐた夏の光りの余燼をまつはらせてゐる。
勲はそつとその花弁に唇を触れた。もし触れたことがはつきり唇に感じられたら、
そのときは遅い。百合は崩れ去るだらう。唇と百合とが、まるで黎明と尾根とが触れるやうに
触れ合はねばならない。
三島由紀夫「奔馬」より

48 :
勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思つた。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあらうか』
神が辞(いな)んでをられるのではない。拒否も亦、明瞭ではないのである。
それは何を意味するのだらうと勲は考へた。今ここに、いづれも廿歳に充たない若さに
溢れた者どもが、熱烈にきらめく注視を勲の一身に鍾(あつ)め、その勲は高い絶壁の上の
神聖な光りを見上げてゐる。事態はここまで迫り、機はここまで熟してゐる。何かが
現はれねばならぬ。しかも、神は肯ふとも辞むともなく、この地上の不決断と不如意を
そのまま模したやうに、高空の光りのなかで、神の御御足(おみあし)からなほざりに
脱げた沓のやうに、決定は放棄されてゐるのである。
三島由紀夫「奔馬」より

49 :
勲の心には暗い滝が落ちた。自尊心がゆつくりと切り刻まれてゐた。彼が今差当つて大切にして
ゐるのは自尊心ではなかつたから、それだけに見捨てられてゐる自尊心が、紛らしやうのない
痛みで報いた。その痛みの彼方に、雲間の清澄な夕空のやうな「純粋」が泛んでゐた。
彼は祈るやうに、暗殺されるべき国賊どもの顔を夢みた。彼が孤立無援に陥れば陥るほど、
あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。こちらは
いよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)のやうになつた。
それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど信じがたいものに
してしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向う側のグロテスクな現実性に源してゐた。
奴らをとき、奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、そのとき
はじめて世界の修理固成が可能になるだらう。それまでは……。
三島由紀夫「奔馬」より

50 :
明るい軽信の井筒、小柄で眼鏡をかけた機敏な相良、東北の神官の息子でいかにも少年らしい芦川、
寡黙でしかも剽軽なところのある長谷川、律儀で絶壁頭の三宅、昆虫のやうな暗い固い乾いた
顔つきの宮原、文学好きで天皇崇敬家の木村、いつも激してゐながら黙りこくつてゐる藤田、
肺疾ながら岩乗な肩幅を持つた高瀬、柔道二段で柔和に見える大男の井上、……これが
選り抜かれた本当の同志だつた。死を賭するといふことが何を意味するか知つてゐる若者たち
だけが残つたのだ。
勲はそこに、この薄暗い電灯の下、黴くさい畳の上に、自分の焔の確証を見た。頽(くづ)れ
かけた花の、花弁は悉く腐れ落ちて、したたかな蕊だけが束になつて光りを放つてゐる。
この鋭い蕊だけでも、青空の眼を突き刺すことができるのだ。夢が痩せるほど頑なに身を
倚せ合つて、理智がつけ込む隙もないほどの固い殺戮の玉髄になつたのだ。
三島由紀夫「奔馬」より

51 :
佐和は壁に向つて、猫のやうに背を丸めて身構へた。
見てゐる勲は、さうして体ごとぶつかる前には、いくつもの川を飛び越えて行く必要があらうと
察した。人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。あの工場の廃液が、
崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。
さうだ。跳込み面だ。竹刀をかざした体が、見えない壁をしらぬ間につきぬけて、向う側へ
出てゐるあれだ。感情のすばらしい迅速な磨滅が火花を放つ。敵は当然のやうに、刃の先に、
重たく、自分から喰ひついて来る筈だ。藪を抜けておのづから袂についたゐのこづちのやうに、
暗殺者の着物にはいつのまにか血が点々とついてゐる筈だ。……
左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。
恋も忠も源は同じであつた。
三島由紀夫「奔馬」より

52 :
勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、
もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、
いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。野蛮人が
病気よりも医薬を怖れるやうに。
『何故なんだ、何故なんだ』と勲は歯噛みをして思つた。『人間にはどうしてもつとも
美しい行為が許されてゐないんだ。醜い行為や、薄汚れた行為や、利のためにする行為なら、
いくらでも許されてゐるといふのに。
殺意の中にしか最高の道徳的なものがひそんでゐないことが明らかな時、その殺意を
罪とする法律が、あの無染の太陽、あの天皇の御名によつて施行されてゐるといふことは、
(最高の道徳的なもの自体が最高の道徳的存在によつて罰せられるといふことは、)一体
誰がことさら仕組んだ矛盾だらうか。陛下は果してこんな怖ろしい仕組を御存知だらうか。
これこそは精巧な《不忠》が手間暇かけて作り上げた涜神の機構ではないだらうか。
三島由紀夫「奔馬」より

53 :
俺にはわからない。俺にはわからない。どうしてもわからない。しかも殺戮のあと、直ちに
自刃する誓にそむく者は、誰一人ゐなかつた筈だ。さうなつてゐれば、われらは裾の端、
袖の片端でも、あの煩瑣な法律の藪の、下枝の一葉にさへ触れることなく、みごとに藪を
すり抜けて、まつしぐらにかがやく天空へ馳せのぼることができた筈だ。神風連の人々は
さうだつた。もつとも明治六年の法律の藪はまだ疎らだつたにちがひないが……。
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのはたしかに
穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも知らないで人生を
送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。ごく少数の異常な純粋、
この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く同じ同等の《悪》へ
おとしめようとする機構なのだ。その巧妙な罠へ俺は落ちた。他ならぬ誰かの裏切りによつて!』
三島由紀夫「奔馬」より

54 :
香煙が流れてきた。鉦や笛のひびきがして、窓外を葬列が通るらしかつた。人々の忍び泣きの
声が洩れた。しかし、夏の午睡の女の喜びは曇らなかつた。肌の上にあまねく細かい汗を
にじませ、さまざな官能の記憶を蓄へ、寝息につれてかすかにふくらむ腹は、肉のみごとな
盈溢を孕んだ帆のやうである。その帆を内から引きしめる臍には、山桜の蕾のやうなやや
鄙びた赤らみが射して、汗の露の溜つた底に小さくひそかに籠り居をしてゐる。美しく
はりつめた双の房は、その威丈高な姿に、却つて肉のメランコリーが漂つてみえるのだが、
はりつめて薄くなつた肌が、内側の灯を透かしてゐるかのやうに、照り映えてゐる。
肌理のこまやかさが絶頂に達すると、環礁のまはりに寄せる波のやうに、けば立つて来るのは
暈のすぐかたはらだった。暈は、静かな行き届いた悪意に充ちた蘭科植物の色、人々の口に
含ませるための毒素の色で彩られてゐた。その暗い紫から、頭はめづらかに、栗鼠のやうに
小賢しく頭をもたげてゐた。それ自体が何か小さな悪戯のやうに。
三島由紀夫「奔馬」より

55 :
一寸やはらげれば別物になつてしまひます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、
一寸ゆるめるといふことはありえません。ほんの一寸やはらげれば、それは全然別の思想になり、
もはや私たちの思想ではなくなるのです。
居並ぶ若い被告たちの中でも、とりわけ美しく凛々しく澄んだ勲の目へ、本多は心で呼びかけた。
事件を知つたとき、こよなくふさはしく思はれたその眥(まなじり)を決した目は、ふたたび
この場に不釣合な、ふさはしからぬものに思はれた。
『美しい目よ』と本多は呼んだ。『澄んで光つて、いつも人をたぢろがせ、丁度あの
三光の滝の水をいきなり浴びせられるやうに、この世のものならぬ咎めを感じさせる若者の
無双の目よ。何もかも言ふがよい。何もかも正直に言つて、そして思ふさま傷つくがいい。
お前もそろそろ身を守る術を知るべき年齢だ。何もかも言ふことによつて、最後にお前は、
《真実が誰によつても信じてもらへない》といふ、人生にとつてもつとも大切な教訓を
知るだらう。そんな美しい目に対して、それが私の施すことのできる唯一の教育だ』
三島由紀夫「奔馬」より

56 :
現在の日本をここまでおとしめたのは、政治家の罪ばかりでなく、その政治家を私利私慾のために
操つてゐる財閥の首脳に責任があると、深く考へるやうになりました。
しかし、私は決して左翼運動に加はらうとは思ひませんでした。左翼は畏れ多くも陛下に
敵対し奉らうとする思想であります。古来日本は、すめらみことをあがめ奉り、陛下を
日本人といふ一大家族の家長に戴いて相和してきた国柄であり、ここにこそ皇国の真姿があり、
天壌無窮の国体があることは申すまでもありません。
では、このやうに荒廃し、民は飢ゑに泣く日本とは、いかなる日本でありませいか。
天皇陛下がおいでになるのに、かくまで澆季末世になつたのは何故でありませうか。君側に
侍する高位高官も、東北の寒村で飢ゑに泣く農民も、天皇の赤子たることには何ら渝(かは)りが
ないといふのが、すめらみくにの世界に誇るべき特色ではないでせうか。陛下の大御心によつて、
必ず窮乏の民も救はれる日が来るといふのが、私のかつての確信でありました。
三島由紀夫「奔馬」より

57 :
日本および日本人は、今やや道に外れてゐるだけだ。時いたれば、大和心にめざめて、
忠良なる臣民として、挙国一致、皇国を本来の姿に戻すことができる、といふのが、私の
かつての希望でありました。天日をおほふ暗雲も、いつか吹き払はれて、晴れやかな
明るい日本が来る筈だ、と信じてをりました。
が、それはいつまで待つても来ません。待てば待つほど、暗雲は濃くなるばかりです。
そのころのことです、私が或る本を読んで啓示に打たれたやうに感じたのは。
それこそ山尾綱紀先生の「神風連史話」であります。これを読んでのちの私は、以前の私と
別人のやうになりました。今までのやうな、ただ座して待つだけの態度は、誠忠の士の
とるべき態度ではないと知つたのです。私はそれまで、「必死の忠」といふことがわかつて
ゐなかつたのです。忠義の焔が心に点火された以上、必ず死なねばならぬといふ消息が
わからなかつたのです。
三島由紀夫「奔馬」より

58 :
あそこに太陽が輝いてゐます。ここからは見えませんが、身のまはりの澱んだ灰色の光りも、
太陽に源してゐることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いてゐる筈です。
その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に身に浴びれば、民草は歓喜の
声をあげ、荒蕪の地は忽ち潤うて、豊葦原瑞穂国の昔にかへることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおほうて、その光りを遮つてゐます。天と地はむざんに分け
隔てられ、会へば忽ち笑み交はして相擁する筈の天と地とは、お互ひの悲しみの顔をさへ
相見ることができません。地をおほふ民草の嗟嘆の声も、天の耳に届くことがありません。
叫んでも無駄、泣いても無駄、訴へても無駄なのです。もしその声が耳に届けば、天は
小指一つ動かすだけでその暗雲を払ひ、荒れた沼地をかがやく田園に変へることができるのです。
三島由紀夫「奔馬」より

59 :
誰が天へ告げに行くのか? 誰が使者の大役を身に引受けて、死を以て天へ昇るのか? 
それが神風連の志士たちの信じた宇気比(うけひ)であると私は解しました。
天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か
決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、
身命を賭さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
もちろん大ぜいの人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天へ昇るといふことも
考へました。が、さうしなくてもよいといふことが次第にわかりました。神風連の志士たちは、
日本刀だけで近代的な歩兵営に斬り込んだのです。雲のもつとも暗いところ、汚れた色の
もつとも色濃く群がり集まつた一点を狙へばよいのです。力をつくして、そこに穴をうがち、
身一つで天に昇ればよいのです。
三島由紀夫「奔馬」より

60 :
私は人をといふことは考へませんでした。ただ、日本を毒してゐる凶々しい精神を
討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとうてゐる肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。
さうしてやることによつて、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還つて、私共と
一緒に天へ昇るでせう。その代り、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちに
いさぎよく腹を切つて、死ななければ間に合はない。なぜなら、一刻も早く肉体を捨てなければ、
魂の、天への火急のお使ひの任務が果せぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添はんと
することだと思ひます。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ
入るのです。
……以上が、私や同志の心に誓つてゐたことのすべてであります。
三島由紀夫「奔馬」より

61 :
「僕は幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によつて罰せられたわけですね。……どうか
幻でないものがほしいと思ひます」
「大人になればそれが手に入るのだよ」
「大人になるより、……さうだ、女に生れ変つたらいいかもしれません。女なら、幻など
追はんで生きられるでせう、母さん」
勲は亀裂が生じたやうに笑つた。
「何を言ふんです。女なんかつまりませんよ。莫迦だね。酔つたんだね、そんなこと言つて」
みねは怒つたやうにさう答へた。
酔ひに赤らんだ勲の寝顔は苦しげに荒々しく息づいてゐたが、眠つてゐるあひだも、眉は
凛々しく引締めてゐた。突然、寝返りを打ちながら、勲が大声で、しかし不明瞭に言ふ寝言を
本多は聴いた。
「ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……」
三島由紀夫「奔馬」より

62 :
勲は湿つた土の上に正座して、学生服の上着を脱いだ。内かくしから白鞘の小刀をとり出した。
それが確かに在つたといふことに、全身がずり落ちるやうな安堵を感じた。
学生服の下には毛のシャツとアンダー・シャツを着てゐたが、海風の寒さが、上着を
脱ぐやいなや、身を慄はせた。
『日の出には遠い。それまで待つことはできない。昇る日輪はなく、けだかい松の樹蔭もなく、
かがやく海もない』
と勲は思つた。
シャツを悉く脱いで半裸になると、却つて身がひきしまつて、寒さは去つた。ズボンを寛げて、
腹を出した。小刀を抜いたとき、蜜柑畑のはうで、乱れた足音と叫び声がした。
「海だ。舟で逃げたにちがひない」
といふ甲走る声がきこえた。
勲は深く呼吸して、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、
左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突つ込んだ。
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。
三島由紀夫「奔馬」より

63 :
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。あの夕焼の
花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふたはごとも
忽ち色褪せてしまひます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちてゐます。
何がはじまつたのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。
そこには本質的なものは何一つありません。なるほど夜には本質がある。それは宇宙的な本質で、
死と無機的な存在そのものだ。昼にも本質がある。人間的なものすべては昼に属してゐるのです。
夕焼の本質などといふものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光りと色との、
無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などといふ色の
椀飯振舞をすることはめつたにないのです。
三島由紀夫「暁の寺」より

64 :
社会正義を自ら代表してゐるやうな顔をしながら、それ自体が売名であるところの、
貧しい弁護士などといふのは滑稽な代物だつた。本多は法の救済の限度をよく心得てゐた。
本当のことをいへば、弁護士に報酬も払へないやうな人間に法を犯す資格はない筈なのに、
多くの人々はあやまつて必要から或ひは愚かしさから法を犯すのであつた。
時として、広大な人間性に、法といふ規矩を与へることほど、人間の思ひついたもつとも
不遜な戯れはない、と思はれることもあつた。犯罪が必要や愚かしさから生れがちなら、
法の基礎をなす習俗(ジッテ)もさうだとは云へないだらうか?
時代が驟雨のやうにざわめき立つて、数ならぬ一人一人をも雨滴で打ち、個々の運命の小石を
万遍なく濡らしてゆくのを、本多はどこにも押しとどめる力のないことを知つてゐた。が、
どんな運命も終局的に悲惨であるかどうかは定かではなかつた。歴史は、つねに、ある人々の
願望にこたへつつ、別のある人々の願望にそむきつつ、進行する。いかなる悲惨な未来と
いへども、万人の願ひを裏切るわけではない。
三島由紀夫「暁の寺」より

65 :
本多は自分が決して美しい青年ではなかつたことを知つてゐたから、こんな不透明な年齢の
外被が満更ではなかつた。
それに現在の彼は、青年に比べれば、はるかに確実に未来を所有してゐた。何かにつけて
青年が未来を喋々するのは、ただ単に彼らがまだ未来をわがものにしてゐないからにすぎない。
何事かの放棄による所有、それこそは青年の知らぬ所有の秘訣だ。
天変地異は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに見える事柄であつても、
実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進まぬ気配を伴ふのである。
こちらの望みにすぐさま応へ、こちらの好みの速度で近づいてくる事柄には、必ず作り物の
匂ひがあつたから、自分の行動を歴史的法則に委ねようとするなら、よろづに気の進まぬ態度を
持するのが一番だつた。欲するものが何一つ手に入らず、意志が悉く無効にをはる例を、
本多はたくさん見すぎてゐた。ほしがらなければ手に入るものが、欲するが為に手に入らなく
なつてしまふのだ。
三島由紀夫「暁の寺」より

66 :
日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを
怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風な
アジア主義たちからも喜ばれてゐた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニと
ではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との
同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。
本多はもちろんさういふロマンティックな偏見には服しなかつたが、時代が身も慄へるほど
何かに熱して、何かを夢見てゐることは明らかだつた。
十九歳の少年が自分の性格に対して抱く本能的な危惧は、場合によつてはおそろしく正確な
予見になる。
狷介な日本、緋縅(ひをどし)の若武者そのままに矜り高く、しかも少年のやうに
傷つきやすい日本は、人に嘲笑されるより先に自ら進んで挑み、人に蔑されるより先に自ら
進んで死んだ。勲は、清顕とはちがつて、正にこのやうな世界の核心に生き、かつ、霊魂を
信じてゐた。
三島由紀夫「暁の寺」より

67 :
もし生きようと思へば、勲のやうに純粋を固執してはならなかつた。あらゆる退路を自ら絶ち、
すべてを拒否してはならなかつた。
勲の死ほど、純粋な日本とは何だらうといふ省察を、本多に強ひたものはなかつた。すべてを
拒否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもつとも
生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に
「日本」と共に生きる道はないのではなからうか? 誰もが怖れてそれを言はないが、
勲が身を以て、これを証明したのではなからうか?
思へば民族のもつとも純粋な要素には必ず血の匂ひがし、野蛮の影が射してゐる筈だつた。
世界中の動物愛護家の非難をものともせず、国技の闘牛を保存したスペインとちがつて、
日本は明治の文明開化で、あらゆる「蛮風」を払拭しようと望んだのである。その結果、
民族のもつとも生々しい純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその兇暴な力を揮つて、
ますます人の忌み怖れるところとなつた。
いかに怖ろしい面貌であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

68 :
しかし霊魂を信じた勲が一旦昇天して、それが又、善因善果にはちがひないが、人間に
生れかはつて輪廻に入つたとすると、それは一体何事だらう。
さう思へばさう思ひなされる兆もあるが、死を決したころの勲は、ひそかに「別の人生」の
暗示に目ざめてゐたのではないだらうか。一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようと
すると、人はおのづから、別の生の存在の予感に到達するのではなからうか。
死にぎはの勲の心が、いかに仏教から遠からうと、このやうな関はり方こそ、日本人の
仏教との関はり方を暗示してゐると本多には思はれた。それはいはばメナムの濁水を、
白絹の漉袋(こしぶくろ)で漉したのである。
清顕や勲の生涯が示した未成熟の美しさに比べれば、芸術や芸術家の露呈する未成熟、それを
以てかれらの仕事の本質としてゐる未成熟ほど、醜いものはないといふのが本多の考へだつた。
かれらは八十歳までそれを引きずつて歩くのだ。いはば引きずつてゐる襁褓(むつき)を
売物にして。
さらに厄介なのは贋物の芸術家で、えもいはれぬ昂然としたところが、独特の卑屈さと
入りまじつて、怠け者特有の臭気があつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

69 :
酒がすこしづつ酢に、牛がすこしづつヨーグルトに変つてゆくやうに、或る放置されすぎた
ものが飽和に達して、自然の諸力によつて変質してゆく。人々は永いこと自由と肉慾の過剰を
怖れて暮してゐた。はじめて酒を抜いた翌朝のさはやかさ、自分にはもう水だけしか要らないと
感じることの誇らしさ。……さういふ新らしい快楽が人々を犯しはじめてゐた。さういふものが
人々をどこへ連れて行くかは、本多にはおよそのところがつかめてゐた。それはあの勲の
死によつて生れた確信であつた。純粋なものはしばしば邪悪なものを誘発するのだ。
インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦に
つながつてゐた! 本多はこのやうな喜悦を理解することを怖れた。しかし自分の目が、
究極のものを見てしまつた以上、それから二度と癒やされないだらうと感じられた。
あたかもベナレス全体が神聖な癩にかかつてゐて、本多の視覚それ自体も、この不治の病に
犯されたかのやうに。
三島由紀夫「暁の寺」より

70 :
成功にあれ失敗にあれ、遅かれ早かれ、時がいづれは与へずにはおかぬ幻滅に対する先見は、
ただそのままでは何ら先見ではない。それはありふれたペシミズムの見地にすぎぬからだ。
重要なのは、ただ一つ、行動を以てする、死を以てする先見なのだ。勲はみごとにこれを果した。
そのやうな行為によつてのみ、時のそこかしこに立てられた硝子の障壁、人の力では決して
のりこえられぬその障壁の、向う側からはこちら側を、こちら側からは向う側を、等分に
透かし見ることが可能になるのだ。渇望において、憧憬において、夢において、理想において、
過去と未来とが等価になり同質になり、要するに平等になるのである。
歴史は決して人間意志によつては動かされぬが、しかも人間意志の本質は、歴史に敢て
関はらうとする意志だ、といふ考へこそ、少年時代以来一貫して渝らぬ本多の持説であつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

71 :
本多は、輪廻転生を、一つの灯明の譬を以て説き、その夕べの焔、夜ふけの焔、夜の
ひきあけに近い時刻の焔は、いづれもまつたく同じ焔でもなければ、さうかと云つて別の
焔でもなく、同じ灯明に依存して、夜もすがら燃えつづけるのだ、といふナーガセーナの説明に
えもいはれぬ美しさを感じた。緑生としての個人の存在は、実体的存在ではなく、この
焔のやうな「事象の連続」に他ならない。
そして又、ナーガセーナは、はるかはるか後世になつてイタリアの哲学者が説いたのと
ほとんど等しく、
「時間とは輪廻の生存そのものである」
と教へるのであつた。
生は活動してゐる。阿頼耶識が動いてゐる。この識は総報の果体であり、一切の活動の
結果である種子(しゆうじ)を蔵(をさ)めてゐるから、われわれが生きてゐるといふことは、
畢竟、阿頼耶識が活動してゐることに他ならぬのであつた。
その識は滝のやうに絶えることなく白い飛沫を散らして流れてゐる。つねに滝は目前に見えるが、
一瞬一瞬の水は同じではない。水はたえず相続転起して、流動し、繁吹を上げてゐるのである。
三島由紀夫「暁の寺」より

72 :
阿頼耶識はかくて有情総報の果体であり、存在の根本原因なのであつた。たとへば人間としての
阿頼耶識が現行するといふことは、人間が現に存在するといふことにほかならない。
阿頼耶識は、かくてこの世界、われわれの住む迷界を顕現させてゐる。すべての認識の根が、
すべての認識対象を包括し、かつ顕現させてゐるのだ。その世界は、肉体(五根)と
自然界(器世界)と種子(物質・精神あらゆるものを現行させるべき潜勢力)とから
成立つてゐる。われわれが我執にとらはれて考へる実体としての自我も、われわれが死後に
つづくと考へる霊魂も、一切諸法を生ずる阿頼耶識から生じたものであれば、一切は
阿頼耶識に帰し、一切は識に帰するのだ。
しかるに、唯識の語から、何かわれわれが、こちら側に一つの実体としての主観を考へ、
そこに映ずる世界をすべてその所産と見なす唯心論を考へるならば、それはわれわれが、
我と阿頼耶識を混同したのだと言はねばならない。なぜなら、常数としての我は一つの不変の
実在であらうが、阿頼耶識は一瞬もとどまらない「無我の流れ」だからである。
三島由紀夫「暁の寺」より

73 :
第七識までがすべて世界を無であると云ひ、あるひは五蘊悉く滅して死が訪れても、
阿頼耶識があるかぎり、これによつて世界は存在する。一切のものは阿頼耶識によつて存し、
阿頼耶識があるから一切のものはあるのだ。しかし、もし、阿頼耶識を滅すれば?
しかし世界は存在しなければならないのだ!
従つて、阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、
不断に奔逸し激動してゐるのである。
世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。
世界はどうあつても存在しなければならないからだ!
しかし、なぜ?
なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎らされる
からである。
世界が存在しなければならぬ、といふことは、かくて、究極の道徳的要請であつたのだ。
それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、といふ問に対する、阿頼耶識の側からの
最終の答である。
三島由紀夫「暁の寺」より

74 :
もし迷界としての世界の実有が、究極の道徳的要請であるならば、一切諸法を生ずる
阿頼耶識こそ、その道徳的要請の源なのであるが、そのとき、阿頼耶識と世界は、すなはち、
阿頼耶識と、染汚法の形づくる迷界は、相互に依拠してゐると云はなければならない。
なぜなら、阿頼耶識がなければ世界は存在しないが、世界が存在しなければ阿頼耶識は自ら
主体となつて輪廻転生をするべき場を持たず、従つて悟達への道は永久に閉ざされることに
なるからである。
最高の道徳的要請によつて、阿頼耶識と世界は相互に依為し、世界の存在の必要性に、
阿頼耶識も亦、依拠してゐるのであつた。
しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識で
あるならば、同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の
交はる一点に存在するのである。
ここに、唯識論独特の同時更互因果の理が生ずる、と本多は辛うじて理解した。
三島由紀夫「暁の寺」より

75 :
われわれの世界構造は、いはば阿頼耶識の種子を串にして、そこに無限の数の刹那の横断面を、
すなはち輪切りにされた胡瓜の薄片を、たえずいそがしく貫ぬいては捨て、貫ぬいては
捨てるやうな形になつてゐるのである。
輪廻転生は人の生涯の永きにわたつて準備されて、死によつて動きだすものではなくて、
世界を一瞬一瞬新たにし、かつ一瞬一瞬廃棄してゆくのであつた。
かくて種子は一瞬一瞬、この世界といふ、巨大な迷ひの華を咲かせ、かつ華を捨てつつ
相続されるのであるが、種子が種子を生ずるといふ相続には、前にも述べたやうに、業種子の
助縁が要る。この助縁をどこから得るかといふのに、一瞬間の現行の熏に依るのである。
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……
三島由紀夫「暁の寺」より

76 :
生きてゐる人間が純粋な感情を持続したり代表したりするなんて冒涜的なことです。
彼女は本多の物語を聴くときと同様、自分の肉体がたえず語りかける言葉を、いい加減に
聞き流してゐるやうに見えた。あまり大きくてあまり黒い瞳が、知的なものを通りすぎ、
何だか盲目のやうに見える。形態のふしぎ。ジン・ジャンが本多の前で、さうした、いくらか
強すぎる芳香を放つやうな感じのする肉を保つてゐるのは、ここ日本までたえず影響を
及ぼしてくる遠い密林の暈気のおかげであり、人が血筋と呼んでゐるものは、どこまでも
追ひかけてくる深い無形の声のやうな気がする。ある場合は熱い囁きになり、ある場合は
嗄れた叫びになるその声こそは、あらゆる美しい肉の形態の原因であり、又、その形が
惹き起す魅惑の源泉なのだ。
この世には道徳よりもきびしい掟がある、と本多が感じるのはその時だつた。ふさはしく
ないものは、決して人の夢を誘はず、人の嫌悪をそそるといふだけで、すでに罰せられてゐた。
三島由紀夫「暁の寺」より

77 :
ただ自足してゐなくて、不安に充ち、さりとてすでに無知ではない。知りうることと
知りえないこととの境界を垣間見たといふだけで、すでに無知ではない。そして不安こそ、
われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。本多はすでに清顕と勲の人生に立会ひ、
手をさしのべることの全く無意味な、運命の形姿をこの目で見たのだつた。それは全く、
欺されてゐるやうなものだつた。生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺に
かけられてゐるやうなものだつた。そして人間存在とは? 人間存在とは不如意だ、
といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。
さるにても、生の絶対の受身の姿、尋常では見られない生のごく存在論的な姿、さういふものに
本多は魅せられすぎ、又さういふものでなくては生ではないといふ、贅沢な認識に染まり
すぎてゐた。彼は誘惑者の資格を徹底的に欠いてゐた。なぜなら、誘惑し欺すといふことは、
運命の見地からは徒爾だつたし、誘惑するといふ意志そのものが徒爾だつたからである。
三島由紀夫「暁の寺」より

78 :
純粋に運命自体によつてだけ欺されてゐる生の姿以外に、生はない、と考へるとき、どうして
われわれの介入が可能であらう。そのやうな存在の純粋なすがたを、見ることさへどうして
できよう。さしあたつては、その不在においてだけ、想像力で相渉るほかはない。一つの
宇宙の中に自足してゐるジン・ジャン、それ自体が一つの宇宙であるジン・ジャンは、
あくまでも本多と隔絶してゐなければならない。彼女はともすると一種の光学的存在であり、
肉体の虹なのであつた。顔は赤、首筋は橙いろ、胸は黄、腹は緑、太腿は青、脛は藍、
足の指は菫いろ、そして顔の上部には見えない赤外線の心と、足の蹈まへる下には見えない
紫外線の記憶の足跡と。……そしてその虹の端は、死の天空へ融け入つてゐる。死の空へ
架ける虹。知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、
エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。
三島由紀夫「暁の寺」より

79 :
自分の中ですでに公然と理性を汚辱してゐた彼が、危険をかへりみない、といふことは
ありえない。なぜなら、真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ
生れるからだ。
慶子は急に何か思ひついたやうに、手提から固形香水をとりだして、翡翠の耳飾りを
垂らした耳朶にこすりつけた。
これが何かの合図になつたみたいに、ロビーの灯火がのこらず消えた。
「ちえつ、停電だ」
と克己の声が言つた。停電のときに、停電だと言つて、一体それが何になるのだらう、
と本多は思つた。怠惰の言訳としてしか言葉を使はぬ人間がゐるものだ。
あの目なしには、今西と椿原夫人の結びつきには、贋物の匂ひが拭はれず、野合の負け目が
除かれぬ。あれこそはもつとも威ある媒酌人の目だつたからだ。寝室の薄闇の一隅に
光つてゐたあの女神のやうな犀利な瞳こそ、結びつけながら拒絶し、ゆるしながら蔑む
証人の目、この世のどこかに安置されてゐる或る神秘な正義の、いやいやながらの承認を
司る目なのであつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

80 :
必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。この想像力には甘美なところがみぢんもなかつた。
もし事実の上に立つて羽搏く想像力なら、心をのびやかにひろげることもあらうに、事実へ
無限に迫らうとする想像力は、心を卑しくさせ、涸渇させる。ましてその「事実」が
なかつたとしたら、その瞬間にすべては徒労になるのだ。
しかし、事実はたしかにどこかにある、といふ刑事の想像力ならば、わが身を蝕むことは
あるまい。梨枝の想像力は二つのものを兼ねてゐた、すなはち、事実がたしかにどこかにある、
といふ気持と、その事実がなくてくれればいい、といふ気持と。かうして嫉妬の想像力は
自己否定に陥るのだ。想像力が一方では、決して想像力を容認しないのである。丁度過剰な
胃酸が徐々に自らの胃を蝕むやうに、想像力がその想像力の根源を蝕んでゆくうちに、
悲鳴に似た救済の願望があらはれる。事実があれば、事実さへあれば、自分は助かるのだ! 
攻めの一手の探究の果てに、かうしてあらはれる救済の願望は、自己処罰の欲望に似て来てしまふ。
なぜならその事実は、(もしあるとすれば)、自分を打ちのめす事実に他ならないからだ。
三島由紀夫「暁の寺」より

81 :
無知によつて歴史に与り、意志によつて歴史から辷り落ちる人間の不如意を、隈なく
眺めてきた本多は、ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと
望んだからだ、といふ風に考へる。一度も望まなかつたので、三億六千万円は彼のものに
なつたのである。
それが彼の考へ方だつた。ほしいものが手に入らない、といふことを、自分の至らぬためとか、
生れつきの欠点のためとか、乃至は、自分が身に負うてゐる悲運のためとか決して考へる
ことがなく、それをすぐ法則化し普遍化するのが本多の持ち前だつたから、彼がやがて
その法則の裏を掻かうと試みはじめたのにふしぎはない。何でも一人でやる人間だつたから、
立法者と脱法者を兼ねることなぞ楽にできた。すなはち、自分が望むものは決して手に
入らぬものに限局すること、もし手に入つたら瓦礫と化するに決つてゐるから、望む対象に
できうるかぎり不可能性を賦与し、少しでも自分との間の距離を遠くに保つやうに努力すること、
……いはば熱烈なアパシーとでも謂ふべきものを心に持すること。
三島由紀夫「暁の寺」より

82 :
身の毛もよだつほどの自己嫌悪が、もつとも甘い誘惑と一つになり、自分の存在の否定自体が、
決して癒されぬといふことの不死の観念と一緒になるのだ。存在の不治こそは不死の感覚の
唯一の実質だつた。
自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら
思はれる。お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺が
たのみもしないのに、その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない
綱渡りを強ひたのだ。陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を家財道具に
換価させ、美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を流刑に処し、
異端を病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。それは、膿盆の上の、
血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、そのたびごとに、
老いも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。
三島由紀夫「暁の寺」より

83 :
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。乙女峠の
空にかかる白い雲は、偽善的なほど衛生的な、白い新らしいまばゆい繃帯の散乱であつた。
甚だゆつくりした物腰、やや尊大な物の言ひつぷり、日常生活にまで安全運転のしみ込んだ
この男の、決して動じない態度には苛立たされる。人生が車の運転と同様に、慎重一点張りで
成功するなどと思はれてたまるものか。
或る感情の量を極度まで増してゆくとおのづから質が変つて、わが身を滅ぼすかと思はれた
悩みの蓄積が、ふいに生きる力に変るのだ。はなはだ苦い、はなはだ苛烈な、しかし俄かに
展望のひらける青い力、すなはち海に。
本多は妻がそのとき、曾て見も知らぬ苦いしたたかな女に変りつつあるのに気づいてゐなかつた。
不機嫌や黙りがちの探索で彼を苦しめてゐた間の梨枝は、実はまだその蛹にすぎなかつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

84 :
>>26の後
「ぢやあ、気をつけて」
と言つた。言葉にも軽い弾みを持たせ、その弾みを動作にも移して、聡子の肩に手を置かうと
思へば置くこともできさうだつた。しかし、彼の手は痺れたやうになつて動かなかつた。
そのとき正(まさ)しく清顕を見つめてゐる聡子の目に出会つたからである。
その美しい大きい目はたしかに潤んでゐたが、清顕がそれまで怖れてゐた涙はその潤みから
遠かつた。涙は、生きたまま寸断されてゐた。溺れる人が救ひを求めるやうに、まつしぐらに
襲ひかかつて来るその目である。清顕は思はずひるんだ。聡子の長い美しい睫は、植物が
苞をひらくやうに、みな外側へ弾け出て見えた。
「清様もお元気で。……ごきげんよう」
と聡子は端正な口調で一気に言つた。
清顕は追はれるやうに汽車を降りた。折しも腰に短剣を吊り五つ釦の黒い制服を着た駅長が、
手をあげるのを合図にして、ふたたび車掌の吹き鳴らす呼笛がきこえた。
かたはらに立つ山田を憚りながら、清顕は心に聡子の名を呼びつづけた。汽車が軽い
身じろぎをして、目の前の糸巻の糸が解(ほど)けたやうに動きだした。
三島由紀夫「春の雪」より

85 :
飛翔するジン・ジャンをこそ見たいのに、本多の見るかぎりジン・ジャンは飛翔しない。
本多の認識世界の被造物にとどまる限り、ジン・ジャンはこの世の物理法則に背くことは
叶はぬからだ。多分、(夢の裡を除いて)、ジン・ジャンが裸で孔雀に乗つて飛翔する世界は、
もう一歩のところで、本多の認識自体がその曇りになり瑕瑾になり、一つの極微の歯車の
故障になつて、正にそれが原因で作動しないのかもしれぬ。ではその故障を修理し、歯車を
取り換へたらどうだらうか? それは本多をジン・ジャンと共有する世界から除去すること、
すなはち本多の死に他ならない。
今にして明らかなことは、本多の欲望がのぞむ最終のもの、彼の本当に本当に本当に
見たいものは、彼のゐない世界にしか存在しえない、といふことだつた。真に見たいものを
見るためには、死なねばならないのである。
覗く者が、いつか、覗くといふ行為の根源の抹殺によつてしか、光明に触れえぬことを
認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。
認識者の自殺といふものの意味が、本多の心の中で重みを持つたのは、生れてはじめてだと
云つてよかつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

86 :
「今夜が最後と思へば、話なんていくらだつてあります。この世のありとあらゆることを
話し合ふんですね。自分のやつたこと、人のやつたこと、世界が体験したこと、人類が今まで
やつてきたこと、あるひは置きざりにされた一つの大陸が何千年ものあひだじつと夢み
つづけてきたこと、何でもいいのです。話の種子はいつぱいあります。今夜限りで世界は
終るのですからね」
「信心をお持ちになつたらどうなんです」
「信心なんて。裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。私一人を
いつもじつと見つづけて、あれはいけない、これはいけない、とたえず手取り足取り指図して
下さる神様でなければ。その前では何一つ隠し立てのできない、その前ではこちらも浄化されて、
何一つ羞恥心を持つことさへ要らない、さういふ神様でなければ、何になるでせう」
「おたのしさうね、皆さん。こんな時代が来るなんて、戦争中に誰が想像したでせう。
一度でもいいから、暁雄にこんな思ひをさせてやりたかつた」
三島由紀夫「暁の寺」より

87 :
かういふ動悸には馴染がある。夜の公園に身をひそめてゐる折、目の前に待ちかねてゐたものが
いよいよはじまるといふ時に、赤い蟻が一せいに心臓にたかつて、同じ動悸を惹き起す。
それは一種の雪崩だ。この暗い蜜の雪崩が、世界を目のくらむやうな甘さで押し包み、
理智の柱をへし折り、あらゆる感情を機械的な早い鼓動だけで刻んでしまふ。何もかも
融けてしまふ。これに抗はうとしても無駄なことだ。
それはどこから襲つて来るのだらう。どこかに官能の深い棲家があつて、それが遠くから指令を
及ぼすと、どんな貧しい触角も敏感にそよぎ、何もかも打ち捨てて、走り出さなければならない。
快楽の呼ぶ声と死の呼ぶ声は何と似てゐることか。ひとたび呼ばれれば、どんな目前の仕事も
重要でなくなり、つけかけの航海日誌や、喰べかけの食事や、片方だけ磨いた靴や、鏡の前に
今置いたばかりの櫛や、繋ぎかけたロープもそのままに、全乗組員が消え去つたあとを
とどめてゐる幽霊船のやうに、すべてをやりかけのまま見捨てて出て行かねばならない。
三島由紀夫「暁の寺」より

88 :
動悸はこのことの起る予兆なのだ。そこからはじまることはみつともなさと醜悪だけと
知れてゐるのに、この動悸には必ず虹のやうな豊麗さが含まれ、崇高と見分けのつかないものが
ひらめいてゐた。
崇高と見分けのつかないもの。それこそは曲者だつた。どんな高尚な事業どんな義烈の行為へ
人を促す力も、どんな卑猥な快楽どんな醜怪な夢へそそのかす力も、全く同じ源から出、
同じ予兆の動悸を伴ふといふことほど、見たくない真実はなかつた。もし下劣な欲望は
下劣な影をちらつかせるにすぎず、そもそもこの最初の動悸に崇高さの誘惑がひらめかなければ、
人はまだしも平静な矜りを持して生きることができるのだ。ともすると誘惑の根源は
肉慾ではなくて、この思はせぶりな、このおぼろげな、この雲間に隠見する峯のやうな銀の
崇高さの幻影なのだつた。それは一先づ人をとりこにし、次いで耐へきれぬ焦燥から広大な
光りへあこがれさせる、「崇高」の鳥黐だつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

89 :
うすくにじみ出す煙のなかから、火が兇暴な拳をつき出して、焔の吹き出す口をあける
移りゆきの、ほとんど滑らかな速度には、夢よりも巧妙なものがあつた。
本多は肩や袖にふりかかる火の粉を払ひ、プールの水面は、燃え尽きた木片や、藻のやうに
蝟集した灰におほはれてゐた。しかし火の輝やきはすべてを射貫いて、マニカルニカ・ガートの
焔の浄化は、この小さな限られた水域、ジン・ジャンが水を浴びるために造られた神聖な
プールに逆しまに映つてゐた。ガンジスに映つてゐたあの葬りの火とどこが違つたらう。
ここでも亦、火は薪と、それから焼くのに難儀な、おそらく火中に何度か身を反らし、
腕をもたげたりした、もはや苦痛はないのに肉がただ苦しみの形をなぞり反復して滅びに抗ふ、
二つの屍から作られたのである。それは夕闇に浮んだガートのあの鮮明な火と、正確に同質の
火であつた。すべては迅速に四大へ還りつつあつた。煙は高く天空を充たしてゐた。
ただ一つここにないものは、焔のかなたからこちらを振り向いて、本多の顔をひたと見据ゑた
あの白い聖牛の顔だけである。……
三島由紀夫「暁の寺」より

90 :
海攪拌のインド神話を、毎日毎日、ごく日常的にくりかへしてゐる海の攪拌作用。たぶん
世界はじつとさせておいてはいけないのだらう。じつとしてゐることには、自然の悪を
よびさます何かがあるのだらう。
五月の海のふくらみは、しかしたえずいらいらと光りの点描を移してをり、繊細な突起に
充たされてゐる。
三羽の鳥が空の高みを、ずつと近づき合つたかと思ふと、また不規則に隔たつて飛んでゆく。
その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、又、
その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、何を意味するのか。三羽の鳥がさうするやうに、
われわれの心の中に時たま現はれる似たような三つの思念も?
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようの
ないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、
絶対の無政府主義(アナーキー)。
三島由紀夫「天人五衰」より

91 :
刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐるなどと
いふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。
一つの存在。
船でなくともよい。いつ現はれたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさへ存在の鐘を打ち鳴らすに
足りる。
午後三時半、駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だつた。
波に隠れすぐ現はれ、浮いつ沈みつして、またたきやめぬ目のやうに、その鮮明な
オレンヂいろは、波打際から程遠からぬあたりを、みるみる東のはうへ遠ざかる。
三島由紀夫「天人五衰」より

92 :
堤防の上の砂地には夥しい芥が海風に晒されてゐた。コカ・コーラの欠けた空瓶、缶詰、
家庭用の塗装ペイントの空缶、永遠不朽のビニール袋、洗剤の箱、沢山の瓦、弁当の殻……
地上の生活の滓がここまで雪崩れて来て、はじめて「永遠」に直面するのだ。今まで一度も
出会はなかつた永遠、すなはち海に。もつとも汚穢な、もつとも醜い姿でしか、つひに人が
死に直面することができないやうに。
見ることは存在を乗り超え、鳥のやうに、見ることが翼になつて、誰も見たことのない領域へ
まで透を連れてゆく筈だ。そこでは美でさへも、引きずり朽され使ひ古された裳裾のやうに、
ぼろぼろになつてしまふ筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海といふものが
ある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又
確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや
見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。
三島由紀夫「天人五衰」より

93 :
微笑は同情とは無縁だつた。微笑とは、決して人間を容認しないといふ最後のしるし、
弓なりの唇が放つ見えない吹矢だ。
どんな男だつて、私を見たとたんに、獣になつてしまふんだもの、尊敬しやうがないぢや
ありませんか。女の美しさが、男の一番醜い欲望とぢかにつながつてゐる、といふことほど、
女にとつて侮辱はないわ。
おそらく絹江の発狂のきつかけは、失恋させた男が彼女の醜い顔を露骨に嘲つたことにあるので
あらう。その刹那に、絹江は自分の生きる道を、その唯一の隘路の光明を認めたのであつた。
自分の顔が変らなければ、世界のはうを変貌させればそれですむ。誰もその秘密を知らぬ
美容整形の自己手術を施し、魂を裏返しにしさへすれば、かくも醜い灰色の牡蠣殻の内側から、
燦然たる真珠母があらはれるのだつた。
追ひつめられた兵士が活路をひらくやうに、絹江はこの世界の根本的な不如意の結び目を
発見して、それを要に、世界を裏返しにしてしまつた。何といふ革命だつたらう。
内心もつとも望んでゐたものを、悲運の形で受け入れたその狡智。……
三島由紀夫「天人五衰」より

94 :
自分はいつも見てゐる。もつとも神聖なものも、もつとも汚穢なものも、同じやうに。
見ることがすべてを同じにしてしまふ。同じことだ。……はじめからをはりまで同じことだ。
……いひしれぬ暗い心持に沈んで、本多は、あたかも海を泳いで来た人が、身にまとひつく
海藻を引きちぎつて陸に上るやうに、夢を剥ぎ落して、目をさました。
日はまだ現はれないが、現はれるべきところのすぐ上方に、肌理のこまかい雲が、あたかも
低い山脈の連なりのやうな、山襞の褶曲そつくりの形を高肉浮彫にしてゐる。この山脈の上には
ところどころに仄青い間隙のある薔薇いろの横雲が一面に流れ、この山脈の下には薄鼠いろの
雲が海のやうに堆積してゐる。そして山脈の浮彫は、薔薇いろの雲の反映を山裾にまで受けて、
匂うてゐる。その山裾には人家の点在まで想ひ見られ、そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土の
出現を透は見た。
あそこからこそ自分は来たのだ、と透は思つた。幻の国土から。夜明けの空がたまたま
垣間見せるあの国から。
三島由紀夫「天人五衰」より

95 :
だんだん幼時の夢や少年時代の夢を見ることが多くなつた。若かつたころの母が、或る雪の日に、
作つてくれたホット・ケーキの味をも、夢が思ひ出させた。
あんなつまらない挿話がどうしてこんなに執拗に思ひ出されるのだらう。思へばこの記憶は、
半世紀もの間、何百回となく折に触れて思ひ出され、何の意味もない挿話であるだけに、
その想起の深い力が本多自身にもつかめないのである。
(中略)
本多が夢にたびたび想起するのは、そのときのホット・ケーキの忘れられぬ旨さである。
雪の中をかへつてきて、炬燵にあたたまりながら喰べたその蜜とバターが融け込んだ美味である。
生涯本多はあんな美味しいものを喰べた記憶がない。
しかし何故そんな詰らぬことが、一生を貫ぬく夢の酵母になつたのであらう。(中略)
それにしてもその日から六十年が経つた。何といふ須臾の間であらう。或る感覚が胸中に
湧き起つて、自分が老爺であることも忘れて、母の温かい胸に顔を埋めて訴へたいやうな
気持が切にする。
三島由紀夫「天人五衰」より

96 :
六十年を貫ぬいてきた何かが、雪の日のホット・ケーキの味といふ形で、本多に思ひ知らせる
ものは、人生が認識からは何ものをも得させず、遠いつかのまの感覚の喜びによつて、
あたかも夜の広野の一点の焚火の火明りが、万斛の闇を打ち砕くやうに、少くとも火の
あるあひだ、生きることの闇を崩壊させるといふことなのだ。
何といふ須臾だらう。十六歳の本多と、七十六歳の本多との間には、何事も起らなかつたと
しか感じられない。それはほんの一またぎで、石蹴り遊びをしてゐる子供が小さな溝を
跳び越すほどのつかのまだつた。
そして、清顕があれほど詳(つぶ)さにしたためた夢日記が、その後効験をあらはすのを見て、
たしかに本多は夢の生に対する優位を認識したけれども、自分の人生がかうまで夢に
犯されるとは想像もしてゐなかつた。タイの出水に涵される田園のやうに、夢の氾濫が
自分にも起つたといふふしぎな喜びはあつたが、清顕の夢の芳醇に比べると、本多の夢は
ただ返らぬ昔のなつかしい喚起にすぎなかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より

97 :
なるほど空襲下の渋谷の焼址で蓼科が語つたところによれば、聡子は泉が澄むやうにますます
美しくなつたといふが、さういふ無漏の老尼の美もわからぬでもなく、事実、大阪の人から
輓近の聡子の美しさを感嘆を以て語る声をもきいた。それでもなほ本多は怖い。美の廃址を
見るのも怖いが、廃址にありありと残る美を見るのも怖いのである。
それはあたかも彼の認識の闇の世界の極みの破れ目から、そそいで来る一縷の月光のやうな寺に
他ならなかつた。
そこに聡子のゐることが確実であるなら、聡子は不死で永久にそこにゐることも確実のやうに
思はれる。本多が認識によつて不死であるなら、この地獄から仰ぎ見る聡子は、無限大の
距離にゐた。会ふなり聡子が本多の地獄を看破ることは確実なのである。又、本多の不如意と
恐怖に充ちた認識の地獄の不死と、聡子の天上の不死とは、いつも見合つてをり、均衡を
保つやうに仕組まれてゐると感じられる。それなら今いそいで会はなくても、三百年後でも、
よしんば千年後でも、会ひたいときには随時に会へるではないか。
三島由紀夫「天人五衰」より

98 :
いつ降るともしれぬ梅雨空の下を、車は金融関係の新らしいビルが櫛比する迂路を
八〇キロほどの速度で走つた。ビルといふビルは頑なで、正確で、威嚇的で、鉄とガラスの
長大な翼をひろげて、次々と襲ひかかつた。本多はいづれ自分が死ぬときには、これらのビルは
全部なくなるのだ、といふ想ひに、一種の復讐の喜びを味はつた、その瞬間の感覚を思ひ出した。
この世界を根こそぎ破壊して、無に帰せしめることは造作もなかつた。自分がば確実に
さうなるのだ。世間から忘れられた老人でも、死といふ無上の破壊力をなほ持ち合せて
ゐることが、少し得意だつたのである。本多はいささかも五衰を怖れてゐなかつた。
ベナレスでは神聖が汚穢だつた。又汚穢が神聖だつた。それこそは印度だつた。
しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのでは
なかつた。これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、
しかし石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より

99 :
祈りの手ほど謙虚ではなく、見えないものを愛撫しようと志してゐる手。宇宙を愛撫するために
だけ使はれる手があるとすれば、それは自涜者の手だ。『俺は見抜いたぞ』と本多は思つた。
(中略)
見るがいい。この少年こそ純粋な悪だつた! その理由は簡単だつた。この少年の内面は
能ふかぎり本多に似てゐたからである。
これはすべて本多の幻想だつたかもしれない。が、一目で見抜く認識能力にかけては、
幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあつた。欲望を抱かない限り、
この目の透徹と澄明は、あやまつことがなかつた。まして自分にとつて不本意なことを
見抜くことにかけては。
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
この少年は美しかつた。そのとき本多は、ともすると我人共に認めようとしてゐなかつた自分の
自意識の美しさに、目ざめ、魅せられてゐたのかもしれない。……
三島由紀夫「天人五衰」より

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