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2012年3月社会・世評226: 日本人はいつまで世間に従属し続けていくのか? 3 (101) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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日本人はいつまで世間に従属し続けていくのか? 3


1 :
世間に従属する日本人の倫理――阿部謹也『世間とは何か』
(講談社現代新書、1997年)より
 「世間は排他的であり、敢ていえば差別的ですらある。自分たちが住む町に
汚物処理場の計画がたてられたときの反対運動を考えてみればその間の事情は
よく解るであろう」という阿部氏の指摘は、どこか山本七平氏の論調と似ている。
山本氏も「日本の道徳は差別の道徳である」と喝破していた。また、阿部氏の、
世間の掟は「非言語系の知」であるとの指摘も、山本氏のいう理屈を遮断する
「その場の空気」と通じるものがある。
 どうやら、この日本という国は、どこまでいっても「和をもって尊しとなす」国であり、
世間に迎合することを何よりの倫理規範としているようである。文中に述べられて
いるように日本人は皆、薄汚い世間の常識を盾に、正論であってもそれを平気で
皮肉る「赤シャツ」の一味と言ってもいいのだろう。
www.aa.alpha-net.ne.jp/nagao3/book1-3(abe).htm

2 :
旧スレ
日本人はいつまで世間に従属し続けていくのか?-2
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/soc/1131795619/

3 :
名前:名無しさんの主張 投稿日:2010/12/29(水) 10:02:26 ID:???
今日の東京新聞に精神科医の斉藤学さんのコラムがあった。タイトルは世間様教。
ようするに、世間様の予定調和にはまることが出来ず、その葛藤からいろいろな
依存症になったり精神的にやられてしまう、という話。このスレでは世間教といって
いるが、まあ、俺もふくめて葛藤している人が多いのだろう。なんせ信者数がはんぱない。
世間教しか選択肢がなく(つまり、このスレで話されるように世間教を客観視できず)、
そこにはまり込めない自分を卑下して病んでしまう人も多いようだ。そういえば
俺も昔は自分を責めていたかも。母親が超世間教信者だった。
日本の自の多さの根本原因はやはりこの異常な宗教にありそうだ。というわけで、
世間教を押し付けてくるカルト信者には気をつけましょう。

4 :
22世紀ころまでかな?

5 :
あと90年か。

6 :
日本人の歴史意識―「世間」という視角から (岩波新書) (新書)
阿部 謹也 (著)
世間という日本教, 2004/2/20
By アイリッシュ - レビューをすべて見る
僕はこの本を読んで卒論の題目を決めました。世間=日本人の宗教ということが解かりました。
日本人は世界に類をみない無宗教だと表面的には言われていますが、実は日本人にもとても
曖昧で柔らかい行動様式がありました。それが世間というものでしょう。昔、山本七平というひとが
日本の宗教は日本教であるといっていましたが、その根本的なところがこの世間という概念
ではないでしょうか。日本人を知るためにはまず、この日本人の宗教を知る必要がある。
このことを知らずに現在の日本人を知ることはできません。著者も言っているように、
世間に適応している人はなかなか知るのは難しいと思いますが、不適応の人、適応したくない人が
読むといいと思います。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004308747/ref=cm_rdp_product

7 :
今度、世間教に入信したいと思っていますが、お寺か教会のようなものは
どこにあるのでしょうか?

8 :
>7
人々の心の中にあります。

9 :
★世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書) [新書]
 岡本 薫 (著)
内容(「BOOK」データベースより)
ヨーロッパ人がその文化をもとに作った「自由と民主主義」は、日本人には向かない仕組み
なのではないだろうか?―内心の多様性を前提として人々の行動を「ルール」でコントロールする
「自由と民主主義」と、みんなが同じ「モラル」を共有していることを前提とする
「日本的モラリズム」(世間さま主義)の間には致命的な矛盾がある。このミスマッチが
もたらした社会的混乱の事例を豊富に挙げながら、民主制に代わる「世間さま制」
(日本的コモンロー)の可能性をも思考実験する。
新書: 238ページ
出版社: 筑摩書房 (2009/04)
ISBN-10: 448006477X
ISBN-13: 978-4480064776
発売日: 2009/04
http://www.amazon.co.jp/dp/448006477X

10 :
日本世間様党、2011年に始動します。
政権をいただければ、民主主義は廃止して、名実共に、世間様主義の国家に
日本を変革します。
よろしくお願いします。

11 :
今孫崎氏との対談十大ニュースやってる。↓
http://www.ustream.tv/channel/iwakamiyasumi

12 :
世間のみなさま、
今年もよろしくお願いします。

13 :
初詣で祈りました。
世間様、
今年も健康に過ごせますように。

14 :
女たちはセレブ婚したがっている。
その心のうちに男たちは恐怖する。

15 :
日本人の性格に影響を及ぼしている要因のひとつに
日本の宗教がある
祖先 死後のことまで入ってきて ましてお布施を必要とする
このことを盲目的に受け入れててきたので
 基本日本人はこの枠や 世間 村社会を卒業できない

16 :
テレビは、世間。
テレビを見ないと、社会不適応者になる。
テレビに合わせられるかどうかが、生きるための力。

17 :
実をいうと、『エンプロイー(従業員)』という概念は、
近代になって生み出されたもので、時代を超越した社会慣行ではない。
本来ならば強い意思を持つ人間を、従順な従業員に変えるために、
二十世紀初頭にどれほど大規模な努力がなされ、
それがどれほど成功したかを見ると、マルクスを知らなくてもぞっとする。
近代商工業化社会の職場が求めるものを満たすために、
人間の習慣や価値観を徹底的につくり変える必要があった。
 ・ 生産物ではなく時間を売る
 ・ 仕事のペースを時計に合わせる
 ・ 定められた間隔で食事や睡眠をとる
 ・ 同じ単純作業を繰り返す
これらのどれ一つとして、人間の自然な本能ではなかった。
したがって、『従業員』という概念が(また近代経営管理の教義の他のどの概念であれ)
永遠の真実という揺るぎないものに根ざしていると思い込むのは危険である。
                             経営の未来 P163

18 :
【イタリア】25年間娘を監禁し暴行、父親を逮捕 息子にも暴行強要・・・トリノ[03/28]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1238337945/

19 :
日本人に限らず、世間に従属しない国民なんているの?
どの国でも、体制に適応することを要求されるんじゃないの?

20 :

【台湾】馬英九総統「日本には謝罪責任がある」…従軍慰安婦問題で日本は自国の「恥部」を隠すべきではない [12/27]
台湾の馬英九総統は26日、台北市文化局や台湾婦女救援基金会が主催した、台湾の
元従軍慰安婦らの対日に関する特別展に出席し、「日本政府は歴史の過ちに対して
謝罪する責任を持つ」と発言。注目を集めている。環球網が台湾の報道を受けて伝えた。
主催者となる台湾の元従軍慰安婦らが対日を求めた2000年から、同基金会の活動
は今年で10周年を迎える。展示会では、元従軍慰安婦らによる日本への賠償要求や、
従軍慰安婦問題の教科書記載などを求める運動などが紹介された。
馬総統はこれまでも元慰安婦の名誉回復活動に積極的に参与しており、同基金会が制作
した台湾人元慰安婦に関する記録映画の撮影や、元慰安婦への補償活動などに関わった。
また、2008年には、元従軍慰安婦8人と会談し、同問題への関心の高さを示している。
馬総統は、特別展開会のあいさつで「日本は歴史で犯した過ちと向き合うべき」と述べ、
日本は自国の「恥部」を隠すべきでなく、また、謝罪責任を逃れるべきではないとの見解を
示した。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1293436105/

21 :
その世間に従属して働く人のお陰で得た恩恵もあるんじゃないの?
文句を言い出したらきりがない

22 :
たれも他人様に世間教信者であることを強要する権利はない。

23 :
監禁され800人とさせられた17歳少女 大阪府公務員逮捕
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1294780325/

24 :
>>19,21
体制に問題があった場合はどうするのか?
世間のせいで言われなき差別を受ける人達はどうすればいいのか?
世間教信者はこの手の疑問を封する。
文句を言い出したらきりがないと言うが、必要なのは文句ではなく議論だ。
そして自分の利益、意見を主張しなければ議論は始まらない。

25 :
★首都圏初の新型インフルエンザ感染の女子生徒、「世間をお騒がせして申し訳ありません」
 首都圏初の新型インフルエンザ感染者を出した川崎市の洗足学園高校が21日、会見を行い、模擬国連参加のため
渡米した女子生徒らがマスク、消毒液などを持参する防備万全の状態で感染したことを明かした。同校校長は
涙を流しながら、模擬国連に参加した経緯を説明。同校はこの日から27日までの休校も決めた。また、国内では
東京都2人目となる目黒区在住の30代女性、京都市の男児(10)らの新型感染が確認されるなど計292人と
増えている。
 首都圏初の新型インフルエンザ感染者が出た川崎市の洗足学園高校では21日、会見が行われた。入院中の
女子生徒の言葉を話そうとした洗足学園高校、前田隆芳校長が目にハンカチを当てて涙をぬぐった。
「世間をお騒がせして申し訳ありません、と言っていたそうです。この子は悪くないのに」と声を震わせた。
 米ニューヨークで行われる模擬国連出場に向けて、6人の生徒はマスク、消毒液、うがい薬を持参。食事以外は
マスクを外さず、こまめに手を洗い、うがいした。12、13日の自由の女神、観劇の移動もタクシー2台を使い、
人ごみを避けて観光した。14日午前は地元高校生との討論会だったが感染を恐れて中止にした。
 感染報告が早かった八王子市在住の生徒(16)について、前田校長は「しっかり者。機内でも14時間ずっと
マスクだった。電子メールでも『マスクは私たちぐらい』と会場の様子を報告してくれた」と述べた。
 [2009年5月22日7時19分 紙面から]
 http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20090522-497464.html

26 :
もうこんな腐った社会に付き合いたくない
クズばかりだもん
でも俺たちは社会に組み込まれた存在であり
一人の人間でもあるが、国家というシステムを構成する一つの歯車でしかない
だから世俗的な欲望、判断基準が身についてしまう
どうすればこの染み付いた価値観から逃れることが出

27 :
逃れられるんだ?
もういやだ
誰か助けて

28 :
フェミニストと役人らが性犯罪者に対してGPS監視を要求したとき、
私は多少不安だったが、性犯罪者ではなかったから何もしなかった。
次いで奴らは痴漢冤罪被害者にもGPSを付けた。
私は前よりも不安だったが、痴漢冤罪の経験者ではなかったから何もしなかった。
次いで軽犯罪者、次いで反フェミ者、独身者、等々にGPS監視が追加された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
やがて、警察にDNAの提出を要求される時代になり、
気づいたときには日本が監視社会になっていた。
私は反対のために行動した……しかし、それは遅すぎた。
マルティン・ニーメラー
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110123t11023.htm

29 :
★「世間」と「社会」はどう違うか?    1
(省略)
 家族を単位とし、他人の間に上下関係のある日本社会では、「世間」という言葉と違い、
「社会」という言葉には実感が薄い。「社会」という言葉は、明治になって英語の society などの
西洋語を翻訳する必要から、中国でともに「仲間」を意味する「社」「会」の二字を組み合わせて
新たに創られた言葉である。西欧での society とは、対等な個人同士により成り立っており、
個々人の力で変えることができると考えられているものであるが、それにふさわしい実状が日本に
あるかどうかは、今も疑問である。しかし、「世間」という言葉は日本人の心にはフィットする。
個人の間の関係は対等ではなく、個々人の力を超えて厳然として存在する「所与(与えられたもの)」が
「世間」と考えられているからである。このため、明治期に西洋からの新しい概念を日本語に
翻訳するとき、「世間」は society の訳語とはならず、新たに「社会」という言葉が作られる
ことになった。
 「世間」と「社会」の間の違いの第一は、前者が「悪いもの」、後者が「良いもの」と捉えられて
いることである。「世間のために」と言えば、あとには「二人の仲は引き裂かれた」というように、
否定的な表現が続く。しかし、「社会のために」と言えば、あとには「献身する」とか、
「身を粉にして働く」という積極的な表現が続く。これを裏返せば、「世間と闘う」といえば、
周囲の無理解に抵抗して自分の意志を貫くこととなり、「社会と闘う」といえば、何か反社会的な
集団の一員として悪事にはげむような語感となってしまう。
 「世間」と「社会」の間の第二の違いは、「世間」が部分的であるのに対し、「社会」は包括的
であるということである。「あの人は世間が狭い」というように、「世間」は人によってさまざま
である。「世間が狭い」というのは自室から一歩も出ない「引きこもり」の若者のような状態を
いうのではない。大過なく人づきあいをしているが、その範囲がひどく狭く、他では通用しない
ような状態をさしている。一方、「世間が違う」という表現もある。この場合は、日ごろの
生活圏が重なり合わないことを意味している。

30 :
★「世間」と「社会」はどう違うか?    2
「世間」は人の置かれた状況によって千差万別といえる。「社会」のもととなった society にも、
「ハイ・ソサエティ」のように、特定の人間関係をさす用法もあるが、一般的には「社会」は
「世間」より広い範囲をさす言葉といってよい。子供が非行に走ったときには、「世間に顔向けできない」
というが、これは御近所のことをさしている。少年非行は、「反社会的」というには、まだあまりに
子供っぽい反抗だと言ってよい。「世間」に当るヤマトコトバには、古く奈良時代から「世の中」
というのがあったが、平安時代になると「男女の仲」という意味で用いられることもあった。それも、
一般的な男女の仲ではなく、特定の男女の仲という意味である。特殊化のきわみといってよい。
 「社会」という言葉が明治以降に西洋語の翻訳語として生まれたのに対し、「世間」という
言葉はもう千年前後も日本人になじんだ言葉である。本来は仏教用語であり、僧侶が出家以前にいた
俗世間をさす言葉だったが、かなり古くから今日と近い意味で用いられていたらしい。意味は
広がったが、 society のような普遍性は持たず、個々人の置かれた状況の特殊性を常に引きずっていた。
仏教用語といえば、「世界」や「人間」も仏教用語である。「人間」の場合、「じんかん」と
漢音で読まず、「にんげん」と呉音で読むことが仏教用語であることを示している。「世界」は
今日 world の訳語として用いられているが、本来は衆生の生きる領域ということであり、
「世間」同様、個々人により、そのイメージするものが異なっていたらしい。
 日本人は「世間」に従って生きる。最近しばしば報道される企業ぐるみの犯罪などは、そのことの
証であり、決して社会のために生きていることを意味してはいない。明治に society を「世間」
と訳さず、「社会」という新語を作った人たちは、 society と「世間」との違いをきっちり
感じ取っていたのであろう。自分の生活圏を超えて「社会」をイメージすることは、今も日本人は
不得手のように思われる。それは、一人一人の日本人が、間を置いて、「世間」とつきあうのではなく、
ともすれば「世間」の流れに巻き込まれやすいことを示している。

31 :
★「世間」と「社会」はどう違うか?    3
そして世間に逆らうものではないということを信条としている。「世間知らず」という言葉はあるが、
「社会知らず」という言葉はない。
 話は変わるが、ことわざというものは明治より前に成立したものが多い。明治以後日本語に
加わった「社会」という語がことわざに用いられないのも当然のことである。これに対し、
「世間」を含むことわざは山ほどある。「渡る世間に鬼はない」をもじった「渡る世間は鬼ばかり」
というTVドラマがあるが、これもまた、「世間」が一人一人違うものであることを示している。
ところで、 society に当る日本語は明治以前にはなかったのだろうか? 強いていうなら
私は「天下」という言葉を挙げたい。
 
「金は天下のまわりもの」というように、「世間」よりはずっと広い範囲を指す言葉である。
しかし、明智光秀の「三日天下」というように、「天下」という言葉には、上から握るもの
というイメージがある。小渕さんも森さんも一応「天下人(てんかびと)」であるらしい。
本来は中国の言葉で、「修身斉家治国平天下」というように、個々の国家を超えた世界という
意味もあったが、それとて、当時の漢民族の知る世界に限られていたし、「天下をとる」
という言葉があるように、「支配下にある地域」という意味もあった。
 アメリカでは world がUSAの意味で用いられているという話を聞いたことがある。
ベトナム戦争のころ、死線に置かれた兵士たちはいつ world に帰れるのかとお互い訊ねあったという。
このような world の用法を示すのが野球の「ワールト・シリーズ」だという。こうして見ると、
自分の生活圏を超えて、広く「社会」のことを考えるのが苦手なのは、何も日本人に限ったこと
でないのかも知れないという気もしてくる。 

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6084/seken.htm

32 :
神様仏様天皇様会社様が弱くなったから、残りは世間様とお金様だろ。

33 :
まちがい。世間様も弱くなったので、お金様と俺様。
これでは持たんから、また繰り返すんだよ。
つぎはまた神様・仏様になる。

34 :
世間様の逆襲が近い?

35 :
天皇家の犬  → 皇ポチ
アメリカの犬 → アメポチ
ロシアの犬  → ロシポチ
チャイナの犬 → チャイポチ
ドイツの犬  → ドイポチ
イギリスの犬 → イギポチ
インドの犬  → インポ○

36 :
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/editorial/1299497753/1-100
消費税増税ってだけで血相を変える世間がうざい
20%まで増税してみたら面白いな

37 :
地震後の世間。

38 :
>>31
学校も家族も社会なはずなのに、働くことを社会に出るという。
社会に出る前はどこにいたのだって思ってしまう。
みんな社会の中で生きてるのに。
なぜ働く場所だけを社会というようになったか分からないだろうか?

39 :

こういう日本社会の核心に迫るような研究をする学者は、なぜか早く亡くなられてしまいました。

40 :
>>39
興味深い話だね
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mass/1293382929/1-100
日本脳の恐怖など如何でしょう?

41 :
日本人に限ったことじゃないけどな世間に
従属してるのは 

42 :
悪い事をしても、その事実について謝らないのが日本人。
その事実には触れないで、世間を騒がせて申し訳ない、と謝るのが日本人。

43 :
保守

44 :
サトラレみたいに、人間の心の中を機械で読み取れる社会になれば、排他的社会じゃなくなると思うが
まあタイムマシーンやどこでもドアやクローンなんて、今の大混乱社会じゃまず無理だしな
ネットでさえまだ受け付けないから

45 :
渡る世間は鬼ばかり

46 :
★「世間」は気にするが、「社会」には無関心   1
 Eisbergの日記 2011-05-04
原発事故以来、人と会うと事故のことを聞かれるのだが、だんだんとうんざりして来てしまった。
何故かというと、ドイツ人が日本の事故処理や日本人の行動に対して抱く疑問に、彼らを
納得させる説明が私にはなかなかできないからだ。
昨日も、久しぶりに会った知人に、「何故、日本のような地震国に54基もの原発があるのか。
危険性を日本人は認識しないのか」とか、「汚染された地域で人々が土地の農産物を食べ続けるのは
何故なのか」、「これほどの大事故が起こっても人々が平気な様子で生活しているのはどうしてか」
などと質問された。実際には、地震国で原子力発電をする危険性を多くの日本人が認識している
だろうし、原発から近い地域で採れた農産物はやはり敬遠されているだろうし、一見平然としていても
内心は決して穏やかではないはずだが、ドイツ人がニュースを通じて知る日本人というのは
「危険をろくに認識もせず、刹那的に生きている」人々だ。
そして、ドイツ社会で生活している私にはドイツ人の疑問がよく理解でき、「危険をろくに認識もせず、
刹那的に生きている」わけではおそらくないのに、傍目にはそのようにしか見えない行動を取る
日本人が不思議に思える。原発は危険だと感じればそう言えばよいし、食物の汚染が不安なら
「心配だから買わない」と態度で示せばよいし、今いるところでの生活が脅かされていると
感じるなら出来る範囲でもっと安全なところに移動すればよい。自らの感覚に沿った行動を取らない
ことが奇異に感じられる。
しかし、実際に日本へ行ってみると、人々の行動が不思議と「しかたのないこと」「当たり前のこと」
に感じられてくる。頭で考えると「何故?」と疑問に感じられることに、「そうだから、そうなんだ」
という気がして来るのである。そこで起こっていることは理屈ではなく、抗いがたい空気のような
もので、理屈に裏付けられていないだけに簡単に論破できない。
これをドイツ人に説明するのは限りなく不可能に思われ、質問に答えるのが面倒になり、
「国民性が違うから」で済ませてしまった。
そんな折り、日本で買って来た本の一冊、鴻上尚史氏の『「空気」と「世間」』を読んだ。

47 :
★「世間」は気にするが、「社会」には無関心   2
 「空気」と「世間」 (講談社現代新書)
  作者: 鴻上尚史
  出版社/メーカー: 講談社
  発売日: 2009/07/17
  メディア: 新書
なるほどと思えることが書かれていた。著者は「世間」と「社会」とは別物であると論じている。
「世間」とは自分に関係のある世界、「社会」は自分に関係のない世界であり、日本人の多くは
世間には関心があるが、社会には無関心であるというのである。
鴻上氏は、「世間」について歴史学者阿部謹也氏の著作、『「学問と世間」』(岩波新書)から
次のように引用している。孫引きになるが、
>> 「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与と
されている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが、「世間」を変える
という発想はない。近代的システムのもとでは社会改革の思想が語られるが、他方で「なにも
変わりはしない」という諦念が人々を支配しているのは、歴史的、伝統的システムのもとで
変えられないものとしての「世間」が支配しているためである。
(中略)明治以降わが国に導入された社会という概念においては、西洋ですでに個人との関係が
確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。
しかし「世間」については、そのような道筋は全く示されたことがなく、「世間」は天から与えられた
もののごとく個人の意思ではどうにもならないものと受けとめられていた。

48 :
★「世間」は気にするが、「社会」には無関心   3
阿部氏によると、「世間」には以下の3つのルールがある。
1 贈与・互酬の関係 「お互いさま、もちつもたれつ、もらったら必ず返す」 中元?歳暮、
義理チョコ、手土産などの習慣に表れる
2 長幼の序 「先輩の言うことには従うしかない」等。
3 共通の時間意識  「世間」という共通の時間にすべての人が生きているという認識。
「お世話になっております」「今後ともよろしくお願いします」「先日は有り難うございました」
などの挨拶に表れる意識。鴻上氏の説明によると、『会社やグループ、サークルなどで飲みに行く時、
一人、「私、帰ります」と言って違う時間を過ごしてしまう人が、「世間」から排除される構図』。
鴻上氏はこれに以下の2つのルールを加える。
4 差別的で排他的 クラス全体で一人を無視するといういじめ。欧米にもいじめはあるが、
「全体が一致して一人と口を利かない」といういじめはない。日本人はこのような方法で
自分達は「世間」に属しているのだと確認する。 
5 神秘性 「昔からそういうやり方をしている」という一言で、「しきたり」や「伝統」や
「迷信」が守られる。そこに論理的な根拠はない。そうすることで、「世間」は仲間と仲間でない
人間を分ける。ある人が逮捕された瞬間から世間はその人を犯罪者扱いし、世間から弾き飛ばす。
こうした特徴を持つ日本の「世間」は次第に崩れていってはいるが、「世間」ほどは固定していない、
もっとゆるやかな「空気」が日本人の生活を支配していると鴻上氏は指摘する。

49 :
★「世間」は気にするが、「社会」には無関心   4
そう言われてみると、日本のマスコミ報道が欧米のそれに比べて情緒的であり、事実関係の解明よりも
「同情や怒りの空気を生み出す」ことに貢献していることに納得がいく。日本人は物事を相対的に
語ることが苦手で、他人の意見を聞いたときにその人を「世間一般の考え方をする人か」それとも
「異端児か」に分類してしまう傾向がある。異端児のレッテルを貼られた人の語ることは、
「どうせ異端児の言うことだ」と鼻から相手にしない風潮もある。そして、鴻上氏の述べるように
「空気の支配は、議論を拒否する」のである。
「空気」というものは欧米社会にも存在するのだが、欧米のそれは日本の「空気」ほど支配的ではない。
「空気を読め」という大きな圧力をドイツ社会の中で感じることはない。人は人、自分は自分である。
過去エントリーの残念なKYという言葉にも書いたが、過度の同調傾向は好ましくないと私は考えている。
このように欧米との対比で日本を語ると、「やっぱり日本は特殊なのだ」「日本独特の価値観は
外国人には到底理解されない」「日本は日本のやり方を貫くべきだ」という結論に達しそうだが、
それもまた正しくない。私が見て来た限り、アジアの国々というのは多かれ少なかれ「世間」を重視する
傾向がある。世界の中で日本だけが特別だ、と殻に閉じこもるなら、日本人は排他的な「世間」と
「空気」の呪縛から決して逃れられないことになる。
今回の原発事故で私が痛感するのは、日本人は日本国内の「空気」は非常に気にするが、日本の外で
自分たちがどのように見られているかをほとんど気にしていないことだ。日本人にとって、世界は
自分たちに関わりのない「社会」ということなのだろう。国内においてすら、日本全体の問題を
考えることよりも、自分が直接の人間関係を持つ「世間」の中でうまくやって行くことを重視
しているように見える。
 Eisbergの日記 2011-05-04
http://d.hatena.ne.jp/eisberg/20110504/1304492776

50 :
日本の文化は、腐食部分を見て見ぬふり、手遅れになってから対応する文化。
明らかにこのまま行けばいずれ破綻するであろう事象を、例え早期の対処法が存在していてもそれを施さずに手遅れになるまで放置する。

51 :
>>50
同時に撤退を敗北と同義に考えてるから損失を押さえ込むための損切りや
戦力温存のための戦略的撤退であっても敗者扱いする奴多数。

52 :
>>50
>手遅れになってから…
これはその時ある問題を皆で責任をとれない程度にわざと手遅れにして
各々が自分の責任にされずに済むようにしているんだろうな。

53 :
スレタイだけど従属どころかむしろ隷属ではと思った俺は間違ってるだろうか?

54 :
世間の奴隷が束になって部外者を排除しようとする傾向があるが
そんなに自分たちの首を絞めたいのだろうか
本当にマゾヒスト集団だとしか思えない

55 :
ほんとに?↑なんて 特殊な 世間?をおもちですよね。存在はじめた遥か昔からね。
>42 まったくそのとおり。  

56 :
>>50-53
日本が嫌いなら出て行け。
雇って頂いてる会社に文句言うな。
そりゃこれで腐らないわけがないわな。

57 :
言語は考えるための道具である。
英語は、高度の考えを編み出すために適した言語である。
英米人の高等教育は、子供には学習が難しい彼らの国語 (英語) 教育である。
我が国には、英米流の高等教育は存在しない。
修業年限を英米と同じにするなどの教育制度の確立だけでは、高度な職業人を育成することは難しい。
我が国では最初から最後まで行われている丸暗記 (rote memory) と受け売り (regurgitation) の修行では、
自らを決することが難しい。これを「教養がない (uneducated)」という。子供のような状態かな、赤子かな。

58 :
自らを決することのできない人たちには、論点を定めることができない。
自分の意見を大声で言う、相手をこき下ろす、相手がしゃべっている最中に反対意見を言うなど、
「議論をすれば、喧嘩になります」という事態が事実になる。
議論と無礼は同等と見なされているのかもしれない。
だから、礼儀正しい日本人は誰も議論をしたがらない。
いつも静かに笑っている。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、もって万世のために太平の世を開かんと欲するのみである。
少しおかしくはありませんか。
自分に必要なものを、自分自ら手に入れるのが大人の態度でしょう。

59 :
「催眠強姦」
警視庁公安部が、職員の性的慰安を主目的として、ほぼ全員参加で取り組んでいるのが催眠強姦である。
催眠強姦は、主に深夜から早朝、持ち前の開錠技術を駆使し女性の家へ侵入し、寝ている女性に麻酔をかけて
強姦する警視庁公安部が編み出した強姦手法である。
麻酔性のガスが強姦に使用されるため被害者はみな、麻酔が醒めるまで強姦されている事に気付かない。
警視庁公安部は、自分で強姦した女性の性犯罪捜査担当として、その女性に関わり、色々な目的で利用する。
この手法により、全国で公安警察官たちが、目をつけた女性を催眠強姦で弄びながら、女性たちを色々な目的
で利用している。
警視庁公安部の女性利用目的は@女性の身体実験や心理誘導技術習得A性的慰安婦B女性協力者(スパイ)養成である。
女性が眠っている間に強姦されるのは、ほぼすべてが公安警察の仕業で、催眠強姦が、公安警察官のその場限りの慰安
で終了した場合には、何も気付かない女性も少なく無い。すでに全国で数万人の女性が催眠強姦の被害に遭っている。
催眠強姦の首謀者責任者は公安部長の青木五郎である。青木五郎は内部資料流出問題でも反省するそぶりも見せない。

60 :
【論説】 「日本の若者から、今の政治の貧困に抗議する声が上がらないのはなぜか!」…日本財団会長・笹川陽平
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1310525328/

61 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む   1
 Ddogのプログレッシブな日々 2011/4/20(水)
 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34834995.html
 副題「ゆるし」と「はずし」の世間論 佐藤直樹/著(PHP)
3.11の東日本大震災は、日本文明を世界に知らしめ、私も日本文明について考えるきっかけとなりました。
6回にわたって「強い日本を目指す道」、また3回にわけて「日本文明とは何か」を記事としましたが、
今回からは日本文明論でも若干ネガティブな部分についても論じた本を取り上げたいと思います。
本書は世間と言うキーワードで日本社会の、日本人の本質を論じています。また、刑法39条と
少年法についても、世間=空気や穢れ思想など日本人の本質と絡めて論じられております。
私達は自分が世間というメガネを掛けているか否かを認識する事で、よくも悪くも作用する
世間という集団的無意識に支配されない自分を見出すことができるのではないかと思いました。
-----------------------------------------
はじめに
(略)
統計が明らかにするように、ここ四〇年ぐらいを考えても、日本の治安はまったく悪化していない。
日本の犯罪発生率の低さや治安の良さは、西欧にはない、日本独特の「世間」の存在を考えないと
説明がつかない。歴史学者の阿部謹也さんがいうように、日本人は、依然として「世間」に
がんじがらめに縛られている。犯罪は、「法」に反する行為であるはるか以前に、「世間がゆるさない」
のである。つまり、犯罪者は「世間」から「はずされ」てしまう。日本人は「世間を離れては
生きてゆけない」と思っているために、この抑止力は絶対である。
つまり「世間」はもともと、真筆に謝罪する犯罪者を「ゆるす」という包摂的側面と同時に、
ケガレとして犯罪者を「はずす」という排除的側面をもっていたのではないか。ようするに「世間」は、
「ゆるし」と「はずし」という、ふたつの一見相矛盾するような側面をもともともっていたのではないか。
私は、それが今日、たんにこの排除的側面が、厳罰化という現象として、刑事司法の前景に
あらわれたにすぎないと考えている。

62 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む   2
たしかに、日本における近年の新自由主義の台頭は、厳罰化に代表されるように、日本社会全体に
はかり知れないほどの大きな影響を与えた。しかし「世間」という観点から考えたとき、
日本社会が根底において大きく変化しているとは思えない。つまり「世間」の「ゆるし」と
「はずし」の構造が、相変わらず社会の根底で、通奏低音のように作動している。
「世間」は解体したのではなく、その意匠を変えているだけではないか。
そしてこの「ゆるし」と「はずし」の構造のなかで、キーワードとなっているのが謝罪である。
なにか不祥事がおきたときに、「自分は悪くない」と心のなかでは思っていても、とりあえず大急ぎで
謝罪し、「世間」の「ゆるし」を乞わなければならないのは、日本人が「世間」から「はずされる」
ことを極端に恐れているからである。
----------------------------------------
今回の震災で暴動が起きない日本文明を世界は褒め称えているが、我々はあまり思い上がっては
いけない。我々だけが知ればよい事実ではあるが、暴動が起きなかった理由の一つがこの世間の
存在である。
世間の存在が犯罪を抑止する反面日本人は「世間」にがんじがらめに縛られている。世間の存在は
個人という存在を侵食さえしている。
----------------------------------------
p14〜17
(1)日本に社会は存在しない
社会という言葉はだれでも知っているし、「社会に出る」とか「社会人」とか「社会学」とか
「社会科」というように、日常的にふつうに使われている。しかし、この社会が日本には存在しない
といわれたら、どう思うだろうか?
二〇年ほど前に初めて「世間」論を提起したのは、阿部謹也さんである。この阿部さんの問題提起が
衝撃的であったのは、societyの翻訳語である「社会」が、明治以降、言葉はともかく、現在でも
日本には実在しないと喝破したことである。

63 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む   3
つまりヨーロッパでは、八○〇年ほど前に、都市化とキリスト教の「告解」の浸透により、individual
たる個人が生まれ、個人の集合体としての社会が形成された。
しかし日本では、とくにキリスト教の「告解」にあたる歴史的経験がなかったために、individualの
翻訳語である「個人」もまた、言葉はともかく、現在でも実在しない。そのために、これまでに
個人の集合体である社会も生まれなかった。
そのかわりに万葉の時代から連綿と存在してきたのが、「世間」であった問題なのは、日本は明治以降
西欧諸国から文物を輸入し、近代化をおこなってきたのだが、そうした西欧の文物の根底にあったのが
個人であり、社会であったことである。土台としての個人や社会の輸入に失敗したために、その上に
構築されたさまざまな制度や学問といった建造物も、土台のない空中楼閣になってしまっていることである。
じつは、「法」や「権利」という概念もまた、個人や社会を前提としているために、個人や社会が
存在しない日本の「世間」においては、それらの概念がさっぱりリアリテイをもたないということに
なってしまったのだ。
法律家にいわせれば、これは西欧に比べて日本が「遅れている」ことになり、早く西欧に追いつかなければ
ならない由々しき事態であることになる。しかしこれは、「進んでいる」「遅れている」というような
単純な問題ではない。西欧に追いつければよいという問題ではないのだ。
ところで「世間」を英語に訳せといわれたら、どう答えるだろうか?
もちろんsocietyではないし、worldでも、communityでもない。訳せない以上、英語圏には「世間」は
存在しないと考えるしかない。つまり、「世間」は現在でも、少なくとも英語圏においては存在しない
人的関係のあり方である。日本人は「社会を離れては生きてゆけない」とは考えないが、「世間を
離れては生きてゆけない」と固く信じている。つまり、「世間」を「はずれ」ては生きてゆけない
と考えている。
それは次章で詳しく説明するように、〈世間―内―存在〉、つまり「世間」のウチ側が、日本人にとって
「存在論的安心」が得られるような場所となっているからである。

64 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む   4
逆に「世間」のソト側の〈世間―外―存在〉であるかぎり、「世間」の庇護を受けることはできないから、
「存在論的不安」のなかにたたき込まれる。そこでは、「ゆるし」や義理・人情といった原理が作動せず、
「法」や「権利」という概念しか存在しない。つまりT・ホッブズのいうような、「万人の万人に
たいする敵対」の場所となっている。
日本人は「世間」の内部から「はずれ」ないために、この「存在論的不安」をもたらすような場所に
追い出されないように、つねに細心の注意を払っている。よく考えるとかなり馬鹿げた努力ともいえる
のだが、それは、人生における最大の問題であるといってもいいくらいなのだ。しかも「世間」は、
社会と異なって、明文化はされていないが、暗黙の、しかもきわめて細かいルールからできあがっている。
このルールを守らないかぎり、「世間」の一員とはみなされないのだ。
ここでは簡単に、阿部さんの議論を参考にしながら、日本入が「世間」のなかでゼッタイ守らなければ
ならない、主要なルールを四つあげておこう。

(2)「お返し」がなにより大切なのだ
第一の「世間」のルールは、「贈与・互酬の関係」である。
メールがきたときに、返信するまでなんとなく心理的に負担に感じるのは、じつは「お返し」しなければ
いけないという「世間」のルールがあるためである。モノではないがメールも、一種の「贈答品」として
「お返し」の対象となるからだ。
「お返し」で一番わかりやすいのは、お中元・お歳暮である。夏のお中元、冬のお歳暮のシーズンに
なると、デバートにずらっと商品が並ぶ。ここ一〇年で派遣など非正規労働がかなり一般化し、
上司と部下の関係がかなり希薄になってきている今でも、お中元・お歳暮がなくなったという話は
聞かない。お中元・お歳暮はフメツなのだ。
この贈答関係においてもっとも大事な点は、「お返し」の場合にだいたい同じ金額・グレードのものが
要求されるということだ。もらった品にたいして、あまりに安いものは失礼だが、高いものも、かえって
失礼にあたる。つまり、きわめて細かいルールがあるということだ。
(略)

65 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む   5
日本では「お返し」がちゃんとできない人間は、低く評価され、「世間」からはつまはじきされることになる。
一九九八年以降、日本では自者が三万人をこえ、その後二一年連続で高止まりしているが、先進産業国の
うちでもこの自者の多さは、「世間」の存在を考えないと説明がつかない。

つまり、病気(うつ病など)を除けば、自する最大の理由は経済的な問題である。会社をリストラで
クビになったり、倒産や破産をしたりすれば借金が「お返し」できない。借金返済ができないことは、
法律上はたかだか契約違反の問題にすぎないのだが、日本では「贈与・互酬の関係」を守れない
人間だという評価になる。
日本人は「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じているから、「世間」から「はずされ」たら、
蒸発するか死ぬしかなくなる。これが、日本において経済不況によって自者が極端に増えた理由である。

(3)なぜ年齢にこだわるのか
第二の「世間」のルールは、「身分制」である。
最近よく聞く言葉に、「アラフォー」というのがある。アラウンドフォーティ、つまり大体四〇才の
意味である。「アラ還」というのもあるらしい。アラウンド還暦。つまり六〇才の還暦に近い、
という意味である。
だからなんなんだ、と、アラ還の私なんかは、これを聞くたびにキレそうになる。だが、このように、
日本の「世間」では生理的な年齢に異常にこだわる人が多い。それは、「世間」が年齢に基づく強固な
「身分制」からできあがっているからだ。
阿部さんはこれを「長幼の序」といっているが、先輩/後輩、長男/次男/三男などといういい方は、
「世間」には年齢によってはっきりと序列ができあがっていることを意味する。
英語圏だと先輩/後輩といういい方はふつうしないし、家族のなかの呼び方は、シスターとブラザー
だけで、そこには順番や序列はない。

66 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む   6
日本語や英語という言葉が重要なのは、言葉は他者とのコミュニケーションの手設であるばかりではなく、
モノを考え、自己表現する上で不可欠のものだからだ。言葉をつかうことによって、私たちは無意識に
それに縛られている。しかしあえて意識しないかぎり、このことには気づかない。
だから日本では、相手の「身分」がわからない状態が一番困る。仕事をする上で名刺交換が欠かせないのは、
初めて会ったときに、社長であるか、部長であるか、課長であるか・ヒラの社員であるか、相手の
肩書によって「身分」を確認する必要があるからだ。
日本人にとって肩書なしの関係は、ある意味不安な関係でもある。それは、日本人は、「世間」のなかに
肩書があり、自分が「世間」に「身分」として組み込まれているということのなかに、「存在論的安心」
をみいだすからである。日本人は自分が〈世間―内―存在〉であるかぎりにおいて、「存在論的安心」を
もつことができる。
(略)
第四章でのべるように、ここ一〇年ぐらいの間に日本は本格的な「格差社会」に入ったといわれるが、
もともとあった「世間」の「身分制」が、格差の拡大によって、ますますロコツにあらわれるように
なっている。その結果、「世間」がもともともっていた、隣の人間にたいする「妬み」の意識が
肥大化しているのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34834995.html

67 :

【女性の適温】 エアコンの設定温度 【男の適温】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gender/1312208006/

68 :
61〜66まで
大変面白く読ませてもらった。

69 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む その2   1
 Ddogのプログレッシブな日々 2011/4/21(木)

(4)「お世話になっております」は訳せない
第三の「世間」のルールは、「共通の時間意識」である。
「共通の時間意識」とは、「みんな同じ時間を生きていると考えている」ということである。
もちろん、これは客観的で物理的な時計の時間の話ではない。客観的で物理的な時間の話だったら、
近代以前はともかく、今ではだれだって世の中には「同じ時間」が流れていると考えている。
そうではなく、ここでいう時間意識とは、他人にも自分と同じ時間が流れていると考えるという、
主観的で内的な時間意識のことである。この場合に大事なのは、そこには「個々の」時間が
流れているのではなく、「同じ」時間が流れているということである。
この「共通の時間意識」のもとでは、まず、individualたる個人がいないために「個人の時間意識」が
存在しない。つまり、各個人がべつべつの時問を生きているという時間意識が存在しないのである。
つぎに、「共通の時間意識」のもとでは、個人が存在しないために、人類学者の中根千枝さんのいう
「人間平等主義」(中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社現代新書、一九六七年)が派生する。
あとでのべるが、これは、「世間」のなかでは「みんな同じ」であると考えるために、個々に
能力の差があっても、お互いそれを認めようとしないということである。
最近のKYという言葉は「空気読め(ない)」という意味だが、劇作家の鴻上尚史さんは、「空気」とは
「世間」が流動化したものだという(鴻上尚史『「空気」と「世間」』講談社現代新書、二〇〇九年)。
「空気」を通じての同調圧力が生じるのは、「世間」にこの「共通の時間意識」というルールがあり、
そこに個人が存在せず、「みんな同じ」でなければならないと考えるからである。
また「出る杭は打たれる」という格言があるが、これは「世間」のなかで「目立つ」人間は、つまり
他のものと「同じ」でない人間は、〈世間―外―存在〉として「世間」から「はずされる」ということだ。
(略)
日本の「共通の時間意識」にたいして、西欧社会は、「個人の時間意識」が作動している。

70 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む その2   2
つまり、個人の「自由」が尊重される。前にふれたように、ヨーロッパにおいて
individualとしての個人は、約八〇〇年前に、都市化とキリスト教の「告解」という制度によって
生まれた。
「告解」というかたちで神にたいして罪を告白することによって、自分の内面を外部にさらけだし、
それによって人が個人として形成されることになった。日本にはこの「告解」の歴史がなかったために、
個人が形成される契機がなかった。そのために現在でも、個人が存在しない。西欧社会におけるような
「個人の時間意識」が生まれていない。
「共通の時間意識」のもっともわかりやすい例は、「あの時はありがとうございました」(過去)
「お世話になっております」(現在)「今後ともよろしくお願いします」(未来)という、「世間」では
ごく日常的な挨拶である。これらは、西欧語に訳すことができない。つまり、西欧社会にはない。
外国人に無理やり訳して使うと、ヘンに思われるはずだ。
これらの挨拶は、日本において、お互いに〈世間―内―存在〉であることを確認するための、必須の
手続きである。つまり、同じ「世間」を生きているということの相互の確認である。ありがたく
思っていてもいなくても、お世話になっていてもいなくても、よろしくと思っていてもいなくても、
これらの挨拶は、過去-現在-未来にわたって、仕事をする上での枕詞として使われる。
中根さんは「世間」にある人間平等主義について、「無差別悪平等」であるという。つまりこの
人間平等主義においては、能力による差があっても、それは認められない。日本の会社における
伝統的労働システムとしての年功序列制などがそうだが、この、歳とともに給料が上がるという
システムは、年齢という「身分」による差別はあるが、だれしもいつかは給料が上がるという
ことでは「平等」である。
西欧の民主主義の根幹は「自由・平等・博愛」。そのうち日本では「自由」は受け入れられなかったが、
「平等」や「博愛」のほうはわりとうまく受容したといわれる。
評論家の加藤周一さんによれば、戦後日本で西欧流の「平等」は徹底したが、「自由」は徹底しなかった。

71 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む その2   3
その理由として、日本の土壌に「自由」の伝統はなかったが、平等要素があったからだという
(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」武田清子編『日本文化のかくれた形』岩波書店、一九八四年)。
加藤さんは日本における「平等主義」のはじまりを明治維新にみているが、じつは「世間」の
「共通の時間意識」、すなわち人間平等主義はそれよりもっと古い。加藤さんのいう「平等主義」とは、
西欧流の「法の下の平等」のことであるが、じつは「共通の時間意識」としての人間平等主義とは、
それとはまったく異なっている。
つまり戦後日本人が「民主主義」といってきたものの中身は、この伝統的な人問平等主義であって、
西欧の「法の下の平等」とは、似て非なるものであったといえる。伝統的な「平等主義」は、
もともと「世間」がもっていたものである。封建時代にはたしかに「身分制」が存在したが、
この人間平等主義は、それと一見矛盾するようにみえながら、それと併存してきた。
現在の「世間」においても、三つ目のルールとしての「共通の時間意識」は、二つ目のルール
としての「身分制」と一見矛盾するようにみえながら、両者は併存している。そして、この矛盾的な
構造があるがゆえに、外国にはない、日本独特の「妬み」の意識、「妬み」の構造が生まれるのだ。
(5)年賀状がなくならないわけ

第四の「世間」のルールは、「呪術性」である。
日本の「世間」には、やたらに俗信や迷信のたぐいが多い。結婚式は大安の日に集中し、友引の日には
葬式をしない。あるいは節分の日には特定の方角を向いて、恵方巻きをいただく。これらはべつに、
法律に書いてあるわけではないし、従わなかったからといって、罰則があるわけでもない。
だからこのルールは、暗黙の了解事項だといえるのだが、守らない場合には「世間知らず」だとして
非難されることになる。しかも困ったことに、「呪術性」のルールはやたらに沢山あるし、しかも
紙に書いていないので、みんな確実に全部を知っているわけではない。
場合によっては、これを理由として村八分となり、「世間」からの「はずし」に遭うことになる。

72 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む その2   4
これらは、〈世間―内―存在〉であるために、確実に守らなければならないルールなのだ。
ごく些細なことのようにみえるが、お正月に年賀状を出すことだって、ちゃんと出しておかないと、
「世間」から「世間知らず」「失礼な奴」というレッテルを貼られてしまう。つまりその人間の
人格的評価につながる。しかも年賀状を出す範囲とは、その人の「世間」の範囲であるといえる。
「世間が広い」人は、年賀状の数が多いだろうし、「世間が狭い」人は、年賀状の数が少ないはずである。
最近では年賀メールが増えたとはいえ、年賀状の習慣は、なかなかなくならない。これは、
「呪術性」のルールと先ほどの「贈与・互酬の関係」のルールが交差する場にあつて、それゆえに
強固な習慣となっているからである。年賀状はフメツなのだ。
「世間」の「呪術性」の根底にあるのは、きわめて古い自然宗教的な考え方である。この自然宗教に
おいては、仏教やキリスト教の教えのように、死者は遠く、つまり倣庸に行ってしまうのではなく、
時々此岸、つまり現世に気まぐれに帰ってくる存在である。お盆やお彼岸の墓参りがそれを示している。
西欧では、日本のような年中行事的な墓参りの習慣はほとんどないという。
「世間」は一〇〇〇年の歴史があるといわれるが、仏教にせよ儒教にせよキリスト教にせよ、
日本に外部から伝来した由緒正しい宗教は、この「世間」の自然宗教と癒着し、それに蚕食され、
本来の姿を失ってきた。
日本の「葬式仏教」や「クリスマス」がその典型である。仏式で葬式をしたからといって、べつに
すべてが仏教徒というわけではないだろうし、クリスマスを祝ったからといって、べつにすべてが
クリスチャンだというわけでもないだろう。
日本では現在でも、この由緒正しい宗教にはさっぱり人気がなく、根底にあるのは相変わらず
自然宗教にもとづいた「呪術性」である。しかし西欧社会では、約八〇〇年ほど前に、キリスト教の
支配によって、おおむねこの「呪術性」が否定された。

73 :
★『「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」佐藤直樹/著(PHP)』を読む その2   5
一二、三世紀のヨーロッパでは、「告解」をつうじてキリスト教の支配を貫徹するために「蹟罪規定書」
という、やってはいけない禁止事項のマニュアルがつくられた。この「蹟罪規定書」では、現在の
日本に沢山ある、大安に結婚式をするとか、三隣亡の日には建前をしないなどといった俗信・迷信の
たぐいが禁止されていた。
西欧社会では、キリスト教が浸透することによって、こうした俗信・迷信のたぐいは姿を消していった。
じつは西欧流の社会が契約などの合理的な原理からできあがっているのは、こうした「呪術的なもの」を
否定した歴史があったからである。しかし日本では、「世間」は相変わらず「呪術性」に満ちていて、
まったく合理的なものではないのである。
以上、「贈与.互酬の関係」「身分制」「共通の時間意識」「呪術性」という四つの「世間」のルールを
簡単に説明した。日本人だったら、きわめて几帳面にこうしたルールを日々守つている。そして
「世間」の「ゆるし」と「はずし」の根底には、こうした「世間」のルールが存在しているのである。
-----------------------------------------
故山本七平氏はこの世間を「空気」と「日本教」という考え方で分析している。
「世間」という考え方でこの日本を読み解く佐藤氏の考え方の方がスマートかもしれません。
執筆中
 Ddogのプログレッシブな日々 2011/4/21(木)
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34841225.html

74 :
自分流を通すのみ

75 :
(黒鉄ヒロシ:週刊文春 9月1日号より抜粋要約)
昭和三十年代に『ルーシー・ショー』や『パパは何でも知っている』といったアメリカのドラマが
たくさん入ってきた。あの中に描かれるアメリカの豊かさに、日本の子供たちは憧れた。あれは、
タダ同然で日本のテレビ局に渡したのです。
自国や自国の商品に対して抵抗感をなくすための、アメリカの作戦でしょう。
日本人はそれに気づくまで、だいぶ時間がかかりました。
いま、アジアや中東、アフリカ諸国に向けて同じアイデアを行使しているのが、韓国です。
まずドラマを安い値段で持っていって流し、親しみを感じさせる。
次に企業が出て行って、物を買い付け工場を作る。ドラマや音楽は地ならし役の尖兵であることに、
多くの日本人は気づかない。
テレビ局が自前で制作するより安いからという理由で韓国のドラマを安易に買ってきて垂れ流せば、
ドラマの中に内包されている韓国の文化も浸透していく。
たくさん入ってきてくるドラマが、実はトロイの木馬だったらどうするのか、という発想がない。

76 :
★恐ろしいのは世間の目   安藤 邦男
 多神教の日本では、神や仏の意識はそれほど強くはありません。強く意識するのは世間の目です。
狭い日本、多くの人間の中で生活して行かなくてはなりませんから、常に他人の目を意識しないわけには
いかないのです。怖いのは神や仏ではなく、他人の目であり、他人の口です。他人に笑われたくない、
恥をかきたくない、これが日本人の行動を規定するというのです。つまり、正しいかどうかで行動を
決めるのではなく、世間がそれをどう思うかで、自分の行動を決めるというのです。これが「恥の文化」です。
 この傾向は、外国人に対しても向けられます。日本人ほど外国人が日本をどう思っているかに関心を
向ける国民はいないといえます。例えば、野球ですが、大リーグに行った野茂、イチロー、松井など、
活躍が逐一報道されます。日本人としてどれだけ外国で評価されるかに、日本人が異常なほど関心を
寄せるからです。
 これは、日本人がアイデンティティを求めているからだという人もいます。すなわち、戦後の日本人の
努力は.まず国の復興.次いで西欧化・工業化に向けられましたが、それに夢中になりすぎたあまり、
自分のこと、自分のアイデンティティは忘れてしまった。それを反省し、自分たち自信の姿を見つめ
直したいという気持ちからだというのです。それにも一理はあるかもしれません。
 また、罪の文化では、罪を犯したものはそれを告白することで心の重荷を下ろす。しかし、恥の文化では、
罪を告白しても心は軽くならない、それどころか悪い行いが世間に知れない限り、心は悩まないのです。
ここでは、幸福を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はありません。
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/a-kotowaza-12-tsumi.htm

77 :
高額所得者から増税を(累進に栄光あれ)
ガソリン・軽油から増税を(2倍にしてやれ)
消費税もドンドン増税すれば(20%じゃ)弱者を救う原資になる
富裕層どもから毟り取って公共の資産とすれば良い
再分配万歳 増税万歳 ウオール街デモに我らも続くのだ

78 :

君たちの時間は限られている。
だから他の誰かの人生を生きて
時間を無駄にしてはダメだ。
定説にとらわれるな。
それは他の人々が考えた結果にすぎないからだ。
自分自身の内なる声を、
他人の意見によってかき乱されてはいけない。
最も大事なのは、
心の声、直感に従う勇気をもつことだ。
内なる声、直感は君が本当になりたいものを、
なぜだか知っているんだ。
だからそれ以外のことは、すべて二の次でいいんだ
スティーブ・ジョブズ
スタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

79 :
★宗教とは カルト宗教とは 世間体
宗教とは何々である、とはにわかに答え難し。
うーん、と唸りを上げて頭から絞り出してみても、私もそうだけど日本人は宗教には馴染みがないのである。
もともとの意味は違ってるようだけど、今ではカルト宗教とは反社会的な思想を持つ宗教を意味する
カルト宗教などはむろん論外である。
縁がないというよりか、習慣や文化に溶け込んでいる部分での宗教には慣れ親しんでいるんだけれど、
自分が絶対に守らなければならないと思うような教義や信条の持ち合わせがないのだ。
神様が見てるから悪いことができないと日本人は思うより先に、近所の手前、みっともないから
悪いことはできないと思考してしまうのだ。
このように日本人の理性を律し行動を抑制的に制御する規範は宗教ではなくて世間体なのである。
世間がどう見るか、世間からどう見られるか、世間が自分のことを何と言うか。
これこそが日本人が依って立つ日本人の宗教なのである。
世間教には決して反抗しない。
世間教に反する自分の考え方は決して持たない。
自分のしたいことはしない。
いや、自分のしたいことを抱くことさえもしない。
ただただ、世間に従うのみである。
宗教にはなじみがない。
世間体もくそくらえ。
自分の人生は自分で切り拓いてやる。
誰の言うことにも耳を貸さない。
己の信念に基づいて生きて行く。
迷った時には自分の心に問うてみる。
これでもいいと思うけどいかがだろうか。
http://www.kachijiten.com/terms-dictionary/cult.html

80 :
なぜ日本人は世間体を気にしすぎるのでしょうか。
自者が異様に多いことと関係ような気がしますがどう思いますか?
Yahoo!JAPAN知恵袋
質問日時:2010/1/7 04:41:35.
ベストアンサーに選ばれた回答
kirakiraphione489さん
世間体は、関係していると思います。日本は、男性はこうあるべき、女性はこうあるべき
という考えが強いのでそれに外れた生き方をしている人を激しく非難します。
なので社会人弱者は、正論を押し付けられそれに耐えきれなくなり自してしまうんじゃないかなと
思います。
また、日本人は粘着性格?みたいな傾向が強く人間関係が特殊なので、
それにストレスを感じて自する人が増えている感じがします。
回答日時:2010/1/7 10:29:30
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1234989607

81 :
一時、日本でも、「(人が)人をしてはなぜいけないのか」という
政治哲学的・社会哲学的命題について話題になった。
といっても、そんなことは考えるに価しない常識だと大抵の日本人は語った。
しかしサンデル教授の授業なら真面目に論じられたのかもしれない。
それを合理的に説明しなければならないと真剣に思考する人がいる。
日本では考えられないことだ。
「そういうものだからそういうものだ」以上の思考は日本人にはない。

82 :
>>80
「ひきこもり」の若者たちも世間の目を気にして外出を避ける結果そうなるらしい。
海外ならばニートでも普通に外出しているのに。

83 :
アメリカのニート=もともと金があるか、以前働いて稼いだので、しばらく遊んでいられる。
西欧、北欧のニート・失業者=社会保障が充実しているので、生活保護・失業給付で遊んでいられる。
南欧、ラテン諸国のニート・失業者=親と同居しているパターンが多い。

84 :
北欧も親との同居率は高いよ。日本以上じゃなかったか。

85 :
** Australia の習慣や風習など **
8. 世 間 体
オーストラリア人は世間体を全く気にしません。と言うよりも、オーストラリアに居ると、
気にしなくて生きていけるので非常に助かります。
隣が何を買おうが知った事じゃないし、隣がどういった商売かも関係ない。
付きあっていて大変気が楽です。
日本人みたいな変な競争心など持ちあわせていないのでしょう。広い国土に少ない人口、豊な、
地下資源や農産物と、言った風土が世間体などと言う概念を育てなかったのだと思います。
私の友人の一人は子供が大工をしながら、夜間大学に行って居ます。彼と、その子供を含めて
親子四代続いてそうです。彼等は子供を四年生大学に入れなければいけないという常識は持っていません。
どちらかと言うと、こっちの子供達は、結構早くから自立して親元を離れ、自力で大学に行く
子供が多いそうですが、日本のように世間体を気にして、自分くらいの階級だったら子供は
大学に行かせなければいけない、というしきたりと言うか、しがらみもありません。
ゴルフ場などでも、会社の人間同士でプレーするというより単なる友達同士でやる場合が多いようです。
医者だろうが、職人さん、百姓さん、弁護士さんだろうが、種々雑多な人たちと、社会的階層に
関らず、ゴルフを一緒にプレーすると言う目的だけでプレーしています。
そう言った意味からも、しがらみだらけで、周りの目ばかりを気にしている日本と比べると、
非常に気が休まる国です。
http://nakanaokiyoshi.fc2web.com/ozc/appearances/appearances.html

86 :
世間世間と言って我慢しているようでも、本当は我慢ばかりで人間の事が嫌だから、
物や娯楽が溢れていても幸福度が低い
人は人・自分は自分、それでも助け合えるし、思いやり合うことは可能
という、一人前の人間らしい考えに、私も早く辿り着きたい…

87 :
よおく注意して感じ取ってみて下さい。
あなたが何か少し動いたあと 「ピクっ」 とかすかに床から伝わってきます。
室間添随症( しつかんてんずいしょう ):
アパートや低家賃のマンションなどに住む引きこもりや準引きこもりの状態
にある人間が隣接する他の部屋の住人たちに自分の引きこもりの状態を悟
られまいとして、それら他の部屋の住人の生活パターンや動作のタイミング
に自らの生活パターンや動作を極力同調させながら日々の生活を送り続け
ようとする症状。
日本のアパートやワンルームマンション、ウィークリーマンションなどの入
居者、利用者の約4人に1人はこのような状態にあると言ってよい。
ビジネスホテルも例外ではない。
これを 「引きこもり」 の 「付きうごき」 と呼んでいます。

88 :
第二次大戦の大敗北で日本人はアデンティティを失った
追い詰められた日本人の脆さが露呈する
強者にへつらいゴマを擂るという最も安易な方向へ進んだ
高度経済成長でアイデンティティをカネに求めた
バブル崩壊でそれも失った
技術だけが最後の砦になった
東電福島第一原発連続爆発事故で技術も法律も憲法遵守すら失った
戦前戦中の記憶が残る東南アジア諸国よ日本に期待するのは幻想だ
日本は残された預貯金を国が食い潰してそれで終わる
放射能以外もう何もない国なのだ

89 :
「旧あいおい損保」(合併後「三井住友あいおいニッセイ損保」)を裁く!「旧あいおい損保」の「保険金不払い」にあった全国被害者の皆さん!
大至急、「被害状況を書き込ん」で下さい!「旧あいおい損保」の被害者全員、3万人規模の抗議をしよう!金融庁その他、監督行政諸官庁の行政指導、処分不作為、
業務怠慢、無能さを合わせて暴露し、社会問題化しよう!「旧あいおい損保」は損保保険業者として事業展開しているが、「保険料収入」のみを稼いで、
「被害者への損害賠償保険金支払い義務」を全く果たしていない。「保険金支払いを最大限しないことを会社目標にしている」且つ、平然と居直っている。
「旧あいおい損保」は「悪徳詐欺保険会社」である。被害者全員で徹底して糾弾すると共に、「旧あいおい損保」の「不買、不契約運動」をこれから全国展開しよう!
現在の加入者は即刻、他社へ契約変更を!これからの加入予定者は「旧あいおい損保」には絶対、入らない事です!理由は「任意自動車保険料」だけをかき集め、
「被害者への保険金支払い」を全くせず、顧客対応も最悪な会社である。「保険料搾取の詐欺会社」である。こんな会社を事業存続させてはいけない。

90 :
★日本人における「世間」     1
 社会心理学 李 相美(韓国)
 『日本人の歴史意識−「世間」と言う視角から−』(阿部謹也)を読んで、いつも疑問になっていた
部分が、理解出きるようになりました。
(中略)
 『日本人の歴史意識』の「世間」という言葉から、日本人の意識がすこし理解できるようになりました。
そして、日本人は自分の振舞いの結果、「世間」から排除されることや、人の思いを気にしながら、
暮らしているということが下記の文からわかりました。
   日本には「世間」という人と人の絆があり、その「世間」が個人を拘束しているからである。
  私たちは自分の意見を積極的に述べることに得意ではない。特に全体の意見とは異なる自分の意見を
  述べることには消極的である。なぜなら「世間」の中では目立たないことが大切であり、控えめな
  態度が求められているからである。服装も態度も「世間とあわせなければならない。言葉では
  個性的な生き方は求められていても、現実には顰蹙を買うのである。周囲にあわせて生きてゆく
  生き方が私たちに求められている。
  「世間」には会則もなければ定款もない。大人になるとひとりでに「世間」の中にはいっている自分に
  気がつくのである。会社や役所、大学の学部、趣味の集まり、クラブや同窓会などもみな「世間」を
  なしている。その「世間」は日本人一人一人の行動を拘束するものであり、日本人は自分の振舞いの
  結果「世間」から排除されることを最も恐れて暮らしている。会社や役所などで不祥事が起こったとき、
  「世間を騒がせて申し訳ない」と謝罪することがある。個人の不祥事の場合にはこの言葉の前に
  「自分は無実だ」という言う言葉 がついていることが多い。
 また、著者によると日本では明治以降欧米を範とする近代化が進められたそうです。近代化による
様々な制度は建前として受け入れられ、本音である「世間」は、正面に取り上げられることなく、
隠されていたということです。現在でも「世間」は隠されたまま本音として生き続けているという
ことでしょう。ですから、不祥事に対する謝罪は、組織の代表者の立場から、本音とは違う「世間」に
対するマナーとして行われることもありそうです。

91 :
★日本人における「世間」     2
曖昧な表現をする傾向と、理性より感性が好きな日本人の無意識はいつ、どういう根拠から生じる
のでしょうか。
曖昧な表現は『「ぼかし」の心理』(星野 命、1989)と関係があり、たぶん相手をきずつけることになりは
しないか、相手を不愉快にさせることになりはしないか、という他者への配慮から使うのでしょう。
また店が休む場合も、自分の立場から「今日は休みます」と言わずに、相手から許可を得るような
「今日は休ませていただきます」という言い方で表現します。こういう言葉遣いから「世間」に向けて
生きる日本人の姿が考えられます。「世間」には原則として、外国人は含まれず、日本人だけですので、
「内と外」の区別の意識も多分ここから発してきたのではないでしょうか。
  「世間」とは人を取り巻く人間関係の絆であり、現在と過去に付き合った全ての人々、将来付き合う
であろう人を含んでいる。原則として、日本人だけであり、外国人は含まれない。「世間」には、
贈与、互酬の原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性 という特徴もある……。
 日本人は年賀状のやりとりとかカード一枚でも貰ったとすれば、時間をおかずにすぐ返すということも
印象深く感じられました。少しでも人から貰ったときに、お返しをしないことは何か借りがあるように
思うのかと考えました。一般人は「世間」に対する原則は知らないでしょうが、実際には贈与、互酬の
原則があり、長幼の序、そして時間意識の共通性という特徴をきちんと守りながら生活していることが
分かりました。
 そして、阿部謹也の言うように日本人は協調的な姿を常に示し、極端な感情的な行動は慎む国民だと
感じました。4月の入学シーズンのとき、初めて見た新入生の服が大体黒っぽかったので、疑問が
おきました。日本人は目立たないようにして組織の中に埋もれているのが楽なのだろうかと思いました。
すなわち、何らかの意見の表明を求めるよりは、できるだけ大勢に従うという考えがあるのではないかと
思いました。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/ginnan/200419/isanmi.htm

92 :
「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」
「世間の人が言いたいのであれば自分の事を言いたいだけ言えば良い、
でも自分のやりたい事は自分だけが知っているのだ。」という意。
坂本龍馬が12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが出来が悪かったようで、退塾させられます。
14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶのですが、
それまでの龍馬は寝小便タレで、泣き虫だったといわれており、そういう目で見られることも
多々あったのかもしれません。その頃に、詠んだ句なのでしょうか。

93 :
http://www.youtube.com/watch?v=Wnn0gKoc8jI

94 :
世間知らずと言われても、
世間なんて知りたくもないんだけど…
ロクなもんじゃないし

95 :
選挙に行かない限りは世間をコントロールする可能性はゼロ
選挙に行ってもコントロールできるとは限らないが、ゼロではない

96 :
■「家族を追い詰める国」日本
http://www.jiritusien.com/nakaosodansitu/media/toyokeizai080517nakaokiji.pdf

97 :
他スレコピーしときます。<2ちゃんねるでの内部らしき書き込み>
某窓際放送局社員の独り言“ウチの局がこんなになってしまった経緯”
(1)1960年代〜
テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかいの問題
(例えば「朝鮮民主人民共和国」を“北朝鮮”と呼んでしまった、など)に対して、
朝鮮総連から会社及び経営幹部の自宅に対して脅迫に近い抗議行動が繰り返される。
抗議行動に対する「手打ち」として、採用枠に“在日枠”が密かに設けられる。
総連幹部の子弟を中心に入社試験無し(カタチだけの面接)での採用が毎年続く。
在日枠の密約を所轄官庁に対して内密にしてもらうよう局側から総連に「お願い」をして
さらに弱みを握られるなど、素人のような甘い対応で身動きがとれなくなっていく。
(2)1970年代〜
政府を叩きさえすれば世論が喝采する狂った時代。
在日社員の「反日番組」を「権力に対するペンの戦い」「調査報道」と勘違いした経営幹部が
社内で在日を積極登用。「日本人社員と在日社員に昇進の差別があってはならない」などと
理想論を述べたのは良かったが、結果を見れば昇進差別をしなかったのは甘い日本人幹部だけで、
課長、部長と昇進した在日社員は、帰化した在日二世を理不尽なまでに優遇する逆差別人事を徹底。
異を唱えた日本人社員は徹底的にマークされ、営業や総務など番組制作の第一線から退けられる。

98 :
「葬式の平均費用、日本231万円」 イギリス12万円、ドイツ19万円、韓国37万円、アメリカ44万円
日本における葬儀費用の平均は、231万円。
ちなみにイギリス12万3千円、ドイツ19万8千円、韓国37万3千円、アメリカ44万4千円。
日本だけが飛びぬけて高いのは一目瞭然で、この比較を広告や帯に打ち出した
『葬式は、要らない』が売れている。
葬儀に金がかかることはずいぶん前から知っていたが、ここまでとは……。
そんな驚きとともにこの本を手にとった読者は多いだろう。
著者の島田裕巳はまず、今にいたる日本の葬式の歴史を振り返り、なぜこうなってしまったのか解説する。
そこでポイントとなるのが、日本の仏教が葬式仏教と化していく過程と、
村社会によって育まれた世間体という問題である。
〈生前に死後について考え語ることはできないし無駄だ〉と説いた釈迦の教えとはうらはらに、
中世の貴族たちは死後も華やかに暮らせるよう願い、浄土を目の前に出現させようとした。
ここにこそ日本人の葬式が贅沢になった〈根本的な原因〉があると島田は指摘する。
この浄土教信仰が一般民衆にまで広がり、江戸時代に「寺請制度」によって村落共同体が強化されることで、
禅宗の方法を基本とする仏教式の葬式が国の隅々にまで浸透。
こうなると村落内での世間体が気になり、見栄をはる葬式が増えていった。
このような歴史的背景と村社会の名残の下、私たちは金のかかる、贅沢な葬式を続けてきた。
ttp://120.hp2.jp/?p=2974

99 :
●世間
〔WHAT?〕
 西欧では「社会」というとき,譲り渡すことのできない尊厳を持った存在としての個人が前提となる。
しかし,日本ではいまだに個人に尊厳があるということは十分に認められているとはいえない。
日本人は「そんなことは世間では通用しない」などとしばしば口にし,世間を基準として生きてきた。
世間の内部では競争はできるだけ取り除かれている。したがって,世間のおきてを守っていれば実力に
関係なく排除されないが,有能であってもそれに応じた位置を得ることも少ない。日本人にとって
周囲と折り合って,世間的な志向で生きるほうが,社会の中で身を処しやすいといわれる。 
--------------------------------------------------------------------------------
〔NOW〕
 日本人は所属を抜きにした個人としてのつきあいに慣れていないために,初対面の人の場合,相手が
どういう「世間」(出身校や出身地,会社,地位など)に属しているかをまず探ろうとする。日本の
個人は,世間向きの顔や発言と自分の内面の思いを区別してふるまうため,個人の外面と内面の双方が
形成される。つまり,個人は世間との関係の中で生まれることになる。そのような世間とはあいまいな
ものであり,その漠然とした存在との関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は,欧米人から
見るとあいまいな存在に見えるという。 
小論文情報ライブラリー 《日本語・日本人》−日本語・日本人
http://www.daiichi-g.co.jp/RON-NET/free/library/keyword/words.asp?cate=4&word=120201

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