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2012年4月日本史15: 復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.5 (332) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.5


1 :11/01/24 〜 最終レス :12/04/15
男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後(晋書)
倭者、自云太伯之後。俗皆文身(梁書)
神武天皇は入れ墨をしていた!
過去スレ
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?
http://unkar.org/r/history/1189507021
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.2
http://mimizun.com/log/2ch/history/1206938431/
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.3
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/history/1225586417/
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.4
http://unkar.org/r/history/1256401997

2 :
天皇こそ正統周王家の生き残りなのです。
銅鐸がなぜ巨大化していったのかという
古代史の謎をここに解き明かしましょう。
呉の末裔達が列島に渡来してしばらく後
かられは列島の青銅器の一部、とくに
銅鐸を鼎に相当するものとして扱うようになりました。
しかし、鼎にはかつて楚の荘王からその大きさを問われた
苦い過去がありました、(いわゆる「鼎の軽重を問う」)
そのトラウマから銅鐸や銅剣の一部が巨大化してつくられるように
なっていったのです。
【奈良】「女王卑弥呼の宮殿」といわれている纒向遺跡から大量の山海の幸 祭祀の供物で並べられたか
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1295599247/
そしてとうとう纒向遺跡から大量の桃の種と同時に祭壇跡が発見されました。
桃は古代支那大陸の土着宗教である道教で神聖な果物とされ今も儀式に使われています。
卑弥呼が司った鬼道はすなわち初期の道教。
見事に日本人のルーツである周王室→呉(春秋戦国)→日本がつながりました。

3 :
NHKが検証番組してたね。
とうとうNHKでさえ古代中国王朝と大和朝廷のつながりを認めざるを得なくなったってことだね。
日本人は直接中国大陸から渡ってきた人々で、朝鮮半島を経由しなかった事実が主流になってきた。

4 :
マジでか!? 天皇との繋がりも興味あるなぁ。

5 :
日本人 - Wikipedia 「Y−DNA」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは一般に日本国の国籍を持つ者。もしくは日本国内で多数を占める大和民族や、日本列島にルーツ(起源・祖先・由来等)を持つ人々を指す。
日本人の多数を占める大和民族の例。 日本の先住民族の一つであるアイヌ。 ...
大和民族 - 日本人論 - 在外日本人
.......................................................C...............DE....................N....O
.......................................................C1...C3...D1...D2...D3...N...O1...O2a...O2b...O3
日本(野中、水口).東京........1.......2......1...40.......0....0......3.........1........26...14
日本(Hammer et al.).青森..8.......0......0...39.......0....8......0.........*........31...15
静岡.................................................5.......2......0...33.......0....2......0.........*........36...20
徳島..............................................10.......3......0...36.......0....7......0.........*........33...21
沖縄.................................................4.......0......0...56.......0....0......0.........*........22...16
日本(Tajima et al.)アイヌ.....0....13......0...88.......0....0......0.........*..........0.......0
九州.................................................4.......8......0...28.......0....0......2.........*........34...24
日本(Shinka et al.)北琉球..4.......0......0...39.......0....0......0.........0........30...16
南琉球............................................*.......0......0.....4.......0....0......*.........0........67......*

6 :

.........................................C...............DE....................N....O
.........................................C1...C3...D1...D2...D3...N...O1...O2a...O2b...O3
オロチョン.................... *....91......*.......*......*....*.......*.........0..........0......0
エヴェンキ.................... *....68......*.......*......*..17.......*.........*..........*......*
満州................................ *.....27.....*.......*......*.....*.......4.........0..........4....38
ブリヤート..................... *....84......*.......*......*..28.......*.........0..........2......2
ハルハ(モンゴル)... *....52......*.......*......1....*.......1.........0..........0....23
朝鮮................................. *....11......*.......4......*....*.......3.........0........36....38
漢民族(華北)............ *......5......*.......*......*....*.......*..........2..........0....66
チベット.......................... *......3.....16.......*...33....*.......*.........0...........0....33
ベトナム......................... *......4.......3.......*......*....*.......6.......36........14....41

7 :
出土地不明:2011/01/04(火) 03:56:59 ID:igvOoTyF
殷、周では宝貝(子安貝)を貨幣として使っていて、銅銭が登場するのは周〜春秋時代のようです。
宝貝は東シナ海沿岸では採れず、採れるのは台湾以南と南西諸島だそうです。
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/C001.htm
殷の宝貝は宮古産という話もありますが未確認。

8 :
出土地不明:2011/01/04(火) 04:43:54 ID:zUhec8Xt
 ● 殷・周の貝貨
貝貨 15-21mm 0.5-2.0g
中国では新石器時代の晩期の紀元前30世紀ころから、墓地に宝貝が埋葬されています。
宝貝は中国の沿岸では採れず、もっとも近くても琉球諸島かベトナムです。 はるか海上の道を伝って運ばれたものです。 宝貝の裏面は丁寧に削り取っています。
殷王朝の末期から西周王朝の末期にかけて、王や王族が家臣に宝貝を下賜した記録が残されています。
  西周第5代の天子穆公は、治世13年(紀元前989年)6月6日、西域の赤烏の王に、
    墨車4輌、黄金40鎰(800両)、貝帯50、朱薬300嚢
を下賜したとの言い伝えがあります。
  柳田国男さんは『海上の道』の中で、琉球諸島の宝貝が殷王朝に供給された可能性を強調されています。

9 :
夫余は呉王の弟「夫慨」の子孫。
「史記-呉太伯」闔閭10(505)年、夫概を攻める。夫概は破れて楚に奔走する。
「風俗通義 廣韻〜餘」呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。(今の百済王夫餘氏)[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
・「呉王 闔閭」が楚を攻略中に、留守居の弟王「夫概」は楚と通じてクーデターを起こし、呉を実効支配した。
・闔閭は直ちに取って返して呉を奪い返し、夫概は楚に奔走した。呉に残された夫概の子らは呉におられず、半島北部、さらに西部に逃げて、高句麗や百済の始祖となった。
・呉は元をたどれば(倭国の大夫も名乗った)周の王子「太伯」の末裔で、江南の東夷系の水生種族。その東夷が北進して、北方ツングース族の地で王家となって国を建てたのが高句麗。
・高句麗王家も百済王家も、もちろん朝鮮人じゃない。
・ちなみに「正統な呉王家」の末裔は、新撰氏姓録によれば、結局日本にやってきている。
そのため高句麗には
1)四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)信仰がある。(玄武すなわち変温動物の蛇や亀が北にある)
2)織媛(七夕)や北斗七星、北辰といった夷族系の星信仰がある
3)江南発祥とされる「支石墓」がある。
4)高床式建築がある。
5)建国の始祖朱蒙(あるいは東明王)は天帝と河神の子であり、追手に攻められたとき魚(トーテム)族に助けられた。
6)朱蒙は弓の善射という意味だが、弓は北方系の短弓ではなく夷族の長弓。
というように高句麗王家は、実は北方騎馬民族要素は少なく(江南の)水生夷族系の文化を多く持つ。

10 :
風俗通義-廣韻〜餘(後漢代)によると、
「呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。今の百済王夫餘氏である。」
とあります。
夫概(フガイ)は呉の公子で呉王「闔閭」の弟で、夫余氏の始祖とされます。
このあたりの流れを史記他を総合すると、
1)B.C.506呉軍と楚軍が漢水を挟んで対陣した。
2)11月、夫概は闔閭の命を聴かず部下5000人を率いて楚を襲撃し、楚軍を大敗させた。
3) この戦いで呉は郢を陥落させることが出来た。
4)B.C.505呉は秦、越に攻められ敗北を喫した。
5)夫概は闔閭が楚の地から帰国できない情勢であることを見て取ると、呉に戻り自立して王となった。
6)しかしすぐに鎮圧されて楚に亡命した。楚の昭王に堂谿に封じられ、堂谿氏と称す。
7)呉に余(のこ)されていた夫概の子らが呉を去り,以後「夫餘」を氏とした。

11 :
『大宋重修廣韻』大中祥符元年(1008年)通称廣韻の「上平09魚〜餘」の中で風俗通義を引用する形で載せてる漢文。
それが一般に「風俗通義-廣韻〜餘(後漢代西暦23年〜西暦220年)」と云われてる物。(注)一番下の行
* 風俗通云吳公子夫摡奔楚其子在國以夫餘爲氏今百濟王夫餘氏也 *
余我也又姓風俗通云秦由余之後何氏姓苑云今新安人以諸切三十 蜍蜘蛛又常魚切 藇芞藇香草 㶛水名 餘殘也䞉賸也皆也饒也又姓晉有餘頠又漢複姓三氏晉卿韓宣子之後有名
餘子者奔於齊號韓餘氏又傳餘氏本自傅說說旣爲相其後有留於傅巖者因號傅餘氏秦亂自C河入吳漢興還本郡餘不還者曰傅氏今吳郡有之
風俗通云吳公子夫摡奔楚其子在國以夫餘爲氏今百濟王夫餘氏也 輿車輿又多也又權輿始也續漢書輿服志曰上古聖人觀轉蓬始以爲輪輪行不可載因物生智後爲之輿又姓周大夫伯輿之後

12 :
『後漢書』扶余伝  >東夷に猿と云えば(テンや猿の毛皮)国の古老は昔の亡命者だと自称する。
         >文中に「古之亡人」とあるが、中原諸国に追われ扶余国に亡命してきた人々がいたのだろうか。
其國善養牲、出名馬、赤玉、貂?、美珠。珠大者如酸棗。以弓矢刀矛為兵、家家自有鎧仗。國之耆老自説古之亡人。
作城柵皆員、有似牢獄。行道晝夜無老幼皆歌、通日聲不絶。有軍事亦祭天、牛觀蹄以占吉凶、蹄解者為凶、合者為吉。
有敵、諸加自戰、下戸倶擔糧飲食之。其死、夏月皆用冰。人徇葬、多者百數。厚葬、有槨無棺@。
 その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の毛皮、美しい淡水真珠を産出する。
真珠の大きいのは棗(なつめ)ほどもある。弓矢刀矛を武器とし、家々に鎧と武具を備えている。国の古老は昔の亡命者だと自称する。

13 :
春秋句呉 歴代君主
1,太伯
2,虞仲


17,句卑
18,去斉
呉王(19代寿夢より)
1,寿夢(紀元前585年 - 紀元前561年)夫余族始祖,朱蒙かも?
2,諸樊(紀元前560年 - 紀元前548年)
3,余祭(紀元前547年 - 紀元前544年)
4,余昧(紀元前530年 - 紀元前527年) 
5,僚(紀元前526年 - 紀元前516年)
6,闔閭(紀元前515年 - 紀元前496年)
7,夫差(紀元前495年 - 紀元前473年)弟,夫概の子,夫余氏有り
1,寿夢(紀元前585年 - 紀元前561年)夫余族始祖,朱蒙かも?
日本の相撲(スモウ)も遠い先祖神への奉納(角力)をスモウと発音したのかも。

14 :
出土地不明:2011/01/22(土) 20:20:42 ID:VOmcpAcb
>日本の相撲(スモウ)も遠い先祖神への奉納(角力)をスモウと発音したのかも。
角力は角を突き合わせて戦うことで、頭に角があるという蚩尤(しゆう)に由来するという。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%A9%E5%B0%A4
相撲発祥の地とされているのは、当麻蹶速(たいまのけはや)と出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)が天覧試合をしたとされる、大兵主神社神域内小字カタヤケシですが、
兵主とは蚩尤のことです。
http://kakinoha.jugem.jp/

15 :
出土地不明:2011/01/22(土) 23:07:43 ID:ODAT31ul
>>697 >蚩尤(しゆう),敦賀市の神話ツヌガアラシト(つのがあるひと)と関係ありそう。
熊本.チブサン古墳「三山角冠を被った人物像」
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka3/cibu.jpg
http://kyuhaku.jmc.or.jp/kofun_img/chibusan.jpg
呉越時代.臨し出土.三山角冠を被った「水軍戦闘図」
http://img3.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1585292/img_1585292_44914340_3?1219768360

16 :
>>698追加   >三山冠を被った三角縁神獣鏡「東王父」
http://f.hatena.ne.jp/images/fotolife/n/nyankosensee/20100919/20100919120409.jpg
http://chinaalacarte.web.fc2.com/seidouki-12-2.html
http://www.asuka-tobira.com/saimei/kurozuka1.jpg
http://wombat.moo.jp/tabikiroku/sinjukyo/images/sinju.jpg

17 :
まさしく>>自ら太白の後という・・・ここでは「呉の太白の後裔」と言わず、「呉の」が無いことに注意しなければならない。
この「呉の太白の後裔」を解釈して「倭人は呉国(呉人)の後裔だ」と考える向きがあるが、魏略はそうは言っていない。
あくまでも呉の祖である「太白」の後、すなわち「呉人と同様に、倭人も太白の末裔なのだ」と言っているというのだ。
これを逆に倭人を中心に解釈すると「太白は倭人の祖、つまり、太白は倭人なのだ」となる。
 そんなこと有り得ぬ、と言われるだろうが、『史記』「周本紀」によると太白・虞仲・季歴の三兄弟のうち周王朝の祖となったのは末っ子の季歴であり、
上の二人は南方に逃れ、太白は呉の祖になったわけだが、実はこれら三兄弟の父は名を「古公亶父(ここうたんぷ)」という。
「古公」は「遠い昔の人」という意味だから外してみると残りは「亶父」つまり「亶洲の父」であり、
「亶洲」を先述のように倭人列島のこととすると「倭人の父」と解釈することができる、ひたすら亶洲を探し求めた呉の「孫権」。

18 :
>>17 それで東王父、西王母、神話が出来。
つまり東王父=亶父=太白の父=周王の父=亶洲の父=倭人出身だったんじゃないか?
>>14
戦いの神スサノオ別名,牛頭天王まさしく兵主,蚩尤のことでじゃな。

19 :
この『ヤタガラス』が太陽信仰の南方系天孫族のシンボル
中国 河姆渡文化(紀元前5000年) 青銅器
http://www.collectioncnsh.com/pmyg/picshow/WDQTG000204-1x.jpg
周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)
http://www.scrtvu.net/support/refer/jxczy/jxc/jpkc/zgmsjs/ztfd/sz/ss2.jpg
春秋時代 紀元前770年
http://a4.att.hudong.com/37/55/01300000341600123441554631212.jpg
前漢(ぜんかん 紀元前206年)
http://www.xwxian.cn/uploadfile/2009729154012.jpg
明(みん、1368年) 地壇
http://www.dianping.com/photos/1189752

20 :
韓国の遺跡から卵形土笛の出土例がない不思議?後世雅楽の楽器としては有るんだが。
日本では日本海側の縄文、弥生遺跡を中心に数多く(100個近く)出土し(前4後2穴)で中国と同じ作りである。
【土笛の歴史】http://images.china.cn/images/108952.jpg http://www2.wind.ne.jp/ocarina/oca/ken.jpg
中国の殷や長江の河姆渡(かぼと)遺跡から約6千年前(土へんに員)(けん)と呼ばれる土笛が発見され、これが最も古い ...
土笛の役割 陶(土へんに員)(とうけん)である土笛は、中国の朝廷の儀式で使われたものですし、貴族がたしなむ楽器の一部でした........
土笛は、殷周の時代は前面3孔後面2孔ですが、戦国時代の孔子の時代に前面4孔後面2孔の形式が完成しています。
弥生時代前期の土笛http://www2.wind.ne.jp/ocarina/oca/yayoi.jpg
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/pics/iseki/ayaragikyoutsuchifue.jpg
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/ayaragikyou.html
綾羅木郷遺跡(下関市)から弥生土器とともに出土した弥生笛のレプリカこれも「けん」と同様の方法で音を出します。
縄文時代中期http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/pics/iseki/dofue.jpg
縄文笛http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/08/000301.html

21 :
出土地不明:2011/01/30(日) 03:02:53 ID:VArm8dy4
太陽信仰も鳥信仰も古代三苗から伝わった信仰かもしれんよ
中国や朝鮮に伝わる神話は三苗の影響たっぷり受けたものが多いからね
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/sinwa/sinwa-1-banko.htm

22 :
渡来系弥生人の故郷を中国に求めて - 日本人はるかな旅展(国立科学博物館)
渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。
最近の調査により、水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人によく似た人骨があいついで見つかっています
渡来系弥生人によく似た頭骨が発見されている中国の遺跡
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_14_02.jpg
江南と日本の稲DNAが一致、朝鮮半島とは一致せず
http://yamatai.cside.com/katudou/image/266-4.gif
http://www.iza.ne.jp/images/user/20090917/613712.jpg
日本の銅鐸のルーツ? 中国で青磁器の「鐸」出土―江蘇省
http://blog.livedoor.jp/kyoumisinsin8/archives/50251853.html
5000年前に身長180cmの古代人、日中関係のルーツ解明か―江蘇省徐州市
http://www.recordchina.co.jp/group/g20558.html
弥生人と江南人の、DNA、抜歯形式が一致―江蘇省
ttp://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html

23 :
日本ではいまだに浪速なにわ、奈良なら、山背やましろ、高麗こま、百済くだら、と
1500年位前の地名は普通に使ってるぞ、それは日本人が当事者だからな。
百済ーくだらーペクチェ
高句麗ーこまーコグリョ
新羅ーしらぎーシンラ,シルラ
熊本,八代ー地元OOOO−東京大阪,ヤシロ
>私が言いたいのは、東京大阪人は漢字を見てヤシロとしか発音できない
しかし地元民,当事者は「OOOOやっちろ」と代々発音伝承してる。
つまり今の韓国人も東京大阪人も所詮よそ者外来者だから漢字音でしか発音できない。

24 :

越王句践棲於会稽、復残強呉而霸天下。 此皆因禍為福、転敗為功者也。
「句践世を霸し、都を琅邪に徙す。 後に楚の為に伐たれ、始めて浙東に還る。
『資治通鑑』 巻第七十三
呉を滅ぼした勾践は、越の都を琅邪に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。
 越王句践は紀元前473年に呉王夫差を滅ぼした。そしてさらに北上して山東半島の付け根の琅邪山に都を移し、紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるまで越の都となった。
越王句践が琅邪に都を移したのは、呉人を琅邪に追って来た結果であって、最初から意識して都したものではないだろう。ここから朝鮮半島や日本列島に渡ることは航海が上手な越人にとっては、
それほどの困難ではなかったであろう。越は紀元前333年から334年の頃に楚に滅ぼされるが、この前後つまり、呉と越の戦いから越が呉を滅ぼし、楚が越を滅ぼした間に、多くの民が流民となって各地へ渡っていった。

25 :
桃の種
今夜のNHKスペシャル「邪馬台国を掘る!」を見た。
纒向遺跡で2765個の桃の種が出土。
桃を盛った考えられる竹ざるも出土した。
魏志倭人伝に卑弥呼が鬼道で倭国を支配したとある。
多数の桃はその鬼道の祭祀に使ったと考えられるという。
2世紀後半の中国では道教が盛んだった。
桃は不老不死のシンボルとして祭事に使われていた。
魏−道教−桃−鬼道−卑弥呼-纒向遺跡
とつながることで邪馬台国・近畿説がぐっと有力になってくる。
桃の種がキーになっていることが面白い。

26 :
出土地不明:2011/01/24(月) 02:21:14 ID:07ySmRKk

上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりには、道教やさまざまな神話が影響しているとみられる。
『山海経』や西王母伝説、あるいは日本神話のイザナギの神産み#黄泉の国にみられるように、桃は邪気を祓い不老不死の力を与える霊薬である果実とされている。
また、山奥に住む仙人にも桃は欠かせない存在である。桃太郎を齎した桃は、こうした力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。
世界的には霊力のある植物は桃とは限らず、古くはギルガメシュ叙事詩での不死の薬草、旧約聖書の『創世記』における生命の樹と知恵の樹、
田道間守の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘の実とされる)や徐福伝説の神仙薬などが挙げられる。
桃太郎の対的説話としては瓜から生まれた瓜子姫が指摘され、沖縄県久高島には黄金の瓜から生まれた男子が後の琉球王(西威王とされる)となったという伝説のバリエーションもある。

27 :
 春秋戦国時代の船
紀元前1070年正月に武王が孟津に渡り紂を討った時が、船が軍事物資や武人の運輸を行った最初のものであると考えられています。
この時には47艘の船が使われ、兵車300乗、近衛兵3000人、甲士45000人などを運んだとされています。
 春秋戦国時代は、中国における航海というものが形成された時期です。この時期は、探検をし、海戦をし、交易をするなど活発な動きが見られます。
そして航海の地理・知識を得ることにもなります。中国東部の北海(現渤海)、東海(現黄海)、南海(現東海)は、オールで漕いで渡っていたようです。
人々は既に、「百川が海に帰る」ということを理解し、沿岸の航行を始めていました。この時海上の強国として現れたのが、呉国と越国でしたが、
余り目立たないですが斉国も「海の国」と呼ばれていました。
 呉の国では「舟と楫は一日もなくてはならぬ」、あるいは「1日として船を廃止することは出来ない」とも言われていました。
越国でも「越人は舟造りが得意」といわれていて、お互いが造船技術から実際の戦いまで競いあっていました。

28 :
 春秋戦国時代の戦船 
周代の前11世紀には越で作られた船が呉の成王に謙譲された記録が残っています。また戦国末期の『越絶書』では「(江南の者は)よく水行し、
山ある処は船を車とし、楫(かい)を馬とし、往くこと瓢風(ひょうふう)のごとし」とあります。
呉越とも、造船所は「船宮(せんぐう)」と呼ばれていて、多種多様の船が作られていたようです。この時期の船の発達は、鉄器の使用によるものです。
 春秋時代、海軍は舟師、水軍、或いは水師と呼ばれていました。海軍を形成するまでには、奴隷の追捕、軍事物や武人の運輸そして組織的に水上作戦を行なえるようになるという
3段階があったと考えられています。武器は、漁具から発達したものです。中国での海軍が誕生したのがどこで、いつというのは確定できませんが、
魯の襄公24年(紀元前549年)に魯と楚が第1回目の海上戦闘を行っており、これより10年前位が適当であろうと考えられています。

29 :
民間では、軽舟や扁舟という快速舟が既にありいろいろな運搬の用を行っていましたが、軍事用としては、国の君が乗る「余皇」を始め、戦闘用専門の船が出現してきます。
型号 船長 船幅 乗員
大翼 12丈 (26.4m) 1.6 (3.5m) 91人
中翼 9丈 (19.8m) 1.35 (3.0m 86人
小翼  5.6丈 (12.3m) 1.2 (2.6m) 80人
  『越絶書』での呉の水軍船舶諸元
 戦船については呉や越が優位であり、??(よこう)、三翼(さんよく)、楼船、突冒(とっぽう)、戈船(かせん)、橋虹(きょうこう:橋船)などの種類があったといわれています。
??が最大規模のもので指揮船でした。三翼は、大きさ定員により大、中、小の3種類に分かれていました。
大翼は、全長26m、幅約3.5mで、戦士20数名、漕ぎ手50名、航海士3名、吏、僕、射長各1名、その他の人員12名の合計91名を収容することができました。
船上の武器は、長鈎、長矛、長斧各4把、弩32把、箭矢3200支、かぶと32頂です。三翼には頭部に堅固な突起をつけ、多舟に突っ込んでゆくことも行われましたが、
突冒が本来船の舳で敵の船を破壊するものです。橋船は小回りのきく小さな船、もしくは竿で方向転換が出来る船のことです。

30 :

楼船は、「当陵軍(強行軍)の進める楼車である。」(『越絶書』)楼車は、十余丈の2層高架になっており、相手の城に直につけ攻城するものであるが、
楼船も同様に高架になっており、上から矢や石を放ち相手の船を攻撃するものである。橋船は快速舟であり、それを生かし攻撃する舟です。
秦が楚を攻撃した時、3000里の距離を1隻の船で50名の兵士と3か月分の食料を積み、長江を下り1日300里進んだ記録が残っています。
紀元前400年頃の大翼の復元模型は、片側に12の櫂があり、それぞれの船舷に防御用の丸い盾が設置してあり、全体の印象はバイキングの舟というものです。
積まれている武具は、長い鉤(かぎ)、長い矛、長い斧、以上が格4本、弩(いしゆみ)が32丁、兜が32個である。呉越はこの戦船で、太鼓やドラを叩いて戦をしたようです。
「水上戦の武器は、楚国の伍子胥が考案し、舟をもって車となし、楫をもって馬となした」との記載が『越絶書・札記』に載っています。

31 :
 水上戦闘の様子
http://img3.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1585292/img_1585292_44914340_3?1219768360
当時の銅壺(「宴会を楽しむ様子・狩猟の様子・水上戦と陸上戦の様子が描かれた壺」)には、水軍の戦闘の模様が詳しく描かれています。
戦艦は2層に分かれていて、上層では水兵が腰に短剣を下げ、長い戈や弓で戦っておりそれを陣太鼓を叩いて鼓舞する武人がいます。
下層には漕ぎ手が必死にオールを漕いでいます。潜水兵は水の中に潜り、船の航行を妨害したり、同じように潜水した相手の水兵を攻撃しています。
潜水兵は相手の船底に穴を開けて船を沈めようとしています。船底は潜水兵の攻撃を防ぐために、2重の装甲が採用されています。
これらの銅壺には、まだ帆や舵は画かれていません。
楚国の公輸子というものが初めて船戦を描いていて、『墨子魯問篇』に舟戦のために、鈎拒という武器を作り、退こうとするものを鈎で捉え、
進もうとするものには拒で制止させたことが記載されている。

32 :

前漢までの越や呉に関する地方誌である『越絶書』では、越の海軍力について「決死の兵8千人、戈船3百隻」という記述があります。
「戈船」とは戦艦のことで、これだと1隻に27人乗っていた計算になります。これが実際の定員数に近いでしょう。
またこの時、この動員状態で、長江の入江から山東半島、東海、黄海を経て、全工程500海里(930km)をこなしたことは、
中国としての最も古い遠洋航海記録となっています。
水上戦の記録
春秋戦国時代、数多くの水上戦が行われましたが、その主に戦った国と戦いの期間を拾うと次のようなものがあります。呉はどの国にも戦を仕掛けていたようです。
● 呉楚水戦(紀元前549年〜506年)
● 呉斉水戦(紀元前494年〜485年)
● 呉越水戦(紀元前494年〜475年)
どうもこの呉,楚、越の三か国はしばしば揚子江上で船戦をしていたようです。

33 :
「内越」と「外越」はもともと同じく古越族に属し、東シナ海の大陸棚に生活していた。
しかし、13000年ほど前、地球温暖化がもたらしたammonia海進によって古越族が分かれてしまい、
中国大陸の長江下流域に移転していった人びとは「内越」となり、日本列島に上陸した人びとは「外越」となった。
にもかかわらず、縄文前期以降、彼らはまた往来して交流を始めた。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/bungaku/ronshu68/ri.pdf
「こし(越)」の来歴 李国棟

34 :
江南馬橋文化の縄文土器
馬橋文化(4000〜2700年前)も、基本的な性格は江南の農耕文化であるが、良渚文化との
大きな相違は、大量の玉器が出ていないことである。それにかわって大量の縄文土器が
出土している。中国の考古学者が、拍印縄紋陶とよんでいるものである。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_03_01nettaijaponica_ha_dokokarakitaka.html
半島南岸「東三洞貝塚」の縄文文化
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。
朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器は、縄文人がやってきた確かな証拠品といえる。
朝鮮半島では銛(もり)や鏃といった漁労具や狩猟具に最適な黒曜石が産出されない。
このため朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやってきたのではないかと考えられている。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_02inasakugijyutu_wo_dareka.html

35 :

...さらに「日本まで流されることがよくある」という。潮の流れや風の関係で、漂流すると二日ほどで日本の九州沿岸あたりに流れ着くらしい。
確認するために海上保安庁に問い合わせると「現在はさすがに減ったが、1960年代頃までは中国の浙江省や福建省から漂流してきた漁船を、頻繁に沿岸や海上で救助していた」というのである。
河姆渡のあたりから流れ始めると、まず大河長江から吐き出された流れによって沖合いに運ばれ、やがて対馬海流にのって九州あたりに到着する。
風向きが良い春から夏だと、この流れはさらに加速し、まる一日ほどで着くこともあるのだという。
はるか6000年前の昔、稲籾を携えた漁労民たちも、こうして漂流の果てに日本列島に流れ着いたのだろうか、果てしない数の漂着物を見ていると、それも当然あったことのように思えてきた。
http://tonko.photo-web.cc/bunarintokodaisi/inenotami/inenotami/ine4/ine4.html#ine4

36 :
伝讃岐国出土銅鐸の表面に描かれた高床建築
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/image/takayukadoutaku.gif
奈良県宝塚古墳出土銅鐸表面の高床式建築
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/image/takayukadoutaku.gif
中国前漢時代に雲南省にあったテン王国の高床式住居
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/image/tenoukoku.gif
中国江蘇省の鐸
http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/20060209-00000148-kyodo-ent-thum-000[1].jpg
日本銅鐸
http://inoues.net/ruins/otomeduka73a.jpg
島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸
http://historytreasure.up.seesaa.net/image/doutaku.jpg
雲南紡織貯貝器
http://www.geocities.jp/silkroad_tanken/katsudou_tp16/others/shishido_seinan_silkroad/shishido_seinan_3/illust31.jpg

37 :
もし北方騎馬民族が大和を征服したのなら、なぜ北方騎馬民族の誇り高き武器、
彎弓(中国・朝鮮の弓はみなこの形式である)、短弓が広がらず日本古来の和弓、
長弓のままなのかね?
http://www.zenplan.co.jp/public_html/topics/img/14-1.jpg
http://www.fieldnote.info/wp-content/uploads/2009/08/emaki.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-1.jpg
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-2.jpg
日本では弥生から現代まで長弓を下3/1(唯一倭人だけ)の握り位置の所で射るやり方だよ。
騎馬戦法でも短弓の方が便利なのに、無理して長弓を使うどうしてかな?倭人の誇りだから。
『魏志倭人伝』に「木弓は下が短く、上が長い」と記されているのも、この弓のこと。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-9.gif (この銅鐸絵、弓の握り位置注意)
それに、誇り高き北方騎馬民族が、征服者なのに名前が倭人系の名になるはずが無いだろ。
先祖や神の名も倭人系なのを消すはずだろ。朱蒙や檀君の神話は一切無いね。!!!!

38 :

>>>朝鮮南部は元もと縄文,倭人文化圏<<<
「東アジアのゴホウラやイモガイ,オオツタノハ製品,その他の南海産貝製品出土圏」
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_06/kai448.jpg
日本と韓国の結合式釣針の分布
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/11nihonnkaibunnkakenn/nihontokankokunoketugousikituribari_Rnobunpu.jpg
「朝鮮半島南部の勾玉文化圏」
http://yamatai.cside.com/katudou/image/241-5.gif
南式支石墓文化圏,前方後円墳分布図
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/shisekibo_hantou.png
韓国全羅南道の前方後円墳分布図
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/img_1583928_39577794_21.jpg
半島南西部の甕棺文化圏
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/01/74/b0017474_20213019.jpg
1七岩里古墳2月桂1号墳3古城里古墳4月桂洞2号墳5月里古墳6月桂洞1号墳7明花洞古墳8新徳1号墳9咸平長鼓山古墳10杓山古墳11チャランポン古墳12龍頭里古墳13海南長鼓山古墳
縄文,弥生「土器,石匙(携行ナイフ)」文化圏

39 :

!!!!!!「石鋤」をご存知ない方はユックリご覧下さい!!!!!!
遼寧,興隆窪文化(約7000〜8000年前)の打製石鋤,鍬,石包丁(1〜5 石鋤・鍬)
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2e.gif
東北アジアにおける先史文化
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm
興隆窪文化と黄河中・下流域の新石器文化
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-3b.gif
打製石器-石鋤 農具 (台湾)大馬?文化 新石器時代?期
http://emuseap.nmns.edu.tw/DigiMuse/NewModule.aspx?ObjectId=0b000001801bd054&ParentID=0b000001801bd054
http://emuseap.nmns.edu.tw/DigiMuse/NewModule.aspx?ObjectId=0b000001801bd056&ParentID=0b000001801bd054&Type=archeology&Part=2-1
縄文農耕論発祥の地・井戸尻 縄文中期の石器群
http://tonko.photo-web.cc/11gatukara/lolipopfc2/hujimi/toukai/noukoutosiyoku/noukou/1/clip_image002.jpg

40 :

縄文時代の石鍬,石鋤
縄文農耕論発祥の地・井戸尻 縄文中期の石器群
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri/ido004.html
耕起具(左:石鍬)や除草具(右:除草用小型鍬)
縄文時代・石製品(検索件数122件)
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/zurokuimage/main/32/j826.jpg
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/zurokuimage/main/32/j823-6.jpg
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/main.php?bm=kouko&C_CD=014&pageID=3

41 :
鋤先骨耜「骨製の鋤,骨耜」 日本にも時代は下るが全国に有ったのでは西日本、関東では火山灰ローム層の酸性土壌の為、
骨製の物は大部分消滅したと思われるが一部東北,北海道の貝塚等で出土する、地方なので土器同様時代がかなり下る。
北海道根室(弁天貝塚) 骨鍬,骨耜
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/zurokuimage/main/42/n024-2.jpg
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/zurokuimage/main/42/n024-6.jpg
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/zurokuimage/main/42/n024-3.jpg
http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/koukogaku/zuroku/zurokudb/index28.html
「骨製の鋤,骨耜」 7000〜5000年前 長江,河姆渡遺跡出土 浙江省博物館蔵
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_04.jpg
http://www.geocities.jp/room_fai/s-kouko-china.html稲作農業
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-24.html

42 :

南九州・上野原遺跡  縄文時代早期前葉(約9500年前〜7000年前)の後半期。
上野原遺跡第3工区では、平成4年度から平成6年度までの3年間にわたり発掘調査が行われ、
約90000汀fの範囲に縄文時代早 期 ... その中で、約 10万点の土器や石器が出土した
縄文時代早期後半の時期が特に注目される。 この時期に造られた施設の中では、壷 ...
http://inoues.net/ruins/uenohara_sekki.jpg
http://inoues.net/ruins/uenohara029.jpg
http://inoues.net/ruins/uenohara030.jpg
http://inoues.net/ruins/uenohara_isiono.jpg
http://inoues.net/ruins/uenohara_museum.html

43 :
◆西原町は、「ニシ原町」にしては? (#0017, 2002年12月)
http://www.aoikuma.com/image/nishihara.gif
沖縄ではニシは、北のことです。「ニシ原」は首里王府、那覇の北の方角にあるので、その名がつきました。
ここで北とは、民俗方位(=沖縄の生活方位)のことで、磁石の方位では北東のことです。
冬は北東の季節風が吹くので、北東が<北>になりました。冬の吹きはじめの風をミーニシ(新北風)といいますが、北東の風です。
地図から、ニシハラは、那覇の北東にあることがわかります。
ニシハラには、まずいことに西原という漢字をあててしまいました。「ニシ原」に改名したほうが、実状にあっています。
「ニシ」なら、「ああ、カタカナだから沖縄の古語なんだな」との連想がききますから。
<まとめ>
「にし原」は首都の<北>にある所という意味。沖縄での生活方位の<北>は、実際は北東のこと
南風原(ハエバル)は南風の吹く原、東風平(コ_)は、東風(コチ)の吹く平という意味です。


44 :
◆「西」とは、イニシ(去)で、出発点のこと (#0016, 2002年12月)
http://www.aoikuma.com/image/nishi.gif
琉球語を含む日本語では、「ニシ」とは、イニシ(去)のことで、去った所を指します。
日本人は大陸を去って、日に向かって、つまりヒンガシ(日向→東)に進みました。
琉球人はその昔、九州を去って、南に向かいました。沖縄ではニシが北を意味するのは、北の九州を去ったからです。
沖縄では、東、西を、 アガリ、イリとよびます。したがって、西表はイリオモテです。太陽が西に入って沈むので、西はイリです。
<Memo>
そういえば、イニシエとは、「古」「昔」のことです。ニシとは、イニシ所=去ったところ、帰るところ=出発点のこと
四国などでは帰る事をイヌる、イネ、イノ、イニや、などと方言でいい、イニシ所から来たものだと思われる。
日本人は西からきて、沖縄人は北から来たことが上からわかります。沖縄のニシは、実際には北東です。

45 :
日本列島の土器
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/images/237_kosobe_doki.jpg
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/unit/hakubutsu/kou/k0009/
長江江南の土器
http://www.hemudusite.com/products.asp?sort_id=5
http://inoues.net/museum/torihama81.jpg

46 :
>>世紀の大発見!!縄文時代土器の常識が覆すかも。櫛目文土器より曽畑式土器の方が可なり古い<<
この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から曽畑式土器。
発掘調査が待たれる茂の脇遺跡
案内板のある茂の脇遺跡は、八幡神社の周辺一帯をさすらしいが、縄文前期から古墳時代に至る
複合遺跡で、本によっては夫婦石遺跡とも呼ばれている。韓国新石器時代の土器、縄文前期・中期
の土器、石鏃、石斧、古墳時代の須恵器などが出土。考古学的には非常に重要な遺跡らしい。
今までは朝鮮半島の櫛目文土器に影響されて、九州の曽畑式土器が生まれたというのが学会の常識
であったが、この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、さらに深い(さらに古い)13層から
曽畑式土器が見つかった。つまり、曽畑式が櫛目文に影響を与えたのかも知れないということに
なってしまう。

47 :
**これは縄文なのか弥生なのか分から無く成ってきたぞ。
桜町遺跡と河姆渡遺跡・・「高床の道は米の道、河姆渡遺跡と桜町遺跡はつながっている」
縄文中期末葉から後期初頭(約4.000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。
貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといつた二つの部材を組み合わせる
加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口」(木材を凹凸に削って組み合わせる)といった
高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古と
されていた。その加工技術が約4.000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。
http://siyasin.ninja-x.jp/sisou-2/kodaisi/hokuriku/sakurahukugen/hukugen.html

48 :
>>殷王朝は縄文人王朝で有る!!!!!かな?<<
人面付注口器のフタの部分が人面に成ってる処など、偶然とは思えぬ精神性の同一で有る。
ワシントンにあるフリア美術館にある殷の青銅器。「人面?(カ)」
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-CJ,bT,hT,uaHR0cDovL3d3dy5uaXBpYy5jb20vc2hvdy80Lzc5LzE5M2VlM2EzOGQyN2I4MTYuaHRtbA==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,
『人面注口土器』福田貝塚出土
http://business2.plala.or.jp/azumatw/dai1.htm
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/4e/e6470a1845686117fa87f9ac7e26120b.jpg
『人面付注口土器』埼玉県埋蔵文化財調査事業団
http://www.museum.spec.ed.jp/monoshiri/stock/maibun/ma0102.html
殷の青銅器。「人面禾皿(カ)」と同じ髪型だよ。
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-CJ,bT,hT,uaHR0cDovL3d3dy5uaXBpYy5jb20vc2hvdy80Lzc5LzE5M2VlM2EzOGQyN2I4MTYuaHRtbA==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,
http://kouko.bird-mus.abiko.chiba.jp/main/kofun/k1otoko3.jpg
http://www.ne.jp/asahi/hao/egg/haniwa/honjo/haniwa1.jpg
http://matsuoshika.img.jugem.jp/20070202_21042.JPG

49 :

http://www6.ocn.ne.jp/~kiyond/tubo023.jpg
これは福岡県のスダレ遺跡から出土した弥生時代の壺です(高さ約40cm)。
その形状から子持ち壺と呼ばれているものですが、用途は不明とされているそうです。
http://www6.ocn.ne.jp/~kiyond/tubo031.jpg
これは古代の南インドの墓から出土したもので、楽器を模した土器です。
副葬品として墓に埋めていたものらしい。大きさはおよそ40cmで、
上の福岡県から出土したものとほぼ同じ大きさです。
http://www6.ocn.ne.jp/~kiyond/tubo011.jpg
これは南インドで今でも実際に祭りで使われている楽器(太鼓の一種)で、
大きさは高さが110cmあるということです。この楽器の存在がなければ、
上に挙げた日本の子持ち壺が楽器か、あるいはそれを模したものであろうと
いうことは判明しなかったと云えます。

50 :
「東海之外、大荒之中、有山名曰猗天蘇山」
>>おどろくべき事に紀元前475年〜紀元前221年頃には済州島南西150kmに有る、海面下の岩礁の事が詳しく知られていた。
>>もう少し東へ進めば対馬暖流に乗り、済州島や九州へは以外と簡単かも知れない。
中国の古書「山海経」(紀元前475年 - 紀元前221年)に「東海之外、大荒之中、有山名曰猗天蘇山」と記載されている。
この蘇山とは海面下4,6mに有り、海が荒れた時だけ見える蘇岩礁のことであり中韓の領土紛争になっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B2%A9%E7%A4%81
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/61/36/t032131/folder/1575422/img_1575422_43544767_0?1230026560
http://www.iza.ne.jp/images/user/20080809/313967.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/c8/494ae96f8e2f8d96db264d73cb324d10.png

51 :
>35
これ大陸棚が陸だった時期ならもっと交流が盛んだったんじゃないだろうか

52 :
「長江を下って東シナ海に出れば、偏西風と黒潮に乗ることができる。黒潮の流速は、本州南方で最も速く3〜5ノットに達し、この流れに乗れば容易に日本に到達する。
舟山列島を春から夏に出た船は、南西風と対馬海流に乗って五島列島につく。
昭和19年3月、ジャンクで日本に帰った山手元枝氏の経験によると、20日夜半、舟山島を櫓で漕ぎ出したジャンクが、舟山島沖合で潮に乗ると同時に帆をあげると、
一路、東に向かって走り出し、翌日昼ごろ五島列島を横切り、日暮れに唐津港に投錨したという。わずか20時間ほどで東シナ海を横断できる。
秋から冬の間に出た船は、舟山群島沖を南下する寒流と西北風によって黒潮に乗り、九州南端の野間岬とか紀州南端の潮岬などにつく」。 (『四川と長江文明』古賀登・東方書店)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/f8/89ab229e956a6176e81e7f0e953fa174.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/a2/53be93b0a448039987c150f13c83e07b.jpg

53 :
おまり泳げない、長江河口でのんびり暮らしているテナガミズテングが、なぜ、日本で発見されたのか、簡単に書く。
中国、長江の大洪水で、日本まで流されてきたらしいのである。1995年の5月中旬〜6月に、長江では大洪水が発生した。
最大流量は毎秒75500立方メートルに達したというが、この数字は、ぴんとこない。
この大量の洪水、淡水は、東シナ海の表層で幅100〜200km、北東方向に少なくとも長さ約600kmにわたる
巨大なプルームをつくり、対馬海峡を抜けて、日本海に侵入したと考えられ、報告されている。この数字の巨大さはわかる。
プルームとは流体の流れである。境界は渦巻くような、見えるものでいえば、大気に立ちのぼる黒い煙の流れのようなものをプルームと呼ぶ。
巨大な淡水のプルームが対馬海峡を超えたのだ。巨大な大洪水起源の河川水が、1995年に、九州北部から日本海西部まで流入したのである。
テナガミズテングは、卵か、稚仔魚が、この河川水に流されて、有明海湾奥の河口に運ばれ、ここで2年ほど育って捕まったと推測されたのである。
河川水にのって、東シナ海を780kmも渡ってきた。長江は1954年にも、大規模な洪水を起こしている。

54 :
かけ算の九九を書いた木簡が昨年平城宮跡から出土しましたが。
日本の九九は春秋戦国時代の九九歌という数え歌が起源で「孫子算経」が原典となっています。
孫氏がいた呉の国が滅亡した後、我々日本人の祖先がこの日本列島にたどり着いた時、同時に九九も伝わったのでしょうね。


55 :
>>渡り鳥を目印に進めば中国,長江〜九州間,直行ルートの方角は訳ないよ(渡りルート図参照)、数万羽の鳥が案内してくれる。<<
タカ科の猛禽類ハチクマ
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/08/59/f0132959_1936171.jpg
http://www.kitashirakawa.jp/ryoma/manifold/kuma.jpg
日本では主に本州で繁殖するトビとほぼ同じ大きさのタカ科の猛禽類です。秋になると越冬のため中国大陸へ向かう渡り鳥として
ハチクマの群れが長崎,五島福江島に飛来します。特に玉の浦町大瀬崎(大瀬崎山頂)は、
ハチクマの群れが中国大陸へ向けて次々に飛び出す様子を間近に観察できる絶好のポイントになっています。
http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/www/contents/1232518705804/activesqr/common/other/49548ea0002.jpg
http://livedoor.2.blogimg.jp/sasakiri/imgs/7/4/74d1b4b3.JPG(海上を移動中の鷹柱たかばしら,上下も)
http://pds.exblog.jp/pds/1/200609/22/42/b0093742_18512550.jpg
毎年9月中旬から10月上旬にかけて、4万羽を超えるハチクマが観察され、1日で1500羽を越えることもあります。
この時期には、ハチクマのほかに、アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメなど多くの野鳥が渡って行く様子も観察できます。
http://www10.plala.or.jp/ayac/yazu/fa1/b129wa.jpg(ハチクマの渡りルート(提供:信州タカ渡り研)中下も)
https://iiiro.jp/blog/ManageBlog/DispPhotoImage?filePath=imagedir/317460.jpg&m=4
http://lh5.ggpht.com/_4TFpUG1wmjo/TJqsVeEF4lI/AAAAAAAAAgs/5ZiYjcbmG3M/s400/jpg
日本国内で繁殖したハチクマのほとんどが五島列島に飛来し、大瀬海岸を中心とした福江島の西海岸から
中国大陸まで直線約600kmを一気に渡って行くと考えられ、その飛翔力に驚かされます。

56 :
毎年9月中旬から10月上旬にかけて、4万羽を超えるハチクマが観察され、1日で1500羽を越えることもあります。
この時期には、ハチクマのほかに、アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメなど多くの野鳥が渡って行く様子も観察できます。
http://www10.plala.or.jp/ayac/yazu/fa1/b129wa.jpg(ハチクマの渡りルート(提供:信州タカ渡り研)中下も)
https://iiiro.jp/blog/ManageBlog/DispPhotoImage?filePath=imagedir/317460.jpg&m=4
http://lh5.ggpht.com/_4TFpUG1wmjo/TJqsVeEF4lI/AAAAAAAAAgs/5ZiYjcbmG3M/s400/jpg
日本国内で繁殖したハチクマのほとんどが五島列島に飛来し、大瀬海岸を中心とした福江島の西海岸から
中国大陸まで直線約600kmを一気に渡って行くと考えられ、その飛翔力に驚かされます。

57 :
>>渡り鳥を目印に進めば中国,長江〜九州間,直行ルートの方角は訳ないよ(渡りルート図参照)、数万羽の鳥が案内してくれる。<<
タカ科の猛禽類ハチクマ
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/08/59/f0132959_1936171.jpg
http://www.kitashirakawa.jp/ryoma/manifold/kuma.jpg
日本では主に本州で繁殖するトビとほぼ同じ大きさのタカ科の猛禽類です。秋になると越冬のため中国大陸へ向かう渡り鳥としてハチクマの群れが長崎,五島福江島に飛来します。
特に玉の浦町大瀬崎(大瀬崎山頂)は、ハチクマの群れが中国大陸へ向けて次々に飛び出す様子を間近に観察できる絶好のポイントになっています。
http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/www/contents/1232518705804/activesqr/common/other/49548ea0002.jpg
http://livedoor.2.blogimg.jp/sasakiri/imgs/7/4/74d1b4b3.JPG(海上を移動中の鷹柱たかばしら,上下も)
http://pds.exblog.jp/pds/1/200609/22/42/b0093742_18512550.jpg
毎年9月中旬から10月上旬にかけて、4万羽を超えるハチクマが観察され、1日で1500羽を越えることもあります。この時期には、ハチクマのほかに、
アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメなど多くの野鳥が渡って行く様子も観察できます。http://www10.plala.or.jp/ayac/yazu/fa1/b129wa.jpg
https://iiiro.jp/blog/ManageBlog/DispPhotoImage?filePath=imagedir/317460.jpg&m=4 (ハチクマの渡りルート(提供:信州タカ渡り研)上下も)
http://lh5.ggpht.com/_4TFpUG1wmjo/TJqsVeEF4lI/AAAAAAAAAgs/5ZiYjcbmG3M/s400/jpg
日本国内で繁殖したハチクマのほとんどが五島列島に飛来し、大瀬海岸を中心とした福江島の西海岸から中国大陸まで直線約600kmを一気に渡って行くと考えられ、
その飛翔力に驚かされます。

58 :
 __          〆 ⌒ ヽ
| ● | サッ      i.   ^、,^ i
  ̄ |         (6- (III)(III)
c~~⌒ )       ノ⌒ヽ 、 '◇〉 此処で一旦、駒ー斜瑠でぇーす
  ̄| |   ,____/  \ \⌒\) 
   i ゝ_/ i i      \ノ`\丿 
   ヽ__|  ヽ ヽ    ノ      ノノ
       ゝ  _\ 二ノ
        \. ヽ
          ) )
        / /
       (  く
        \ ο  
          ̄
坐禅と見性73章社会的関係性と損在が人
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1289689033/
坐禅と見性スレ避難所第1章
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11155/1296476490/
【仏経】悟りを開いた人のスレ90【天空寺】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1296618056/
悟りを開いた人のスレ の避難所 13
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1294520561/
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】6
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1293371851/
【秘密の】 馬鹿者の集い 【しゃべり場】その3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1279184518/
仏教 議論スレッド 10
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1297398791/
宗教ジョークを作ろう
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1267655053/

59 :
>>これも参考に、私が子供の頃は空に灰色の龍雲の様だった。
>>渡り鳥を目印に進めば中国,長江〜九州間,直行ルートの方角は訳ないよ(渡りルート図参照)、数万羽の鳥が案内してくれる。<<
(ハチクマの渡りルート(提供:信州タカ渡り研)http://www10.plala.or.jp/ayac/yazu/fa1/b129wa.jpg
https://iiiro.jp/blog/ManageBlog/DispPhotoImage?filePath=imagedir/317460.jpg&m=4
http://lh5.ggpht.com/_4TFpUG1wmjo/TJqsVeEF4lI/AAAAAAAAAgs/5ZiYjcbmG3M/s400/jpg
タカ科の猛禽類ハチクマ http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/08/59/f0132959_1936171.jpg
             http://www.kitashirakawa.jp/ryoma/manifold/kuma.jpg
日本では主に本州で繁殖するトビとほぼ同じ大きさのタカ科の猛禽類です。秋になると越冬のため中国大陸へ向かう渡り鳥として
ハチクマの群れが長崎,五島福江島に飛来します。特に玉の浦町大瀬崎(大瀬崎山頂)は、
ハチクマの群れが中国大陸へ向けて次々に飛び出す様子を間近に観察できる絶好のポイントになっています。
(海上を移動中の鷹柱たかばしら)
http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/www/contents/1232518705804/activesqr/common/other/49548ea0002.jpg
http://livedoor.2.blogimg.jp/sasakiri/imgs/7/4/74d1b4b3.JPG
http://pds.exblog.jp/pds/1/200609/22/42/b0093742_18512550.jpg
毎年9月中旬から10月上旬にかけて、4万羽を超えるハチクマが観察され、1日で1500羽を越えることもあります。
この時期には、ハチクマのほかに、アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメなど多くの野鳥が渡って行く様子も観察できます。
日本国内で繁殖したハチクマのほとんどが五島列島に飛来し、大瀬海岸を中心とした福江島の西海岸から
中国大陸まで直線約600kmを一気に渡って行くと考えられ、その飛翔力に驚かされます。

60 :
BC20000〜BC6000縄文形成  連 載 川上しのぶ(かたばみ)
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/sankou/e_asia01.png

61 :

浙江省,温州市,瑞安市,浙南石棚墓(支石墓の中国名)群,属于商周(紀元前1700-紀元前256年)时代墓葬
浙南石棚墓群分布于浙江省瑞安市篁社镇棋盘山、平阳县钱仓龙头山和苍南县钱库镇桐桥等地,
属于商周(紀元前1700-紀元前256年)时代墓葬。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_574dff1c0100g7va.html
http://www.mayu.zj.com/tour/detail/15873/15459
http://www.wzwiki.org/wiki/%E6%B5%99%E5%8D%97%E7%9F%B3%E6%A3%9A%E5%A2%93%E7%BE%A4

62 :
韓国,中国,北方式,遼寧式,支石墓
http://www.isanpuzzle.com/tiiki/ajia/02kankoku/s-07.jpg
http://japanese.gg.go.kr/tour/gallery/photo/4.jpg
韓国,南方式,(碁盤形.蓋石形),支石墓
http://pds.exblog.jp/pds/1/201006/14/56/f0019856_1713215.gif
http://japanese.visitkorea.or.kr/cms/resource/34/154534_image2_1.jpg
日本九州,南方式,(碁盤形.蓋石形),支石墓
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/DSC_3694w.jpg
http://www.iokikai.or.jp/umihatimanguu61.jpg
http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/simabara/harayamad/harayamad32.jpg
ヨーロッパ,ドルメン
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/Paulnabrone.jpg(アイルランド)
http://pds.exblog.jp/pds/1/200905/27/80/c0197980_5151747.jpg(オランダ)

63 :
三重人は名古屋人に対して、
うわべはニコニコ接していても
下品で野蛮な猿のように思っているから
腹の底では馬鹿にしている。
三重は関西であり、
三重人は関西人である。

64 :
『 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。蛙と亀は穴を共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。
ざんばら髪の君には長者の相なく、入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、建康(今の南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。
おのれを阿儂(おいら)と言いふた言めには阿(お)、お{返事などの時}の連発。菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が代用飯、茶が飲物代わり。
じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)をクチャクチャ。手には荳蔲(ズク)をつかみ、口にはビンロウを噛む中州のところで、
魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根にかじりつき、鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。』
* * * * * * 六世紀に書かれた『洛陽伽藍記』より * * * * *
華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を批判した言葉です、まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味そう!

65 :
「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく)想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)此処(ここ)より下に家を建てるな」――。

スゲーよな!
この大昔に建てられた石碑の戒めを守って暮らしてきた岩手県の集落は誰も死なずに助かったんだって!
なんとこの石碑の50m手前で津波が止まったそうだ!
わが国の先人達の知恵。
ありがたいね。

66 :
http://uproda.2ch-library.com/357951Kbi/lib357951.jpg

67 :
呉とは何かから始めたほうがいいんじゃないか

68 :
52 :日本@名無史さん
驚きました。
私のサイトから画像を引用されていますね。ありがとう。
皆さんも、できれば私のサイトのほうを一瞥してください。
長江流域と日本列島との数千年にわたる「人・もの・文化」の結びつきが、
断片的・散発的かつ点としてで語られてきたことを、線として構築したものです。
従来にない、まったく新しい視点と観点からなっています。
たぶん、驚きの事実が見えるものと思います。
『民族の指紋』
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/

69 :
私の論考から
●卑弥呼も長江河口からの渡来人の可能性
後漢末という時代は一大宗教改革の時代でもあった。
張魯の天師道が鬼道と呼ばれ始めたのが188頃からで、そこから30年間218年頃まで続いた。
張角の太平道は180年頃の旗揚げで、20年間200年頃まで続いた。両者は190年代に中国本土で盛んになっている。
卑弥呼が女王になったのは同じく190年前後である。
その彼女は、女王になる時点ではすでに鬼道を修得していたことになる。
鬼道を修得していたのだから、年齢も1すでに成人の年齢に達していたと思われる。
問題は、彼女はいつ・どこで鬼道をマスターしたのかである。
……ここで、よくよくお考えいただきたい。
中国発祥の森羅万象の哲学ともいえる黄老学を基礎とする道学(天師道=鬼道)を修得するには、
高度な中国語の素養と多岐にわたる知識・見識を必要とする。
必然的に、生粋の土着倭人には簡単かつ短期には伝授も修得も不可能である。
ということは、王位継承が発端となった内紛の収束のための苦肉の策として、
リリーフ役に立てられた卑弥呼は、新来の渡来人だった可能性が高い。

70 :
つづき。
倭人と倭国支配層の出自については、抗しようのない確かな証拠がほかにもある。
▼文身とお歯黒をする▼文字をもたない▼漢族とは少し異なる民族である。
(中国には現在でも50を超える少数民族がいるが、そのほとんどが独自の言語を有し歴史的に文字をもたなかった。
中国大陸からの渡来人といえば、中国語を話し漢字を持ち込んだはずと考えるのは早計である)。
(お歯黒はそもそも、判明しているだけでも古墳時代か江戸幕末まで、皇族・貴族の間で行なわれた習俗である。
1870年に皇族・貴族に対するお歯黒禁止令が出されたあとは民間でも徐々に廃れるが、
一部地方では昭和前期までお歯黒をした民間女性がみられた)。
3世紀半ば以降、倭国に関する記録が中国の歴史書から消える。
そうした空白の世紀というトンネルを抜けたら、中国名を名乗る男王たち(五王)が登場し、
以来、倭国は男子継承を原則とする大和国家へと脈絡する。
こうした歴史的推移の中に、長江河口からの渡来民族の影がかぶさってはいないだうか。
倭国支配層の「お歯黒」の習俗が古墳時代以降のものだったとすれば、
五王たちの時代を含む古墳時代は、お歯黒をする民族がもたらしたとの論理に帰結する。
むろん、半島渡りの騎馬民族などの影ははない。

71 :
うむ

72 :
お歯黒は江戸時代にもあったな

73 :


74 :
最近読んだ「日本のまつろわぬ民(水澤龍樹著)」や、昔読んだ「青銅の神の足跡(谷川健一著)」によると、
日本固有のタタラ吹きによる製鉄は、呉国があった大陸南部から海の道で渡来したとか。
朝鮮半島にタタラの痕跡はないという。

75 :

34 :日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:55:02.80
どこが愛国なんだよw
そいつは日本人を装って朝鮮から日本を護る正義の味方のふりをしながら、
実は日本人のルーツを台湾人の故郷、江南に改竄する事が目的の台湾人国策工作員だよw



76 :
凄まじい限りの詐欺創作の塔だなw
江南誘導サギ創作のバリケードと命名してやろうwwww
な、日本人を装って朝鮮から日本を護る正義の味方のふりをしながら、
実は台湾人故郷江南に日本人のルーツを改竄する事が目的の台湾人国策工作員w

77 :
>>2
銅鐸と鼎は全然別のものでしょう。
で、画像とか見つからないんですが
中国無錫の呉文化博物館には、
現地で出土した”土鐸”が陳列されていましたよ。

78 :

●戰國時代陶質編鐘在呉文化發源地無錫出土
新華網江蘇頻道南京4月16日電 (高幼元) 日前,在無錫市錫山區泰伯文化
藝術節上,一批最近出土的戰國時代陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示。
這批距今2000多年?青銅器的樂器中,最令人驚嘆的是,經修復後最大的編鐘,
高30多公分,造型十分精致。
展示會上,錫山區文管會同志介紹?,這裏是呉文化發源地。這批新出土的文物,
除編鐘、鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等各種
陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。有釘紋、水波紋、
方格紋、圓圈紋等。經考古專家初?鑒定,數量之多,品種之全,工藝之精,
在全國罕見。

79 :
這批珍貴的出土文物是當地村民發現的。今年2月19日,錫山區後宅鎮天仙
塘萬安橋村村民鄒曉峰和鄒春鋒,帶著20多件陶器,向區文管會報告,村裏
一個大土?上發現了“古董”。工作人員認出是極有價?的陶制編鐘。第二
天即?到現場。這個大土?是五年前,鎮上築新路取土用的,當時就有部分
古陶器被?出,村民見是陶土做的,沒在意。而這次錫山區考古人員卻十分
在意,“掘地三尺”,出土的陶片、陶器用1噸半?車裝了滿滿一車。隨後,
他們邊向上級部門報告,邊請專家來修復,並對來報告的兩村民給予了獎勵。
後宅鎮往南數公里的鴻聲鎮,正在發掘的彭祖?文化遺址,已有一大批距今
6000年至7000年的新石器時代文物初露真容。據南京博物院考古學家介紹,
彭祖?是長江三角洲文化層次堆積最厚、包含物最多、保存最好的一處?史文化
遺址,是當代研究太湖流域人類文明發展史最好的?史資料。該鎮的鴻山南麓有
一座被譽為“開發江南先祖”泰伯之墓,距今已有3196年?史。現在,後宅鎮又
新出土的2000年前的古編鐘,作為陶樂器隨葬品,非一般人可用,是墓主人身?
顯赫?還是當時這塊地主是個文化“繁榮”勝地?這還需專家來解謎。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.js.xinhua.org/htm4/2041622.htm

80 :
>陶質編鐘等古樂器向中外遊客展示
>鐃、磬等樂器類陶器30餘件外,還有經修復的缸、罐、壇、鼎等
>各種陶器共五十多件。這些原始瓷或印紋硬釉陶器,紋飾繁多。
>有釘紋、水波紋、方格紋、圓圈紋等。
編鐘?????鐃?????磬?????缸?????壇?????
鼎?????原始瓷?????印紋硬釉陶?????釘紋?????
水波紋?????方格紋?????圓圈紋?????
いやあ、弥生時代の江南の江蘇省無錫の呉の遺址からは日本の弥生遺構では
さーっぱり見た事がない摩訶不思議な物や文様が出るんですねえ(嘲笑)

81 :
前期百済は呉の流民だぜ
その後、北方騎馬民族扶余に制服された
扶余は日本にも到達して
初期大和王権の元となったま混合

82 :
韓国人は秦の国の子孫辰韓 > 新羅 > 高麗 > 朝鮮異民族に滅亡あったことがない民族

83 :
>>81
>北方騎馬民族扶余に制服された
夫余は騎馬民族ではない。(中国からの流民集団がワイの土地に定着したというが、本質的にワイ族に近い)。
宮城、倉庫、牢獄などの建造物を建てて定住し5穀を植えるという夫余が、
学術的にも遊牧騎馬民族であるはずはない。むろん、高句麗も騎馬民族ではない。
そもそも民俗学に騎馬民族という用語はない。
江上波夫が無名の駆け出し時代に花火を打ち上げるために造った「造語」である。
民族とは、言語・宗教・歴史などの文化や、主たる生産活動形態(生活形態)などによる分類で、
馬に乗るだけで騎馬民族とはいわない。船に乗る民を乗船民族とか操船民族とはいわないのと同じ。
馬に乗る民族が騎馬民族だというのであれば、本来は農耕民族である中国人も紀元前から騎馬民族である。
>扶余は日本にも到達して
海を見たこともなかったろう内陸部の牧畜農耕民が、船を操って大海を渡った可能性はゼロ。
いつ現れていつ消えたかも分からん中国郡県下の少数民族にすぎん。
むろん、高句麗も騎馬民族ではない。
>>82
>韓国人は秦の国の子孫辰韓 > 新羅 > 高麗 >
馬韓人が本来の韓族。これが、きみのいう韓国人かな。
辰韓は、秦の役を逃れて中国北部から楽浪郡に流入した集団の一派で、のちに韓族の領域に入ってきた。
馬韓の韓族が、これに半島南部東側の土地をさいて住まわせたのが辰国、のちの辰韓。
辰韓人は秦人に似ているといえども、燕や斉などの生粋の漢族の特徴とは異なるという。
この辰韓に新羅が興る。
このあたりのことになると、あたしゃ「うるさい」から。

84 :
>>83
弱い!弱いなあ、名詞の定義の問題でないぞ
その理屈、お子様なら騙せたろうがw
1970年代まで古墳発掘が盛んだったころ、高松塚や藤ノ木から出てきたのは、
完全に高句麗式の壁画と鮮卑式甲冑である。
天井の天空図の星座配置は近畿のものでなく北朝鮮の緯度の景色という意味深なおまけつきである。
学生運動はなやかなりし頃は小中学生でも知ってる話だった。
朝日新聞はこのネタが大好きだったから赤報隊に襲撃されたと思われw
宮内庁方面は高松塚抹に必死だがねw
百済(呉、扶与)高句麗(扶与、鮮卑)新羅(秦)が天孫
半島で高句麗をいったん押し戻した「倭」の本拠は北九州、太宰府が首都並規模で別格だったのはその名残、法隆寺は北九州から移設された
近畿の半島勢力連合に制圧されオリジナルの倭を併合、
百済系天智朝に白村江に日本全域から動員されたが負けて、
郭ムソウに進駐されて唐系新羅系の天武朝、ここで日本と改称
百済系が桓武朝で盛り返すとw

85 :

YDNA−D2の謎が解けないかぎり、
日本人がどこから来たのか結論は出ない。
各自、妄想の書き合いだ、
この謎から目を背けたがる者が、一番のペテン師。
北からだろうが、南からだろうが、半島からだろうが、
何処からでも良いが、だれが、謎を解くのだろうか。
YDNA−D2と分類される遺伝子が現実にある、
その事から目を背けたい人が多いみたいです。

86 :
もっと言うと
日本書記にも出てきて江戸時代まで続いた日本の屋外=歌垣、盆踊りの習慣はそもそも高句麗の習慣である
三韓と鮮卑は日本の元
ただし在日君はモンゴルの血が半分だから威張らないように!

87 :
高句麗に歌垣があったという記録は見当たらないですが、

88 :
屋外=歌垣ではないでしょう、

89 :
>>84
D2は縄文人の話
縄文人はまさに中南米のように混血されて現日本人の元になったが、多方面からの人口流入で賎民の層が厚かったのが日本のダイナミズムの元。
オリジナルの武士は朝廷の台帳に名前のある騎馬系帰化人の公僕だったから坂上田村麻呂の軍隊には百済語の通訳が同伴した。
荘園は人身売買で農奴を仕入れたから平安期に下々はさらに混ざる。
東国の武士が強かったのは高句麗が多かったから。
濃すぎた集団は別所や散所という隔離地域に押し込められこれが「」につながるが古代の名残で皇室直属の賎民もかなりいた。
そこで別所からも武士が出て楠正成とかが活躍。
室町から戦国で強けりゃ皆武家を名乗って幕府皇室に献金して官位を買い取り系図を偽造。
庶民は半農半兵や半賎半兵、戦国の戦争では人は戦利品だから日本人はさらにミックスされる。
徳川家康も、賎民出の秀吉と同じく松平を乗っ取った賎民の世良田二郎三郎。
だからお仲間は優遇して浅草にエタ頭の弾左衛門を置いた。江戸期の十手持ちはほぼ賎民で博徒を兼務。
これは差別でなく特権で、警察とパRがグルなのは日本の伝統。
江戸期で農民が大半というのは嘘で、寺の戸籍に入らない非定住民がかなりいて明治で戸籍を作りなおしたら日本の人口は倍になった。
大陸系支配者と先住民系大陸系の庶民賎民の三つ巴。それが日本。

90 :
当時日本列島内でもアイヌ語をはじめ方言が強く通訳は必要だと思います。
>坂上田村麻呂の軍隊には百済語の通訳が同伴した。
と「百済語の通訳」と限定した根拠となる資料を述べよ。

91 :
>>87>>88
風俗尚、不以為愧、俗多游女、夫無常人、夜則男女群聚而戲、無有貴賤之節。
あと共通点は妻問い婚な
これは南方という解釈より素直に北の風俗

92 :
自分も参加したくなる文章ですね、
屋外と表しても違ってはいないような文章ですが。
歌垣ではないようです、「夜則男女群聚而戲」を読むと
日本古来の歌垣とは完全に違いますね。

93 :
祭りや、盆踊りの夜の情景ならば、かなり共通していますが、

94 :
>>90
あれまあ
「六国史も読んだことがない厨房かつ、
宮廷人事の行間が読めない素人なので
畏れ多くもご教示をたまわりませんと
涙目で朝まで眠れません」
ぐらい正確に日本語は使いませんとね、
文科省公認史観は頭に毒ですござんすよ
続日本紀 延暦十年で
百済王俊哲を探しなさい

95 :
>>92>>93
赤松さんでもご覧なさい
歌垣も盆踊りも、ハメハメありが本来でございます
隠蔽禁止

96 :
>>84
>高松塚や藤ノ木から出てきたのは、 完全に高句麗式の壁画と鮮卑式甲冑である。
>天井の天空図の星座配置は近畿のものでなく北朝鮮の緯度の景色という意味深なおまけつきである。
その理屈、お子様なら騙せたろうがw 。もう通用しないんだ。
●高句麗壁画古墳の源流は中国
▼最初の高句麗壁画古墳{安岳3号墳」。横穴式石室をもつ封土墳の形態である。
安岳3号墳の7行68文字の墓誌によると、357年に冬寿(とうじゅ)という中国人が
69歳で死去したと伝えている。『資治通鑑』によれば、
とう寿(とうじゅ)という人物が336年に遼東から高句麗に亡命したことが判明しており、
この安岳3号墳の被葬者の冬寿は、ほぼ間違いなく『資治通鑑』のいうとう寿だと考えられている。
▼徳興里古墳。墓主の名前が墨書された数少ない古墳で、14行154文字の墓誌が記されている。
この墓誌によれば、 被葬者は幽州刺史の鎮という漢人官吏で、
409年に77歳で没したことを伝えている。
後室の四面には墓主のほかに馬射戯図(流鏑馬)、高床倉庫、蓮花文、七宝行事図で埋め尽くされ、
天井には星宿図があり、周囲を彩色された火炎文や蓮花文が飾っている。
また前室にも墓主像のほかに13郡太守図、 鎮の家臣図があり、
それぞれに官職名が記されている。 ほかにも騎馬行列図も描かれている。
(「世界遺産情報」高句麗古墳から抜粋して要約)
 
つづくけど・どや。

97 :
>>84  つづき。
高句麗壁画古墳とされる墓は鴨緑江と大同江流域に集中しているが、
このあたりは、紀元前108年に前漢の武帝が4郡を置いて以来、
玄菟郡下の少数民族棲息地域として中国文化の影響を多く受けてきた。
事実、ここに最初につくられた安岳3号墳は中国人の墓であり、
そこに見られる様式も明らかに中国発祥の様式である。
これを、(積み石塚をつくる高句麗の中で)支配層の一部が、
中国由来の封土墳(盛り土の墓)と壁画様式を採り入れたものと思われる。
6〜7世紀になると、青竜・玄武・白虎・朱雀をテーマとした四神が登場するようになるが、
四神も、太陽と三足烏(三本足の烏)・月とヒキガエルもみな、中国古来の信仰精神によるものである。
そうした流れの必然として、墓づくりも描画も中国人の手によるものとみるべきである。
ついでに。中国人の墳墓・安岳3号墳に描かれた角抵(相撲)も、
徳興里古墳に描かれた流鏑馬も中国発祥である証拠を提示する。
是時二世在甘泉、方作角抵優俳之観。(『史記』李斯列伝)
▼この時、二世甘泉に在り、方(まさ)に角抵は優俳の観を作(な)す。
秦の二世皇帝が甘泉宮にいるとき、角抵の技を競わせたが、
それは演劇や雑技にひけをとらないほどのの見せ物だったという。
この角抵については、應劭と文穎が次のような注釈をつけている。
▼應劭曰く:戦国の時、武道を学びたしなむ礼がやや多くなり、
男子が相対して(力を比べて)誇示するをもって娯楽とした。
秦はこれを角抵と名づけて呼んだ。角とは力の技なり、抵とはぶつかり合う(抵触する)なり。
▼文穎曰く:秦はこの娯楽の名を角抵となす。両者が相当り、力くらべをす。
角技は、射御(馬を御し弓を射る流鏑馬)と同じ技、故に角抵というなり。
このほかにも、『漢書』武帝記、『後漢書』夫余伝、『日本書記』皇極天皇紀にも、
角抵を見せ物や賓客を迎えるイベントとして催したことが記録されている。

98 :
筋金入りの天才の登場だ。
やわいギミックは通用しないと知れ。どや

99 :
>>94
>続日本紀 延暦十年で
>百済王俊哲を探しなさい
坂上田村麻呂の軍隊には百済語の通訳が同伴した記述は、
どの文章から解釈できるのだ?

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